2、母は強し
そうして、ようやく俺は説教地獄から解放された。おおっ、精神的にかなりすり減った気分だ。
げんなりとしつつ、俺はこっそりと溜息を吐いた。本当、母さんには何時まで経っても敵わない。
そう、内心で思った。
「・・・で?貴方は自分の死体を見て自分の現状を把握し、その足で幽霊には距離は関係がないという理屈で瞬間移動で帰ってきたと?そう言うのね?」
YES、と俺はこっくりさんよろしく文字の書かれた紙の上に五円玉を滑らせる。その光景に、我が妹は心底面白そうに瞳をきらきらと輝かせている。逆に、父さんはびくびくと震えていた。
妹はともかくとして、父さんにはさっさと慣れて欲しい物だ。流石に、此処まで露骨にビビられるのは息子としてどうかと思うのだが。まあ、良いか。
母さんは、何だか胡散臭そうな呆れたような曖昧な表情で俺が居るであろう位置を見ていた。
・・・うむ、やはり此処でも家族の性格が如実に浮き出ているな。そう、俺は内心で思った。
即ち・・・父さんはヘタレ。母さんは強い。妹は好奇心旺盛である。
「ふざけてるの?」
俺は、すかさずNOという文字の上に五円玉を滑らせた。俺自身ふざけているつもりは一切無い。
文字通り、何時でも本気だ。本気で俺は実験してみただけだ。
俺は只、死後を存分にエンジョイしているだけだ。
しかし、やはり母さんは胡散臭そうにこちらを見るばかりだ。別に、母さんは俺の事を疑っている訳ではないだろうけれど。それでも信じられない物は信じられないらしい。
まあ、それは別に良い。信じられようが信じられまいが、俺が母さんの子供であるその事実だけは絶対に変わらないだろう。俺は母さんの事を信じているし、母さんも俺の事を内心では信じている筈。
だから、これはあくまで些細な事だろう。そして、それは母さん自身も理解しているのか小さく溜息を吐いて苦笑を漏らした。俺も、つられて苦笑する。
「じゃあ、最後に一つだけ。これだけは聞いておかないといけないわ」
俺は、黙って話の続きを待つ。自然、場が緊迫した空気に包まれる。
そんな緊張した空気の中、母さんは俺(の居る方向)を見て真剣な顔で言った。
「ミコト、貴方はどうするつもり?」
どうとは?
そう、俺は敢えてごまかした。本当は、何を聞かれているのかしっかりと理解していたけど。それでも俺はあえてごまかした。其処に、別に意味などないけれど。
「ミコト、貴方はこれからどうするつもり?何か予定でもあるの?」
俺は、その言葉に僅かな思考をした後、そのまま紙の上の五円玉を滑らせた。
世界を旅して回ってみようと思う。色々と世界を見て見たいと思う、と。
その言葉に、母さんはやはり苦笑を浮かべて頷いた。この回答は、既に母さんは心の何処かで予測していたんだと思うから。だから、これは予定調和だ。
故に、続く母の言葉もある種予測通りだ。
「解った、貴方がそう言うなら貴方の好きにしなさい。けど、これだけは忘れないで。ミコトは何処に行こうと私達の息子で家族だから。何時でも辛くなったら帰ってきて良いのよ?」
その言葉に、俺は即座にYESと答えた。母さんと俺、そして父さんと妹が同時に吹き出した。やはり其処は家族なんだろう。俺は母さんと父さん、そしてアヤの家族に生まれてきて良かったと思う。
心底、そう思うから・・・
ありがとう、さようなら———と、最後にそう伝えた。すると・・・
「あ、お兄ちゃん待って!」
妹が呼び止めてきた。俺は、妹の方を見る。妹は僅かに俯き、少しだけ躊躇った後に言った。
「ありがとう、お兄ちゃん。私、お兄ちゃんの妹で幸せだったよ」
涙まじりの目で、しかし、それでも満面の笑みで妹は笑っていた。
その、満面の笑みでの言葉に俺は思わずドキリとした。そして、俺はそれに対して一言。ただ一言だけ大切な言葉を伝えた。紙の上の文字ではない、俺自身の言葉で。俺自身の口で・・・
大切な言葉を伝える。
「ありがとう、アヤ。俺もお前の兄で幸せだった。お前の事を愛してるよ」
「っ‼?」
その言葉に、アヤだけではなく父さんと母さんまで息を呑んだ。気がした。
解っている。知っている。俺の言葉は、幽霊である俺の言葉は生者である家族には届かない。けれどこの言葉だけは紙の上の文字ではなく、自身の口で伝えたかったから。だから・・・
俺は、最後にそう伝えて家を去った。頬を、一筋のしずくが伝うのが理解出来た。
俺は、この時理解した。ああ、これが悲しいという事か・・・と。
・・・・・・・・・
そして、ミコトがその場を去った後。家族三人は何となくミコトが居なくなった事を悟る。それは決して勘などという曖昧な物ではない。確かな確信として、大切な人が居なくなった事を知った。
それは、決して理屈ではない。単純に、それがそうであると確信していたから。三人はミコトが其処にもう居ない事を理解したのだ。理解、してしまったのだ。
そして、注釈を一つ入れておくと、先程のミコトの言葉は家族全員に聞こえていた。
聞こえていたが故に、それは一つの結果をもたらす事になる。それは・・・
「・・・っ、ひっぐ・・・ぐずっ・・・えぐぅ・・・・・・」
こらえ切れず、アヤは泣き出した。最後の言葉はあまりにもアヤの心の奥深くに突き刺さった。それ故にアヤは自身の感情を制御出来ずに次から次へと涙を流す。
そして、その感情の原因を知っている母親のユイは、そっと娘の背中を撫でた。それでもうこらえ切れずにアヤはわああっと大声で泣きじゃくる。それを母は、優しく微笑んで撫で続ける。
娘の感情を知っているから。その感情の源泉を知っているから。理解しているから。
だから、頑張って妹として振る舞ったアヤを優しく撫でた。
「良く頑張ったわね。偉いわね、アヤ」
アヤの感情の原因———それは純粋な恋心。アヤは、ずっと前から兄を一人の男として慕っていた。
・・・そして、それが決して許されない恋である事も。
それを知っていたからこそ、アヤは想いにフタをして妹として付き合っていたのだ。けど、先程の言葉でそれはもろくも瓦解した。愛している。それは、きっと兄としてだろう。
ミコトは、きっとあくまで兄として妹を愛している。それは、絶対に変わらない。
けど、それでもアヤにとってはそれで充分だった。その言葉だけで、充分すぎたのだ。
わんわんと泣きじゃくるアヤの背中を撫で続けるユイ。その横顔を眺めながら、マコトは言う。
「もう、良いんじゃないか?」
「何が、かしら・・・?」
「お前は強い。こんな時でも、自分の弱さを見せないお前はきっと強い。でも、もう良いだろう?お前は良く耐えたんだ。もう、これ以上我慢する必要はないんだぞ?」
「・・・・・・本当に、貴方は卑怯ね。私がこんなに我慢しているというのに、っ」
其処までだった。もう、堪え切れなかった。唯我ユイは我慢しきれずに滂沱の涙を流し、わんわんと泣き続ける事しか出来なかった。もう、一ミリも耐え切れなかった。
そして、そういうマコトもやはり耐え切る事など出来ない。歯を食い縛りながらも涙を流す。
「本当に、お前は強いな。ユイ、お前は強い」
そう、一家の長であるマコトは自身の妻を褒めた。妻の強さを褒めた。
しばらく、唯我家では三人の泣き声が響き続けたという・・・
・・・・・・・・・
そんな中、一方でミコトは・・・
「あ、本の処分を忘れていた・・・。というか、やっぱり家族にはバレたんだよなあ?」
そもそも、本来の目的を思い出してこっそりと沈んだ気分になっていたという。
家族が自分の為に泣いているとも知らず、全くもって締まらない話であった。やれやれだ。




