最悪の黒-051_狭い世界
「余は貴様らとは違い、この両の眼球は光を見ることはできぬ。だが代わりに、この世界に溢れる魔力を感じ取ることに長けている」
ハクロとリリィには部屋の隅にあったソファを勧めながら、ルネ本人は執務机の天板の端に行儀悪く腰かけ鎧の脚部を己の足のように組み、傲岸に笑った。
「初めて城の外に出て、そして世界をこの目で『見た』時、確信したよ。この世界は狭い大陸の外、海の外にも続いていると」
「…………」
「それが8歳の時の話だ。その日から、余は海の外を目指すために動き出した」
まず必要と感じたのは学だった。
ルネはこの世界の事を知らなすぎた。
何よりもまず知識が必要だった。
前日まで退屈でしかなかった授業を打って変わって真摯に受け、本来王族が10年かけて受ける課程を僅か2年で修め終わった。後に王城の者たちがこの2年間について、口を揃えて「ツルギ王家有史以来最も平和な2年間」と呼ぶこととなるが、それはともかく。
学を得たら次に必要になるのは、力だった。
2年間の平和で気が緩んでいた王城の警備を抜け出したルネは傭兵ギルドの門扉を叩き、その辺を歩いていた当時まだ昇級し通り名を頂いたばかりだったAランク第玖拾捌位階〝獅吼〟・スヴェトラーノフを攫うように、もしくは脅すように師として仰ぎ、僅か1年でAランク傭兵まで昇り詰めた。
それだけでも十分破天荒、というか異常なのだが、ルネは後進への気遣いも忘れていなかった。
ちょうどルネがAランクとして〝鉄腕姫〟の名を授かった頃合いに、西部で療養していた父王アルベルトが378年の生涯を閉じたのだ。晩年には、遠くから聞こえてくるルネの噂に「余とロクサーヌの娘ならばこうでなくては」と苦笑する程度には快調の兆しを見せていたのだが、やはり一度衰え切ってしまった体が追い付かなかったらしい。
葬儀に出席したルネは父王の亡骸を前に、一つの決断を下す決意を固めた。
緊急的に王座についていた弟王アルバーノの嫡子ドミニクを己の名の元に王位継承権第二位に掲げたのだ。
ルネは先王の一人娘であるし、アルバーノも先王の実の弟とは言え一度は王位継承権を破棄した男だ。当然ながら本来、王位継承権はルネにしか存在しない。
しかしルネ本人が大陸の外、海の向こうを目指すと公言してはばからず、あまつさえ自身が傭兵として大陸中を飛び回っているため城にいる時間の方が少ないという、歴代王家に連なる者たちの中でも頭一つ二つ跳び貫けた問題児である。そんな彼女に本当に王位に就かせてしまって大丈夫なのかと疑念の声が上がるのは至極当然の事であり、ルネ自身もまたそのことを理解していた。
そこで、本人は道半ばで非業の死を遂げるなど髪の毛一本分も考えてはいないが、己に万が一のことがあればドミニクが王位を継ぐよう整え、小うるさいアルバーノ派閥の者たちを黙らせたのだった。
これによりルネより200も年上で息子どころか孫までいる従兄ドミニクからは「お前のせいでこの歳になって王族教育を受ける羽目になった」と渋い顔をされたが、それで気を病むようなルネではない。
そうしてルネはこの10年間、傭兵稼業に身を置きつつ王家としての公務を両立させながら、海の外を目指す準備を進めていたのだ。
「それが余が傭兵大隊を立ち上げた切っ掛けであり、理念である。余はひたすらに、この狭い世界を広くするためだけに生きているのだ!」
カツン、とルネが執務机から飛び降り、鎧のかかとが鳴る。
「なるほどな」
ハクロは頷く。
そして一つ、ハクロの中に憶測が浮かび上がった。
かつてリリアーヌから聞いた種族ごとの「性質」の話だ。そこに大小の違いこそあれど明確な普遍性が存在し、例えばエルフであれば「保守的」であり、例外はない。
だが今目の前にいるエルフの両親の間に生まれたエルフの王女は、一欠片も「保守的」といった概念が当てはまる要素がない。
恐らくだがルネは先祖返りを起こして生まれている。
原因まではハクロが推し量れるところではないが、独裁国家で王家以外は皆等しく平等、貴族という概念もないこの世界のシステムを考えるに、血筋としては相当濃くなっているのだろう。ルネが五体不満足で生まれてきたのもその辺りが関係していそうだ。先王もその妻もエルフにしては若くして逝去したというが、そういった理由もあったのかもしれない。
そしてツルギ王家の起源はドラゴンの賢者だ。
どこをどうしたらドラゴンから先代のエルフに辿り着くのかは一旦置いておくとして、その魂の本質はハクロと同じく人間であったはずだ。
リリアーヌの言うところのエルフの保守的な「性質」が極端に薄い、なんなら存在すらしないのではないかと疑いたくなるようなルネの異常な行動力と冒険心は、どう見ても人間のそれだ。エルフにしては耳が短いというルネの身体的特徴にも合致する。
改めて、ハクロはルネをじっと見つめる。
五千年というあり得ないほど長い時間、安寧と安定、そして不変がもたらされてきた世界。
かつてこの世界に生まれた七人の異世界人により耕され、整えられたとても綺麗で不気味な世界。
そんな世界に突如として生まれ落ちた、人間のように奔放で野心に溢れた王女が、ハクロにはとても好ましく見えた。
当然ながらハクロの目的は変わらない。
だがそれを探す傍らで、この王女がどのような道を切り開き、進み、世界を変えていくのか――興味が湧いた。
「さて」
ルネが笑う。
不敵に、傲岸に、不遜に、人間らしく笑う。
「余については話し終えた。次は貴様の番だ、ハクロCランク傭兵」
「えっと、ハクロさんは元流れ者で――」
と、リリィが代わってルネの問いに答えようとする。しかしルネは自分から聞いておいて興味なさそうに鎧の手の薬指を耳の穴に突っ込みながら「そうではない」とどうでもよさそうに欠伸をした。
「そういう建前を聞いているのではない」
「えっと……」
「それに余は今、ハクロに聞いておる。薬師リリィ、貴様の話は後だ」
言って、ルネは口角をニィっと吊り上げた。
「貴様、異世界人であろう」
それを聞き、ハクロもまた軽薄な笑みを浮かべた。





