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湯けむりの中、気持ち程度の間仕切りの下に、きたえられた男の脚がずらりとならんでいる。フィットネスクラブの、シャワールームである。
そこでは、一日の苛酷な労働をおえた警官たちが汗を流していた。
「お隣さんはジェイかい? せっかく物をみるのに不自由しない明るさがあるってのに、博物館みたいに野郎どもの足ばっかりならんでるなんて、ナンセンスだと思わないか?」
「まったくだな」
となりの男に話かけられて、ジェイは応じた。
「ま、暗やみの中でのセックスも、なかなかオツなものだけどさ。おまえは相変わらず、子守やってんの?」
「まあ…」
「ごくろうさんだね、ただでさえ仕事がこんなにハードになったってのに」
「ああ、十二時間労働は勘弁してほしいよな」
ジェイがそういうと、男は苦笑したようだった。
「じゃ、お先に」
「おつかれ」
となりでシャワーを使っていた男は、さっさとそこをあとにした。真っ暗な家で、イイヒトが待っているのだろう。
ジェイは、シャワーの蛇口に手をかけた。湯の勢いを強くする。遠い昔にあの娘と打たれた嵐にも負けないくらい、強く。
鼓膜を打つ水音が、心地よかった。
地上にある太陽工場が、落雷でシステム・ダウンしたのは、一週間前のことだった。
太陽エネルギーに頼っていた文明は、無用の長物と化した。ゴミ焼却にともなう火力発電は微々たるもので、浄化水の供給も制限された。
エデン政府は、住宅階層に散在するフィットネスクラブのシャワールームと主要エレベータ(交通手段)、それに病院の手術室のみに電気をゆるした。そして、各家庭にはトイレの水の供給だけが行なわれた。
人々は、暗やみの中で、限られた生活を強要された。フィットネスクラブで食料とお湯、生活必需品──たとえば、トイレットペーパーなどだ──と懐中電灯の充電池が配給された。
だが、それだけだった。
学校は休校、大人たちも仕事場が閉鎖。政府は、太陽工場の復旧に全力をそそいでいるというばかり。
はたしてフラストレーション発散の場をもとめる、時間だけは持てあました連中が大量発生したというわけだ。
警察官は、フィットネスクラブのシャワールームを一般解放する十二時間、フル体制で警備にかりだされた。そして、シャワールーム一般解放の終了後にようやく一日の汗を流すことができたのだ。(それ以外の時間帯の犯罪に関しては、警察は関知しない。それはエネルギーの余った者同士の、ちょっと過激な運動であるので)
*
フィットネスクラブのメインフロアは、白っぽい大理石で、落ち着いた上品さが演出されていた。
圧迫感のない、適度なひろさをもった空間。ゆったりめのソファが用意され、計算された位置に、計算された形で潅木がならぶ。
しかしフロア内にもうけられた滝のオブジェに水はなく、代わりににわかづくりの給湯コーナーやコインランドリー利用案内のはり紙などがあった。受付のカウンターも、食料品やトイレットペーパーなど日用品の山に埋もれている。
ジェイが、クリーム地に青のポイントのはいった制服をきこんで、メインフロアにやってくると、十代半ばの少女が彼を待っていた。
警察官とその家族が利用する時間帯なので、ほかに人影はまばらだ。
いったいどんな早業をつかっているのか、ブローとセットをすませて、エントランスにほどちかい潅木のわきに、少女は立っていた。
栗色の髪をまっすぐ背中にながし、前髪はかるくまいていた。髪と同色の瞳。目鼻立ちははっきりとしていて、将来有望だ。白のミニスカートに紫の花柄のキャミソール、ヒールのある白のサンダルといったスタイルが、またよく似合っている。足の爪には、きれいな空色がぬられていた。
「シーラ」
「おっそい。男のくせに、女を待たせるんじゃないわよ」
かわいらしい顔をした少女は、開口一番にそう言った。
「もう…髪もかわかしっぱなしだし。だっさださ。これじゃあ三十四で売れ残ってるってのもうなずけるわね」
「洗濯は?」
「終了。水筒にお湯ももらったし、食料の配給もOKだし。帰り支度はできてる」
「じゃあ、帰るか。そのまえに、シーラ…」
「はいはいはい、カーディガンを羽織れっていうんでしょ。いまはアツいの、あとで羽織るわ」
棒のように細い腕に白いカーディガンをちょんと引っかけて、シーラはジェイを見上げた。
じつはこれはジェイの再三の要請の結果、ようやくお目見えしたものである。
インナーはキャミソールしかもってない、と彼女は最初、カーディガンさえも用意してこなかった。しかし明るいフィットネスクラブの中では男どもの注目の的だし、懐中電灯のうすらあかりでは、なお挑発的だった。それで上着をきるようにお願いしたのだ。
ジェイのとがめるような視線を受けて、シーラはすぐに折れた。
「わかったわよ。その代わり、ジェイの髪、セットさせてよね」
美容師志望の少女は、カーディガンを羽織ると、気を取り直し、ムースとコームを取り出した。
ジェイはおとなしく、メインフロアのソファに腰をおろした。
正直いうと、こういう時間はきらいではなかった。シーラの真剣なまなざしが、背中ごしに感じられるから。
*
光を失ったエデンの朝は、午前八時にはじまる。
人々の生活の舞台である『ホーム』全館にゆきわたった非常用のスピーカーをとおし、館内放送というべきものがあるのだ。だいたいはその日の配給物資の内容を住民につげるものだった。
「まーいにち、おんなじ内容っ。たまには、『きのうとおんなじです』くらいいえばいいのに。もう一字一句覚えちゃった」
暗やみの中、少女の声が放送に対抗した。
ちかごろ、ジェイの目覚ましは館内放送とこの少女のモーニングコールであったりする。足首から先がはみだしてしまうやわらかなベッドも、自分のものではない。
なぜこんなことになったのか。それは神のみぞ知る、である。太陽工場がシステム・ダウンしたのも、シーラの家に通うようになったのも、偶然のなりゆきだった。
「ね、ジェイってば」
あわいモスグリーン色だというサテンのつるつるしたシーツを引っぱって、少女が返答をもとめた。彼女はもうベッドから起きだしていて、着替えもすませている。真っ暗でなにもみえなくても分かる。それがここ一週間の日常なのだ。
「ジェイ、もしかしてまだ寝てるの?」
「……ええっと、なんの話だっけ?」
しつこくシーツの端をつかんでくるまりながら、ジェイは声だけ返した。
「館内放送のことに決まってるでしょっ! 起きてるんなら、身動きぐらいしてよね。音がしないとなんにも分からないんだから」
「ああ……『きのうとおんなじです』とかいうやつ? いいんじゃねえの? どんな文句でも、時報とおもえば──」
「しぃっ! ちょっとだまって」
ふいにシーラがさえぎった。
ジェイが不平をならす間もなく、ベッドがきしむ。シーラが腰をおろしたのだ。そこに人がいると気配で確認できる距離だった。
館内放送は、時報から日々変化する尋ね人の放送に移っていた。
『……どこかでこの放送を聞いていますか。連絡を待っています……』
シーラがシーツの端をきゅっとにぎりしめる。引っぱられるシーツの感触とともに、ぴんと張り詰めた気配がジェイにも伝わってきた。
太陽工場がシステム・ダウンした日、混乱の中でたくさんの死傷者がでた。しかしままならぬ文明のもとでは、正確な統計もなにもなかった。遺体は、身元確認なしに処分された。けれど、重傷で病院に運ばれたものもいる。
この放送は、混乱の日から行方不明の家族をさがす人々のものだった。最後の望みのつなだ。
『……は、ここまでです。読み上げられなかった方はごめんなさい。また明日のメッセージにご応募ねがいます。では、みなさん、家をでるときはくれぐれもお気をつけて』
「今日はなかったな。おまえの」
放送が終了したところで、ジェイが言った。シーラは答えない。
ジェイはベッドの上で身体を起こすと、華奢な少女を抱きこんだ。
自分のメッセージが流れようと流れまいと、彼女は泣くのだ。一向に帰ってこない父親を、たったひとりの家族を想って。
抱きしめると、視界がきかない分、たがいのぬくもりだけが伝わった。夜、眠れないと訴える彼女にそうするのとおなじように、ジェイはただ抱きしめた。
「シーラ」
少女の肩がかすかにふるえる。彼女は、ちいさな両の手でジェイの腕をかかえこみ、あつい雫をこぼした。
このちいさな身体で、彼女はずっと不安に耐えている。このままでは永久に一人になってしまうという不安に。
いつか真実をおおう暗やみは明け、審判の日はやってくるのだから。