最初からいない君にまたさよならをする(卅と一夜の短篇第12回)
そうか。
全てはきっと。
この一瞬、刹那の為にあったんだ。
誰かが優しく労るように、水銀の髪に暖かな手を添えた。声が聞こえた気がした。
水銀が学校から家に帰るといつもは玄関にない靴が二足並んでいた。一つは男物の革靴で駱駝色の肌を艶々と衒らかしている。もう一つは丁子茶の革靴が光をエナメルで乱反射している。
ちっ。
水銀は小さく舌打ちをした。苦手な兄夫婦のものに相違ない。水銀は踵を返す。帰宅の心配を父母がせぬよう教科書ばかりが増える鞄から財布と携帯電話を取り出すと、玄関に放棄して逃亡した。
と言っても逃亡者を受け入れる隠れ家も避難先もない。兄夫婦が帰れば、帰宅命令で震えるはずの携帯電話を懐に突っ込んだまま、水銀は廃れた公園のベンチに腰掛けた。藤棚が誰は彼と黄昏の空を覆い、夜が忍び寄る。『藤に杜鵑』はあと僅かだが、まだ遠い気温だ。
行き交う人々は皆、それなりに苦労はあるだろうけど平和で幸せそうに見える。勿論、水銀は【そう見える】からといって、現実も【見える通り】だとは限らないと知っている。この世界で十数年も生きたのだ。それくらいは解る。だけれども、【そう見える】のさえ水銀は羨ましい。
世界中で絶対に、自分だけが絶対に、幸せにはなれないような。十字架を背負っているような。そんな気がする。事実、今の自分はどうだ? 幸せそうに見えるか。そんなわけない。兄とさえ上手くいかない、そんな矮小な自身が幸せになんて生涯、なれるものか。
――わたしは生きているだけで羨ましい――
『死人はそうだろうな』
――大丈夫、大丈夫だよ――
『あっそ』
水銀の傍には朧気に揺らめく白いシャツにジーンズの幽霊が立っている。半透明な足元は形を保ててない。名前は覚えてないらしいので、薊と水銀がつけた。薊の花言葉が『触れないで』とある。夜中に辞書で調べた。触れないで。薊に? それとも、水銀に? 水銀はどちらにせよ、言い得て妙だと、奇々怪々な存在の名前を薊に決めた。水銀だけに見える薊。真鍮でも錫でもない、水銀の薊。
植物の刺々しさは薊には無いが、生きていたら薊と水銀は、関わることなんて無かっただろう。触れないで。触れないから。水銀は些か思春期の男児が拗らせた故の性の潔癖を持っていた。生きていたら薊も含めて、異性はまるっと全部が全部、苦手だった。
既に他界している薊は水銀が来ると必ずこの公園に居る。何時からいるのかも何故いるのかもは知らないが、人間相手と違って取り繕わずに過ごせる時間は増えていった。他の人間に見えない薊から、溢した秘密を暴露されることがない安心もついてくる。昔だったら、水銀も今のように薊とばかりいなかったかもしれない。
今でこそ水銀しか見えないが、霊の類いが見える人間というのは、水銀の家系ではそんなに珍しくない。父は随分前から見えないらしいが、最近見え始めた水銀よりも、幼い頃から見えていたらしい。母と兄も結婚する頃までは見えていたという。どうして見えるの? いつ見えなくなるの? 水銀の問いに二人とも苦笑して、詳しくは話してくれなかった。二人とも世間一般的には若くして婚姻を結んだので、大人になると見えなくなるのだろうと水銀は推測する。下衆な話だが、心が、ではなくて、躰が。
水銀は初めて幽霊を見た話を報告した時から母と兄から『関わるな』と厳しく言われてきた。あちら側と関わりすぎると、均衡が崩れる。だから約束を破り、幽霊と話したのは薊が初めてだった。まさに自我を確立した水銀の反抗期の到来である。幽霊にも活動領域があるのか、薊と出逢ってから他の類いは見かけない。
『俺が居ないときは薊って、何してんの?』
――水銀のこと、考える――
『俺のこと、好きだね。来なかったらどうするの』
――水銀と話すこと、探す――
『ずーっと来なかったら?』
――大丈夫。待てる、待てるよ――
『来ないのに待つの?』
――大丈夫。大丈夫だよ――
何が? と、問うが薊は大丈夫と繰り返すだけになった。水銀と薊は意志疎通出来る時間はもうあまり残されていないのかもしれない。と、水銀は推測する。ラジオの電波が悪いみたいに、薊とチャンネルが上手く合わない日も多くなった。
薊は本当に朧気で、風が吹いたら消えそうな幽霊だ。ふわっといつ消えてもおかしくない。更に言うならば、薊は日に透けながら口癖を繰り返すばかりの日もある。別れの日を考えないようにしている水銀。一緒に暮らそうと押し掛けてくる兄夫婦より、この壊れかけたラジオの相手が幾ばくか正気で居られるのだ。一人で良いのに、独りは厭だなんて水銀って人間は難儀な生き物だ。
携帯電話が震える。母からだ。水銀は画面を見ると時刻を確認して、ベンチから立ち上がった。藤棚は蕾さえなく、永遠に『もぉいいかい』と『まぁだだよ』を反芻して花開くことはない気がする。
『そろそろ帰る。またな』
――またね――
『うん、また来る』
――まってる――
『……うん』
いつもの別れ。互いに手を振って、日が暮れると水銀は帰路に着く。歳を取って産んだ水銀が可愛い母は兄に比べて水銀に随分と甘い代わりに、時に病的な執念を持ってして過保護になる。薊と出会ったその日はうっかり携帯電話も持たず、連絡もしなかったものだから初回限定盤警察二十四時の主人公になってしまった。
学習した水銀が家の玄関を開ければ、ダンボールが四つ。重なりあって、低くはない高さで鎮座していた。薊のところに戻りたい。即座に水銀は思った。水銀が推測するに、これは、兄のものだ。兄が嫁とこの家を浸食する為の道具だ。
水銀は聞かずにはいられない。聞かずに捨てれば、心中を荒らされずに済むのに。水銀は母に訊ねる。聞かない方が心中が荒れるから。
母さん、これなあに。
王水兄さんのよ。
今の内に。
少しずつ、運ぶのだって。
貴方も部屋にあげるの手伝いなさい。
うん。
……うん、いいよ。
水銀が居なくても世界は廻る。では水銀はどうしてここにいるの。意味はあるのか? その問いに水銀は憑かれた。父母も面と向かって口には出さないが、兄夫婦の帰郷を喜んでいる。水銀だけが心からの祝福を出来ず、下手くそな笑顔で誤魔化している。世界中で自分だけが必要ないと言われたみたいだ。
眠れない。水銀が布団に入っても、玄関の段ボールを運んだ重みが身体にのし掛かって来る。
別に兄が嫌いなわけじゃない。兄嫁が嫌いなわけでもない。幼い頃は兄さん、兄さん、と後を着いて回った。でももう大きくなったし、知らない間に女と知り合った挙げ句、結婚して出ていった癖に、そっちの都合で戻ってくるなんて。振り回される、こちらの身になってよ。
水銀は自室の天井へ祈った。大丈夫になりたい。
なれはしない。
水銀は防寒対策を固めると、公園へ向かっていた。どうせ眠れない。夜に家を抜け出すのは初めてだ。こんなに、薊に会いたいのも。丑三つ時、星の飛沫が道路に灯る。誰ともすれ違わなかった。
薊と二人、此処ではない何処かへ行ってしまいたい。
何処でも良い。此処ではない、何処か遠くへ。此岸ではない、彼岸へ。
冷気で乾燥した口の中で血の味がする。公園に着いた。
薊はいつもの場所にいた。
水銀は声をかけようとして、止めた。あれは薊、か?
夜だからか螢火に似た発光と、随分くっきりとした輪郭を持ってニタァと薊の唇が耳まで裂けた。くぱぁ。漆黒の深淵が水銀を捉える。
――……す・い・ぎ・ん……――
ぞ、わ。全身が粟立つ。いつもの薊と違う、気がする。否、そんな気がするだけで、別にいつもの薊だ。いつもの薊? なんだそれ。水銀は薊の何を知っているのだと自身の心に巣食う影に淘汰される。これは薊か? 違う。では薊ではないのか? わからない。でも、いつもと違う。でも、じゃない。では、何をもってして『常』を定義するのか。それは単なる、自身の都合が良い幻影ではないか。わからない。でも、でも、でも。本能は脳髄に警鐘を最大音量で響かせる。
漆黒の咥内を縁取る真朱の唇。ああ、そうか。裂けたんじゃない。笑ってる。す、す、す。距離をとってしまった水銀との隙間を埋めるように、薊が寄る。ぞぞ、と背を寒波が這う。
す、す、す。
――……す・い・ぎ・ん……――
生唾を飲むと、水銀が後退る。足はこんなに重かったか、地面はこんなに固かったか、指先はこんなに。
冷たかったか。
――……す・い・ぎ・んんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんん……――
なんて絶叫。なんて、……あっけない崩壊。水銀は誰より心を許した存在に畏怖しかなかった。住む世界が違うと、結局、こうなるのか? 泣きたい。怖い。嫌だ。
じりじりと薊が迫ってくる。なんでだ、怖い。死にたくない。噛み合わさらない歯をカスタネット代わりにしてフラメンコを踊ってる。
なぁ。薊。水銀だけに見えた幽霊。
薊。水銀だけの幽霊。
薊。あざみ。アザミ。
生きたい。お前とは、行けない。
水銀は薊の姿をした化物を睨んだ。ゆらぁりゆらゆら、薊がこちらに来る。
『お前とはお別れだ』
――そ・れ・で、良・い――
そう、か。
そうか。お前と過ごす時期は、もう、終わってしまったんだね。水銀は悟った。それは例えば引退であったり、卒業であったり。今まで共にいた存在と生涯ひたすら永遠に共にいることはない。いつかは決別と新たな出会いをもってして、その存在とは疎遠になる。薊との『別れ』が来たのだ。こんなに早い別れとは思わなかったが、遅かれ早かれこうなったのだろう。それでも、考えてしまう。もしも今日、公園に来なかったら、また明日は水銀を薊は受け入れてくれたろうか。真朱の唇に丸呑みにされたって、薊……お前になら構いやしないのに。否、後退を選んだ時点で水銀は覚悟が足りなかったのだ。
それをわかっている死者が生者を拒絶した。
――生きているだけで羨ましい――
薊、アンタあの時どんな顔してた?
一緒にいきたかった。
一緒にいたかった。
『薊、帰る……ね』
一人で生きるよ。
一人で居るよ。
びた、り。薊は水銀の眼前で停止した。いつもの台詞。掠れた水銀の声にすら反応するならお前はきっと、口を大きく開けていても薊なのに。鈍重の時を経て、薊は手を振る。水銀も何かを絶ちきるように手を振った。薊。お前と二人。何処かへ行ってしまいたかった。そこが彼岸だろうと。
中途半端な戯言だ。
――……ま・た・ね……――
『うん』
また来る。そう、言えなかった。
まってる。そう、薊も言わなかった。
ゆるゆると薊は元の朧気な容姿に戻っていく。見詰めていると時間が止まりそうで、水銀は踵を返し、振り返らず走った。
水銀が帰巣し、玄関で立ち尽くして動けなかった。直立不動で泣いているのを新聞を取りに来た父に発見された。はらはら、はらりはらら。止めどなく流れる涙は藤の房を頬に残す。
薊は。
それから、水銀は薊が見えなくなった。
そしてそのまま、もう二度と見ることはなかった。いなくなったのかもしれない。探さずに水銀は過ごした。会いたいような、会ってはいけないような。もう二度と会えない気がしたが、決定的に『会えないのだ』と自傷行為に徹することもあるまいと目を背けたのだ。
兄の王水が語るには、年月に比例して思いというものは薄れる。幽霊は思い残しの塊だから、時間が経てば自然といなくなってしまう摂理らしい。兄の初恋だった通勤途中に見掛ける駅の女学生もふっと消えてしまったそうだ。王水の荷を片付けながら、薊のことを話した。兄は黙って片付けながら話を聞くと、俺もそうだった。俺は可愛い女子学生だったなあと呟く。
『人間側は惚れると見えなくなるのさ』
ちなみに、異性を意識すると幽霊が見えるようになる。お前は随分遅かったな。
大事なことを教えない兄の、片目を瞑ってみせた茶目っ気にぶッとばしてやりたい衝動が襲う。産まれて間もない兄の子に如何様にして、あることないこと吹き込んでやろうか。
兄は、兄曰く目元が女学生に似ている兄嫁と無事に産まれた姪と、近くに三人で家を借りたらしい。振り回されっぱなしだが、薊と別れてからはそんなことで憤らない。今、思えばあの頃の水銀は不安だったのだろうと水銀は推測する。
早早と兄の手伝いから離脱した水銀はお昼寝をしている姪の元へ、復讐の源氏物語作戦を決行すべく出陣した。
居間で姪と兄嫁が暖かな陽射を受けている。母が父のシャツにアイロンをかけている音がする。
姪は長閑な空気にすいよすいよとよく眠っている。あんなに憂鬱だった存在はこんなに柔らかなほっぺたに涎を這わせ、小さな掌をにぎにぎと動かしている。
水銀は姪の傍らに座る兄嫁にヒソヒソ声で『見てるよ』と声をかける。兄嫁は微笑んで、『じゃあオーくんを見てくるね』と立ち上がった。
窓から外を見る。青空に白く朧気な薊のシャツのような雲が棚引いていた。薊。逢いたいよ。会えないね。元気かい。俺は元気だよ。暫く、そっちには逝かないよ。
うー? 母親の動く音で目覚めた姪がこちらを見た。泣かない強いよく寝る娘だ。『未来の旦那さまですよー』とふざけると、仔犬のような愛らしい声を上げる。繋がる命。独りじゃない。安堵が込み上げた。
ふ、と唐突に水銀は理解した。
水銀はもうずっと独りじゃなかった。
そうか。
全てはきっと。
この一瞬、刹那の為にあったんだ。
そうだよと誰かが優しく労るように、水銀の髪に触れる。触れられたことなどないが、この手は。ふわふわ、り。声が聞こえた気がした。けれどもうなんて言ったかもわからない。確かに、君はそこにいる。そんな気がする。もう見えないのに、もう聞こえないから。
なのに、姪が。姪が水銀の上空に手を振っていた。別れの時、二人がそうしたように。
そうか。そこか。
一筋、頬を伝う。
手を振るのを止め、『あーあー』と視線の先に姪は懸命に手を伸ばす。幼い手が更に、上へ上へ傾きを変え、窓へ向きを変え、高く上った太陽に重なり。程なくして、ぱたり。と、布団へ戻った。
『なんだよ』
『居るなら言えよ』
『性格悪いぞ』
幾筋も伝う。
またね。
弾かれたように涙を拭って水銀は窓の外へ飛び出ると、太陽に向かって手を大きく大きく振った。雲の上からでも見えるだろう。
次があるなら(あるのだろうか)
待たないから(またあいたいよ)
大丈夫。大丈夫だよ。
もう大丈夫、生きていける。
ひょおっと春一番が吹く。水銀は姪の隣に戻ると窓を閉めた。姪の胸に薊の花弁が数枚ばかり、ちかちかと舞っている。
瞬きをすると、もうそこには何も遺っていなかった。
君が今、悩んでいることは十年後、思い出しもしないよ。