最悪の黒-149_箱の底
ハクロはその日のうちに気合と根性という極めて原始的な方法で復帰し、その足で屋敷内の便所へと駆けこんだ。
リリィは心配そうに「無理しないでくださいね」「気分が悪くなったら言ってください」「危ないので念のため座ってしてくださいね」と、その背を扉の前まで追いかけたが、そちらも何とか振り切った。なお、意識を失っていた5日間については深く考えるのはやめた。覚えていない、認識していないのであればその期間は存在しないのと同義であると言い聞かせる。
「ようやく目が覚めたか、異世界人!」
そうして書斎へと足を運ぶとジオフェルンが待ち侘びたというように勢いよく立ち上がった。
執筆机の周囲に形成されていた魔術書の塔は八割方解体が進み、搬出も残り僅かという段階まで作業が進んでいた。
「お目覚めデスか、ハクロさん」
「……もう起きて大丈夫?」
ハクロが気絶していた間も箱詰め作業を続けていたザラとティルダが顔を上げる。しかしその表情は本日分の作業を終えたことによる疲労以外の物が滲み出ているように見えた。
「あー、進捗は?」
「湖都の外への搬出は一旦ストップして、正面ホールに箱詰めにした状態で保管していマス。搬出担当のリリィさんが待機デシたので」
「そりゃすまんな、迷惑をかけた」
「ううん……それは、全然いいんだけど……」
ちらりとティルダがジオフェルンへと視線を向ける。
「ティルダさん、はっきり言ってあげた方がいいデスよ。教授がこの5日間、こちらが作業している時も10分おきにハクロさんの意識が戻ったか聞いてきてとっても鬱陶しかった、と」
「……です」
「メンヘラか」
そんなに気掛かりなら他人に聞くのではなく自分の足で確認に来い。どうせ自分は一歩も動かず魔術書の作成を続けていたに違いない。もっとも、本当に来ていたら傍にいたリリィが追い返していただろうが。
「まあ、いい」
ちらりとジオフェルンの机の上に目をやる。
そこに無造作に置かれていた件の魔術書を手に取り、気を失う前に召喚したまま放置されていた丸椅子に腰かけた。
「対話の続きをしよう」
「待っていた!」
ジオフェルンは両腕を大仰に開き、自身の椅子に戻りながら歓迎の意を示して見せた。
「まず、あの〝玩具箱〟に直接触れて判明したことを整理しよう」
「その魔術書は『ハコニワ』とやらの操作に必要な手順が記されているのだったな。つまり、吾輩らが〝玩具箱〟と呼んでいるあの魔石の大樹に形成された洞が『ハコニワ』なのか?」
「それは少し違うな。あの洞、というか湖都全体がそうなんだが、アレは単純に世界中を流れる魔力が凝固した鉱脈に過ぎない。少々特殊な地形には違いないがな」
とん、と手にした魔術書の背表紙で手のひらを叩く。
「そしてこの魔術書に記されているのは、魔石鉱脈のさらに奥に存在する魔力塊に干渉する方法だ」
「鉱脈のさらに奥の魔力……つまり、世界! 世界か!」
「極端な話、理論上は魔石鉱脈からなら大陸中どこからでも干渉は可能だろう。だが湖都のあの魔石の洞、〝玩具箱〟は地表に露出しながら、魔力塊と地表を隔てる魔石の層が極端に薄い。術者が魔力塊に干渉するためには最適な地形となっている」
「横から少しよろしいデショウか?」
本日分の魔術書の整理に区切りをつけたザラが口を挟みつつ小さく手を挙げた。
「その魔術書には強力な伝達阻害の魔術が施されていたのではないデショウか? 今、ハクロさんは魔術書の内容の核心部分について語ろうとなさっていマスが、その制約はどうなさったのデス?」
「ああ、アレな。どうやら始動キーを唱えながら〝玩具箱〟に触れた結果、魔術に対する管理権限が付与されたようだ」
「なんだと貴様! ずるいぞ!! 吾輩も触れて来る!!」
「残念ながら異世界人の肉体ありきの管理権限だ。諦めろ」
今にも駆け出しそうな、というか実際に椅子を蹴飛ばして立ち上がったジオフェルンの襟布を掴んで制止する。
本質としてはエルフや獣人といった人類よりも魔物に類するフェアリーは肉体を持たない。ジオフェルンが始動キーを唱えたとしても管理権限が付与されることはないだろう。
「まあつまり、この取説の魔術書に関してはある程度の自由が利くようになったわけだ。中身が気になるってんなら写本を作ってやるよ」
「魔術書の更に向こう側に別の魔術が存在すると判明した以上、その提案の魅力は半減してしまったな」
「いらんのか?」
「当然もらおう」
己の欲望に忠実なジオフェルンに肩を竦めつつ、話を戻す。
「ともかく、その管理権限をもって〝玩具箱〟の底のさらに奥側で渦巻く魔力塊――つまり、フェアリーという魔導具によって出力される前の魔法に干渉するための方法が、これに記されている『箱庭』と呼ばれる魔術だ」





