表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
なろうレビュー祭り2015  作者: レビュー祭り運営委員会
短編部門PartⅡ(3作品分)
22/43

宮沢弘/ふりこゆれる『あたらしい治療』

【副題:我思う、故に我あり】

 Eliza (あるいはDoctor)の機能、あるいはそれらの系譜に連なるいわゆる人工無脳の機能を思わせる。いや、思わせるのではなく、作者の念頭には実際にそれらがある。

 だが、ここではそれらの具体的なものではなく、ある意味では理想化されたそれらを考えてみよう。そのような理想化されたものの場合、それらはチューリング・テストを通過すると考えてもかまわないだろう。会話についての記憶ないし記録も持ち、たとえばある人が「先週、話したことですが」などの言い方をしても対応できるものとする。これ自体は単にログや、あるいはデータベースを持っていれば可能なことである。


 ところで、「だとしてもElizaなどは決められた反応をするのみである」という言もあるだろう。では、 "Racter" (ラクター)という、同じく人工無脳を思い出してみよう。ラクターは、あるいはラクターの作者は、1983年に "The Policeman's Beard Is Half Constructed" という本を出版している。1984年には、Mindscape社からチャット可能なバージョンのラクターが発売されている。どちらのバージョンのラクターも、「テンプレート方式」を用いていた。特にチャット可能なバージョンでは、入力を軽くではあるが解析し、それを出力に反映する機能が加えられ、より洗練されていた。

 さて、ラクターは "The Policeman's Beard Is Half Constructed" という本を出版していることから想像できるだろうが、チャット版のラクターも非常に多弁であった。たとえ、それがテンプレートによるものだとしてもである。ここで、ある種の問題が現われる。「では、そのテンプレートとはいったい何であるのか?」というものだ。人間はおおむね文を文法に従って生成している。テンプレートのありかたにもよるだろうが、ではテンプレートと文法とは、どこがどう違うのだろうか。文法は有限のルールから無限の文を生成できる。だが、それは再帰さえ認めれば、テンプレートであっても可能だ。人間は意味を操って文を作っているという話もあるだろう。では、意味とは何だろうか。あるいは、こう言ってもいい。「あなたは『意味』を意識して、言葉を使っているのか?」と。

 そうすると、最後に行き当たる問題は、意識があるのかどうかだろう。では、意識とは何なのだろうか。ダグラス・ホフスタッターとダニエル・デネットは、意識とは「精神のフィードバック・ループ」であると言っている。加えるなら、記憶あるいは意識には、自分の外の物や事を表象する「モデル」と、自分自身についての事を表象する「モデル」があるとも言っている。それは極めて妥当と思われる仮説である。問題はそのようなモデルやモデルの表象が、どのように脳に存在するのかがわからないという点だ。それが結局「意味」を、言語学においても他の分野においても、人間の精神活動における暗黒大陸としてる。だが、言葉に限るなら、意味とは「その言葉や単語が使われる文脈の総体が現わすものである」としたらどうだろう。ならば、脳に先天的に存在する「意味の萌芽」とでもいえるものを除けば、意味とは、記録を参照し、かつ出力に反映できるもの、あるいはそれを可能とする機能と何が違うのだろう。

 そして、そうだとするならば、理想化されたElizaやラクターとは、どういう存在だと言えるのだろう。

 以上が、この作品、「あたらしい治療」を読む際に知っていなければならない、そして読みながら同時に脳内に想起しておかなければならない、最小限の知識である。


 ここからがこのレビューにおいて問題となる部分となる。著者は、語り手を描く際に、あるいはこの作品を書く際に、どこから出発したのだろうか。Elizaやラクターから出発したのだろうか。それとも意識か何かについて考える際に、理想化されたElizaやラクターを使ったのだろうか。この違いは明白であるとともに、その境界はあやふやでもある。だが、そここそが問題なのだ。言うなれば、「現実から逃れる知性を持つ」か、「持たない」かの違いだ。あるいは、もっと単純に「知性を持つ」か、「持たないか」と言う方が、より正確だろう。


 さて、作品内において、相談者の内面が書かれていないことにも注目しよう。相談者にも内面はあるだろう。だが、そこを描かないことにより、奇妙さが増している。これも重要な点だ。


 そろそろまとめよう。

 もし、このレビューで書いたようなことを想起しながらこの作品を読まれたのであれば、眩暈を、足元の不安感を、居心地のいいズレを、そして居心地の悪さを感じるだろう。共感でも安心でもない、それらの感覚こそがSFである。


『あたらしい治療』

作者名:ふりこゆれる

作品URL:http://ncode.syosetu.com/n2778ct/

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ