最悪の黒-007_朝支度
「ふわあぁ……あれ?」
明朝、大きく欠伸をしながらキッチンに足を運んだリリィは鼻をくすぐる良い香りに首を傾げた。キッチンで自分以外の誰かが朝食の準備をしているようだが、どういうことだ?
「よう。おはようさん。朝早いんだな」
「……え? あれ!? あなた!」
キッチンで目に入ってきたのは、シャツの袖を腕まくりして鍋のスープをかき混ぜる長身の男。昨日リリィを傭兵崩れから助けてくれた――
「ゲロのお兄さん!?」
「その不名誉な呼び名はやめろ!」
鋭い目つきをさらに剣呑にして怒号を発する男。しまった、昨日だけで二度も彼の吐瀉物を浴びたため、そのイメージが強すぎて口が滑った。
「ご、ごめんなさい! もう動いて大丈夫なんですか……? えっと……」
「ハクロだ。俺の名前」
「ハクロ、さん……あれ、記憶が!?」
「昨日の夜リリアーヌと話し込んだおかげで、ほんの少しな。まだ完全には思い出せてねえが」
肩を竦め、お椀にスープを注ぐ男――ハクロ。それを見てリリィも慌ててキッチンに足を踏み入れる。
「私も手伝います! というか、ハクロさんに準備させてしまって申し訳ないです……」
「記憶がねえ胡散臭い男を泊めてもらった礼だ、気にすんな。パンは三切れでいいのか?」
「あ、師匠は昼まで起きてこないので、私とハクロさんの分だけで大丈夫ですよ」
食パンの塊にナイフを差し込みながら「分かった」と頷くハクロ。その横でリリィも簡単なサラダの準備を進める。
「ハクロさんも朝早いんですね。昨夜は師匠と随分遅くまで話し込んでいたみたいですけど」
「この世界の最低限の知識を聞かせてもらっていた。おかげで自分の状況が少しだが把握することができたよ」
「それは良かったです!」
「ま、さっきも言った通り完全に思い出せたわけじゃないがな」
パンをトースターに放り込みながらハクロは苦笑を浮かべる。元々前向きな性格なのか、記憶がないというのに昨日ほど落ち込んでいる様子は見られない。それに安堵の溜息を吐きつつ、ドレッシングが入った瓶をじゃぼじゃぼと振る。
「それで、どうします? 朝食が済んだら昨日も言った通り高原に採取に出かけようと思ってるんですが」
「ああ、俺も付き合おう。俺が目覚めたところに行けば何か分かるかもしれんからな」
焼き加減を見ながらハクロがトースターからパンを取り出す。リリィもサラダとスープをお盆に乗せて、ダイニングへと移動する。
と、その時。
ドンドン!
「あれ? こんな時間にお客さん?」
表の店頭の方から大きなノックの音が聞こえてきた。一体何事かと小走りで店の玄関に向かい、小さく扉を開ける。
「ああ、よかったリリィちゃん。まだ出発してなかったんだ」
「あれ、カーターさん?」
そこにいたのは、フロア村衛兵中隊の隊長だった。
「ちょっとまずいことがあってね。今日は村から出ないようにしてくれ」
「えぇっ!? 一体――」
「何があったんだ?」
と、リリィの背後からのそりとハクロが首を突っ込んできた。不意に近くなったハクロの整った顔に、リリィは内心どきりとする。
「……あんた、もう起きれるのか」
「お陰様でな」
「丁度いい。あんたも詰所まで来てくれないか、話がある」
「…………」
カーターの逼迫した下雰囲気に、リリィはごくりと唾を呑み込んだ。