最悪の黒-065_本名と二つ名
ジルヴァレを発って一か月が過ぎようとしていた。
一行にB+ランク傭兵となったバーンズを加えたハクロは、道中の集落や村で発令されていた簡単な依頼を引き受けながら大陸有数の穀倉地帯ルキルの街へと向かい、馬車を進めていた。
「流石にこの辺まで来ると農地ばっかりだな」
タマの手綱を握りながら御者席に座ったバーンズが周囲を見渡すと、街道を除く360度全方位に向かって農地が広がっている。
作物としては畑地六割、水田三割、残りが休耕のための牧草が植わっている。ハクロのいた世界の地方の農地では近年耕作放棄地が問題になっていたが、この周辺はそういった心配事とは無縁に感じた。
農夫が職人ギルドの所属で、そのギルドも実質的に王家の管轄下にあるため農業もまた政策の一つという枠組みのおかげなのだろう。正しく機能し経済が回るならば絶対王政も健全な組織の形態の一つという稀有な事例だ。
「んー、今日には街に着きますかねー。流石にそろそろお尻と背中が痛いです……」
と、荷台で学術書を読んでいたリリィが顔を上げ、うんと背伸びをする。
気持ちは分かるけどな、とハクロも思わず頷いた。
「まさか馬車で街から5日先の商人宿まで満室とは思わなかったな」
収穫までまだ2、3週間ほどもあるというのに、ルキルの穀倉地帯に入った途端、道中の集落や中継地点の宿という宿は農夫と商人、さらに魔獣討伐依頼のために集まった傭兵でどこも満室だった。
唯一ルキルの鹿狩りに参加したことがあるバーンズは「この時期はどこもこんなもんだよ」と苦笑しながらさっさと野営準備を始めたためハクロとリリィもそれに倣ったが、流石に一度も宿をとれないとは思わなかった。それまでにも野営が続いており、ようやく宿に泊まれるという気持ちが湧き出た状態で満室続きは精神的にも疲労が蓄積してしまう。
「つーかこれ、ルキルの宿も埋まってんじゃねえの?」
「まさか街に着いても野営ですか!?」
「いや、その辺は大丈夫だ」
荷台を振り返り、なんとも頼もしい笑顔でバーンズが頷く。
「ルキルには『太陽の旅団』の拠点があるんだ。ルキルは鹿狩りの時期じゃなくても依頼が多いから、隊員が駐在できるように街外れの一軒家を借りてんだよ。収穫が終わるまではそこで寝泊まりできるぞ」
「さすがバーンズさん! できた後輩で先輩は嬉しいです!」
「いやあ、これは俺よりも姫様の采配のおかげだろうなあ」
「さすが姫様ですね!」
ぶんぶんと駄犬が二匹尻尾を振り回す。バーンズはともかくリリィはすっかりルネに懐いてしまったようだ。初めて出遭った時はあれほど警戒していたというのに。
「そういや『太陽の旅団』から鹿狩りに参加するのは俺たちだけか?」
「いや、あと一人現地集合の奴がいるよ。Bランクのタズウェルってやつ。あと討伐に参加するわけじゃないけど、ルキルには技師のティルダ・バーンズってのが駐在してるはずだ」
「ああ、『技師の方のバーンズ』か」
ギルド証のメッセージ機能を使った日々の報告や雑多な他愛ないやり取りでたまに、というかしょっちゅう見かける「バーンズ_技師の方」という名前表記の女性技師がルキルにいるらしい。傭兵の方のバーンズと合わせてメッセージのやり取りのノリが軽いのでよく覚えている。
タズウェルというBランク傭兵も記憶にあった。言葉数こそ少ないが、レスポンスが異様に早い印象がある。
「……そう言えば、一個気になってたんですが」
と、リリィが思い出したようにバーンズを見る。
「傭兵ギルドではAランクに昇格すると二つ名がもらえて、基本的にそれを自分の名前のように使ってますよね」
「ああ、そうだな」
これまで出会ったAランク及びB+ランクは〝山猫〟、カナル支部長の〝蔦の魔女〟、ギルド長〝獅吼〟、そして〝爆劫〟だ。恐らくはギルド長補佐のサンセットも本名ではないだろう。
唯一の例外はルネだが、ロアー曰く傭兵としての正式な名は〝鉄腕姫〟・ツルギだそうだ。彼女は仮にも王女であるるため本名を合わせて名乗っているようだった。
「ということは当然ながら僧侶ギルドに登録されてる本名も別にあるわけですよね?」
「そりゃそうだろうな」
「バーンズさんの本名って何なんですか?」
「…………」
リリィと同じく視線を御者席のバーンズに向けると、彼は頑なに振り向かないようじっと前を見ていた。手綱を握る者としてはそれがあるべき姿なのだが、穀倉地帯を伸びる真っすぐな街道は知能の高い竜馬は指示なしでも勝手に進み、向こうからくる馬車も勝手に避けてくれる。実際、ついさっきまでバーンズもちょいちょい振り返りながら会話に混ざっていた。
「あ、もしかしてAランクの人たちって本名で呼ばれるの失礼に当たるとか!?」
「いや、それはないだろう」
直接の面識はないが「太陽の旅団」に所属しているAランク傭兵に〝夜帳の裁断者〟・レイドというエルフの女魔術師がいる。彼女はメッセージ上の表記は本名の「イルザ・レイド」となっており、周囲も彼女のことはイルザと呼んでいる。そこからも分かる通り二つ名を積極的に名乗るかどうかは本人の裁量によるところのはずだ。
「じゃあ別に踏み込んでもいいですね! バーンズさんの本名は何ですか?」
「えっと、いや、リリィ先輩。折角俺はかっけー二つ名もらえたんだし、そっちを積極的に押し出していきたいというか……」
「ええー。そこまで隠されちゃうと逆に気になりますねー!」
「か、勘弁してくれ……!」
「ちなみに俺の家名はタツミヤという。勘当されてっから元と付くがな」
「ハクロさん!?」
思わずバーンズが振り返ると、荷台に腰かけるハクロがにやにやと軽薄な笑みを浮かべていた。別に秘密にしていたわけではないが聞かれなかったため名乗ってこなかった本名を自ら晒したことで、バーンズの退路が一つ塞がれた。
それを横で聞いたリリィも「ナイスです!」と尻尾を振り回す。
「さあさあバーンズさん! 本名お聞かせ願えますね? ふっふっふ、これは先輩命令ですよ!」
「リリィ先輩!?」
煽るように体を揺らしながらバーンズに詰め寄るリリィ。顔面蒼白から紅潮と百面相を描きながらバーンズは狼狽えるが、御者席に逃げ場などない。
そしてバーンズは諦めたのか、毛深い耳まで真っ赤にさせながら消え入るような声でぽつりと呟いた。
「……――スっす」
「はい?」
「……ア……アリス・ウォーカーっす……」
「「…………」」
思わず顔を見合わせたが、すぐにリリィはにんまりと破顔した。
「可愛い名前じゃないですか、アリスさん!」
「あああああー! そう言われるのが嫌だから二つ名を名乗ってたのに!!」
旅の一行では先輩であり、フロア村では小さな子供たちの世話を任されていたリリィがバーンズ、もといアリスの頭を撫でようと手を伸ばす。流石にそれは気恥ずかしいらしく、御者席で手綱を握りながら回避しようと身を傾ける。
ドタドタと騒がしくなった荷台を何事かとタマが歩みを進めながらもチラリと振り返ったのを見て、ハクロも思わず小さく噴き出してしまった。





