最悪の黒-064_バーンズ・ウォーカー
翌日。
先日まで閑散としていたジルヴァレの港は朝から喧騒で満ち始めていた。長すぎる冬によって摩耗した家屋や施設、漁船の修復の音が響き渡る。溶解した氷雪の水で足元がぬかるんでいるが、2か月ぶりに戻ってきた住人たちは所狭しと駆け回って各々の作業に奔走していた。
「改めて助かりました」
ここ数日で随分見慣れたオルティスの几帳面な角度の礼にハクロは軽く手を挙げ、リリィも頭を下げる。
そして彼の横には薄い灰色の瞳の壮年エルフ医術師ミルザも見送りに来ていた。
「リリィ、世話になったな」
「い、いいえ! 私なんかが役立ったなら良かったです」
「……はは。君、本当にリリアーヌ先生の弟子なのか? 随分と謙虚だな」
「え!? ミルザ先生、師匠をご存じなんですか!?」
「俺くらいの年代のエルフでリリアーヌ先生を知らん医薬ギルド関係者はいないだろうよ」
と、今更ながらに知らされた事実にリリィは目をぱちぱちと瞬かせる。その反応が面白かったのか、ミルザは「ククク」と喉の奥で笑った。
「俺は医術師だから直接教えを乞うたわけじゃないが、俺の同期の薬師がリリアーヌ先生の弟子だった。指導は厳しいくせに生活態度がだらしないって毎日のように愚痴をこぼしていたよ」
「…………」
どう返していいか分からない己の師の過去に、リリィは微妙な顔を浮かべた。ミルザがまだ若い時分ということは100年単位で昔の話だと思われるが、その頃からリリアーヌはリリアーヌだったらしい。
その様子を横で眺めながら、ハクロは懐から懐中時計を取り出した。
時刻はもうそろそろ出発予定時刻となるが、まだバーンズが到着していなかった。
「なんだあいつ、寝坊か?」
「いえ、彼なら少し手続き中です」
オルティスが首を横に振る。
「先ほど確認した時はもう終わるとのことでしたので、すぐに来るでしょう」
「何してんだ?」
「宿のチェックアウトですかね?」
「それなら鍵返してサイン一つだろ」
リリィを顔を見合わせていると、ギルド宿の扉が開いた。
「すまん! 待たせた!」
中から焦げ茶色の髪の獣人の青年が顔を出す。右肩にぶら下げられる程度の鞄を担いだバーンズだった。
「来たな。何してたんだ」
「悪い悪い、今朝になってギルドから連絡が来てさ。考え直してくれってよ」
「考え直す?」
意図が読めずに言葉をそのまま口にし聞き返すと、バーンズは昨日とは打って変わって憑き物が取れたような晴れやかな表情でこう続けた。
「俺、Aランクから降りたわ!」
「…………」
しばし、沈黙。
そしてバーンズの言葉をゆっくり噛み砕き、嚥下し――
「はあ!?」
ハクロは思わず目を見開いた。
横で聞いていたリリィもあんぐりと開いた口がふさがらず、何となく残っていたミルザも意味が分からずぎゅっと眉間にしわを寄せている。唯一オルティスだけは事前に話を聞いていたのか苦笑を浮かべていた。
「Aランクから降りたって、まさか魔導具の改造がそこまで大事になったのか!?」
「いや、降格は自分の意思だ。昨夜のうちにギルドの通信魔術で王都本部に申請叩きつけたんだが、今朝になってごちゃごちゃ言ってきてよ」
「そりゃごちゃごちゃ言うでしょうよ!? なんで自分から!?」
リリィも耳をぴんと立てながら驚いたように訊ねる。しかし当の本人は「いやあ」と何でもないように頭を掻いた。
「前々から思ってたんだ。俺ってAランクの中じゃいまいちパッとしねえなって。今回の依頼で改めて実力不足を感じたから、いっそランク落として修行し直そうかなって」
「簡単に言うが、それなら別にAランクのままでも良いだろう」
一般的な傭兵の最終目標ランクであるBランクは、維持するだけでも年間依頼達成数のノルマが課せられる。維持できずにCランクに落とされると依頼人からの信用を失い、名指しの仕事も減る原因となる。それに嫌気が差して無法の道に走ったのが「明星の蠍」等の賞金首なわけだが、逆にAランクにまで昇り詰めるとノルマはなくなり、望めば生涯そのランクに留まることも可能だ。
ただしAランクには相応の立ち居振る舞いと依頼選びが求められ、さらに高ランク魔物の発生等の有事の際はどこにいても命令一つで大陸の端から端まで移動してでも対処する義務が生まれる。
その義務が何らかの理由――例えば、怪我や加齢により果たせなくなった場合、多くのAランク傭兵は自らその地位を退き、傭兵として引退するか、B+ランクと呼ばれる特殊ランクで後進育成の任に就く。
だがバーンズが口にした修行という言葉をそのまま鵜呑みにするならば、別にAランクのままでも構わないはずだ。
「つーか、B+ランクからAランクに戻れるのか?」
「……規約上はそういった規制はありませんが、前例はありませんね」
と、恐らくは昨日から手続きを手伝わされたのであろうオルティスが溜息交じりに言葉を挟む。
「別に前例がなくても構わねーよ。どうしても上がれせられないってんならそれでもいいし、チャンスがあるなら、前例がない方が燃えるだろ! だって俺たち、海の外を目指すなんて前代未聞の目標を掲げる『太陽の旅団』だぜ?」
「…………」
そうだった、と思わずハクロは肩を竦める。
そもそもこいつらは、そしてハクロ自身も含め、ルネの「海の向こうを統治する」という前代未聞かつ荒唐無稽な理念と野望を聞いてなお笑わず、「面白そうだ」とその横に立つ決意をした馬鹿野郎たちだ。
史上二番目の早さでAランクに到達した若き傭兵が自らランクを落とし、再びAランクを目指すくらいの破天荒加減でちょうど良いのかもしれない。
「……ルネにはちゃんと報告したんだろうな」
「おう! 流石にちょっと驚かれたけど、きちんと話したら背中を押してくれたぜ! 今頃は王都でギルド長室の扉を蹴破って申請書叩きつけてるところじゃねえの?」
「はっはー。あの姫様を驚かせるだけじゃなく、パシりに使わせるとはふてぇ野郎だぜ」
「え、あ、そうか!? これって不敬罪になったりすんのかな!?」
「あの姫様がそんなこと気にするかね」
「むしろ嬉々としてギルド長室を襲撃しに行きそうですね……」
「お、あんたも言うじゃん!」
思わずといった風にバーンズが笑い、それにハクロも釣られて笑みを浮かべる。
「つーわけで、俺はしばらくあんたのランク上げの旅に着いていきながら修行しようと思うんだが、構わないか?」
「ああ。ランク落としたとはいえB+ランクが同行してくれるなら受けられる依頼の幅も広がるからな。願ったりかなったりだ」
「おう、じゃんじゃん俺を連れ回してくれ、ハクロさん!」
と、急に敬称をつけた呼び名に「ん?」と首をひねる。
「あんたの方が歳もランクも上のはずだろ。楽に呼んでくれて構わないんだが」
「さっきも言ったろ。実力不足を感じたって」
バーンズは苦笑し、右手を握りしめる。
「Aランクでももっと上の位階の連中なら今回の依頼、もっと早くケリをつけられたはずなんだ。けど俺はズルズルと2か月もかかっちまった上に、決定的な作戦立案も出来なかった。確かにハクロさんはCランクで年下かもしれないが、状況把握能力、発想力、それに単身でアイスサーペントに立ち向かう胆力は俺なんかと比べ物にならねえ。だから俺はあんたから色々と学びたいと思ってる。敬うのは当然さ」
「…………」
「なるほど、つまりハクロさんに弟子入りしたいってことですね!」
呆気に取られて反応が遅れたハクロに代わり、何故かリリィが誇らしげに胸を張った。
「本当ならB+ランクは後進育成しなきゃいけない立場だから、ギルドのメンツもあるし表立って師事はできねーけどな」
「ふふん、いいでしょう!」
「おい」
「ただし旅の同行人としては私の方が先輩ですからね! 私のこともちょっとは敬ってくださいね!」
「なんでお前が敬われるんだ」
「了解っす! リリィ先輩!」
「お前もお前でなんで素直に敬うんだ」
「いや、俺も一応狼人だからな。なんつーか、序列意識が高いっつーか。先住の人を立てる方が居心地がいいんだよな」
「はわわ、ハクロさんハクロさん! 先輩ですってよ先輩! 私、初めて先輩って呼ばれました!」
「リリィ先輩、荷物馬車に積ませてくれ! その薬箱重いだろ?」
「はわわわわわ! 見てくださいハクロさん! 私の後輩が私の荷物を持ってくれましたよ!」
「…………。そうか、よかったな」
ぶんぶんと尻尾を振りながらキラキラの笑みを浮かべるリリィと、目上の者を立てることで何故か自分まで意気高揚し尻尾を振り回すバーンズ。
なんだか駄犬がもう一匹増えたような感覚に襲われ、ハクロは深い深い溜息と共に空を見上げる。
遅い夏が訪れたジルヴァレの上空は鬱陶しいほど晴れ渡り、雲一つない晴天が広がっていた。





