最悪の黒-022_異変
毛髪とは、医学的には老廃物を体外へ吐き出すための一器官であるが、そこに別の意味を付与するのが魔術である。
髪は年月を経るごとに伸びる体の一部であり、遺髪というものがあるように肉体が朽ちても長く遺り、そこにはその者の歴史――魔力が蓄積される。
そして髪の手入れと切っても切り離せない入浴という行為もまた、衛生理念以外から見ても存外重要なものである。神事を前に巫女が身を清める禊などが分かりやすいが、垢やフケといった分かりやすい汚れ、つまり穢れや魔といった漠然とした「よくないもの」を洗い流すことで自己を確立させ、自分自身と向き合うことができる。
まあつまり簡単に言うならば、入浴することで血流と一緒に体内の魔力がよく巡るようになり、その流れが掴みやすくなる。
「…………」
共同浴場の湯舟につかり座禅を組み、ハクロは頭の天辺から爪の先まで意識して魔力を循環させた。周囲には他にも何人か利用客がいたが、もれなく野郎の裸になんぞ興味がないため、誰もハクロの丸い耳に気付いた様子はなかった。それ幸いとじっくりと己の体に起きていることを事細かに調べる。
「……なんだか、魔力量増えてねえか?」
湯気と汗でしっとりとする髪をかき上げながらそう独り言ちる。
ハクロの生まれ持った魔力というのは、実はそれほど多いわけではない。元居た世界の一般人と比べるならばもちろん瀑布の如き量ではあるが、それでも突出しているというわけでもない。
それが誤差と呼ぶには釈然としない程度に、増加していた。
とある一説を思い出す。
次空を超え、世界を跨ぐと魔力は増える。
原因は様々考えられるが、その中の一つに挙げられるのが、世界を跨ぎ肉体の再構築が行われた際、世界がそれを「生命の新たな誕生」と誤認し加護を与えるためと言われる。
とは言え、異世界間の渡航や転移の事例症例が少ないため、真偽のほどは不明だ。一応ハクロがいた世界にも某異世界の魔術機関が進出してきているため探れば資料くらいは出てきただろうが、あそこはただでさえきな臭い上に評判が悪いため、あまり接触しないようにしていた。
ともかく。
「世界を跨いだ恩恵にしては、増加量は微々たるもんなんだよなあ」
元のハクロの魔力量を100とするなら、今は105といったところか。消費税程度の増加を世界からの加護というにはいささか地味である。
ならばこの魔力増はどこから来たのかと思案し、真っ先に思い浮かぶのはこの世界の魔力濃度である。
なにせハクロはこの世界に降り立ち、ものの数分で体調不良でぶっ倒れた。
元居た世界の何倍、いや何十何百倍も濃度の濃い、深海の底にいるような魔力濃度。その世界で生産された食料を口にしているのだから、魔力量が多少増加していても不思議ではない。
一つ気になるのは、そこにいるだけで倒れるような世界で今や普通に行動できていることだ。さらにその世界の魔力が凝縮された食料を口にしても、もはやなんともない。
これについては仮説でしかないが、原因は世界に降り立って最初に口にしたリリアーヌの謎の薬膳(?)ではないかと推察する。
あの老エルフは料理の腕前こそ廃棄物級だが、薬学の知識は未だに医薬ギルドが引退させない程度には豊富だ。ハクロの症状を見ただけで理論上のみ存在する魔力酔いと看破できる薬師はそうはいないはずだ。
そこで体内の魔力の巡りを整える謎の物体Xを生成し、ハクロに摂取させたことで、この世界に対して早急な順応ができたのだろう。アレがなければ、今頃まだ診療所のベッドの上で死線を彷徨っていたかもしれない。……アレのせいで別の死線を一日彷徨ったため、いまいち感謝しかねるのも事実だが。
ならばこの微増の魔力が己の身に起こりつつある異変の原因かと言われれば、それもまた違うだろう。それはそれで気になることではあるが、今回の件とは別件だ。
ハクロの体に起きている現象は簡単に言うと、老化の減速だ。
不老とまでは言わないが、恐らくだが元居た世界の五分の一程度になっている。
原因は何だと額に滲んできた汗をぬぐい、思案する。
魔力の如何によって寿命が変動することは魔術というか魔女界隈ではたまに聞く話ではあるが、流石に消費税程度の増で老化がこんなに遅くなるとは思えない。
そして何より情報が少ない。気付いた理由が「髭の生える速度が遅い」じゃ流石に弱すぎる。あっちとこっちを往復して比較すれば原因は分かるだろうが、現状あっちに戻る方法を今使うわけにもいかないため、こっちで徒に思考するしかない。
「……考えられるのは、世界のシステムそのものが違うからか」
この世界において、ハクロは異物である。
異世界から味噌と醤油持ち込まれ、卵の生食が細々と継承されていようが、その事実は変わらない。ハクロは元居た世界のシステムで形作られており、世界を渡り、その世界の物を摂取したとして、その世界のシステムに組変わるわけではない。
そして世界のシステムというものには、当然「時間」という概念が存在する。
「こっちの時間とあっちの時間で、過ぎる速度が違うのか」
まあ今ある判断材料での落としどころとしては、それが限界だろう。
そうだとして不都合というわけではない。
この世界に骨を埋めるつもりはさらさらないが、仮にハクロがあっちの老化速度で80歳の寿命でくたばるとして、単純計算ではこっちでは400歳ということだ。こっちのエルフの寿命が300から400らしいので、この世界への滞在が長期化したとしても悪目立ちすることはなさそうだ。
まあそれくらい長い間この世界に留まった場合、ハクロがこの世界のシステムに組変わる恐れもあるが、それは今考えても仕方がない。
ならば、とついでにもう少し思考する。
仮に老化が五分の一の速度になっているとして、代謝も五分の一になっているのか?
恐らくはなっている物となっていない物があるのだろう。
フロア村を出発して今日で九日目。その間、風呂なしで耐えてきた。これに関しては髭と同じく、五分の一の速度になっているためだと考える。
ならば食事はどうか。
これは正直、よく分からない。朝起きた時、昼を回った時、日が傾いた時、普通に空腹を感じた。排泄も、食った分だけ、飲んだ分だけ出ていく。仮に代謝も五分の一になっているのだとしたら、元の世界換算で三日に一回の食事で問題ところに一日三食きっちり食っている大馬鹿野郎となるが、今のところ不調はない。
「考えられるとしたら、この世界の食い物は俺に大した栄養になっていないのか?」
まあ世界がこれほどの魔力で覆われているのだ。食い物の構成成分の多くを魔力で占められていても不思議ではない。栄養素的に微々たるものであるためハクロの体は食わねば維持できず、そして余剰魔力が少しずつ蓄積されていった結果が消費税程度の魔力増なのだろう。
そう考えれば、意外と腑に落ちる。
「あとはまあ、心臓の鼓動の回数は決まっているって説だが」
これはそもそも眉唾な話であるため、あまり考えなくてもいいだろう。
少なくともハクロの心臓は元居た世界と同じリズムで血液を押し流している。五分の一の速度というわけではない。逆にこの世界から見ると元居た世界では五倍の速度で脈打っていることになるのだが、それで何か不調が発生しているわけではない。
これが全てが五分の一になっていない部分だ。
「まあ何にせよ、タイムリミットが長くなった分には不都合はない」
この世界を転移先に選定したのは、どこぞの全知の神獣のお節介によるものだが、案外これも想定のうちだったのかもしれない。
長居する気はないが、焦る必要もないというのは気が楽だ。
じっくりと風呂に入って己と向き合うことができるのは良いことだ。
「……あとは、お前と話ができればいいんだがな」
そう己の魂の奥底に眠る一振りの刃に語り掛けるが、当然、返事はなかった。





