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緑と灰色のチェックの道が、フィットネスクラブからこぼれる明かりに照らしだされていた。円筒型シースルーの自動扉が、半分通路にせりだしている。
少女が自動扉の前に立つと同時に、ワンピースの水色がふんわりと色づいた。
ハイウエスト切り替えと上品な花柄がロマンティックな、キャミソール型ワンピースだ。ゆったりサイズのストローバックを肩からおろし、彼女は来た道をふりかえった。
「おそいっ」
ひとこと、文句をつける。
そこには、図体だけは人よりデカい男が、警察官の制服をきて立っていた。
「おまえが走るからだろう。なんだか今日はご機嫌ななめだな、俺がなにかしたか?」
平然と彼──ジェイは言い放った。
自分がなにかしたかと問いながら、それに対する反省の色は持ち合わせていない。
「そういうデリカシーのないところが、あたしのカンにさわるのよ」
シーラは冷たく答えた。やつあたりだ。昼間、ピートにさんざん言い負かされたから。
ふんっとジェイに背をむけ、シーラは自動扉の中に入った。フィットネスクラブのメインフロア。シャワールームは、女性用と男性用と右左にわかれてある。
そのまま女性用のほうへ足を運びかけ、彼女は静止した。
あとにつづいたジェイが彼女の視線のさきをたどってみると、受付カウンターの前に十代の少女が立っていた。短いダークブラウンの髪。パステルカラーのシャツに白のストレッチパンツをあわせて、さっそうとした印象を与える。少女のほうも、シーラに気づくとおどろきの表情をみせた。
そして。
一瞬後、いわゆる若い女性の嬌声というやつがフロア中にひびきわたった。
「シーラじゃない! 元気してた? あのパニックにはまいったよねえ。マッジは泣き叫んで手がつけられないし、まあユージンとか、ケンカ強いのがいたから大丈夫だったけど。みんなシーラのこと心配してたよ」
「あたしもみんなとはぐれたときはどうなるかと思ったわ。キャシー、元気そうでよかった」
女の子ふたりは、アイサツがわりにかたく抱きあった。が、すぐにおたがいの興味・疑問に走った。
「ところで、うしろの人はなに?」
「どうしてこんな時間にいるの?」
キャサリンとシーラはほぼ同時に質問を投げかけた。
「もうシャワールームの一般解放は終わってるはずでしょ」
さきに質問をたたみかけたのは、シーラだった。仕方なくキャサリンは、自分の興味をあとまわしにして、それに答えた。
「ママが洗濯すんのを忘れててね、時間外だけど特別に許してもらったの。ママったら、もうほとんど家につくってころになってやっと気づくんだもの、ぬけてるでしょ」
フロアのソファには、父親らしい男性がいて、シーラと目があうとかるく頭をさげた。キャサリンとおなじブラウンの髪で、眼鏡をかけた、やわらかい雰囲気の人だった。
「シーラのほうは? いとしのダーリンはどうしたのよ?」
キャサリンが聞いた。いとしのダーリンとは、父親のことだ。極度のファザコンであるシーラをからかって、そういったのだ。
その問いに、シーラは答えられなかった。 まだ、にがむしをつぶしたような笑みを返すのが精一杯だった。
「シーラ……まさか、行方不明なの?」
混乱の日以来、行方不明者はかなりの数にのぼる。シーラの無言の返答を受けて、キャサリンは、そう、と言った。
「よかったら、あたしンとこにおいで。うちのママってば、娘のあたしよりシーラのほうが可愛いみたいだから、大歓迎だよ」
あったかいまなざしで、笑った。
シーラが実の母親をきらっていることは、彼女もよく知っている。ジェイのことも、一時的に保護する警察官だと思っての申し出だった。
「ジェイは…あの人は、仕事であたしの面倒みてくれてるわけじゃないの。あの混乱のとき助けてくれてね…まあそのあとも、ずるずると面倒みてもらってるわけなんだけど」
とりあえず、シーラはそう言った。
ピートとのこともあったし、それ以上のことは言えなかった。彼女の家に世話になる、と思い切ってしまうことも、まだ。
「ああ、それでキャミソールなわけ?」
キャサリンは、けれど、さらりとそう解釈した。シーラがジェイを異性として意識しているから、彼女たちがナンパするときの勝負服・キャミソールを着ているのか、と。シーラの年上好みは重々承知なので、いまさらおどろかない。(ついでにいうと、ナンパは彼女たちの日常の遊びだったりする)
「ちっ…」
「お嬢さん、いまの発言の意味は?」
ちがう、とシーラが否定するよりもはやくジェイが反応した。普段はのろまなくせに、こんなときだけと思うが、彼に自覚はない。
が、幸か不幸か彼が反応したのは、言葉の表面上の意味にであった。
「シーラ、おまえたしか、そういう服以外、もってないとかいってたよな? 彼女の言い方だと、ほかにもあるように聞こえるが?」
勝ち誇ったように、ジェイが言った。
とにかくジェイには、キャミソールは下着としか映らないらしい。実際、『お友達』のキャサリンは、シャツにストレッチパンツのスタイルなのだ。
「わっ…悪かったわねっ! いいじゃない、かわいいんだから」
「よくない。あしたっからは、彼女みたいなマトモな服にしてくれ」
「シーラ、あたしもキャミはやめたほうがいいと思う。彼には逆効果じゃない。賢いあんたらしくないよ」
「キャシーは口はさまないでっ」
「でもね…考えてみなよ、」
キャサリンが語り口調になったとき、もっと強烈な彼女はやってきた。
「ごめんなさい、お待たせ……あら、シーラちゃん!? 心配してたのよ、元気だった?」
しまった、と思ったのはシーラもキャサリンもおなじだっただろう。おしゃべり好きなキャサリンの母親は、娘の友達としゃべるのが大好きなのだ。
シーラの父親が行方不明と知ると、いたく同情して、『家へいらっしゃい』をくりかえした。そのまま連れて帰りそうな勢いだったのを、娘のキャサリンがうまくなだめた。
まだ気持ちの整理がついてないみたいだから、もうちょっとそっとしておいてやって──とかなんとか。
ようやく母親の気がすんで、キャサリンの一家が帰路についたころ、時計の短針はシャワールームの一般解放終了からゆうに一刻は動いていた。
結局、女たちの長話に付き合ったジェイは疲れたらしく、無言で男性用のシャワールームへ消えていった。
あの様子では、シーラの服装についてのクレームは、あしたに持ち越されるだろう。
先手を打ってあしたはマトモな服装にしようかな、とシーラはつぶやいた。ピートのことも頭にあった。彼に対抗しようと思ったら、服装でジェイと父親を区別しているような自分では無理だから。
父親とはちがう存在としてジェイをみる。
きっと、そこからすべては、はじまる。
負けるもんか、と気合いをいれて、シーラもシャワールームへと向かった。
*
その朝も、ジェイは着替えのために自宅に立ち寄った。
胸ポケットの中のキーを、手探りで取りだす。太陽工場のシステム・ダウン以来、コンピュータ制御だったドアの施錠は、すべて旧来の鍵式に切り替えられていた。いや正確には、もともと両者は併設されていたのを、ほとんどの人が鍵式は無視していたため、そういう感覚におちいったというだけの話だ。
暗やみの中、ちいさな鍵ひとつを探して家中ひっくりかえした、などというエピソードはそこらじゅうで聞かれた。
さて。その例にもれなかったジェイは、なれない鍵穴をさがして懐中電灯の明かりをドアにあてた。そこで、硬直した。
くろい。
赤茶色のはずのドアが真っ黒だ。しかもその黒は、立体的に浮かびあがって……。
「う…うわあああっ!」
ジェイはおもわず悲鳴をあげ、うしろにのけぞった。そのまま尻もちをつき、肩で息をつく。
そうしてようやく、彼は現状を認識した。ピートだ。彼の十年来の悪友が、ドアの前に立っていただけだ。
「失礼だな。人をみて悲鳴をあげるなんて、どういう教育を受けてきたんだ、おまえは」
にくらしいほど冷静な評が、ジェイにあびせられた。わかっていてやったくせに、とは返せない。
なんだよ、とうらみがましい言葉を吐いてから立ち上がると、ジェイはいまいちどその姿を確認した。
黒の上下のスーツに、黒のネクタイ。とどめに黒のサングラスまでかけて、彼はそこにいた。
ジェイはあらためて、あんぐりとした。
「おまえ…マフィアにでもなるつもりか?」
せめてもの嫌味をこめていう。
これ以上彼にふりまわされてなるもんか、という気持ちがあった。
「ああ、服装? ジョークならもうちょっとマシなこといってくれないか。これは喪服だよ。ドジな相棒の見舞い」
おかしなことを、彼はかるくいってのけた。喪服を着て、『相棒の見舞い』だ?
「相棒って…あの取材の天才か? …どうかしたのか?」
やはり今回もふりまわされることになりそうだと思いつつ、ジェイは話のつづきをうながした。
そうこなくちゃ、といった感じでピートがジェイにちかよってきた。
「じつは太陽工場のシステム・ダウンのなぞを追ってたんだけどね。ほら、いまみんなすごく不便な生活を強いられてるでしょ。それが、どうみてもさ…」
そこで彼は、声のトーンを落とした。サングラスをはずし、その手でジェイの肩をつかみ、耳もとにささやきかける。
「政府が復旧に取り組んでるようには見えないんだよね」
「ピート…それは、なんの話だ?」
『政府』なる言葉がピートの口から飛び出して、さすがにジェイもストップをかけた。
これは、いままでの冗談とはまるで質がちがう。彼はいま、とんでもない話をもちかけてきている。
ふれた手のひらから伝わってくる怒りを、ジェイはひしひしと感じた。
「おまえの力を借りたい。一日でいい。それ以上迷惑はかけない。だから、たのむ」
さいごの台詞に、息をのんだ。つめたいものが背筋をつぅ、とつたう。
『たのむ』など、死んでもいいそうになかった男が、はじめてそれを口にした。それも喪服を着て、だ。
核爆発からこっち、生きる希望も、死への恐怖もなにもないと思っていたが、どうやら自分もまた、健常者であったらしい。
ジェイは、おそるおそるたずねた。
「おまえの相棒は…どうなったんだ?」
「マメなやつなんだけどね、最近連絡がこないんだ。血の気がおおいから、どっかでケガでも買ってんじゃないかと思うんだけど。んで、俺が取材にいくことにしたの。急ぎでね、相棒の連絡を待っていられないんだ」
おたがいの顔がみえる距離を取りなおして、にっこりと、ピートはいった。
「取材って…いったい、どこに?」
「やだなあ、決まってんでしょ。まったく、ちょっとは頭を使ってほしいね」
けらけらと、ピートはジェイを笑いとばした。それからふいに顔をちかづけ、かすかに聞き取れるくらいの声量でいった。
地上にある太陽工場だよ、と。
*
可愛らしい顔をふくらせて、シーラ嬢は怒っていた。いや、真っ暗だし、鏡があるわけでもないから、だれが見たわけではないのだが。
寝室に閉じこもって、天の岩戸状態である。
「おーい、シーラ。たのむよ」
「おいしいお菓子もあるよ、いらないのかなあ?」
よりにもよって、男ふたりがかりで、ドアの向こう側から呼びかけてくる。鍵のない寝室のドアなどすぐに押し開けられるよ、とでもいいたげだ。
シーラは背中をドアに張りつけて、どうしてくれよう、と思っていた。
どうしてくれよう、とはもちろん、ピートのことである。
彼はまるで疫病神だとしか思えない。
今日はせっかく七部袖シャツとジーンズにしてみたというのに。ジェイはそれに気づきもせず、シーラの家にくるなり言ったのだ。『オネガイがあるんだが』と。そしてピートのご登場だ。
まったく彼は、乙女の一大決心をいったいなんと心得ているのか。シーラよりすこしばかり早くジェイと出会っただけのくせに。
「シーラちゃん?」
ピートの嫌味なちゃん付け攻撃に、シーラはとうとう沈黙をやぶって叫んだ。
「お断わりったら、お断わりよっ! 病気でもないのに病気のふりして、シャワーにも行けないなんて!」
仕事に関してはくそ真面目なジェイが一日、仕事を抜ける理由を、ピートはそこに見つけたのだ。警官仲間ならだれでも知っている、ジェイがいま面倒をみている少女に。
「一日でいいんだ。また埋め合わせはするから」
「しらないっ! あたしにはカンケーないもんっ」
「へええ、そうなんだ? このお菓子、おいしいのに。それは残念だったね。いや俺は、カシはきらいなほうだから、なんともいえないんだけどね」
ピートの言葉が、おどしに変わった。
要するに、密かに話をしたことをばらされたくなかったら、おとなしくいうことを聞け。話してやった貸しを返せ、というわけだ。
「ひ、卑怯よっ」
シーラも負けじとそう返し、しかしそれが最後の抵抗となった。
どうがんばっても、そのおどしに逆らえるわけはないのだ。
かちゃり。
天の岩戸をひらく。
「お、シーラっ! 協力してくれるか!」
こんなときだけいそいそとすりよってくるジェイも、憎らしい。
しかし、女はあきらめが肝心、と自分にいいきかせた。そう、この仕打ちの見返りは高くつかせてやるから、いいのだ。
「そのかわり、あたしの一生分のお菓子、面倒みてよね」
「うけたまわりました、レディ」
それには紳士然として、ピートがこたえた。
…彼は女性にもてるタイプかもしれない。なんというのか、こう…一歩ひいて女性をたてる。そういう姿勢がさまになるのだ。
そしてふたりは、その夜のうちに連れ立ってどこかへと行ってしまった。
シーラには、一日あっても食べきれないほどのお菓子──スナック菓子から、アイスクリームケーキまで──が残された。
「あますぎ…」
ミルクチョコレートの端ををかじり、少女はつぶやいた。
*
ピートとジェイは、首尾よく第一の目的地までついていた。エデンの端とよべるところである。
店舗や住居はなりをひそめ、無駄にだだっ広い通路がわずかなカーブをともなって、横たわっていた。レンガ調の路は、エデンの外周を一周する。
ふたつの懐中電灯に照らしだされたのは、四基分のエレベータの扉であった。いまは使われていない、かつては外世界とエデンとをつないだものだ。同じようなエレベータが、この外周に沿って、二十ヶ所、八十基ある。すべては核爆発時に閉鎖、ロックをかけられた。
「これか」
ジェイが、うめくようにいった。ピートがうなずく。
「普通なら絶対に使えないエレベータ。けれど、非常時に解除指定してやれば、一度だけ使える。政府や財界の、ごく一部のお偉方しかしらない事実だ。万が一、エデンに住めなくなったときのためのね。ただこれは、核爆発直後のデータなもんで、いまどうなってるのかってのは、なんともいえないんだけどね」
いくら新聞記者だからといって、そういう情報をいったいどこから仕入れてくるのか。ジェイは不思議でならない。が、蛇の路はへびというから、そういうことなのだろう。
エレベータは一度だけ、人を地上へと運び、また最下層の定位置にもどる。動力源は、非常用の予備電源があるらしい。
真ん中の呼び出しボタンのしたの非常用と書かれた銅版をあけると、テンキーがあらわれた。十四桁の数字を入力するようになっている。
「おい、ちゃんと手元を照らせ、ジェイ」
「へいへい」
「解除コードは09142005、181801。これ、なんて意味だと思う?」
「意味…? さあなあ、あるのか?」
「01をAとして、番号を順にアルファベットにおきかえてみろよ」
「順に? えっと…」
「最初の09はI、14はN」
「IN……」
「全部変換すれば、IN TERRA。『地上に』だ。単純だろ?」
「なるほど」
数字の羅列など覚えていられない。しかし、これなら記憶可能だ。どこにも記録として残せない暗号を、わかりやすく、確実に残す工夫といえた。
「ET IN TERRAっと!」
ピートがそう口ずさむのと同時に、テンキーの上のディスプレイに、解除のメッセージがでた。
「意外なこともあるもんだ」
「なに、ジェイくん。俺のこと馬鹿にしてんの? この俺に間違いはないっ」
「いや、おまえがミサを口にするとはね」
とたん、ピートがいやそうな顔をするのがわかった。ひとこと多い、と。
ET IN TERRA
そして、地上には。
このあと、『すべての善良な人々に平和がある』とつづく。
「すべての善良な人々に、か……」
ピートのつぶやきを、こんどこそ、ジェイは聞かなかったふりをした。
重そうなスチールの扉が、しずかに真っ暗な口をひらく。作動していると、だれにも気付かれないように。