宮沢弘/Σ 『眩き蒼白』
【副題:このようであったSF】
この作品に限ったことではないが、小説家になろう、あるいは他の所でも目にするSFに共通する感覚を覚えた。もちろん、このレビューにおいて著者を貶める意図はまったくない。だが、その感覚を言葉にするなら、「斯くの如きありしSF」となるだろう。
それは、アイディアや内容とはあまり関係なく、表記として、あるいは文字列の見た目として、「斯くの如きであった」のだ。この作品に限らないが、ネット上で見るSFには、なぜかそのような「斯くの如きであった」という感覚を覚えることがある。
なぜそのようなことが起こるのだろう? 二つの仮定を挙げてみたいと思う。一つには、著者の不充分な読書が挙げられるのかもしれない。これについては、「SFとはこのような雰囲気の書きかたである」というイメージがある──それをどこで得たのかはわからないが──のかもしれない。もう一つには、著者の充分な読書が挙げられるのかもしれない。これは矛盾しているように思われるだろう。だが、この二つは不可分なのだ。
というのも、「常に読書を行ない続けることは困難である」からだ。どこかの時点において、読んでいた作品から、「斯くの如きである」という認識が生まれるだろう。これは、著者の文体の個性や特徴ともなるだろうし、あるいは「斯くの如きありしSF」という印象を覚えさせる原因ともなる。だが、このこと自体を否定するつもりはない。そこが出発点だからだ。だが、そこは出発点なのだ。
さて、では表現に入ろう。この作品は、「誰かが語っている」。だが、それは誰なのか?
このような表現がある:
「そこには心を湧き立たせる力がある。」
「魅惑に満ちた光景」
だが、それが浮かんでいるのは、誰、あるいは誰の心なのだろうか?
あるいはこのような表現がある:
「光度は太陽の数百万倍を越えていて、質量は凡そ150倍超に達しているだろう。」
なぜここで「太陽」が出てくるのだろうか? なお、普通に「太陽」と言った場合、それはこの地球が属する太陽系における太陽を指す。また、太陽系と言った場合も、地球が属するものを指す。それら以外を指す場合、あるいはそれら以外も含めて指す場合、恒星であり、恒星系あるいは惑星系である。
これらは、結局、「誰が語っているのか?」という疑問に行き当たる。語っているのが人間でないのであれば、人間的な心情や、あるいは人間にとっての当たり前の認知の対象を用いて語るとは思えない。
もちろん、人間的な表現でなければ、もしかしたらそれを読む人間にとって理解が困難になるかもしれない。だが、だからという理由で、人間的である表現を行なう理由になるだろうか?
これは、あまりに人間的なものを書く方には問題ですらないだろう。だが、SFではそうではない、あるいはそうではない場合があるのだ。
最後になったが、内容に入ろう。「高輝度青色変光星」という恒星が現われている。唐突だが、りゅうこつ座η星はそれに分類されている。そして、太陽系からたったの7,500光年しか離れていない。だから、ここで述べることは実際とはズレているかもしれない。だが、一つ挙げるなら、遠い宇宙、つまりは初期宇宙においてはガンマ線バーストが多い。そしてそれはこの種の恒星が影響しているのかもしれない。もし、著者がこれを関連付けているのだとしたら、描かれているのはいつの事なのだろう。長編の構想があるとのことだが、シノプシスの形であっても、見てみたい。そう思わせる一編である。
『眩き蒼白』
作者名:Σ
作品URL:http://ncode.syosetu.com/n6876cs/




