最悪の黒-142_弊害
崩落する魔術書の塔。
やけにゆっくりと感じられる湖都消滅までのカウントダウンが脳内で進む中、
「『上矢印』」
ごく短い術式の起動キーと共に魔術が展開。
そこに込められた概念は闇と地属性に起因する、重力操作。
魔術書は魔石の破片が散らばる床へ叩きつけられる直前に落下が停止した。
術者はそのどちらにも高い適性を持つザラだった。
「……ッ!!」
その隙にティルダが動く。
落下を防げても、その魔術と魔術書が反発し合って暴走しては元も子もない。
宙に浮かぶ数十冊の魔術書の中から重力操作と相性の悪い光と風属性の術式の込められた数冊を瞬時に判別。手袋の嵌められた大きな手でかき集めるように抱き抱えた。
「……『解放』」
ザラが魔術書に展開していた術式をその数冊分だけ外す。後は上方向に働きかけていた重力操作を慎重に弱め、床にそっと置く。
「「…………」」
ティルダとザラがそっと大きく息を吐き、そして遅れて噴出した汗を袖口で拭う。
ここまで慎重に作業をしてきたというのに、最後の最後に水泡と化すところだった。
そして平時であればこういった緊急事態に真っ先に動くはずのハクロは――魔術書の塔を押しのけ崩落させた張本人に両腕を拘束されていた。
「貴様……今、何と言った」
老いた犬のような、甲高くも掠れた声音だった。
屋敷の外で見かけるフェアリーと稀に意思疎通が成功した際に頭の中に直接意図を叩き込まれるようなものではなく、声帯を震わせ、空気を介し波を起こし、鼓膜へと届ける肉声だった。
声の主は、ハクロの両腕をインクに塗れた黒い手指でがっしりと掴んでいる。
肉付きの薄い体に長い白布を巻いただけの簡素な衣服未満を身に纏い、布よりも白い髪に白い虹彩を持つ少年のような年頃の姿をしていたが、その右側の背中からのみ透き通った翅が生えている。
ジオフェルン――魔術ギルドの元副ギルド長。
魔術書の生みの親。
異常者。
盗賊ギルド「教授」。
そして、ツルギ王家創設期より存在する最古のフェアリー。
彼を指す言葉は枚挙に暇がないが、今ハクロの目の前に立つ彼を一言で言い表すのであれば――
「今、貴様が口にした書は、どれだ」
爛々とした狂気と熱意と好奇心を瞳に宿した、子供であった。
「な、何……?」
「とぼけるな! どれだ、どれがソレだ!」
ティルダとそう変わらない背丈にフェアリーらしい幼い体格と顔つき。そこに怒りすら感じさせる逼迫感のある声音、さらにその細腕のどこにそんなパワーがあるのかというほどの拘束力が組み合わさる。流石のハクロも状況が飲み込めず、無意味に意図を聞き返す。
「ええい、まどろっこしい! いや、もういい! 吾輩が著した覚えのない物がソレだ!」
一拍の間を置くことも許さず、ジオフェルンはぐるりと周囲に散らばった魔術書を見渡す。
「ちっ」
そしてそこにないことを確認すると舌打ちし、そして半分崩れた魔術書の塔の残骸に目をやり、そしてそこに目当ての魔術書を見つけた。
「これか!」
「チョッ……!」
「待っ……!?」
ジオフェルンは崩れかけた魔術書の塔の中腹に積まれていたそれをむんずと掴み、強引に引き抜く。
自然の摂理に従いその上に積まれていた魔術書が崩れ、再度顔を青くしたザラが魔術を起動し、ティルダが必死に支える。
だがそんなことなどお構いなし、そもそも視界にすら入っているかも怪しいジオフェルンは件の魔術書をずいとハクロへ押し付けた。
「…………」
ジオフェルンが差し出した魔術書には「箱庭操作手引」と記されていた。
そして。
「貴様、異世界人か。これが読めるということは」
ジオフェルンのその言葉に眉間に力が入る。
そして久しく起動しっぱなしだった首元に下げた魔導具の視覚機能を停止させる。
その瞬間、周囲の魔術書に記されていたタイトルが未だ馴染み深いとは言い難い言語へと置き換わる。
しかし目の前に差し出された魔術書には変わらず、「箱庭操作手引」と表記されたままだった。
「……やられた」
思わず呟く。
いや、やられた、は正確ではない。
やってしまった、が正しい――ハクロは自戒を嘆息に込めながら、その魔術書に記された漢字をそっと指で撫でた。





