最悪の黒-143_対価
「オトズレビト……」
「わ、わー……!」
聞きなれない単語に首を傾げたザラに対し、ティルダが誤魔化すため大きな手をバタバタと振って気を逸らそうとした。しかしそんな儚い努力も綿毛のように吹っ飛んでしまう。
伸び放題の白い髪をぐいと掻き上げ、ジオフェルンは侮蔑ともとれる声音と視線をザラへ向けた。
「ふん、知らぬのか。古典を窘め。史書を紐解けば奴らの存在や成した偉業、この世界に与えた悪影響、ありとあらゆる痕跡が残されている。オトズレビトとは異なる世界からこの世界へと来訪ないし転移してきた者を指す古語だ」
「フム……」
「言った……っ!? ウチが誤魔化そうとしたこと全部言った……っ!?」
がくりと項垂れるティルダ。
一方で、ジオフェルンの傲岸な物言いにザラの金色の瞳がどろりと陰る。
「ワタクシに、このワタクシに古典の如何を説きますか。祈りの起源を探し求め、ありとあらゆる書物を紐解いたこのワタクシに」
「ザラ」
ハクロが名を呼ぶ。
すると彼女は一度瞬きを挟み、いつもの調子に戻って大げさに肩を竦めて見せた。
「……そう言えばそのような単語を何度か見かけマシたかね。あまり興味がなくて読み飛ばしてしまいマシたが」
「そんなことはどうでもよい!」
言いたいことを言い終え用は済んだとばかりに一瞬で興味をなくし、ジオフェルンは再度ハクロへと詰め寄る。
「おい貴様! オトズレビト! 貴様これが読めるのだな!? 26の大陸公用文字、90の頻出文字、そして無数の奇怪な象形文字の入り混じったこの魔術書を! 読み解けるのだな!?」
「近い」
興奮のあまり一度手渡した魔術書を奪い取り、その表紙を目先数センチの距離まで押し付けたジオフェルン。その幼い肉付きの手から再度魔術書を受け取ると、ちらりとザラに視線を向けてから深く溜息を吐いた。
「……確かに俺は異世界人で、この魔術書に書かれている内容も読めるだろう」
「オヤオヤ」
ぷるりとザラの獣の耳が動く。作業着の下にしまわれている尻尾が外に出ていたら同様に揺れていただろう。
この情報を盗賊ギルドの面の皮を持つザラに開示するつもりはなかったのだが、こうなってしまえばもう手遅れだ。ティルダは嫌がるだろうが、さっさと方針を転換し、後々ルネに引き合わせて抱き込んでしまうのが得策だ。
ともかく。
「恐らくはギルド創始者であろう賢者のいずれかが記したこの魔術書を読み解いて、あんたは何がしたいんだ」
「どうでもいい! 早く訳せ!!」
「…………」
興奮によるものか、それとも数十年ぶりの己以外の人類と接触したためか、その両方か。あまりにも会話が成り立たないジオフェルンの様子にハクロは思わず首元の翻訳の魔導具に手を伸ばす。
「通じてるよな?」
「……うん、ちゃんと機能してる」
「なんだそれは!!」
ジオフェルンがびょんと床を蹴りながら魔導具に手を伸ばす。伸縮の魔法を介しても背の高いハクロと、子供ほどの背丈しかないジオフェルンではそれでもギリギリ手が届かない。しかしそれ故にあまりにも鬱陶しく目の前で繰り返し跳ねられたため、ハクロは渋々と首から魔導具を外した。
差し出すと、ジオフェルンは我が物のように引っ手繰る。
「ふむ、翻訳の魔導具か。素晴らしい、吾輩も見たことのない術式だ! 解析は後々行うとして、これがあれば――読めん!!」
「何しやがる」
白い瞳を爛々と輝かせたジオフェルンが荒っぽい手つきで魔術書を開くも、即座に翻訳の魔導具を床に叩きつけた。床の魔石をあらかた片付けていなかったら魔力暴走待ったなしの所業である。
「……ああ、魔力絶縁効果を付与したインクで書かれてんのか」
魔導具を回収し、何やら罵詈雑言を喚き散らしているジオフェルンから魔術書を掠め取って中身を改めて検分する。すると翻訳や転写を始めとしたあらゆる魔術を無効化するインクで構成されていたことが分かった。これでは魔導具があっても意味はない。
「筆者は絶対にこの世界の奴に読まれたくないらしいな」
ゼロベースから解読などほぼ不可能な日本語に魔術を無効化するインク――魔術書でありながら、ある意味で最も純粋な書籍が目の前の一冊らしい。
「で? なんだってこれが読みたいんだ」
再度その意図を問うも、しかしジオフェルンは「どうでもいい!」と魔術書を指さした。
ハクロの顔を見すらしない。
「訳せ! いいから吾輩が読めるようにしろ!!」
「会話をしろ」
ここまで己の事しか考えていない輩が相手だと、一周回って呆れすら湧いてこないらしい。
ハクロはギャンギャンと吠え散らかすジオフェルンの額にドス、と人差し指を突き立てた。
「何をする!」
「もう一度言う。会話をしろ。意図を、目的を言え。得たいものがあるなら対価を支払え。魔術の基本だろうが」
「…………」
不意に、ジオフェルンが押し黙る。
直前まで憤激の感情を浮かべていた表情もすっと仮面のように凍り付いた。
「……おい」
「会話。ああ、会話。肉を持つ貴様らが空気を震わせ意思の疎通をするための手段だな。ああ、ああ、面倒だ。面倒だ。だがいいだろう。それが――会話が貴様の求める対価なのであれば安いものだ」
「な――」
ジオフェルンと視線が合い、額に突きたてていたハクロの指先に魔法陣が浮かび上がる。
慌てて手を引こうとするも、既に遅かった。
「吾輩の名はジオフェルン・マグリナ。吾輩との肉声による対話を代価に、この魔術書の翻訳を貴様に要求する」
その瞬間、ハクロとジオフェルンとの間に契約の魔法が結ばれた。





