最悪の黒-157_退室
そのさらに数日後のことである。
「作業完了。お疲れ」
最後の点検作業を終え、ハクロからその宣言が下された瞬間、リリィとティルダは互いの両手を合わせて破顔した。
「やっと終わりましたー!」
「長かった……本当に長かった……!」
そしてそのまま手を握り合い、体ごと左右に揺らしながら小さくステップを踏む。初対面時のぎこちなさなど完全に消え去り、今や職の垣根を超えた友人と言って差し支えなかった。
「ワタクシたちもハイタッチしまショウか?」
「せん」
「残念デスねー」
言葉ほど落胆の様子は毛ほども見せず、ザラがゆらりと尾を揺らしながら微笑む。その様子を横目に、ハクロは書斎の主ジオフェルンへと歩み寄る。
彼は相変わらず己の机に向かい、一心に羽ペンを奔らせていた。
「つーわけで、作業も一段落したから一旦俺たちは報告しに帰るぞ」
「…………」
「例の魔導具についても話が途中だし、ちょいちょい通うことになるだろうが、散らかすんじゃねえぞ」
「…………」
返事をするわけでもなく、頷くでもなく、ましてや顔を上げることもなく、ジオフェルンは魔術書を書き記し続ける。対話の契約はまだ有効のはずなのだが、どうやら聞こえていなければ発動することはないようだ。随分と都合のいい契約だと、ハクロは肩を竦めた。
「屋敷の奥から追加の本棚を引っ張り出してきた。書いたものはそっちに並べろ。床に重ねるな」
「…………」
やはり返答はない。
この書斎には元々壁際に本棚が設置されていた。しかし公な取引が禁じられてからは魔術書を持ち出す者は腹に一物抱えた盗賊ギルドに限られ、彼らも必要な物のみを摘まむだけであったため、あっという間に本棚から溢れた。魔術書は床へと積まれていき、どこに何があるかを把握する者はおらず、それで三か月前の惨状が完成したわけだ。
無論、本棚の数を増やしたからと言って、ジオフェルンが魔術書を記し続ける限り、定期的に魔術書を搬出しなければいつかまた溢れることになる。しかし床に放置されるよりは健全かつ安全であることは確かなのだ。
そして棚から魔術書が溢れて床に積まれていたということは、意外なことに、ジオフェルンは収納スペースさえ空いていたらそちらを優先して使うだけの分別は持ち合わせているということである。ただし書斎の外に出向いて魔術書を収めるという思考回路はないため、指名手配を解除してやるほどの義理はないとハクロは考えている。こんな危険人物を湖都の外に出してはいけない。
「じゃあな、教授。ジオフェルン」
リリィとティルダ、そしてザラを伴ってハクロは書斎を後にする。
そしてその入り口を封する扉を閉めるために振り返ると、ひらり、とジオフェルンの右手がひらめいたのが見えた。
フェアリーは魔力生命体ではあるが、数千年に及ぶ執筆作業の末、ジオフェルンには利き手の概念が存在する。そして彼は基本的に右手で羽ペンを持ち、左手で紙を抑えて執筆していた。
つまり魔術書を書く手を一度止め、ペンを置き、手を振ったということだ。
「…………」
聞こえてんじゃねえか、とハクロは自身の右手の契約痕に視線を落としながら、肩を竦めた。





