最悪の黒-020_卵
――というかリリアーヌが言うところの異世界人とやら、日本人なのでは?
そんな疑念の信憑性が増したのは、宿で出された食事を見ての事だった。
「商人ギルドの宿の食事は大体三種類くらいのセットメニューから選ぶんですよ。人口のほとんどがエルフと獣人と言っても、種族によって食べられない物がある場合がありますからね」
「玉ねぎか?」
「犬猫じゃないんですから食べれますよ!?」
曰く、滅多に出くわすことはないがフェアリーは肉が食えないらしい。
そんな会話を交わしながら投げつけられた宿の食堂のメニューを見て、ハクロは手が止まった。
・Aセット
白パン、サラダ、燻製肉と根菜のスープ、白身魚のバター焼き、ドリンク
・Bセット
ライス、青菜の塩漬け、ミソと海藻のスープ、青魚の塩焼き、生卵、ドリンク
・Cセット(肉不使用メニュー)
黒パン、サラダ、豆と根菜のスープ、マッシュポテトのフリット、蜂蜜、ドリンク
※オーガ、フェアリー、その他種族への盛り付け変更対応可
「…………」
「どれにしようかなー、がっつり肉々しいもの食べたかったけど、今日のお肉はスープだけかあ。まあいいか、Aにしよっと。ハクロさんは?」
「……B」
「…………」
そう答えたハクロにぎょっとリリィが目を剥く。
「ほ、本気ですか? 私、たまに街に行く用がある時この宿使ってますけど、Bセット頼む人見たことないですよ……?」
「だろうな」
「それに生卵って……あ、頼めば焼いてくれるんですかね?」
などと狼狽えるリリィを横目に近くを通りかかったエルフのウェイターを呼び止める。なんとなくやる気がなさそうな脱力した表情のウェイターは「ご注文はー?」と、やはりやる気を感じられない口調でメモ帳を取り出した。
「AセットとBセット」
「…………。Bセットの卵、生と焼き、どちらにしますー?」
「生で」
「…………」
「……かしこまりましたー」
今度こそ信じられない、といった目でハクロを見るリリィ。そして頭を下げて立ち去ったウェイターさえも「正気かよこいつ」という感情が無気力な目に浮かび上がった。
自分たちの働いている宿の飯を頼んだだけなのに、なんでそんな表情されるんだ。
「ハ、ハクロさん……ほ、本当に生卵頼んでどうするんですか……!? 今からでも焼いてもらいましょうよ……!」
「いや、ちょっと試してみたくて」
「何をですか!? 生卵なんて食べたらお腹壊すって、師匠も言ってましたよ……!」
こそこそと耳打ちしながらハクロを何とか止めようとするリリィ。確かに、仮にも薬師が腹痛で倒れたら「こいつの薬って本当に大丈夫か?」と信用問題に関わるため、リリアーヌは食べる物には気を遣っていたのだろう。……例え本人の料理の腕前は致命的という言葉さえも可愛らしいレベルだったとしても、だ。
しかし流石にこればかりは確かめざるを得なかった。
あと単純に食べたかった。
「お待たせしましたー」
待つこと数分、ある程度作り置きされていたのであろう提供速度でテーブルにそれぞれのセットメニューが置かれる。
リリィの方はもう見るからに美味いが、特に何の変哲もない品々が並んでいた。
そしてハクロの方は――
「ふむ」
「ほ、本当に食べるんですか……?」
見慣れない白い穀類に、なんかやけに色鮮やかな緑色の海藻と白い物体が浮かんだ茶色いスープ。ギリギリ美味しそう、というか食べてみてもいいかなと思えるのは、背側に青い縞模様の入った魚の塩焼きと葉物野菜の塩漬けくらいか。
そして何よりも異彩を放っている、殻のまま丸ごと小鉢に入った卵。傍らには、なんかやたらと黒いソースが入った小瓶が並んでいる。
カトラリーは……なんだあれ、とリリィは顔をしかめる。なんか細長い棒きれが二本置かれているだけだ。
ハクロはその棒切れを器用に指で摘まむと、深めの椀に盛られた白い穀類の山の上に窪みを作り――なんの躊躇もなく生卵を割り入れた。
とろりと透明な卵白を纏って頂上の窪みにすっぽりと嵌る卵黄。黄色というよりも赤に近いほどの色味で、ぷっくりとした綺麗な円形は鮮度の高さを物語っている。これをベーコンの脂が染み出したフライパンで一緒に焼けば、どれほど美味しいだろう。
だがしかし、そこにあるのは過熱の概念すら知らぬままの生卵。リリィは自分の皿に手を伸ばすのも忘れ、ハクロの一挙手一投足を見つめる。
次いでハクロは隣の黒いソースの小瓶に手を伸ばす。これほど黒い調味料(たぶん調味料)は見たことがないが、蓋を開けた瞬間、ふんわりと魚醤を思わせる塩辛い香りが漂った。いや、魚醤のような生臭さはない。これは、穀類だろうか。
リリィも見たことがないソースを、ハクロは小瓶に鼻を近づけ二、三度すんすんを鼻を鳴らして「ああ、やっぱりな」と頷いた。
「し、知ってるんですか?」
「…………」
しかしハクロは答えず、代わりにそのソースを穀類と生卵の乗った椀に二回半ほど回しかける。卵黄の天辺から白身、穀類の山へと伝って染み込んでいくソースは黒というよりも薄い茶色に輝いて見えた。
「んじゃ、いただきます」
そう言ってハクロは手を合わせ、小さく低頭する。その動作自体はリリィもリリアーヌの診療所や道中の食事で何度も見てきた。診療所で初めて見た時はハクロが異世界人だと知らず、「食事の前のその動作は記憶を失う前の習慣なのでは!?」と的外れな推理をぶつけたことがあるが、ともかく。
食事を得られたこと、食材を作った農夫や漁師、調理した者への感謝の礼だというその動作が、なんだかいつもよりも洗練されているようにリリィには見えた。
「…………」
改めてハクロは二本の棒を摘まみ、その先で卵黄にぷつりと穴をあけた。その瞬間、薄い膜で覆われていた中身がとろりとあふれ出し、茶色のソースを纏いながら白い穀類へと染み入った。
それをハクロは何度も棒切れを差し込み、白い穀類の山を崩すように卵黄と解いていく。食事の場で調理済みの品をぐちゃぐちゃにするという行為に、本当ならば「行儀が悪い」と感じるところのはずだが、不思議とそれが正解であるような美しさすら感じた。
リリィが見とれている間に白かった穀類は一粒一粒に卵黄を纏い、椀の中は黄色い粥のような状態になった。
それをハクロは椀を空いている左手で持ち上げ――ズズズ、と小さく音を立てて中身を直接口に掻き込んだ。
なんということだ。
何度目かもわからない衝撃をリリィが駆け抜ける。
物心つく前にリリアーヌに引き取られ、飄々とした言動で振り回されてきたがマナーだけはきっちりと叩き込まれたリリィにとって、盗賊ギルドの蛮族だってもう少し行儀良いだろうという食べ方に、忌避感すら覚えるはずだった。
なのに真っ先に頭に思い浮かんだのは――「美味しそう」という言葉だけだった。
「……ふふ」
小さくハクロが笑う。
椀を置き、どうやって持っているのか分からないが二本の棒で葉物野菜の塩漬けを口に運ぶ。シャクシャクと心地好い音を立てながら、今度は茶色いスープの椀を持ち上げた。
ズズズ、と再び直接口をつけて啜る。
そしてもう一度「なるほどな」と頷き椀を置き、左手で青魚の頭を押さえて棒切れで身を突き、器用に一口大の大きさに切り分けて口へと運んだ。
そして再び、黄色くなった穀類の椀へと手を伸ばした。
「ハ、ハクロさん!」
「んー?」
もう、我慢ならなかった。
「一口、一口ください!!」
「おいおい」
なりふり構わない懇願に、しかしハクロはにやりと意地の悪い、軽薄な笑みを浮かべた。
「薬師に腹を壊すかもしれん物を食わせるわけにはいかんなあ」
「最悪だこの人!!」
ギリィッ、と歯を食いしばるしかなかった。
それはそれとして、スープも魚のソテーも美味しかった。





