読んでいるだけの人/筑前筑後『名人三無』
我々の歴史とは少し違う、しかしよく似た世界。
その南部、九州浮羽国には古来有名な忍びの一族がいた。
浮羽忍び。
いかなる大名にも仕えることなく、銭を対価にその腕を振るう異形の者ども。
人非人と呼ばれ、魍魎と例えられるその忍びたちの中で、己の腕のみで世人を瞠目せしめ得るに至った、ある男がいた。
柏原三無、齢は五十余。
「無息、無音、無臭」とその技前を誇る号を持つ、熟練の忍びの者だ。
その腕は老練、性は酷薄、忍び働きのためならば恩師や親しい教え子とて躊躇無くその手にかける。
家来を持たず、栄耀栄華もなく、ただ里ではその腕を見込まれ中忍の位を持つ男であった。
ある時、抜け忍の始末を終えた三無は、主・草野右京亮に呼ばれ、ひとつの仕事を命じられる。
京より下向し、今は南朝──宮方の「軍師」となっている公家、烏丸公知の首を獲れ。
その命と、何より得られる銭のため、三無は大宰府の奥、厳重に守られた男を狙う。
果たして三無は使命を達成できるのか。
己を一途なまでに忍びとして鍛え上げ、己の技量に絶対の自信を持つ老忍者を待ち受けるものとは。
◆
忍者。
世に隠れて絶人の技を振るい、太平の世で静かに消えていった男たち、女たち。
そのストイックな生き様と、晴れやかな武者たちとはまた異なるダークヒーローとしての側面は、江戸時代から現代まで、また国の内外を問わず、人々の浪漫を刺激してやみません。
古くは『真田十勇士』の奇想天外な忍術小説あり、またハードボイルドな諜報小説ありと、物語の中には様々な忍者たちが現れ、それぞれに美しい陰影を描いて去っていきました。
武士以上に死と隣り合わせだった彼らには名誉も富貴もなく、君臣の情愛も戦友との信頼も無く。 死をかけた戦いの果てに得られるのはわずかな休息と、生きるためのわずかな銭だけでした。
特定の大名に従うことなく、諸国へ腕を売って歩く忍びであれば、なおさらその厳しさは想像を絶するものでしょう。
三無もまた、その過酷な境遇に生きた忍者でした。
時は南北朝時代、世を治めるべき朝廷も幕府もいまだ正義といえず、答えのない未来への問いに誰もが苦しむ中、それでも三無は己の腕と、それによって得られる金銭のためと割り切って、その力を振るいます。
彼と主君・右京亮には、猿飛佐助と真田幸村のような暖かな心の通い合いはありません。
わずかな慰めは、父譲りの優れた忍びとして育ちつつある息子と、妻亡き後の家を守る娘の将来だけ。
彼を現代人の感覚で見れば、不幸な男に見えるでしょう。
あるいは血も涙もない男に見えるかもしれません。
それは一面の事実です。
そして、そうであるからこそ三無の横顔には何とも言えない美しさが漂ってきます。
何故でしょうか。
おそらく、三無という人が持つ自分と他人、世界に対する厳しい目は、一方ではその中にある僅かな喜び、美しさを見ているからではないかと思います。
蔑まれる忍びとしての仕事を息子に教え、息子が一人前になったことを静かに喜ぶ彼。
そしてその子が父に対して思うこと。
そこにあるのは忍びでも殺人者でもなく、どこにでもいる、父と子の情愛でした。
それが美しい。
血生臭さの中に、紛れもなく三無も人なのだと思わせる、哀しいまでのペーソスがあります。
このレビューを読んで、興味を持たれた方がおられるとすれば、ぜひ一読をお願いします。
そして、名人三無の冷たい顔に隠された情愛を感じ取ってほしいのです。
彼は、己を表現しません。
作中で、彼の温かさは、別の人物が表現します。
その人物の思い、激情の中に、彼を追うだけでは見えなかった三無の別の横顔が透けてくるのです。
それを読んだとき、読んだ方は本当の三無を知ることになるでしょう。
最後に、作者・筑前筑後氏について。
作家でありながら郷土史家であられる氏は、戦国以前から幕末にかけて、端倪すべからざる該博な知識と、人間を彫刻しつくした観察眼をお持ちの方です。
氏の本領は、やはり時代小説。
「小説家になろう」では少数派である時代小説の書き手であり、大名・公家から市井の一庶民に至る数多くの人物を美しく描き、人の世の汚さ、醜さをも、まるで実際に見ているかのような迫真の描写で描き切っておられます。
転生もせず、チート能力も魔法も持たず、未来の知識もないけれど、それでも己の心に従って、必死に生き続ける人々。
そうした人々の生き様を織り合せたのが歴史であるとするならば、氏は紛れもなく、歴史の語り部でありましょう。
氏の作品を、多くの人々に見ていただきたい。
そして、人とはどんな時代でも必死に生きる姿が美しいのだと、多くの人に感じてもらえるとするならば、拙いレビューではありますが、これに勝る幸福はありません。
『名人三無』
作者名:筑前筑後
作品URL:http://ncode.syosetu.com/n7427cr/