最悪の黒-132_湖畔の霧
埃臭いベッドで一夜を過ごした翌日。
男女別で部屋を確保していたはずが、何も考えていない駄犬と人見知りを発動させた狂犬が当然のように押しかけようと襲来し、それを追い返そうと攻防戦を繰り広げていたところをザラに目撃され、「……オヤオヤ」と生温い視線を向けられるという事件があったが、とにかく翌日。
依頼人兼案内役ということになっているザラからランプを手渡された。
「これは?」
「フェアリーの魔法のランプでゴザイます。通行証のような物とお考えくだサイ」
それだけ言うと、ザラはさっさとハクロたちの馬車の荷台へと飛び乗った。ランプの部品を弄りながら「おい」と顔を顰める。
「どっちに進めばいいんだ。案内しろ」
「湖畔に沿って進めばそれだけでよろしいのデスよ。ランプがそのうち導き入れてくれマスので」
「…………」
ランプの光量調整ネジと思しき部分を回すと、火も入れていないのに内部で青緑色の炎のような揺らぎが燈った。一見すると魔石を核とした魔導具のようだが、分析を試みるも回路らしい回路がそもそも存在しなかった。炎水風の3属性の魔石から発せられる魔力がどういう理屈か薄いガラス容器の中で最低限の魔力反応のみで発光し、魚の群れのように浮遊しているだけのようだ。
なるほど魔法のランプだ、とハクロは肩を竦めながら御者席に着く。
フェアリーの魔法はどのようにしてそのような現象が発生しているのか未解明過ぎて扱いが難しいとよく聞くが、これも完全にその類のようだった。単純な光源としての機能を持つ魔導具を作ろうとするならば、安直に炎か光属性の魔石を用いるところだが、わざわざ魔力暴走を引き起こすリスクのある水と風を織り交ぜる意味が分からない。
「適当に走らせていればいいんだな」
「ええ、ええ。そうでゴザイます」
御者席から手綱を操り、タマを走らせる。
積み荷が1人増えたところで昨日までと全く変わらない速度で進み始めた馬車の荷台から、リリィが尾を振りながら興奮気味に声を上げた。
「フェアリーの街、とっても楽しみです! 師匠も来たことないんじゃないんですかね!」
「どうだろうな」
王都の拠点を管理しているマリアンヌ曰く、彼女の亡き夫がハスキー州都で健在だった頃にリリアーヌに掛かっていたいたらしい。そして彼女の若かりし頃の好奇心と行動力を鑑みれば、湖都に足を運んでいても不思議ではない。
「俺は湖都で昔の患者と出くわしても驚かんな」
「ええー。初めて師匠より一歩先に出れたと思ったんですけど」
「ンフフ」
ふと、ザラが意味深に笑みを浮かべながらハクロたちの会話に混ざってきた。
「実は湖都に薬師の方が入るのは、ツルギ王家有史でリリィさんが2人目なのデスよ」
「は?」
「そうなんですか!?」
「いやいや、流石にそれはねえだろ」
いくら湖都は誰もが出入りできるわけではないとは言え、五千年の歴史の中で2人しか招かれていないとは信じがたい。
だがザラは「実はデスね」とわざとらしく指を口元に当てて種明かしをする。
「あまり知られていないコトなのデスが、湖都にいるフェアリー族は怪我や病気ならない体質らしいのデス」
「怪我や病気にならない!?」
リリィがぎょっと目を見開く。リリアーヌから薬師としてのあらゆる知見を叩き込まれている彼女も知らなかったらしい。ザラはそんな彼女のリアクションに大満足したのか、何度も頷きながら口を滑らかにする。
「ええ、ええ。デスので薬師や医術師という存在が湖都においては不要なのデスよ。とは言えそれも湖都の中だけの話で、外に出ると普通に怪我も負うし病気になるそうデスが。まあ怪我に関しては非常に小柄なだけにちょっとしたことで致命傷になりやすく、治療を施す前に亡くなることが多いそうデス」
「は、はえー……それもまたフェアリーの魔法なんですかね」
「……そう言や昨日、薬師としての仕事はねえつったか」
依頼の打ち合わせの時に出てきた言葉を思い出す。その時は聞き流していたが、あれはそういう意味だったのかと納得する。
「ちなみに、最初に湖都に招かれた薬師って誰なんだ?」
「ンフフ」
訊ねると、ザラはいつもの意味ありげな笑みを浮かべて答えた。
「史書曰く、医薬ギルドの創設者にしてオーガ族の癒し手――エミリアのみとされていマス。龍王ツルギやギルド創始者たちは互いに縁深く、それで互いの知見を深めるために交流があったとされていマスからね」
「え、エミリア様に続く2人目の薬師っていうのは流石に荷が重いんですが……!?」
「マアマア、そう気負わなくてもヨイかと。今回リリィさんは薬師としてではなく、『太陽の翼』のメンバーとして依頼のお手伝いにいらっしゃったダケなのデスからねえ」
「そ、そう言われましても……!」
予想外の重圧に若干引き気味になりながらも、リリィは視線を馬車の外から外さない。
相変わらずラッセル湖の景観は見る者を圧倒する。今は朝早く気温も低いこともあり、水平線が曖昧になる程度に霧靄で覆われていた。
そんなやり取りを背後で捉えつつ、言われた通り湖畔沿いに馬車を走らせること暫く後。
「…………」
おもむろにハクロは魔導具を収納していたポーチに手を伸ばした。
――カタン
それと同時に、昨日から引き続きティルダが籠っていた木箱の蓋が動き、隙間から彼女が顔を覗かせる。
「……ハクロさん? ティルダさん?」
その様子にリリィは困惑したように2人の間に視線を行き来させる。一方でザラは変わらず、意味深で物知り気な笑みを崩さずに黒い尾を揺らしていた。
「抑えてくだサイね。あまり騒がしいと追い出されマスよ」
「…………」
荷台からすっと腕を伸ばし、ザラは御者席の脇に置かれていたランプを掲げる。
その瞬間、深い霧の奥から青白い光の玉がふわりと綿毛のように漂いながらこちらに向かってくるのが見えた。
「……あれ」
その時になってリリィもようやく気付く。
一体いつから馬車を引くタマの鼻先がようやく見えるほどに霧が立ち込めたのだろうか。ザラと談笑しつつも馬車の外の景色をずっと眺めていたはずなのに。
「……あれが」
「ええ、ええ」
ハクロにしてはぎこちない動きで抜きかけた魔導具から指を外し、警戒を続けながら近寄ってくる光の玉を凝視する。
『だれ、だれ?』
光の玉から幼い少年のような声がする。
それは空気を揺らした音が耳に響くというよりも、頭の中に直接意図を流し込まれるような感覚だった。
「先日もお会いしマシたね。飴屋の『くろねこ』でゴザイます」
ザラがランプを軽く揺らしながら小さく笑う。光の玉は『うーん?』と悩むような口ぶりふわりとした動きでザラの顔を覗き込む。
『くろねこ。くろねこ。あめや。おもいだした、くろねこ! またきたんだ、またきたんだ!』
「ええ、ええ。覚えて頂いて光栄デス。今日は他にも何人か一緒ですが、入らせて頂いてヨロシイでショウか?」
『いいよ、いいよ。またあめちょうだい!』
「ええ、ええ。コチラをどうぞ」
ザラはにこりと笑いながら一度ランプを置き、懐から飴玉を取り出して包み紙を解く。それを差し出すと、光の玉は『わあい!』と幼子のようにはしゃいだ。
次の瞬間、彼の纏っていた光が凝縮するように一つにまとまり、人の形へと変じる。
「あ……」
リリアーヌから知識を授かってはいたが、リリィもその目で見るのは初めてだった。
手のひらに乗るほどの小さな体にツンと尖った耳。さらに背中には一対の光り輝く透明の翅があり、それを動かし飛び交う度に周囲に鱗粉のような光る魔力の欠片が舞い散っている。
フェアリー族。
ラッセル湖に棲み処を持ち、湖都から出ずに過ごす者が大半であるため未だに謎多き種族――湖都を訪れたのだから出会うのは当然だと分かっていたが、実際にその目で見るまでどこか現実感のない存在でしかなかった。
「ほわあ……」
そんな間の抜けた感嘆が口から零れる。
魔力の光を纏いながら宙を漂うその存在を言い表す言葉が、リリィには咄嗟に思いつかなかった。不可思議とか、儚げとか、頭の片隅で言葉を組み合わせるが、いまいちリリィの中でしっくりとこない。ぐるりと腹の中で奇妙な感覚が渦巻くのを感じるが、それすら言語化ができずにただじっと成り行きを見守るしかない。
「それでは通らせていただきマスね」
『じゃあね、じゃあね!』
フェアリーにとっては一抱えもある飴玉を受け取ると、彼は手のひらに魔力を込める。すると飴玉は麦粒半分にも満たない大きさにまで小さくなり、フェアリーでも一口で頬張れるようになった。
「…………収縮魔術……の、原型……」
箱の中から覗き込んでいたティルダが思わずといった風に呟く。
昨今ではどの公共施設でも見られる対オーガ族向けの収縮の魔術だが、今目の前で起きた現象はそれを術式として整理する前の原始的な魔法だった。魔導具技師としての琴線に触れたのか、箱の中からンフフフフフとくぐもった笑い声が聞こえてくる。
だが。
「…………」
ただ一人、ハクロだけは釈然としないと言った表情のまま、タマの手綱を握り直して再出発の指示を出した。





