【コラム】八雲 辰毘古『警察創作課の対処法』
創作界隈にも「警察」はいる。俗にSF・ファンタジー警察と呼ばれているが、例えば歴史警察や推理警察と呼ばれる場合もあり、要するに作品に対して重箱の隅を突くような設定等の粗を指摘し、「これは○○ではない」と声高に述べ立てる人たちのことを指している。
実際にはこれらの事案は非公式で行なわれているため、字義的には「自警団」が正しいような気がするが、まあそれはどうだって良い。つまるところ創作において設定をどこまでリアルにしなければならないのか、という水掛け論のことである。
まず結論から言えば、気にし過ぎるだけ野暮ではないだろうか。
そもそも論で言うならばしょせんフィクションなのである。ノンフィクションやルポタージュにおいて現実と異なる記述があったとしたらさすがに問題があるだろうが、ことSFやファンタジーに到ってしまえば、どうにも野暮と言わざるをえない。歴史や推理に関しても同様で、あまりにも突き詰めすぎると、却って無色透明になり、面白さを損なうということだって起きてしまう。
かつてプラトンは彼の理想国家の中で、言葉の意味を自由に書き換えてしまう詩人の存在を追放しようとしたものだが、創作を通じて新しい世界観や面白味、可能性を提示してきたのはむしろ詩人の方であろう。本質的に、リアルではしない/できないことを活写するのがフィクションならではの強みなのだ。それをあーでもない、こーでもない、と否定しに掛かってしまう「警察」は、正直なところ野暮だとしか言いようがない。
しかし「警察」の側にも一理ある。
フィクションが現実ではないからと言って、何をしても許されるかというと、実はそうではないからだ。
非現実をリアルに魅せる、それだけでもかなりの筆致を必要とする。主に空想度の高い作品ほどその筆致が一番要求されると言っても過言ではないだろう。ファンタジーや、SFの中でもスペース・オペラなどに分類されるもの、ないしは、伝奇小説など……これらは常に「非現実」を描く。あるいは我々の知っている現実の外側にあるものを描くことを求められている。その為には見たことも聞いたこともない想像の産物を、さも見たり聞いたり、あるいは匂いや肌触りまで想起させるように言葉をひねりだす労苦が伴なうだろう。
こうした、本当は目で見たり耳で聞いたりしてないものを、まるで実際に目で見たり耳で聞いたりしている「ように感じられる表現」のことを、「小説のリアリティ」と呼ぼう。単に趣味であるならその限りではないものの、表現はすべからく誰かに自身の考えや想いを伝える要素を持っているため、作品を誰かに読ませるには「内容が本物のように思える」工夫を凝らす必要があるのだ。読者といえ他人の趣味に付き合うほど酔狂ではない。
実際、私もリアリティを持たない作品はあまり読みたくない性格だ。もちろんそれがファンタジーやコメディを嫌う理由にはならず、むしろ私はそちらの方が好みなのであるが、どうせ空想で小説を書くなら、現実にはない/しそうにない体験をさせてくれー、と願ってしまう。その体験のリアリティがないと、つまり作中世界が本物のように見えなくなったら、確かに読む意欲は減らざるをえない。
しかし、これだけは言っていい。リアリティとはリアルさと必ずしも同じではない。
非常に嫌味な言い方をすれば「リアリティ」とは読者がそうだろうと信じているものの延長線上にしかない。それは非常に感覚的・直感的なものである。例えるなら江戸時代にはみなちょんまげで、武士は食わねど高楊枝、農村は搾取され飢えに喘いでいる……というような、ある種のテンプレートが刷り込まれているように、だ。このテンプレートに沿った形であればある種の「リアリティ」が保障されるし(信じてない人間には不審に思われるが、それは致し方ない)、もしそこから意外性を狙うのであれば論理や理屈によって固められた「リアリティ」を再構築しなければならないだろう。じっさい文芸の歴史は「リアリティ」の歴史と言い換えてもいいくらいで、世界の仕組みについての空想から「神話」を生み、「騎士道物語」、「近代文学」……と系譜を継ぎながら、表現はつねに新しい「リアリティ」を編む工夫を凝らし続けてきた。とはいえ、しょせん小説はフィクションであり、現実ではない。これはファンタジーやSFでは言うに及ばずで、中世ヨーロッパにジャガイモが無いからと言って中世ヨーロッパ風の異世界にジャガイモが存在することへの批判根拠とはなり得ない。
また歴史や推理と言った作品も、現実の研究や資料に重きをおくようで、実際はフィクションなのである。単に研究や資料の集大成/総集編であるならばそれは小説ではなく、それ自体が専門書や論文と化す。専門書や論文の文体を借用する小説がないわけではないが、小説の目的は本質的にはそっちではないということに注意されたい。ましてや、娯楽となればなおさら「警察」の指摘することは的外れで、娯楽だからフィクションだからと免罪符になるわけではないにしろ、批判の目的と筋が通らないのは明らかだろう。
結局のところ、作者の「目的」に、批判/指摘の内容が沿っているかどうかなのである。
作者は読者の批判や指摘をすべて聞き入れる必要はない。すべての声を聞くことはできるが、何もかも聞き入れてしまえば、あらゆる点で平均的な、毒にも薬にもならない作品に陥ってしまうことだろう。
しかしその一方で作者は自らに問いかけ続けてみる必要がある。自分は何がしたいのか? 何を伝えたくて、何を書きたいのか? おおよそ創作とはそうした自己との格闘(もしくは対話)をしてみないと上手くならないものだと思われる。ならば読者の声はその参考意見の一つ以上の何物でもないのであって、むしろ作者の側が読者の感想を批評する必要もあるだろう。読者無くして作者の物語は成り立たぬが、そもそも作者無くして物語は書かれることがない。
だからこそ、作者は何を書くのかを見失わないようであってほしい。
まあ、飽くまでこれは私見に過ぎないのだけれど。