最悪の始まり
以前別シリーズ同タイトルで投稿した物と同じですが、そちらの連載再開の見込みがつかないため、こちらにまとめさせて頂きました。
ひゃくものがたり過去編となります。
広い、本当にだだっ広い空間で、男はジッと石像のように佇んでいた。
一見すると城の広場のような造りのその空間だが、上を向けば空は見えず、格子状に組まれた木の天井が広がっている。そしてこの規模の建造物には到底ありえないが、窓が一つもなかった。
地下である。
さらに言うなら、坪ではなくヘクタールで表すべきこのだだっ広い空間には、驚くべきことに、天井を、さらには言うなら天井のさらに上の地面を支えるための柱が見当たらない。
それだけでも十分に異様な光景なのだが、その男の雰囲気と言うのが、また異様だった。
袴を身に着けたその男は、三十代をとうに過ぎていながら、包み込む空気は剃刀よりも鋭く、さながら太刀のようだ。特に厳つい造りの顔や剣呑な光を湛える瞳は、堅気であるようには到底思えなかった。
男は少し高く作られた物見台から、空間全体を見渡していた。
その時。
「よ」
と、何とも間の抜けた声音で話しかける者がいた。
「……何だ、丈」
「何だとはご挨拶だねぇ、紅鉄のダンナ。アンタが呼んだんじゃないかい」
そう言って、丈と呼ばれた男は軽快に笑った。
歳はようやく二十の中ごろを超えた辺りか。どこか掴み所のない、紅鉄と呼ばれた厳格な容姿を持つ男とは真逆の、飄々とした空気をまとっている。また服装こそ紅鉄と同じ袴姿だが、適度に着崩しているため二回りも雰囲気は柔らかかった。
その時、紅鉄の鼻孔を焦げ臭い匂いが突いた。
火薬の匂いだ。
「……また表の仕事か」
「ん? おぉよ! また一つ、でっけぇ花火の依頼が入ってな! 今月はこれで三件目だぜ!」
「……フン。くだらん。陰陽師ならば陰陽師らしく妖怪退治でもしておればよいものを」
「そうは言うがねぇ。この時分、陰陽師だけで食ってけるのは一部の名家だけだぜ?」
言って、丈は肩を竦めた。
陰陽師。
丈が気軽に口にしたその名を冠する者たちは、江戸から明治に時代が移り変わると同時にほぼ全てが衰退していった。本来は占いによって暦を作る職種だった彼らの知識など、海の外から渡ってきた進歩した科学に太刀打ちできるはずもなかった。
しかしそれは表の世界の話。
どんな世界にも表があるのならば裏も存在するように、陰陽師も完全に滅んだわけではなかった。
その異能、その特異性から、古来より秘匿とされてきたごく一部の家は、現代までもその血を絶やすことなく引き継がれてきた。
二人が今いるこの空間も、その異能の力によって数百年前に生み出されたものだ。
紅鉄も、もちろん丈も、その一族の末裔である。
もっとも。
二人の体に流れる血は、今なお続いている一般的な陰陽師の家柄の者たちのそれとは大きくかけ離れている。
かつて、復讐のためにだけ用いられた異能にして異様な力。
数多の太刀を操る異常。
すなわち――八百刀流。
正確には、太刀を操るのは八百刀流の本家である、『瀧宮』紅鉄だけで、分家である『穂波』丈は該当しないのだが。
「……で」
と、軽快に笑っていた丈が少しだけ表情を引き締めた。
「他の面々はどうしたよ」
「何のことだ」
「とぼけなさんなって。……『大峰』のにーちゃんに『兼山』のオッサン、それに『隈武』のババァだ」
「……………………」
「それによく見りゃ、ダンナんとこの守り神のミオの姐御までいねぇじゃねえか。卯月さんは……ああ、あそこか」
丈が視線を見せた先には、二人が立っているところとはまた別の物見台に立つ妙齢の女性の姿が。
その腕の中には、齢幾月にもなっていないであろう赤子が眠っていた。
「……他の当主共が来ないから、駆り出したのかい?」
「そうだ」
「アンタ、よく今回の儀式を敢行する気になったな」
「……すでに何カ月も前から取り決めは決まっていた。今更変えられん」
そうは言うがなぁ、と。
丈は紅鉄の視線の先にあるものを見た。
「アンタ、よく自分とこのガキに化物殺しをさせようと思うよな」
まだ少年と呼ぶことすら憚れるような、幼い男の子。丈の記憶が正しければ、今年でようやく十歳になったばかりだ。
そして何より、遠目から見ても分かるほど緊張で顔をこわばらせている少年は、この空間にいる誰よりも異常だった。
青髪。
別に染めているわけではない。ただ数年前から、少年の髪は青く変色しだしたのだ。
その原因は、一重に異能の使い過ぎの一言に尽きる。
なぜかは知らないが陰陽師を始め、魔術師や霊媒師など、異能の力を幼い頃から使い込んだ者は、体色が変化する者が多いのだ。現に、紅鉄の瞳は若干だが黄色を帯びているし、丈自身もまた日に焼けているわけでもないのに肌が色黒だった。
だが、あの少年のような若さで、しかもあれほどハッキリと青みが浮かび上がるとは珍しい。
大体、体色の変化はその内に秘められる力によって左右される傾向にある。
それはつまり、あの少年の力とは、とてつもなく強大なものなのではないか?
本家分家問わず、八百刀流の関係者の噂に上がらないことはない。
事実、少年は日頃の鍛錬で年齢に似合わぬ成果を見せつけてきた。
親をも越えようという勢いで成長を遂げるその力。
幻想的とも言える青く美しい髪。
大人たちは期待を込めて『究極の青』と呼ぶ者すらいた。
しかし。
しかしである。
「十歳で当主になるための『太刀打ちの儀』をやらせるたぁ、ちぃっとばかり早すぎねぇか? アンタ、早期引退でも目論んでんのか?」
「……そう言うわけではない。単に、彼奴の力量ならばこの儀式を成功させると踏んだから、やらせただけだ」
「ちっ。親馬鹿だねぇ。他の当主勢がみぃんな反対してドタキャンしてるってのによぉ」
「……………………」
丈の言葉に、紅鉄は答えない。
ただじっと、広場の中央に立つ我が子をじっと見つめていた。
と、そこに一人の家人が駆け寄り、紅鉄の前に膝をついた。
「紅鉄様。準備が整いました」
「うむ」
神妙に頷き、紅鉄は伝令に来た家人を下がらせる。
そして一歩踏み出し、その空間にいるそう多くはない全員に聞こえるような声で宣言した。
「これより、八百刀流『瀧宮』二十四代目当主候補筆頭、瀧宮羽黒による『太刀打ちの儀』を執り行う!」
その瞬間。
少年の目の前に数枚の呪符が出現し、青白く発光し始めた。
光は次第に人型のような何かへと収束していき、少しずつ人外のそれへと姿を変えた。
「……姑獲鳥?」
丈が呟く。
襤褸衣のような死装束に振り乱したボサボサの髪。さらに腐りかけて悪臭を漂わせ赤子を抱くその姿は、妊婦の死体の妖怪――姑獲鳥そのものだった。
「ああ。先月の頭頃に冥界から迷い出たところを発見され、今まで封印しておいたのだ」
「ヒトとしての意思は?」
「ない。アレは完全に我々を食い物としか思っていない魔物だ」
もっとも、と。
紅鉄は吐き捨てるように呟く。
「ヒトとしての意思があろうとなかろうと、関係のないことだ」
「……………………」
「冥界から迷い出たモノは、送り返すのが常。だがどうせならと、今日のために取っておいたのだ」
「……さいですか」
半ば呆れたように嘆息する丈。
紅鉄の妖怪嫌いも、ここまでくれば病気である。
「ん……?」
丈がふと少年と対峙する姑獲鳥に目をやる。一瞬だけ、違和感を覚えた。姑獲鳥の足元――今、影の形がおかしかったような?
「なあ、なんか――」
――あああぁああぁぁあああああぁぁぁあぁあぁぁあぁぁぁあぁぁぁあああぁあっ!!
丈の問いかけを打ち消すように、耳障りな絶叫が空間全体に響き渡る。
そのあまりにも唐突な絶叫に、思わず耳を塞ぐ者もいた。
「な、何だあ!?」
「姑獲鳥が……!?」
悲鳴の発生源は、少年の目の前にいる姑獲鳥。さっきまで覚束ない調子でフラフラとしていたのだが、今は完全に両手を手について慟哭している。
そして肉体が溶けるように、ドロドロと崩れていく。
いや、溶けているだけでなく、まるで土左衛門のように少しずつ膨れ上がっている。
「……おい、紅鉄のダンナ」
「何だ」
「今気付いたんだが、あの姑獲鳥、赤子を抱えてないぞ?」
「……………………」
「赤子、どうした? もしかしたら赤子をとりあげられて発狂してる――」
「いや」
紅鉄がはっきりと首を横に振る。
「最初から、赤子は抱えていなかった」
「……………………」
「赤子を抱えていなかったからこそ、すでに狂ってヒトとしての意思を持っておらぬのだろうと判断した」
「だとしても……あの狂い方は尋常じゃねえ……!」
本当に姑獲鳥なのか?
二人が話している間にも、姑獲鳥の肉体はどんどん腐ったように溶けていった。今ではほとんど人の形をなしておらず、肥大化して巨大な腐肉の塊のようになっている。
いや、辛うじて人の顔と手足は判別できるのだが、どうにも手足の数がおかしい。
丈の目がおかしくなければ、それは八本あるように見えた。
「……八本?」
もう一度見直してみる。
もはや巨大な肉の塊と化した胴体から、太く鋭い爪を生やした脚が八本。さらに顔は恐ろしい憤怒の形相となり、人のそれとは大きくかけ離れている。
その異形に、誰もが自分たちの過ちにようやく気付いた。
あれは、姑獲鳥などではなかった。
その姿は、巨大な鬼の一種――
「牛鬼だ!!」
誰かが叫ぶ。
案外、それは丈自身の声だったかもしれない。
牛の胴体に蜘蛛の脚、そして鬼の顔を持つ妖怪。伝承にもよるが、水辺で屯していると女の姿で現れ、油断しているところを食らうとされている大妖怪である。
はっきり言うと、今この場にいる者で、牛鬼に対処できるほどの力の持ち主など、『瀧宮』と『穂波』の現当主である紅鉄と丈以外いない。
いや、紅鉄の妻にして我流で陰陽術を極めた卯月も本来ならば頭数に入るのだろうが、いま彼女は我が子を抱いて身動きが取れない。
そして当主二人と、例え動けたとしても卯月と牛鬼との距離は、離れすぎている。
それはつまり――
「早く『太刀打ちの儀』を中断させろ! アンタ息子を殺す気か!?」
「だ、だが……! この儀式を中断すれば、失敗とみなされて当主には――」
「んなこと言ってる場合じゃねえだろ! いくらアンタの息子が優秀でも、牛鬼に勝てるわけねえだろ!」
「……………………」
沈黙する紅鉄。
力ある父親としては、すぐに牛鬼の眼前で呆然としている我が子を救うべきなのだろう。しかし、長年当主として『瀧宮』を、八百刀流を率いてきた意志が、それを拒んでいる。
「ああもう! まどろっこしい! オレが出る!」
「待て! 貴様が本気で牛鬼にぶつかれば、余波で彼奴まで……!」
「……クソ……!」
紅鉄の言う通りではあった。
丈が本気で牛鬼に挑めば、そこそこ苦戦はするだろうが間違いなく仕留められる。しかしその場合、近くにいる青髪の少年は間違いなく余波だけで木端微塵になってしまうだろう。
瞬間最大火力では、『穂波』は八百刀流随一なのだから。
「……………………」
その空間が牛鬼の出現により混乱に包まれる中、唯一冷静であり続けた存在があった。
当の牛鬼である。
そもそも人を襲い喰らう妖怪である牛鬼には、捕食者としての理性と常識があった。
つまりは、群れの中で最も弱い者から襲う。
この中で警戒すべきは二人。
だがその二人は遠くの高台にいるためそう簡単には接近されない。
そしてその他、有象無象は捕食の対象である。
特に目の前の青髪の少年。
完全に恐怖の色を瞳に宿し、一歩も動けない状態である。
絶好の獲物である。
だが牛鬼の最初の標的として、少年は選ばなかった。
まだいる。
もっと弱々しく、儚い存在が、まだこの空間に入る。
そして牛鬼はグルリと体の向きを変え――赤子を抱く卯月へと視線を向けた。
「まさか……!? 卯月! 逃げろ!」
最初に反応したのは紅鉄である。
だがしかし、赤子とは言え人一人抱えてすぐに反応できるはずもなく。
牛鬼は巨体に似合わぬ跳躍力で、卯月がいる物見台に飛び乗った。
「……っ!!」
あまりの出来事に身を竦ませる卯月。だがせめて、母として我が子を守ろうと、必死の思いで赤子を抱きしめた。
だがそんなことなどものともせず、むしろ二人とも呑みこんでしまおうかというほどの大口を開け、牛鬼は牙を剥き出しにする。
「やめろ……!」
普段の冷静な紅鉄からは想像もつかない、焦燥に駆られた呟き。
「やめてくれ……!!」
大口を開ける牛鬼が一歩近づく。
そして今まさに卯月と赤子を呑みこもうとした時。
ザシュッ!
牛鬼の首が落ちた。
「は……?」
丈が思わず呆けた声を上げる。
ダクダクと滝のような勢いで流れ出るどす黒い濁流。だがその太い脚は苦しみもがくように暴れている。
ザシュッ!
ザシュザシュッ!!
だがその脚も、小枝のようにすぐに切り落とされた。
卯月がいた物見台がどんどん黒く染まっていく。
そんな中でも、牛鬼の呆れた生命力は尽きることなく、切り落とされた脚も胴体も僅かに痙攣し、落とされた首も悔しそうにカチカチと牙を打ち鳴らしていた。
ザシュザシュザシュッ!!
しかしそれも、一瞬のこと。
牛鬼だったソレは、今やただの細切れの肉片となり変わり、物見台をどす黒く汚していた。
「……………………」
誰しもが言葉を発せずに、沈黙する。
だが卯月の腕の中で抱かれていた赤子だけが、おぎゃあおぎゃあと悲鳴のような泣き声をあげているだけだった。
物見台の牛鬼の姿は消え失せ――代わりに、禍々しい光沢を放つ抜身の太刀を手にした少年が立っていた。
先ほどまで平場の中央で呆然としていたのに、いつの間に……?
その場の全員の脳裏にその言葉が過る。
しかしその程度の疑問など、目の前の悍ましい絵面の前には霞んでいると言えた。
少年は青く幻想的な髪はもちろん、全身にどす黒い返り血を浴びて真っ黒に染まっていた。
全身から滴る黒い血を拭うこともせず、一歩一歩、少年とは対極的に不思議と一滴の返り血も浴びていない卯月と赤子に近寄り、視線を合わせるよう膝を付いた。
「大丈夫だよ、梓」
静かに語りかけ、泣き続ける赤子の頬を伝う涙を拭おうとして――悲しげに手を引っ込めた。
少年の手の平もまた、どす黒い血で染まっていた。この手で触れては、幼子特有の柔肌が汚れてしまう。血を拭おうにも、すでに身に付けている物は余す所なく返り血を浴びている。
「……大丈夫。大丈夫だから、泣くな。な?」
諦めて手を引っ込め、全身黒い返り血を浴びながら微笑む少年。
その瞳は深海の底を思わせるように、この上なく深い黒に淀んでいた。
「兄ちゃんが、守ってやるからな」
その異様な姿に誰もが――肉親すらも、畏怖の念を心に宿した。