第19話 重なる世界
淡い桜色が世界を埋め尽くす季節、温かい風が私達を包んでいく。
新しい季節、私は中学三年生になっていた。
彼も高校に進学して、見慣れない制服は私をドキドキさせる。
いつもと違う彼を意識してしまう。
学校が終わり、彼は入学式を終えていた。
私達はあの公園で待ち合わせをしていた。
「まこちゃん!」
「しゅーごめんね、ホームルームが長くって」
彼はにこやかに笑いながら「気にしないよ」と囁やいている。
「まこちゃん、覚えてる? 例の約束」
約束、もし高校に合格したら、デートをしてあげる約束だ。
「もちろん覚えてるよ……ふぅ」
胸が熱い。ここに来て急に胸の鼓動が激しく波打つ。
「じ、じゃあ行こう」
私は早歩きで彼の前を進む、彼は置いて行かれて困っている。
「へ? ま、まこちゃん! 置いてかないでよ!」
滑稽な風景だった。私は顔を赤くしながら彼の前を早歩く。彼はそれを慌てながら追いかける。デートと呼べるのだろうか?
再生される世界を見ている私もなんだか恥ずかしかった。
もう、私の恥ずかし屋め。
二人のデートは映画に行って、デパートに行く。このデートコースはあの時と同じだ。
峻くんは全く同じように行っていたんだね。
そう考えていると再生される世界の峻くんが私に話し掛けている場面が映る。
「まこちゃん、今日さ俺の家に来ない?」
「え! あ、えと、……あの“マンション”って一人暮らしだったよね?」
「お、おう、そうだ。だから二人っきり……だ」
彼と二人っきり、また、心臓が一気に波打った。
私は勇気をふり絞って「いいよ」と答える。すると彼は嬉しそうにして笑う。
「本当?」
「う、うん」
急激な頭痛が私を捕らえる。
痛い、頭が痛い。
どうしたのだろう?
この痛みは、封印された記憶からの警告?
この後に何かあるの?
まさか、封印された記憶が待っているの?
彼があの“マンション”へと足を向けていた。二人が歩く度に頭の痛みが増して行く。
痛い、痛い! 一体何が待っているの?
もう、マンションが見えて来た。
怖い。一体何が起きるの?
急にここから逃げ出したくなる。
嫌だ、この先は見たくない。
嫌だ、この場所は、この先は……。
過去が私を待っている。行かなければならない。
怖いけど、この先の映像を見なきゃ。
不意にあの夢を思い出す。
ここはどこ?
何も分からない……。
それはこの場所だった。
二人はマンションに入り、階段を上って行く。私は不意に彼に話し掛けた。
「しゅー」
「どうかした?」
「なんでこの階段は異様に長いの?」
「さぁ? 多分設計ミスかもね、ここ相場よりも大幅に安かったって親父が言ってた気がする」
そんな話をしていると階段を誰かが降りて来た。
「あ~ら、佐波くん今帰りかい?」
目の前には五十歳くらいの中肉中背のおばさんが現れた。この人は彼のお隣りさんだ。
「あ、高島さん、ただいまです」
高島さんは私と彼を交互に眺め、口を三日月見たいにニヤリと笑う。
「佐波くんもすみにおけないわね!」
と、ニヤニヤしながらほざいた。
「まぁね、いい女でしょ!」
「な、何言ってるのよ、しゅー!」
私の右ストレートが彼の腹目掛け火を吹く。
ヒットし彼は涙目で蹲る。
「あっはっはっは! 仲がいいわね!」
もう、いい加減にしてよ。「じゃあね、あなたもごゆっくりね~」なんて言ってこの場からそそくさと降りて行った。
「もう、ほら、しゅー行くよ!」
顔は見せられないくらい真っ赤だ。だから駆け足で上がって行く。
「待ってよまこちゃん~」
私は夢を見ている。
それは今の光景だった。
知っている様な風景……。
胸が痛くなる。
キミは誰?
目の前に誰かいる……。
それは彼、佐波峻。
夢の風景が重なる。
楽しい時間だった。
毎日があなたとの笑い合う感情で溢れていた。
あなたとの日だまりは、溺れそうなくらい心地よかった。
私の頭が痛い。
もうじきソレが始まるから。
世界は赤く染まる。
それがこの先に待っている。
彼の部屋が見え始める。この場所で彼との楽しい時間が流れるんだろうな。
今日はデートだったから、余計に意識してしまう。
さぁ、早くドアを開けよう。あなたとの時間を楽しむために……。
その夢は脆く崩れさる。
熱い、胸が熱い……。
急に意識が遠くなり始める。
その場にしゃがみ込み、異様な汗が吹き出す。
「まこちゃん?」
彼の声はフィルターがかかった様に曇る。
私の世界が歪む。
「まこちゃん、どうした!」
なんだろう、私の中から羽化する様に何かが出ようとする。この感覚は何?
その時だった、マンション全体が振動し、住民達がざわめく。
「ぐ! な、なんだ、地震か?」
揺れる風景、そして、紅い光がマンションを覆っていった。
「う! なんだよこの光!」
マンション全体が紅い色へと姿を変える。
世界は赤く染まる。
熱い……、熱い……。
これしか考えられない、吐き気に似た感覚、徐々に纏わりついて放さない。
そして、紅い光は私の身体から発生し、苦しみが一気に増す。
「ああ、ああぁあ、あああああああ!」
光は眩しく輝く。マンションの振動が更に増大した。
「ま、まこちゃん!」
私から放たれた光はやがて、ぴたりと止まり、朦朧うとする意識の中で私は倒れた。
彼は駆け寄って来る。
愛しそうに私の名前を呼ぶ。
「まこちゃん、目を覚まして、まこちゃん……まこと!」
ゆっくりと瞼を開き、彼を眺める。涙を目に溜めて。
なんて間抜けな顔、そんな顔は見たくないのに。
私から出た光はなんだったのだろう?
もう、どうでもいいや、なんだか眠い。
「まこちゃん……俺が分かる?」
眠い。
「ああ、うっ……」
眠いよ。
「待ってろ、すぐに病院に……」
「し、しゅー……わ……たし……あなたのこと……」
好き。
その言葉は彼に届く前に、私の心臓が停止した。
嫌だ! 私は……私は……。
「まこちゃん?」
もう動かない。
私はこの世から拒絶されたから。
「まこちゃん? 嘘だ……冗談だろ?」
人形の様に冷たくなっていく肌、もう活動する事はない。
「まこちゃん……ううっ、まことーー!」
彼の声が響いた。その言葉は悲しみに染まって、嫌な和音を奏でる。
そんな時だった、マンションの住民達の悲鳴が飛び交っていた。
死を含ませた悲鳴だ。
「いやああああああ!」
「ぎやああああああ!」
「助けてぇーー!」
飛び交う声は恐怖に染まっている。何かが起きている、彼は悲しみの境地で異常を感じている。
「ぐ、何が起きていやがるんだよ、くっ、ううっ……まことぉ……」
彼は私を抱き締める。その身体はダランとして、段々と氷の様に冷たくなって行く。
あれ?
急に視界にノイズが走る。
気が付くと彼の中にいた、そうか、彼の中からこの映像を見せる気なんだ。
彼の気持ちが伝わって来る。
「まこと、死ぬな!」
その時だった。奥の通路に何かがいた。
「な、なんだ……あれ?」
ソレは鳴いた。
『ガアアアアアア!』
大きな口、その口から巨大な牙が二本出ている。鋭い四本の腕の爪、足も四本。
全身が黒く、姿は狼を思わせる。
「ば、化け物……」
まことを強く抱き締める。
「ははっ……どうしちまったんだ? こんな幻覚を見るなんて」
化け物はゆっくりと近付いて来る。涎を垂れ流しながら
『ガアアアアアア!』
突進する化け物、真っ直ぐ俺達二人を捕らえていた。
口を開け放ち、涎を流し、食べる気なのは明確だ。
「これで……まことのところへ行けるかな?」
瞼を閉じ、すぐそこに来るソレを待った。
時間が異様に長く感じる。これが死ぬ覚悟をした人間の感覚なのだろうか?
幾度と待てど、何も感じなかった。
時間を長く感じるわけじゃなく、本当に長い。
恐る恐る、瞳を開く。
「大丈夫ですか?」
「え?」
理解する様に努力した、目の前に人がいるのだ。
紅く長い髪、紅い瞳、黒いスーツを羽織った男が、化け物を消し去っていた。
「な、なんだこれ……」
「そこを動かないで下さいね?」
そう言うと謎の男は通路の奥へと走りさって行った。
謎だった。
あの化け物、あの男一体何なんだ。
だが、そんな考え今はどうでもいい。俺の悲しみが涙と共に流れて行く。漏れる嗚咽。
ようやく、彼女を抱き締めて、泣ける時間ができたのだから、何も考えなくていい。
どれだけの時間が過ぎただろうか、涙は枯れ、ただ冷たい彼女を眺めるしかなかった。
理解したくない、彼女が……この先の言葉をグッと飲み込む。
しばらくして視界にあいつが現れた。
「貴方の名前は? ……おっと失礼、まずは私から名乗らせてもらいますね、私はルベス、ヘルズゲートの門番です」
「ヘルズ……ゲート?」
「はい、簡単に言うと、地獄の門ですよ」
地獄? さっきのあの化け物は地獄の鬼か? この問い掛けをルベスという奴に渡す。
「ん~、当たらずも遠からずですね、奴等は地獄の住人です」
「地獄の住人?」
「はい、向こう側の生物です。奴等はヘルズゲートに亀裂が出来、その亀裂からこちら側へと出て来てしまったのです」
途方もない話しだったが、俺は信じた。あの化け物をこの目に見た事もあるが、この男は異端な存在だと、本能が言うのだ。
「どうして亀裂が出来たんだ?」
「それは……そこにいる彼女のせいなのです」
え? まことのせいだと?
こいつは何を言っているんだ。
俺はルベスを睨み付ける。
そんな訳が無い、デタラメを言うなと、その事で頭の中がいっぱいだった。
ルベスは言いにくそうに理由を語る。
「この人間界には異形の力を持つ人間が数少なくいます。たしかこちらの言葉で、超能力と言いますね、つまりそこにいる彼女は、地獄への道を開く能力があったと言う事です。……まぁ彼女は気付いてはいませんでしたが」
「まことが超能力者だと言うのかよ、あいつはどこにでもいる普通の女の子だ!」
激しく咆哮した。
「貴方が否定しても事実は何も変わりません。なぜ彼女がこの力を持っているのかは分かりません。ですが、こんな力を持つ人間はこちら側の世界を探せばいくらでも出て来ますよ?」
何かを言い返さなければ。
だけど、俺はまことから出たあの光を見てしまっている。
彼女の名前を口にしながら愛しく髪を撫でた。
いつもなら恥ずかしがって、顔を赤くするのに、何も反応を示さない。
「彼女は罪を犯しました」
「罪……だと?」
「はい、この世界と向こうの世界は干渉してはならない。……これは絶対のルールなのです。だから私は彼女には罰を与える為にその遺体と魂を向こう側へと運びます。幽閉し、永遠に地獄世界に封じます」
「な! そんな……だって……知らなかったんだ! まことは何も知らなかったんだ!」
激しい感情を奴にぶつける。
まことを愛していた分だけその感情は大きい。だが無情にも現在、まことは冷たくなるばかりだった。
「知らなかったとは言え、罪は罪なのです」
愕然とする俺は力が抜けていった。体に力が入らず、ダラリと腕が地面に落ちる。
何も悪くない、まことは悪いわけない。
その言葉を繰り返していた。
「お願いだ、まことを連れて行かないでくれ…………助けてくれ……頼む、頼むよ……」
「…………これは罪ですよ? 罰を与えなければなりません」
「な、ならその罪、俺が背負う! ……だから!」
ルベスは困った顔をした。こんな異例のことが続いてしまって、どうするかを考えているみたいだ。
しばらく考え込んでいた。
そして、ようやく言葉を奏でる。
「…………分かりました、なら、こうしましょう。亀裂が入ってしまったこのゲートを閉じなければなりません。ですがそれには大量の時間が掛かります……なのでその間、この門から出て来ようとする地獄の住人を止めてください」
「……つまり、ゲートの門番になれって事か?」
「そうです、奴等は人間を好んで食べます。だからこちらへとやって来てしまったらこの世界の秩序が狂います」
「……やってやるさ、まことが助かるなら、俺はやる、やってやる!」
そう激しく気持ちを染み込ませた言葉をルベスに送った。
その瞬間、ルベスの顔が厳しくなる。
「いいですか、もしかしたらこれは死ぬ恐れのあるものになりますよ? その恐怖は想像を絶するでしょう、それでもやりますか?」
答えはもう決まっていた。
真っ直ぐルベスを見つめる。彼女の為なら俺はどうなっても良い、まことは俺のすべてだから。
「……分かりました、あなたはこれよりヘルズゲートの門番です」
これで、まことは助かる。
「ああ、じゃあ、まことを助けてくれ!」
「いいでしょう。まだ死亡して時間はそれ程経ってはいない。魂は私が捕らえています、それを戻し生命力を注ぎ込めば蘇るでしょう。時間が経ち過ぎていたらいくら私でも助けられなかった…………ただし、彼女の罪は重い。そこで彼女の最愛の人の記憶を封印させてもらいます」
「な……に?」
最愛の人の記憶を封印?
「あなたに関する全ての記憶と、それに触れるもの達、つまり周囲の人々の記憶も封印します。二人が触れ合った事に関する記憶を全て、それでも貴方はやりますか?」
彼女は……俺を忘れる?
彼女の声が好きだった。
彼女の笑顔に心が安らかになった。
彼女は俺の全てだった。
なら……。
生きていてくれるだけで俺は嬉しい。
「分かった、……お願いする」
「……分かりました」
今日、キミの幼馴染みの佐波峻は死んだ。
これからは他人として、別々の道を歩くんだ。
さようなら、まこと。
それからはルベスから貸し出された力、『結晶の碧』と『紅の帰還』を使い、奴等を帰し続けた。
今、キミは何をしているだろう?
今、幸せなのかな?
祈っているんだ、幸せであって欲しいと。
死と隣り合わせの恐怖は想像を絶した。
でも、キミを思い出す度にその恐怖は消えていったよ。
数多の闇はこの身を蝕む。
数多の影はこの身を食す。
数多の光は闇と影を創造する。
幾日の月日が流れ、暗い闇だけが俺を支配した。
いつ来るか分からない死に怯えながら。
そんな中、あの日、
キミは現れた。
どんな偶然だったろうか、成長した彼女を見たんだ。
やはり俺の事は覚えてなかった、それでも構わない。また会えたこと、会話出来たことこそ奇跡だったのだから。
俺を忘れていてもいい、記憶がないのならばもう一度新しい記憶を作ればいい、幼馴染みではなくクラスメイトの彼女を愛そうと思ったんだ。
時間が動き出した気がした……。
さぁ、もう目覚めたら、まこちゃん?
本当の世界が再生した。
長い長い旅だった気がする。私は天井を見上げていた、瞼が重い。
全部、思い出した。
起き上がり、彼のベットを眺めた。相変わらず眠ったままの彼。
「バカ! バカ、バカ、バカ、バカ……」
幾度と言う。
私の為に、彼を残酷な運命に巻き込んでしまった。
この感情が頬を濡らす。
「うっ……ううっ……」
涙が溢れる。
悲しくて、悔しくて、申し訳なくて……色んな感情が私を縛り付ける。
その時だ、その行為はごく自然にだった。
生還する意識。
私に安堵の感情が生まれる。
「……泣き顔は……似合わないよ?」
「ううっ……だって……私……」
「笑ってよ、まこちゃん」
「うう……“しゅー”!」
起き上がっている彼に飛び付いた。両腕で彼を抱き締める。
これでもかって程に。
本当に目の前の彼が目覚めているのか確認したくて。
大好きな彼をもう離したくなくて。
「その呼び方は……」
「しゅー……私っ」
言いたい事が沢山あった。
謝りたい事が沢山あった。
でも、今は……。
二人の唇が重なる。
分かれていた私の道は今、一つに。
重なる世界。
それた道は一つになっていた。