最悪の黒-060_観察
日が完全に落ちたジルヴァレ沖の氷上をハクロは一人駆けていた。
その速度は人の体構造で出せる限界を軽く超え、馬などの四つ足動物すら追い越してしまいそうだった。
身体強化による速度上昇。この世界においても傭兵を始めとした戦闘職では広く普及している魔術の一つだが、それを構成する術式原理は大きくかけ離れている。
「この世界の魔術は燃費効率が悪いんだよな」
氷上の強風を全身で感じながら思わず独白する。
ハクロの生まれた世界とは異なり、この世界の魔力濃度は異様なほど濃い。それはこの世界に渡ったハクロが直後に体調を崩しぶっ倒れたことからも分かるが、その魔力濃度のせいか、科学と見まごうばかりに発展した魔術の割に消費効率という点においては格段に劣っているように感じた。
魔力資源の限られた元居た世界と、魔力が湯水よりもありふれたこの世界とではその在り方や発展の仕方も異なるため一概に比べることはできないだろうが、ハクロからすればもっと効率よく使えばいいだろうにと思うこともある。
身体強化もその一つだ。この世界の術式で現在の速度を維持しようとすれば30分もすれば全身の魔力回路がオーバーヒートしてしまうため休憩を挟む必要があるだろうが、ハクロの術式であれば飲食睡眠なしで2日は休みなく走ることができるだろう。
もっとも、低燃費かつ最高効率の魔術がこの世界でも最適かと言われれば、それはまた別の話である。突発魔群侵攻の際にハクロも体感したことだが、ハクロの血統術式による魔力吸収は相手の魔力量が多すぎて一瞬で制御許容量をオーバーしてしまう。
そもそも魔力とは何か?
世界が変わればそのシステムも大きく変わり、また同じ世界にあっても扱う者によって独自の理論に基づいて術式を構築している場合もあるため、面白味のない回答としては「人それぞれ」である。
ハクロの血統術式においては「魔力とは、魂と呼ばれる存在根源が生命活動の維持の際に発する余剰エネルギー」と定義づけられており、ハクロもその考えを踏襲している。魔力を扱う才がない者、もしくは魔力その物を全く保有しない者が特に問題なく寿命を全うできるのは、魔力とはそもそも生きる上では全くの不要なエネルギーである、という考えだ。
そして魔力という余剰エネルギーをどれだけ保持できるかというのは、当然ながら個人差がある。魔力の生成速度がどれだけ早くても、それを保持できる「器」が小さければ扱える魔力量としては微量なものとなってしまう。
その「器」は基本的に生まれつき決まってはいるが、訓練や周辺環境によってはある程度広げることができる。稀に生成される魔力に合わせてどんどん「器」が肥大化していく魔力増複症と呼ばれる現象もあるらしいが、大抵は幼くして肉体が限界を迎えて死に至るため実質机上の空論である。
ともかく。
本来、魔力は「器」を満たしたら後はこぼれるだけだ。
しかしこの世界に来てから、ハクロはどうにも己の魔力に感じる違和感を拭えずにいた。
「やっぱり魔力増えてるよな……」
最初に気付いたのはカナル到着前夜、商人ギルド管理の宿でのことだった。あの時も5%ほどという誤差というには少々疑念がある程度の魔力増加を感じたのだが、あれからもうすぐ2か月が経ち、やはり気のせいではなさそうだと確信した。
元居た世界と比べて約10%程だろうか。確実に魔力が増加している。
「考えられる点としては、この世界の魔力濃度か」
「器」を満たした後の魔力はこぼれるだけ――しかしこぼれるはずの外界が魔力で満たされていた場合はどうなるか?
当然ながら、魔力はこぼれることもできずに器にたまり続ける。
そしてそれに対応しようとして、ハクロの魂は「器」を大きくしようと変質し始めている、というのが仮説だった。
この世界の人々を観察する限り溢れ出た魔力は滞りなく大気へと混ざり合っていたが、ハクロの場合は自身が異物であるためそもそもの原理が異なると考えた方がいい。
「今はまだいい。元々俺の魔力生成速度はそこまでじゃない。だがこの先数年、魔力を大量に含んだこの世界の飯を食って、魔力で満ち満ちている世界で生きていくうちに生成速度が上がった場合、『器』の拡張速度に追い付いたらどこかで崩壊する」
いや、それ以前にハクロの肉体の方が限界を迎えて先に朽ち果てる可能性すらある。
「流石にそれは困るなあ」
と、自分の体に起きている異変について他人事のようにぼやく。
「まあ、溜まり続けるなら発散すりゃいいだけなんだがな」
幸い、元居た世界とは異なりこの世界では魔術はありふれたものであり、秘されていない。
さらに所属組織からは派手に暴れて昇進しろと命じられている。
消費を躊躇う要素など微塵もない。
「仕方ない仕方ない。これは目的達成のため、俺自身の命を守るための仕方がない行動だ。それに上役の命令でもあるんだ、うん、仕方ないな!」
言ってハクロは軽薄に笑い――昼間、マウロが氷上にマークした危険地帯に足を踏み入れた。
「――水陣《揚清激濁》!!」
体内の魔力を練り上げ術式を起動する。
本来は四振りの特殊な武具を配置し陣を形成することで最大威力に到達するのだが、今回はそもそも魔力消費が目的である。
あえて非効率にぶちまけるように乱暴に発動すると氷上の赤い印に不安定な術式が奔る。そこにハクロは魔力を流し込めるだけ流すと術が成り、氷を破砕する勢いの大瀑布が発生した。
どごん!!
「はっはー! 氷が割れる音じゃねえな!」
笑いながら、挑発するように次々に印目掛けて術式を走らせる。
一発だけでは発散というには心許ない。景気よく複数の術を同時に発動させた。
『オオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!』
幾度か繰り返しているうちに、ようやくその魔物が姿を現した。
派手に暴れたためハクロがどこにいるか掴み損ねたのが出現に時間がかかったようだが、それでもハクロの立ち位置から最も近い穴から顔を出した。
「やっぱ実物はでけえな!」
目の前に聳えるように鎌首をもたげたアイスサーペントは巨木の幹のように太く、その頭の位置は見上げるのも辛いほど高い位置にあった。これでまだ氷の下に体が半分以上隠れているというのだから迷惑な話だ。
『オオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!』
「はっ、呼吸器官もないくせにどうやって吠えてんだ? 魔力で咆哮を再現してるとか? いやそもそも蛇が吠えるな!」
サイズに目をつぶれば見た目は薄い水色の鱗で覆われた蛇そのものだが、口元は肉食獣のような牙がずらりと並んでいる。蛇の牙と言えば鋭い二本の犬歯のような毒牙を思い浮かべるが、実際は細かい鋸状の小さい歯が歯茎に沿って密に生えている種の方が多い。アイスサーペントは形状としては後者に近いが、やはりそもそも蛇に似ているだけで生き物ですらないため攻撃力を優先しているのだろう。
『……オ、オオオオオオオッ!』
「お?」
咆哮の様子が変わった。
警戒のために一旦その場を離れると、アイスサーペントの頭部周辺に魔力が渦巻き氷の礫を形成していた。
「なるほど、これが氷攻撃か。速度は――うおっ!?」
身体強化で動体視力と魔力探知を底上げし、それでようやく躱せるギリギリの速度で氷が斉射された。その巨体で小手先の技も扱えるとは大した魔物だと回避に専念しながら観察を続ける。
「防御面はどうだ? ――抜刀、【キチュウ】」
礫を回避しながら最接近。それと同時に手元に片刃の剣を顕現させてすれ違いざまに斬りつけた。
まずは、特に何もせずそのままで。
キンッ
「かった」
当然のように弾かれたが、まあこれについては予想通りだ。何の変哲もない鉄の剣では傷一つつかないだろうが、今の感触であれば魔力を込めた一撃なら切り裂くこと自体は容易だろう。
だが問題はその巨体だ。
近接戦闘職が攻撃できるのはどうしても氷から生えている胴体部分に限られるだろうが、そこをボコスカ叩いたところで全体としてのダメージはたかが知れている。
巨体はそれその物が武器であると同時に堅牢な砦と同じだ。同じ大きさの剣で人を貫けば即死だろうが、アイスサーペントほどの巨体からすればうっかり指先を針で指した程度の傷にしかならない。
さらに魔物は魔力のみで形成された存在であるため治癒速度が桁違いだ。多少斬りつけたところで損傷修復は一瞬だろう。
「この場所も良くないな」
飛来する氷の礫を躱しながらハクロは「うーん」と唸った。
あらかじめ分かっていたことではあるが、アイスサーペント出現地点の周囲は魔力が溜まりやすい地形になっている。だからこそアイスサーペントが根城として居付いてしまったわけだが、海上ということもあって魔力属性は水、あとは申し訳程度に風に偏りすぎている。
この世界の魔術は大気中に存在する自然魔力を使用するのが一般的だ。人体が内包する魔力を使用する方法が普及していないのは、人体魔力を過剰に使用すると発生源である魂まで消耗してしまい、それが原因で体調不良を起こし、最悪の場合は死に至るとされているからだ。
所謂「魔力切れ」と呼ばれる現象だ。
そういったリスクがこの世界にも存在し、ハクロのいた世界とは違いその辺に魔力が溢れている以上、自然魔力を使う方が無駄なリスクを負わなくて済むという考えなのだろう。
だが勿論、この世界ではそれが原因で使用できる魔術の属性は環境に左右される。
水の魔力が過剰に存在する環境下では当然ながら水属性の魔術の威力は跳ね上がるが、生半可な炎属性魔術は発動すらままならずに打ち消されてしまうだろう。
「人体から生成される魔力なら環境下の魔力と違って制御も容易いんだがなあ」
呟いたところで、そんな理論は大気中の魔力が希薄な世界の出身であるハクロにしか通じない。
実際アイスサーペントと対峙してみて肌で感じたことは、この魔物は確かに驚異的な存在ではあるもののハクロの術式理論を以って魔術を構築すればさほど苦戦もせずに倒せるだろうということだ。
流石にこの様子見段階でゴリ押せるほど易しくはないだろうが、きちんと準備を整えれば問題なく対処できるレベルだ。
「さて、最後の確認だ」
氷の礫は回避しながら手指で陣を形成する。
本来の威力とは比べ物にならないが、それでも初撃でバカスカ術を起動させていた時よりは制御方面を意識する。
「――水陣《揚清激濁》」
言葉に魔力を込め、術を起動。
手指で形成した印から掃射された細い水流はアイスサーペントの顔面に叩きつけられる。
『オオオオオッ!?』
アイスサーペントは多少嫌そうに首を振ったが、大したダメージにはなっていない。しかし確認したいのはその後の反応だ。
一分、二分と回避を続けながら様子を見る。
『オオオオオッ……!?』
「……ははっ」
そして、アイスサーペントが予想通りの反応を見せたところで、ハクロは笑みを浮かべた。
だがそれとほぼ同時に。
「何やってんだお前ぇっ!?」
「おっ?」
もはや作業と化していた氷礫の回避を続けながらの観察に怒号が挟まった。
そして次の瞬間には襟首を掴まれ、ものすごい勢いでアイスサーペントが遠ざかっていく。
「馬鹿じゃねえの馬鹿じゃねえの馬ッ鹿じゃねえの!?」
視界の隅に焦げ茶色の獣の尾が見えた。
「おお、バーンズか」
「あんた何考えてんだ!? こんな暗くて視界不良の中で一人でアイスサーペントと戦うって、自殺願望でもあるのか!?」
「いやあ、悪い悪い。明日からの作戦開始前に一回実物見ておきたくてなあ」
「馬鹿野郎か!? 確認がしたけりゃせめて明るい時に人数揃えろ、いやその前に報告しろ!?」
「人数増やしたらヘイトが分散して観察しにくいじゃねえか。あと一人で行きたいって言ったら絶対止められるだろ?」
「馬鹿野郎だった!?」
「ところでバーンズ」
既にアイスサーペントとの距離はかなり離れた。ハクロは贔屓目に見てタッパがかなりある上にガタイも良い方だ。バーンズはよくこんな大男を担いで走れるなと少々感心する。もちろん身体強化を使っているのだろうが、流石はAクラスだけあってかなりの高精度のようだ。
「なんだ!?」
「魔導具の暴走って、どれくらいまでなら『事故』って扱われると思う?」
「……はあ!?」
突拍子もないハクロの疑念に、バーンズは思わず足を止めた。





