最悪の黒-125_当然の結果
ハクロが自室で目を覚ますと、年始三日の祝日も終わりかけの夕刻だった。
寝正月で惰眠を貪っていたわけではない。
普通に体調不良により意識を失っていたのだ。
原因は言わずもがな、ルネに連れ出されたフーラオ山登頂――その無茶な下山によるものだ。
「高い標高から一気に麓まで移動してしまったことによる呼吸困難、血圧の急低下。つまり地上で潜函病を発症していた。さらに超加速による下半身へ血液が集中し、脳へ血が回らなかったことによるGロック。ついでにフーラオ山頂という超高濃度魔力地帯に長時間滞在したことによる魔力過多から生じる不調――魔力酔い。これはリリィ先生の見立てだな」
身体強化魔術と言えど万能ではない。術式の強度と精度は術者に委ねられるが、刺されれば痛みを感じるし、関節をあらぬ方向に曲げられれば外れる。首を絞められれば窒息し、無茶な環境変化には耐えきれずに不調をきたす。
年末年始は拠点から離れた自宅でのんびりと過ごす計画を立てていたテレーゼが緊急で呼び出されたのが1月1日の早朝。そこからの3日間をリリィと交代でハクロの容態チェックを続けたらしく、苛立ちが全身から溢れ出ていた。リリィの前では控えていた喫煙を今や隠すことなくモクモクと吹かし、白衣からも強烈な煙草臭が立ち込めている。
そして彼女は手に何かの長い木片を手にし、パンパンともう一方の手の平で叩いていた。
「それで、何か言うことは? ――姫様」
「……ごめんなさい。調子に乗りました。以後気を付けます……」
「…………」
ハクロは思わず絶句した。
鎧の手足だけでなく目元を覆っていたリボンまで取り上げられ、床に膝――は、つけないため尻をついて老婆のように目元をしょぼくれさせている女は本当にルネなのか。心なしか、いつも炎のように揺らいでいる金色の髪も力なく萎れていた。
ついでに言うならば、病床に就いているハクロからも見えるほどのたんこぶを脳天に拵えている。
「ふふ、びっくりしたかしら?」
ずるり。
ルネと思しき女の影から黒髪に翡翠色の瞳のエルフが這い出てきた。
Aランク第拾肆位階〝夜帳の裁断者〟――ルネにまとわりつくだけの影ことイルザだった。明るいところで改めてその影の術式を見ると大変気色悪い。百足や蚰蜒のような多足生物を彷彿とさせる動きをしていた。
イルザはしょぼくれルネを背後から抱きしめると訳知り顔でテレーゼに視線だけを向ける。
「改めて紹介するわね。彼女はテレーゼ・レイド。私の姉よ。そして姫様が幼い頃からの専属の医術師で、教育係の1人だったの」
「私をレイドで括るな変態め。お前と同家の出なんて汚点、こっちから捨ててやったんだ」
「あらら、姉さんは相変わらずツれないわねー」
ルネに頬擦りしながらクスクスと笑い、イルザは反省の色を微塵も見せない。
そして改めてイルザとテレーゼを見比べると、薄灰色の髪の毛と農紺色の瞳で印象がだいぶ違うため気付かなかったが、垂れた目元やつんとした鼻立ちは血のつながりを感じさせた。テレーゼの目尻の隈を消してヘラヘラとした笑みを浮かべさせればかなり似ていただろう。
「ふふ、怒られてしょげちゃった姫様も素敵よ」
「お前がそうやって甘やかすから……いや、いい」
何を言っても響かないのは経験から悟っているらしく、テレーゼは煙草の火を指先で握り消しながら深い溜息を吐いた。
「……ともかく、今回の件は十零で姫様が悪い。君には迷惑をかけた、ハクロ。元教育係として謝罪させてもらう」
「いや、まあ、こうして無事だし、俺からこれ以上何か言うつもりはないんだが」
というよりも、相手に事態を把握させる前に事実を列挙し、正しく謝罪の意を示されては何も言い返すことができない。3日間寝込んでいた割には本当に体調に違和感はない辺り、恐らく治癒魔術も使ったのだろう。
そこでさらに気付く。ルネの頭のたんこぶだが、彼女は軽傷に対する治癒魔術を不得手としている。自分で治癒魔術を施すことのできない程度の怪我かつ、それ以上故意に重傷化させることが難しい頭部に制裁をぶち込む辺り、このテレーゼという医術師はルネの扱いにやたらと長けていた。
「……あんたみたいな教育係が10人もいればなあ」
「姫様の教育に関わった人は20人以上いたけど、姫様に強く出られたのは姉さんだけよねえ」
「そこの変態とスヴェトラーノフの小僧含めて碌なのがいなかったからな」
自然体のルネを溺愛するストーカーと、既に娘一人の情操教育に失敗した後のギルド長では荷が重かったようだ。いや、イルザは別としても、他の教育係も本来であれば優秀であったのかもしれない。彼らを精神的にも物理的にも振り回していたルネが異常であり、そのルネに鉄拳制裁できるテレーゼもまあまあ異常だ。
「さて、目覚めたとは言え今夜までは安静にしておくように。明日からは様子を見ながら軽めの依頼であれば受けても構わない」
「ああ、世話になったな」
「不調があればリリィ先生に言ってくれ。私は寝る。……イルザ」
「なあに?」
甚だ不本意といった口調でルネにまとわりついていた影に声をかける。
「明日の公務に遅れないよう姫様を王都までお連れしろ」
「もちろん、了解したわ」
頷くと、イルザは出てきた時と同じようにずるんと気色悪い動きでルネの影へと潜り込んだ。それと入れ替わりに影の中から細い触手のような腕が何本も生え、ルネを神輿のように担いで部屋から連れ出す。
意気消沈から立ち直れていないルネはなされるがまま微動だにせず、そしてしばらくすると別室の転移魔方陣が起動する気配がしてルネの魔力が拠点から消えた。
次に会う時には元に戻っていてくれと、ハクロは珍しく素直に懸念し溜息を吐く。
ずっとあのままだと逆にやりにくい。
「ではな」
そして最後にテレーゼがふらりと手を振り部屋から立ち去る。
なんとなくその背を目で追うと、扉の隙間から4人分の視線がこちらを覗き込んでいるのに気付いた。
「……入ってきていいぞ」
ベッドに横になりながら手招きすると、4人――リリィとバーンズ、ティルダ、そして王都から戻って来たらしいエーリカがトトトと静かに入ってくる。遠慮という概念を母親の腹の中に置き忘れて生まれてきたような彼女たちの珍しい態度に、ハクロは思わず小さく噴き出してしまった。
「どうした。ここは勢いよく飛びついて、戻って来たテレーゼ怒鳴られるのがお決まりの展開だろ」
「……いえ、ハクロさんはあの光景を知らないからそんな暢気なことが言えるんです……」
「姫様がテレーゼ先生にしこたま怒られるのは何度か見たことあるけど、相変わらずこえーよあの人……」
「……関係ないのにウチまで泣きそうになった」
「父もあの人には頭が上がらないそうですよー」
ガタガタと震える駄犬駄犬狂犬とは対照的にいつも通りののんびりとした笑みを浮かべる狂兎。こいつはこいつで仮にテレーゼの怒号と鉄拳制裁を受けても調子を崩すことはないだろうな、と内心呆れた。
「つーわけで、医術師の許可も出たことだし明日から依頼を回していくことになるが」
「いや切り替えはえーな!」
「そ、そうですよ! もう1日くらい休んでも……」
早速明日からの仕事の話を始めようとすると、バーンズとリリィが呆れて止めに入る。ティルダも小さく頷いているが、ハクロとしては意識を失っていただけで肉体的疲労は完全に癒えている。なんなら魔術もかけられていたため不調らしい不調は一切感じられないほどだ。
「つーか、むしろ3日も寝たきりだったせいか体が重い気がする。バーンズ、今から組手してやってもいいぞ」
「駄目ですよバーンズさん!?」
「いや流石に今はいいって!? リリィ先輩も真に受けないで!?」
キャンキャンと吠え合う駄犬たちを眺めつつ、エーリカはポーチから小さな手帳を引っ張り出して中身をぱらぱらと確認する。
「今『太陽の旅団』で受けている坑道調査依頼は28件ですねー」
「……なんか増えてねえか?」
年末の休暇前の時点で残り23件だったはずだ。
「新しく発令されていた依頼をまとめて受注しましたー」
「だろうな……」
本当にこの街はこの手の依頼が後から後から湧き出るらしい。
「よし、バーンズ」
「お?」
とりあえずの方針を頭の中で決め、バーンズに視線を移す。
「お前は明日からしばらくエーリカと組んで坑道調査だ」
「「え!?」」
バーンズとエーリカの声が重なる。それほど意外な提案でもないだろうに、ハクロは構わず方針を打ち出す。
「エーリカ、バーンズに例のやり方を伝授してくれ」
「そ、それはいいんですけどー……ていうか、前にちらっと言ってた考えって、バーンズを参加させるってことですかー?」
「そうだ。今のバーンズなら魔力属性の偏った坑道内でも問題なく動ける」
「ま、待ってくれハクロさん!? そもそも俺の得物じゃ狭いとこでは戦えないから別の依頼回されたんじゃ……」
「大丈夫だ。俺のやり方ならそもそも戦う必要がないからな。手ぶらで行って来い」
「は!?」
「……意味わかんないと思いますけど、言葉通りなんですよねー……」
何が何やら分からないと困惑するバーンズ。結局その場ではそれ以上の説明がなされず、翌日の依頼先で悲鳴交じりに坑道を駆け抜けることとなった。





