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こぼればなし  作者: やまやま
壱 こぼればなし
3/165

Sun Smile

時系列:

「ひゃくものがたり」10年前、だいさんわ前後

 初めて彼と会った時から、彼はとてもよく笑う男の子だった。

 それはさながら、太陽のような明るい笑顔だった。

 今でも覚えている。

 厚く黒い雲に覆われた空から、大粒の雨が降ってきたあの日。

 わたくしが、妖怪・濡女子として彼と出会ったあの日。

 偶然通りかかった彼に笑いかけ、太陽のような明るい笑みを返されたあの日。

 ――ああ、この笑顔を、暗く濁らせ曇らせたい。

 そう、心から思ったのだった。



「まあ、入ったら? 濡れっぱなしだと風邪ひくぞ」

「……………………」

 一体どういう教育を受けてきたのだろうか。

 妖怪に取り憑かれたということを理解していないのか、彼はわたくしを家まで案内した。そしてわたくしを無理やり椅子に座らせ、どこから持ってきたのか、可愛らしい動物の柄のタオルでわたくしの髪の毛を拭こうとした。

 と言っても、椅子に座ってもなお彼の方が身長は低いので、全く拭けてはいなかったが。

 いや。

 そもそも、わたくしの髪は濡れていない。

 もともとこういう髪なのだから、無駄なのだ。

「……………………」

 呆れながらも、わたくしは特に抵抗する気も起きずになすがままだった。彼は何度拭いても乾かないわたくしの髪を不思議に見つめながら、それでも笑っていた。

「……………………」

 今のうちに笑っていなさい。

 すぐに、その笑顔を曇らせてあげましょう。

 その時。

 ガチャッと、玄関の方で扉が開く音がした。

「あ、父ちゃんだ!」

 タオルをわたくしに押し付け、彼は小走りで玄関の方へ向かう。

 どうやら父親が帰ってきたようだった。

「父ちゃんおかえり!」

「ああ……ただ今……」

 彼にまとわりつかれながら、どこか疲労した笑みを浮かべている中年の男。

 一応、彼にも笑いかけてみる。

「……………………」

「……?」

 しかし、男には私が見えていないようで、彼を部屋に残して自室と思しき隣室に入っていった。

 不思議そうにわたくしと隣室を見比べる彼。

 説明してやってもよかったが、別にそこまでする義理はないと考え、わたくしは押し黙ることにした。

 別に見えていなくても関係ない。

 わたくしがこの男の子に取り憑いた瞬間から、この家庭の命運は決まったようなものなのだから。

「……………………」

 父親が買ってきた冷えかけのお総菜と、温め直したご飯を食べ終え、彼は再び出かけて行った父親を見送った。

 どうやら夜は夜で別の仕事があるようだ。

 ご苦労なことだ。

「母ちゃんは今、遠くに出張してるんだ」

 明日の宿題と思われる参考書の問題を解きながら、彼はそう口にした。

「いつ戻って来れるかわかんないけどさ。父ちゃん、母ちゃんが帰ってくるまで一生懸命仕事してるんだ!」

「……………………」

 果たしてそうだろうか?

 さっき、父親の部屋を見てきた。

 殺風景なその部屋には、ガラスの砕けた額縁に入った若い男女の写真が飾られていた。

 一体いつの写真なのだろう。

 一体いつから飾っているのだろう。

 そして、いつこの額縁は砕かれたのだろう。

 おそらく、この子の母親はもう帰ってこない。

 彼女が出て行った原因などに興味などないが。

 しかし。

「……………………」

 わたくしは、自然と笑みが零れるのが分かった。

 その笑みが、あの男の子とは対極な笑みであることは、理解していた。



 その日から、家庭は面白いように崩れていった。

 最初はごく簡単なところ……わたくしから発せられる異質な湿度が、家屋の老朽化を進ませていった。

 床が軋み、扉が歪む。

 加えてわたくしがいることで、ジメジメとした空気が家の中に充満する。

 一つ一つは大したことでなくとも、積もり積もれば大きな苛立ちとなる。

 苛立ちが大きくなれば、普段なら普通にできることも上手くいかなくなる。

 目に見えて、父親の酒の量が多くなっていった。

 職場で何かやらかしたのだろう。憂さ晴らしに酒を飲み、酔って息子に手を上げるようになった。

 そして酔いが抜けぬまま次の日の仕事に向かうため、さらに失敗が重なる。

 全ては順調。

 これまで取り憑いてきた家庭と同じだ。

 もうこの父親は、わたくしの用意した奈落への道を歩みだしている。

「……………………」

 全ては順調。

 順調なのだ。

「……………………」

 だと言うのに。

「なあ、お前はさ、俺の母ちゃんはいつ帰ってくると思う?」

「……………………」

 何でこの男の子は……太陽のように明るい、変わらぬ笑顔でわたくしに話しかけてくるのだろう。



 そしてついにその日が来た。

 取り憑いている故にあまり長くは離れられないため、わたくしは彼について毎日学校に行っていた。もちろんクラスメートや担任教師には見えていない。

 彼も最初は抵抗があったようだが、誰にも気づかれていないことを知ると、笑って承諾したのだった。

 ともかく。

 給食を食べ終え、昼休み。

 担任の教師が慌てて、教室で友人たちと雑談していた彼の元に駆け寄ったのだ。

「どうしたの先生?」

「いいから、少し来てください」

 そう言って、彼を自身の車を停めてある駐車場まで連れて行った。

 わたくしもその後を追い、その車の後部座席に乗り込んだ。

「いいかい? 落ち着いて聞くんだ」

「うん」

 車のエンジンをかけながら、酷く焦った声音で言った。

 その雰囲気に呑まれたか、彼も大人しく耳を傾ける。

「今日の昼ごろ、君のお父さんの仕事場で事故があった。君のお父さんも、巻き込まれたらしい」

「……え?」

「お父さんは救急車で病院に運ばれたらしいが、意識はないそうだ」

「……………………」

 沈黙する彼。

 助手席に座る彼の表情は、わたくしと出会って初めて、曇った。

 その顔を見た瞬間。

 わたくしは全身から溢れ出る感情を抑えきれなくなり、そして――

「ふふっ……」

 初めて、声に出して笑った。



 結果的に、彼の父親は助からなかった。

 と言うか、一目見ただけで助かるわけがないと思った。

 よほど悲惨な事故だったのだろう。よく病院まで持ち堪えたと称賛に値する状態だった。

 まあ、わたくしが取り憑いた時点で、この子の家庭は崩壊の一途を辿るのは決まっているのだ。肉親の死など、序章に過ぎない。

 そこから先は、見ていて実に愉快なものだった。

 まず、彼の親権の押し付け合い。

 父親だか母親だか知らないが、過去に何かやらかしているらしく、親族の誰も彼を引き取ろうとしない。

 結局、親権自体はもはや他人と言っても差し支えないほどの遠縁の元に落ち着き、しかし彼はその家には引き取られずに施設に入ることになった。

 そして施設に入った後は、お決まりの陰湿なイジメ。

 元々過去に傷を負った子供たちが集められるようなところだ。

 自分は他と比べたらマシ。

 そう思い込みたいがために、他者を傷つける。

 そんな光景を、わたくしは何度も見てきた。

 そのたびに、心満たされてきた。

「……………………」

 だと言うのに。

 どうして彼は、変わらずに笑い続けるのだろう?

 屈託のない、例によって太陽のように明るい笑顔で。

 彼はずっと生き続けている。

 わたくしは濡女子。

 人を陰湿な気分にさせ、周囲を崩壊に導き、最悪の場合には死に追い込む妖怪。

 それなのに。

 何でこの子は、笑い続けることができる?



 ……ある日のこと。

 急な夕立で、外で遊んでいた子供たちは慌てて建物の中に逃げ込んだ。

 しかし、彼だけは中までは入らずに、辛うじて雨水をしのげる屋根の下で、じっと笑いながら空を見上げていた。

 わたくしはその様子を、雨に打たれながら見ていた。

 ニコニコと。

 彼は靴先を泥で汚しながらも、笑い続けていた。

「……貴方は」

 初めて、だったと思う。

 わたくしから彼に声をかけたのは。

「なぜ、貴方はそうも笑っていられるのですか?」

「……………………」

「もうすでに、わたくしが人ならざる者であることは気付いているはず。それなのに、なぜ貴方は他の人間に対する時と変わらず、わたくしにも笑いかけるのですか?」

 わたくしは濡女子。

 人を不幸にする妖怪。

 このままでは、妖怪としての沽券に係わる。

「……俺さ」

 と。

 彼は口を開いた。

「母ちゃんと、約束してんだ」

「……?」

 母親と?

 わたくしは耳を傾ける。

「母ちゃん、出張に行く前、俺に言ったんだ。『辛い時、空元気でもいいから笑ってなさい。そうすれば、あなただけじゃなく周りまで明るくなるから』って」

「……!」

「母ちゃん、あれから帰ってこなかったけど……でも、帰ってきてくれたら俺、笑って会いたいんだ。その時まで、俺、笑い続けるよ」

 言って。

 彼はニッコリと、最高の笑顔を見せてくれた。

 その笑顔を見た時。

 サアッと。

 わたくしは、心に何かが差し込むのを感じた。

 言うなれば、光。

 ずっと雨が降り続けていたわたくしの心に、日の光が差し込んだ。

「わたくしの……負けですね」

 彼に近寄り、視線を合わせるため膝を折る。

「わたくしを祓い落とす方法を教えましょうか?」

「え?」

「わたくしが貴方の側にいては、周囲も明るくならないでしょう。何、簡単なことですよ。……『やかましい』……そうわたくしを罵るだけで、わたくしは簡単に祓えます」

「……………………」

「さあ……どうぞ」

「……………………」

 祓われた後、わたくし自身どうなるかは分からない。

 死んでしまうのかもしれないし、単に彼に取り憑く前のように自由の身になるだけかもしれない。

 どちらにせよ、初めて妖怪として「負けた」と思ったのだ。死んだとしても、悔いはない。

「……………………」

 しかし。

「へえ……」

 彼はわたくしを祓おうとせず、むしろ手を伸ばして近付いてきた。

「ずっと気になってたんだけど……この髪、別に濡れてるわけじゃないんだな。さっきまで雨に当たってたのに……どうなってんだ、これ?」

「あの……?」

 わたくしの髪の毛を一房持ち上げ、物珍しそうに撫でている。

「どうしました……? 祓わないのですか?」

「んー……」

 小さく唸りながら、彼はわたくしを見つめる。

「別に。いいかなって」

「別にって……」

「まあたしかに、あんたがいると他の奴らもジメッとして感じ悪くなってるけどさ」

「だったら!」

「つまりさ、あんたが明るくなればいいんじゃないのか?」

「……………………」

 はい?

「わたくしが……明るく?」

「そうさ。あんたが明るく笑えるようになれば、そのジメジメした雰囲気も変わるんじゃないか?」

「……………………」

 そんなこと……考えたこともなかった。

 他者を暗くする妖怪が、明るくふるまうなど聞いたことがない。

 できるはずがないとすら思える。

 けれど。

「こう……でしょうか?」

「うーん……何か引き攣ってんなー」

 無理やり、口角を上げてみる。

 しかし彼は納得できないのか、小さな指を使ってわたくしの頬を持ち上げた。

「……ぷぷっ」

「……笑わないで頂けますか?」

 変な顔になっているのは自分でも分かっている。

「あははっ。悪い悪い」

「全く……もう」

 溜息を吐く。

 それと同時に、口元が緩むのが感じた。

「あ……」

 不意に、彼が声を上げる。

 そして彼の目線を追ってみると、そこには変わらず広がる厚い雨雲があった。

 いや。

 雨雲だけじゃなかった。

「あら……」

 いつのまにか、雨はかなり小降りになっていた。

 そして遠くの空。

 黒い雨雲の間から差し込む、一条の光の柱。

「……………………」

 その美しさに、わたくしは言葉もなく見惚れていた。

 口元が緩む。

 ああ、そうか……。

 笑うとは、こうするんだったのか……。



 あれから十数年が過ぎた。

 わたくしはずっと彼のそばに居続け、わたくしは以前までは考えられないほどに笑えるようになっていた。

 結局、彼はわたくしを祓うことはしなかった。

 不思議なことに、わたくしが笑うようになってから周囲の環境が明るくなってきたのだ。

 代わりに、わたくしの妖怪としての力はかなり落ちているようだが(たまに彼が妙な水難にあうくらいだ)、それももはや不要の力だろう。

 わたくしは、彼の太陽のような笑顔を見ているだけで、力が湧いてくるのだから……。

「おーい、いつまで準備してるんだ?」

 自室で今日の講義で使う参考書を揃えていると、彼がヒョイと顔を覗かせてきた。

「あ、お待ちください。すぐに行きますから」

「おう。先に玄関行ってるぞー」

「はい」

 あまり長く待たせてはいけない。わたくしは手早く荷物をまとめ、足早に玄関に向かう。

 彼は言った通り、玄関を出てすぐのところに立っていた。

「よ」

「お待たせしました」

「全然。いやー、今日もいい天気だぜ」

 手をかざしながら、彼は空を見上げた。

 その言葉通り、今日は雲一つない快晴だ。眩しい日の光が、古い石作りの門扉に刻まれた『行燈館』の文字を照らしている。

「本当にいい天気ですね……。これなら、洗濯物もすぐに乾きそうですね」

「……あの新しく来た管理人、寝てばかりだけど仕事してんのかな?」

「それは……大丈夫ではないですか? 昼間の短時間のうちに全ての仕事を終わらせているらしいですし……」

「凄いんだか凄くないんだか分かんねえ……」

 溜息交じりに苦笑する。

 しかし不思議と、その笑みから明るさが失われることはない。

「うっし! じゃあ今日も頑張っていくか、あき!」

「あ! 待ってください、良樹よしきさん!」

 四月十五日……天気、晴れ。

 今日もわたくしたちは明るく、平和に過ごしています。


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