最悪の黒-130_一日早く
ザラとの再会から11日後。
ハスキー州都から南へ馬車で3日ほどの距離に位置する大陸最大の淡水湖であるラッセル湖が街道からも見え始めた。
「うわ、うわ、うわ、あれが湖ですか……! まるで海ですね!」
御者席からタマの手綱を握りながらリリィが感嘆の声を上げる。
面積約85,000㎢、最大水深397m、貯水量約13,500㎦という水の塊は、山育ちで水と言えば川やため池くらいしか馴染みがなかったリリィからすると圧巻の一言だった。海はジルヴァレで経験済みだが、対岸が見えないほどの淡水というのは完全に初めての経験である。
「ハクロさん、ティルダさん! 見てくださいよ!」
と、頬を上気させながらリリィが荷台を振り返る。
だが呼びかけられた二人はと言うと。
「つまり俺のいた世界では言語や文字が国……あー、地域によってバラバラで、それらによって構築される魔術の形態も様々なんだ」
「……それだけ聞くと、とっても不便そうに感じる……この世界の統一された構築式と違って、ハクロさんの世界では土地ごとに術式が上手く作動しないこともあるよね……?」
「その通りだ。だが統一されていないってことは多様性に富んでいることだからな、一つの言葉で多重の概念を付与することで術式負荷を軽減できるんだ。例えば『春』という一つの単語を術式で示すと、四季の一つという意味の他にも『東』『青』『木』『鱗』といった意味を持たせることができる」
「い、一単語で5パターンの概念付与が……!?」
「そこから転じて、本来は直接意味しない属性を付与することも可能だ。分かるか?」
「え、と……あ……! 『木』を分解して『水』と『地』ってこと……?」
「そうだ。こっちの世界で植物に関連する術式を構築しようとすると四大属性のうち2つを用いなければならんが、俺の世界だと単語一つで完了する。まあ実際に木を操ろうと思ったら『木』っつー直接的な属性が存在するからそっち使うんだけどな。これは場合による」
「な、なるほど……木属性……便利そう」
「とは言え直接概念付与するこっちの魔術にもメリットはもちろんある。そうだな、こっちの世界の魔術は積み木のブロック、俺の世界の魔術は木材と釘と言えばイメージしや――」
「ふぬぬぬぬぬ!!」
「おわっ」
バサササササ――と、荷台でティルダ相手に魔術談義を展開していたハクロの後頭部に尻尾を擦り付けるリリィ。その何とも言えないむず痒い感触に、ハクロは振り返らざるを得なかった。
「どうした」
「湖が! 見えました! すごく! 大きいです!」
「言葉を覚えたての子供か」
単語単語を強調させながら不満げにむくれるリリィの頭に手のひらを乗せながら、ハクロは荷台から御者席へと身を乗り出す。
「おお、確かにでけぇ。数字で知るのと実物見るとじゃ大違いだな」
「あれだけ大きくて綺麗な湖なのに、フェアリー族の都がある以外目ぼしい特産品がほとんどないって不思議ですよね。その都も部外者はほとんど入れないですし」
「ん……湖底に大規模な魔石鉱脈があって魔物が湧きやすい、から……」
リリィを挟んでハクロと反対側からすぽんと顔を覗かせるティルダ。湖都には入れずとも湖畔までは来たことがあるらしく、リリィの疑問にそう答えた。
「魔物が湧きやすい湖底資源ねえ。まあ近くに掘りやすい鉱山があるのにわざわざ手は出さんか」
「ただでさえ浚渫は魔術を併用しても手間がかかるし……な、何より、フェアリーたちが怒るかもしれないし……」
「そりゃそうだ」
未解明であるがゆえに魔法で何をしでかすか分からないフェアリー族の棲み処を荒らすより、大人しく山を掘る方が堅実なのだろう。国の概念がないこの世界では未開拓地に対する熱意は限りなく低いということもある。
そう考えるとやはり、フロンティア精神溢れるルネはかなりの異端なのだと、こんなところでも改めて実感する。
そのまま馬車を走らせること数時間。
久しぶりの仕事ということもあって初日は重くなった体を億劫そうに引き摺っていたタマだったが、流石に3日目ともなれば多少は感覚を取り戻し始めたらしい。馬車の車軸も滑らかに回り、暖かな陽気の中で湖畔に沿って進む旅は心地好いものだった。
そして当初の予定通り、もしくは予定よりも一日早く、ハクロたちは湖畔のギルド宿へと到着した。
時刻は夕刻に差し掛かり、西の裾野から零れる夕陽が湖面に反射し、宿の置かれた広場全体を赤く照らしていた。
「……やけに人気がねえな」
「商人ギルドの人たちもいないですね?」
「小屋……は、あ、あそこみたいだけど……」
だがしかし、広場にはハクロたち意外に人影は皆無だった。商人ギルドの宿はこれまでも何度となく利用してきたが、馬車を格納する小屋や畜舎の割符を配っている職員すら見かけないということは今までなかった。せいぜい、畜舎によぼよぼのロバが一頭繋がれているくらいである。
「仕方ねえ。中で人を探してくる」
「あ、私も行きます!」
「……ん。じゃあウチは待ってる」
荷台からハクロが降りると御者席のリリィも続く。それと入れ替わるようにティルダが馬車で留守を預かるのを確認すると、ハクロはリリィを伴って宿へと足を踏み入れた。
「おーい、誰かいるか?」
「……けほっ」
扉を開けると妙に湿っぽい空気にリリィが咽る。見渡すと、部屋の隅には掃除が行き届いておらず埃やカビが溜まっており、天井からは所々古い蜘蛛の巣がぶら下がっていた。それでもカウンター周辺は辛うじて最低限の拭き掃除がされており、全くの利用者がいない廃墟というわけではなさそうだ。
「……ぁあ?」
年老いた鶏のようなしわがれ声がカウンターの奥から返ってくる。見ると、新聞を毛布のように顔に被せていたホビットと思しき小さな人影が椅子に腰かけている。
声の主は乱暴に新聞を引っ手繰ると胡乱な視線を二人へと向けた。
「うちは休憩お断りだよ」
「はい?」
「…………」
その言葉の意味を理解できなかったらしいリリィは一旦置いておいて、ハクロは肩を竦めながらカウンターから睨んでくる老ホビットに歩み寄る。
「依頼を受けてきた。ザラという女とここで合流することになっている」
「……ああ、アンタがそうか。おぉい!」
がなるように老ホビットはカウンターのさらに奥の部屋へと声をかける。
すると扉の奥から「はいはァい」とわざとらしい鼻につくような猫なで声で返事があった。
「…………」
「あ、他にも職員さんがいらしたんですね。……ハクロさん?」
隣に立つハクロが不愉快そうな、あるいは悔しそうな感情を眉間に込めているのに気付いたリリィが首を傾げる。
しかしそんなことなどお構いなしに、ハクロの不機嫌の元凶は胡散臭くのほのんとした笑みを浮かべながら扉を開け放った。
「オヤオヤお早いお着きデスね。それほどワタクシに先んじて待っていたかったのでショウが、コチラにも旅程と準備という物があるのデスよ。そして見てのとおり散らかったままデスので、お掃除のお手伝いお願いしてもよろしいでショウか?」
そう言いながら、魔術ギルドの職員制服姿の獅人族の女は2人分の清掃用具を差し出す。
ハクロの目論見をあっさりと出し抜いた彼女――ザラは長くしなやかな黒い尾をふわりと揺らした。





