最悪の黒-011_暗闇に潜む者
どかん!
オーガ族には見劣りするものの、獣人族の中でも頭一つ巨躯な熊人であるヒールによる全力の突進。さらに彼の超重量級の武装の重さも相まって、たかだか十五人程度がすし詰めになっている程度の馬車をひっくり返すことなど、造作もないことだった。
「なんだ!?」
「ば、馬車が!!」
「逃げろ逃げろ!!」
さらに、馬車を取り囲んでいた五人の護衛も蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。元々身軽な種族であるエルフであることを考慮に入れてもあまりにも見事な逃げっぷりに、やはりこちらが囮か、とアールは心持を改める。
「ヒール! 気を付けてください!」
「わぁってるよ! どれどれ、油断しない程度にいっちょ遊んでやるか!」
分かっているのか分かっていないのか、そんなことをほざきつつ、ヒールはランスを片手に横たわる馬車の後方扉に手をかける。
すると。
「ブキィ!?」
「キィッ!!」
「は!?」
扉を開いた瞬間、いくつもの影が飛び出してきた。影は独特の臭気を放ち、四足で、ブヒブヒと怯えながら森の奥へと逃げていく。……どう見ても、ブタだった。
「……やられた。ブタに偽装魔術をかけて馬車に詰め込んでいたようです」
アールは舌打ちをする。暗がりの限られた光源の中、辛うじてではあるがブタの背に魔法陣のようなものが描かれていたのが見えた。ブタが逃げ出していった後の馬車に人気がないことを考えると、こちらが囮であることは間違いない。
なんなら、もう一隊の馬車もブタでぎゅうぎゅうの可能性すらある。それを考慮すると、取るべき行動は一つ。
「一旦森に退くぞ」
「賛成です、ハンス。先に逃げていった護衛が何かしらの合図をもう一隊の方に送っていたら、囲まれてしまう」
森の中であれば衛兵隊の編成の大部分を占める身軽なエルフに分があるだろうが、暗がりでの逃避戦はこちらに大きく傾く。増援を煙に巻き、その隙にもう一隊の確認に行けばよい。
「お前たち! すぐに森へ戻れ! 衛兵共はもうすぐそこまで来ているぞ!」
手を叩き、アールがメンバーを発破を掛ける。流石に腐りきっても元Bクラス傭兵団である。こういった急な作戦変更にも手早く対応する。
唯一、馬車の前で立ち尽くしていたヒールを除いて。
「……? ヒール? おい、ヒール、何をしているんです。さっさと退くぞ」
いつまで経っても動こうとしないヒールを不審に思い、アールが声を荒げる。それでも動こうとしないヒールに、苛立ち交じりに肘を掴んで揺さぶる。
すると。
ずぅん……!
「ぐえっ」
ヒールの重厚な鎧に覆われた大木のような巨体がバランスを崩し、アール目掛けて倒れ込んでくる。元々後衛職であることに加え、唐突なヒールの挙動に対処しきれず、アールはその巨体の下敷きとなり潰されたカエルのような声を上げる。
「……っ! ヒール! ヒール貴様! この非常時に何をふざけ――」
鎧の下でじたばたともがきながらヒールに対し悪態を吐くと、アールはヒールと目が合った。
いや待ておかしいぞと、アールは呼吸が止まる。
どうして背中から倒れ込んで押し潰してきた奴と目が合うのだ。
それに、ヒールの目はどこか虚ろで、何も見ていないような――それに、首から下が地面に埋まっているように見える。
「ひっ!?」
それがヒールの生首だと気付いた時と、背後から悲鳴が複数聞こえてくるのは同時だった。
「ぎっ!?」
「がはっ!!」
「構えろてめぇら! 何かい――!!」
悲鳴に混じり、ハンスの怒号が飛ぶ。しかしそれも途中でプツリと途切れ、ばたばたと地面に何かが倒れ込む音が続く。それを聞き、アールは荒くなる呼吸を必死に抑え込みながらヒールの巨体の下に隠れる。
何か。
何かがいる。
夜闇に紛れて奔る黒い影。
それが月の光を毒々しく反射する細身の何かを振るうたびに、仲間が地に臥す。
ふざけるな、自分たちは元とは言えBランクの傭兵団の精鋭だぞ。不意打ちとは言えこんなあっけなく蹴散らされることがあっていいわけが――
「…………」
「ひっ!?」
ヒールの死体の下でガタガタと震えていると、影がその巨体を蹴飛ばし、アールの顔を覗き込んだ。
影は、慈悲の欠片も感じられない冷たく深い水底のような黒い瞳を向ける。手には細身のファルシオンのような片刃の剣が握られていた。
その時になり、ようやくアールは自分たちの過ちに気付く。
先に衛兵たちに捕縛されたメンバーの下っ端たちが何者と争い、敗れ、捕まったのか深く考えていなかった。この地区周辺に名のある傭兵や騎士の逗留情報がなかったこともあり、完全に思考の範囲外だった。
連中はこの名もなき流れ者にやられ、自分たちもまんまといぶり出されたのだ。
「た、助けてくれ……」
「…………」
影に向かって懇願する。
しかし影はまるで言葉が分からないというほど無情に、刃をアールの胸に突き立てた。