最悪の黒-144_存在意義
「……やられた」
再びその言葉が口元から零れる。
否、やはり「やってしまった」が正しいのだろうと、ハクロは己の右手首に視線を落とす。
そこには荊の刺青のような魔力紋がぐるりと一周浮かび上がっていた。
そしてそれと全く同じものがジオフェルンの絹のように白い肌の首元に刻まれている。
一応解析を試みるが、やはりフェアリーの原始的な魔法で知覚できるような魔力回路の類はない。しかし肌身で魔法を受けてしまったため、その効果は嫌でも感じ取ることができた。
契約魔法――傭兵ギルドでも依頼受領の際に交わされる契約魔術の元になった物のようだが、その効果は比べるまでもなく重い。
「……契約を反故にすると互いの紋の先が消し飛ぶ仕組み。他は……ごめん……分からない」
「だろうな」
ティルダがハクロの右手首に触れてその解析を試みたが、導き出せた答えはハクロとそう変わらないようだ。
「肉体の欠損を代償とするような重い契約魔術は本来なら、僧侶ギルドが罪人に対し行う刑罰か、もしくは互いに同意が得られないと成立しないはずデスが……」
「術者側の代償を大きくすることで相互の同意を省略しているようだ」
「なんとも物騒デスね……」
ザラが金色の瞳を細めながらジオフェルンに視線を流す。
術者と契約対象への負担が大きすぎて、一般的な実用性は限りなく低い。一方で悪用しようと思えばいくらでもできることと、この効能の魔法を予備動作なし、始動キーの詠唱なし、羊皮紙による契約書などの魔導具もなし、契約内容の読み上げだけで結ぶなど常軌を逸している。仮にこれが魔術書として既に記されているとしたら、よからぬことを考える盗賊ギルドは喉から手が出るほど欲するだろう。
そして己の首を軽々に契約の天秤にかけた当の術者本人はと言うと。
「何をしているオトズレビト。座ったらどうだ。いや、湖都の外ではこう言うのだったか――『立ち話もなんだ』」
執筆机の椅子に腰かけ、背もたれにふんぞり返りながらどこかからか転移させた丸椅子を目の前に置き、手招きしている。
「ご対応を。ハクロさん」
「……魔術書の整理は、う、ウチらでやっておくから」
手指で印を刻む術者として、また刀剣を振るう剣士として、右腕を質に取られている現状はあまりにも大きい。どのような言動で契約反故と扱われるか不明であるため、ここは大人しく対話に付き合うしかない。
「それにこれは見方によってはチャンスかもしれマセんよ」
「あ?」
「魔術ギルド元副ギルド長にして盗賊ギルド教授ジオフェルン個人と対話が成り立ったことなど、ワタクシの知る限り例がありマセん」
つまり魔術ギルドとして、もしくは盗賊ギルドとしても、史上初の取引が可能になったということだ。失敗したらハクロの右手とジオフェルンの首が消し飛ぶこととなるわけだが、それはともかくとして首輪をつなぎ留めろと言う意思が言外に伝わってくる。
強かなものだと呆れながら半壊した魔術書の塔についてはティルダとザラに任せ、ハクロは差し出された椅子に腰かけた。
「それでは対話だ。ああ、肉声でのコミュニケーションなど煩わしいが、しかしその魔術書の内容をようやく知れるとなっては些細な対価だ!」
「対話が煩わしい、ね。湖都でも屋敷の外のフェアリーと会話が成り立たないのがほとんどだったが、同じ理由か?」
「オトズレビトはそんなことが知りたいのか?」
棒切れのように肉の薄い足を組み、ジオフェルンは白い虹彩をギラギラとさせながら首を傾げる。
「吾輩らフェアリーは対話を必要としない! 何故なら吾輩らは湖都の中核から個として生み出されるが、その本質は中核と繋がったままだからだ。その中核を介し意識を共有しているため、そもそもコミュニケーションという概念がない!」
「湖都の中核?」
「ふむ……湖都の外ではこう言うのだったかな――フェアリーの〝玩具箱〟」
魔術書の整理作業を再開しながら耳を傾けていたティルダがピクリと反応する。
ティルダからもらった魔導具技師の教本において、史学の項目に記載されていた言葉だ。湖都ラッセル自治州のどこかに存在するという、フェアリー族の魔法のさらなる源流を指す。
「……玩具箱ってのは結局のところ何なんだ?」
「先程から聞かれてばかりだな。対話とはこういうものなのか?」
「…………」
ととん、とジオフェルンが椅子の手すりを指で弾く。
それを見て視界の端でザラが胸元から外側へと手を差し出すジェスチャーをした。自分の話もしろ、この場合は例の魔術書について開示しろということだろう。
やむなしに、ハクロは手元の魔術書を開く。
「魔術書を訳せということだが、翻訳して写本を作れってことでいいのか」
「それは最高の提案だな! だが無理だ」
ととん、と手すりを弾いた指を再度動かす。
するとハクロの右手側にサイドチェストと無記入の紙束、そしてインクとペンが現れた。
「…………」
右手でペンを取り、組んだ足の上に魔術書を置き左手でページを捲る。そして適当に開いたページを写そうとし――手が止まった。
「字が読めない……?」
そのページに記されているのはハクロが故郷で十何年と慣れ親しんだ文字のはずだ。しかしどういうわけか、無意味な落書きの羅列としか認識できなかった。
「……すぅ」
一度大きく息を吸い、ペンを置いてから再び視線を魔術書に戻す。すると今度は記されている内容が理解できる文字列として頭に入ってきた。流石に文章の途中からでは内容までは汲み取れないが、それでも意味のある言葉には違いない。
その一説を覚え、一度魔術書を閉じてから再びペンを持つ。
しかし。
「…………」
「手が止まっているぞ、オトズレビトよ」
ペン先が紙に触れた瞬間、直前まで諳んじていた文章が記憶から消える。
再度ペンを置いてから魔術書を開いてもう一度覚え、ペンを持ち直す。だが結果は同じだった。
試しに魔術書とは全く関係ない言葉――あちらとこちらの世界の単語を織り交ぜた「リリィ・メルは医薬ギルドに所属する薬師である。薬師とはおおよそあちらの世界における内科医及び薬剤師を指す」という文章はすらすらと書き記すことができた。
次いでペンを置き、改めて魔術書を開く。
当たり前だがそこに記されている言葉はハクロは理解できる。それを読み上げようと口を開くと。
「 」
「ほう、そうなるのか」
「…………」
確かに発声はしたはずが、音にならずに口だけが徒に動いただけだった。
「……思念伝達の魔術か魔法は」
『これか?』
ジオフェルンに問うと、即座に脳内を揺するような声が届く。
それに返すよう魔術書の内容を意識するが、
『 』
『ああ、駄目だな。やはり何も聞こえん。むしろノイズが不愉快だ』
眉を顰めると言うだけ言ってジオフェルンが魔法を閉じる。すると耳の奥でぶつっと太い紐を無理やり引き千切ったような異音がした。
「写本の阻害はインクに付与された魔術で分かっていたが、読み上げまで妨害されては手詰まりだぞ」
「では貴様が吾輩に語学を説くというのはどうだ」
「ゼロベースからか……いや、少し待て」
ふと嫌な予感がして再度魔術書を開く。
そしてパラパラとページを流し読みし、そして「それも難しそうだ」と肩を竦める。
「恐らくはわざとだろうな。この世界にない魔術的概念がいたるところに配置されている」
リリィやティルダに知識や技術を雑談がてら伝達するのとはわけが違う。元居た世界の人類史の上に築かれた魔術という概念を、似通っているだけで根本が全く異なるこちらの世界の概念に語学だけで置き換えようなど流石に無理がある。
数十年単位での指導と意識共有を行えばジオフェルンが自力で読み解けることもできるかもしれないが、それにつきっきりでいられるほどハクロも暇ではない。
「そもそも何なんだこの魔術書」
「吾輩が知るか! それを知るために貴様と契約したのだ」
「内容じゃねえ、どっから出てきたとか、誰が書いたのだとか、そういう話だ」
これだけ漏洩対策がガチガチに固められている魔術書だ。筆者はいずれかの賢者で間違いないだろうが、読み解く前に出自を始めとした背景を少しでも掴んでおきたかった。
「さてな」
だがジオフェルンは椅子にふんぞり返りながら鼻息を荒くするだけだった。
「吾輩が湖都で自我に目覚めた時にはあったものだが、その時分には既にオトズレビトは古語と成り果てておった。オトズレビトの誰かがそれを著したのは間違いないだろうが、何の目的があって綴ったのかは一切不明である。それを知ることこそ吾輩の至高にして唯一つの望みである」
「知ることが、望み」
「そうだ!」
ジオフェルンは白い瞳を煌煌としら光を燈しながら両腕を広げた。
「吾輩は知りたいのだ! 世界を構成する現象、事象、物質を最小単位レベルで! 魔法などという曖昧な現象に依らず、魔術として一つ残らず整理し、理解し、再現性を持たせる! そしてゆくゆくは世界そのものの複製を理論づける! それが吾輩のフェアリーとしての存在意義である!」
そして、ハクロの持つ一冊の魔術書を指さす。
「その上で、この世界に存在する魔術で構築されながら、吾輩の理解できぬ知識の綴られているソレの存在が許せぬのだ」





