悪魔が来りてガスを吐く
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
うわあ、この家の壁、見てごらんなさいよ。きたな〜い。
だいぶ長い間、車の排気ガスにさらされているようね。そりゃ道路に面している家だし、ある程度は仕方ないのかもしれないけど……いささか、無頓着が過ぎるんじゃないかしら、ここの家主。お金さえもらえるなら、上からペンキを塗って汚れを隠してあげるの、考えてあげてもいいんだけどね。
あなたの家はどう? 特に車とかがよく通る道に近かったら、要注意。近くなくても、周囲に盾となってくれる建築物がなく、もろにガスが吹き付けるような立地だったらしたら、油断は禁物よ。
――ん? 何をそんなに気にしなきゃいけないのかって?
ふふ、少々特殊なケースかもしれないけど、念のために私の昔話を聞いてもらおうかしら。
私が実家に住んでいた頃の話になるわ。
家のすぐそばにあった、スーパーからボウリング場まで一緒になった、複合商業施設が閉店することになったの。
あまりに広大な敷地のためか、なかなか買い手がつかない。申し訳ばかりに立ち入り禁止を示す、黒と黄色が入り交じるロープが引かれて、建物も駐車場も放置状態が続いたわ。
国道沿いということもあり、道路に面した部分から徐々に汚れていく建物の壁面。これまで押さえつけていた生命の息吹に屈し、下から突き上げる草と根っこによって、アスファルトが破られていく駐車場。盛者必衰の空気が漂い始めたの。
そして退廃が蔓延すれば、次にそこへ訪れるのは喧噪と相場が決まっている。
やがて金曜日の夜になるとその駐車場へ、バイクにまたがった連中が集まるようになった。たっぷりと数時間、駐車場の中を縦横無尽に駆け巡る彼らによって、周囲に耐えがたい大きさのエンジン音が響き渡る。
私が大好きな番組の最中にとどろくのだから、たまったものじゃない。できるものなら、駐車場で暴れる彼女の真上に爆弾でも放り投げて、すぐにでも黙らせたい妄想に駆られる。
そう、あくまで妄想。実際に彼ら相手に乗り込んでいったとしても、私一人では何もできないことくらい、分かっている。でも、この時の心に募る殺意だけだったら、たとえ誰でも殺せそうな自信があったわよ。
それからしばらく経ってからのこと。また金曜日の夜がやってきて、不快な彼らの訪れを諦観混じりに待ち受けていた私は、聞き慣れないエンジン音を耳にする。これはバイクの音じゃない。
トラックだ。真夜中に道路を疾走する、重量感あふれるうなり声。それがあの駐車場の方面から聞こえてくるの。私は思わず見えていたテレビを消して、窓へかじりついた。
カーテンを開けた先。家の二階から見下ろす、件の駐車場の一角に、大きなコンテナを背負ったトラックが乗り付けている。最初は駐車場の隅をにらんでいた頭を中央へ向けると、勢いよく加速を始めたんだ。
夜かつ距離があることもあって、トラックの色とか運転手の姿とかは判別できない。私の下へ届くのは、その長大な姿。先ほどから断続的に聞こえるエンジンのうめき。そして排気ガス。
特に最後が、猛烈に臭かった。私は閉めた窓越しに様子をうかがっていたのだけど、トラックはお尻につけたマフラーから、夜の闇の中でもはっきりと輪郭が見えるくらいの、黒い煙を吐いていたわ。それが風でも吹いているのか、私の家の方向へ向かって霧散。無差別に攻撃を仕掛けてきたの。
私の居る場所までの数百メートルをたどった煙は、その姿形こそ、もはやなくなっていたものの、そのエッセンスは閉めた窓のすき間から、私の部屋へ飛び込んできたみたい。
すぐに私はせきが止まらなくなった。ガス切れ寸前のライターと、温泉から漂う硫黄の臭いを絶妙にミックスした臭い。それが飛び込んだ端から、目の奥、鼻の奥へこびりついて、涙を流し、鼻をすすらざるを得なくなる。花粉症によく似ていたわ。
私はすぐに洗面所へ逃げ込み、明かりをつけて目にした自分の姿に、「ひっ」とおびえた声をあげちゃったの。
私の着ていた萌葱色のカーディガンは、肩がすっかり黒く濁っていた。煙突掃除にでも従事したんじゃないかと思うくらい、元々の生地を完全に隠している。心なしか、私の頬や下まつげのそばも、黒いものが浮かんでいた。
信じられない。私は確かに窓を閉めていたの。臭いが届くのは百歩譲って認めるとしても、あの排気ガスを間近で受けたかのような化粧を施されるなんて、とうてい考えられなかった。
必死に水を出して、顔を洗う私。そばにあった石けんを惜しみなく使ったけれど、数十分間格闘を続けても、ついた黒色は、完全には落ちなかった。それが信じられなくて、相変わらず水を垂れ流し続ける音を聞きつけたのか、やってきたのは祖母だった。
「どうしたんだい?」と声を掛けられても、私は最初、無視していたの。目の前の汚れを落とすことこそ、私にとって最優先事項だったから。
「お前、何を……」と祖母が言いかけて、口をつぐむ。代わりにあくまで洗顔を続けようとする私の手を、強引に掴んできたの。
「あんた、それをどこでつけてきたの!」
がっ、と頬をつかまれて、祖母の顔を見させられる。その表情には怒りと困惑が一緒に浮かんでいる。
私のカーディガンの肩口が、祖母に無理矢理引きちぎられる。洗面所を飛び出した祖母の後を、とっさに追いかけた私は、玄関を抜けた先で祖母が私の生地へ、火のついたマッチを擦り付けようとしている現場を目にする。
「近寄るんじゃないよ!」
祖母は背中を向けたままで、私を強く制止。ほどなく火を燃え移らされたカーディガンの切れ端は、たちまち灰への一途をたどることに。普段の温厚な祖母からは考えられない豹変ぶりに、私はどう動けばいいのか分からない。
炭と化したカーディガンが風に乗って散っていくのを見届けると、祖母はようやくこちらを向いた。表情こそ緩んでいるけれども、目だけは笑っていない。
「すまないね。これがばあちゃんの早とちりなら、後でいかようにでも弁償させてもらうよ。だが、どうしてこんなことになっちまったのか、分かる範囲で教えてくれないかい?」
変わり身の速さは女の自衛手段。分かってはいるつもりでも、目の当たりにするとぽかんとすると共に、怖さを覚えてしまう。それに引きずられるまま、私は先ほどの光景を口にしてしまった。
あの駐車場に、いつものバイクの連中ではなく、大きなトラックがやってきていたこと。そいつの吐いた排気ガスが数百メートルを越えて、ガラス越しの私の下まで、臭いと共に舞い込んできたこと。その結果、この黒ずみを抱えることになってしまったことを。
祖母は話を聞いている間、台所へ私を連れて行きながら、ティッシュを湿らせて目の下の黒いシミの部分にあてがってくれていたわ。
一通りの話を聞いた後、祖母は口を開く。「あんた、悪魔に魅入られたかもしれないよ」と。
祖母曰く、この黒ずみ具合は祖母が若い時に体験したことがあったらしいの。その時、祖母が家の二階から目にしたのはトラックじゃなく、黒くて大きい蛇の影だったそうだけど。
見たことのない生き物の影に釘付けになっていた祖母へ、私が聞いたようなうなり声、嗅いだような臭い、そして目にしたような黒ずみを、身体へ受けたの。その時に祖母の母たる曾祖母が口にしたのが、悪魔の存在だった。
その話によると、人を初めとする多くの生き物がそうであるように、悪魔もまた死を迎えるもの。だからこそ消えてしまう前に、新しい自分の分け身を作る必要があるのだとか。
分け身を作るためには、生み出すためのつがいがなくてはいけない。あのトラックのうなり声は、いわば悪魔が相手を探す求愛のサイン。続く悪臭と黒ずみもその一環なのだとか。最も、相手の承諾など蚊帳の外なのは、人とのしがらみを持たない悪魔らしいといえる。
そして選ばれた者は……悪魔の生誕に携わることになるのだとか。
突拍子のない話についていけない私。けれども祖母は、これを放っておけば私の身はただでは済まないと語る。
「もしも疑うのなら、明日一日、家の周りを歩き回って黒ずみがある場所を探してみるといい。それが人の手が届かない場所にあるのなら、すぐにわかる」とも。
結局、未明までかけて洗ったことで、私の黒ずみは落ち、祖母が薦めた通りに家の周りを歩いてみる私。
ぱっと見て何の変哲もなかったけど、いくつかの家の壁と、あの放置してある商業施設の壁の半分ほどが、元の色を覆い尽くす黒にむしばまれている。祖母に言われて意識しなければ、さほど気にはしなかったと思う。
そして祖母の言葉の意味を知ったのは、その日の夜のこと。
昨日、トラックを見かけたのとほぼ同じ時間帯。
地震があったの。私の家を含んだ、元商業施設の周りだけが味わう、局地地震。しかも、テレビで速報が流れることもない。
揺れが収まった時、とっさに窓へ飛びついた私が見たもの。それは、スプーンが整ったプリンの身体をえぐり取っていくかのごとく、きれいに壁をえぐられた建物の姿だった。先ほどの地震は、えぐられた部分の壁が、丸々と駐車場に落ちて、大きくひびを入れる衝撃を与えたためだったの。
更に、ほど近い家からは、人の叫び声も聞こえる。見えなかったけど、分かった。昼間に見た、壁を汚された一般家庭。それがあの商業施設と同じ目に遭っているのであれば、ひとたまりもないだろう。
ほどなく、パトカーや救急車のサイレンが周囲にこだまする。両親はやじ馬したかったらしくて家を出て行ってしまい、家には私と祖母だけが残される。
「悪魔が産まれたよ。あれはただ、悪魔が腹を突き破って出てきた結果に過ぎない。姿なき悪魔のお産を、姿あるものたちが受けられると思うかい?」
祖母はそうつぶやいたの。もしも汚れたままだったら、きっと私も……。
それからは私、トラックとものの汚れには、人一倍敏感になってしまったわ。