最悪の黒-122_日の出
――キン
雪中を歩くこと1時間余り。
耳鳴りと共に空気が変わった。
「……?」
吹雪と魔力風により視界もままならず、数メートル先のルネの姿も見えずに彼女の高笑いだけを頼りに歩みを進めてきた。しかし顔を上げると、悪戯に成功した悪童のような笑みを浮かべてハクロが近付くのを待っているルネの姿がはっきりと視認できた。
それと同時に、身体強化を貫通し全身に突き刺さるように感じていた寒さがなくなり、むしろ温暖な天候にじっとりと汗が滲みすらし始める。
「……ッ!!」
真っ先に思い浮かんだのは低体温症の症例の一つである矛盾脱衣だった。体温が一定以下にまで下がると生命維持のために血管が収縮し放熱が抑制される。この際に実際の体内温度と体感温度に差が生じると暑さを感じ、雪中でありながら服を脱いでしまうという現象だ。
つまり現在、己は低体温症を発症してしまっている――そう考えたハクロは体内の魔力循環を普段以上に意識し、身体強化術を介して代謝機能を正常化させるよう努める。
「ん……?」
だが改めて術式を巡らせるも、何の変化もない。むしろ道中よりもスムーズに発動している。
というよりも、あれだけ滅茶苦茶だった自然魔力の波長が安定し、水と風に偏っていた属性も炎と地が適度に混在しているようだ。
つまりは今ハクロが感じている暑さは炎属性の影響であり、本当に気温上昇によるもののようだ。吹雪が止んだのも地属性魔力の効能が気象現象を上回った結果だろう。
「ふふ、どうだ。面白かろう」
ハクロが周囲を見渡しながら近付くと、ルネは「その反応が見たかった」と言わんばかりの満面の笑みを浮かべた。
「魔力濃度は麓と比べると格段に高いが波長が安定している。嵐の目みてぇだな」
「構造としては近い。地中や大気中を流れる総ての魔力は属性や波長を千差万別に変貌させながらこのフーラオ山へと辿り着く。そしてその手前で波長や属性を激しく変貌させ、山頂にて統一された波長の四大属性へと成り、雨のように大陸中へと降り注ぎながら再び波長や属性を変え、再びここへと戻ってくるのだ。……真の山頂はもうすぐそこだ。行くぞ」
ルネは再びハクロに背を向けると、先程までとは比べ物にならない速度で山頂目指して浮遊する。ハクロも外気温や天候に気を配る必要がなくなったため、肩を並べるようにルネと共に翔た。
速度を維持すること数十分――ハクロたちはフーラオ山の先端へと辿り着いた。
麓から見上げても魔力を纏った雲で覆われて視認することもできなかったが、なんとなく氷食尖峰と呼ばれる鋭い槍状の地形を想像していた。だが安定した魔力分布による温暖な気候で氷河など発生するわけもなく、そこだけを切り抜いたらちょっとした丘の上といった風情すらある。なんなら地衣類や低草まで所々で見かける光景に改めて異世界を感じた。
「うむ、今年も無事に夜明け前に辿り着けたな!」
ルネがクイと背筋を伸ばし、ふかふかの苔で覆われた山肌に腰を下ろす。
眼下には道中で嫌になるほど感じた吹雪と魔力風を生み出す分厚い雲で一面灰色だが、視線をまっすぐに向けると仄かに赤紫色に変わり始めた空と海が広がっていた。
そしてその色合いは少しずつ明るみを増していき、そして数分の間を挟んで目を刺すような陽光となった。
「……ほう」
ここに来るまでにそこそこ疲労してしまったというのもあるが、その光景を野暮な言葉で言い表すのも不躾に感じた。
ハクロは無言でルネの隣の腰掛け、東の空をじっと見守る。
「お、良い所に背もたれがあるではないか」
「……おい」
ふわりとルネが身を翻し、ハクロの脚の間に身を滑り込ませて胸を背もたれにしだす。一瞬だけ身を捩って抵抗しようとしたが、ルネが完全に魔力操作を断ち切って寄りかかってきてしまったため、溜息交じりに椅子としての役割を受け入れるしかなかった。
「ったく……」
「ティルダやリリィがじゃれついても何とも思わぬのに、何故余はいかんのだ」
「アレは俺もどうかと思ってんだよ。お前に関しちゃ、上司だし王女だし、何より同い年だろ」
自分より年下のリリィやティルダには呆れが勝るが、相手がルネともなると流石に気恥ずかしさが競り上がってくる。
「キスも渋るしこの程度のスキンシップも苦言を挟まれるとは……いや、これは逆に考えれば余にも可能性があるということではないか? 少なくともあの2人とは違い妹とは思われてはおらぬわけだしな!」
「この前もそうだったがなんでそんなガツガツ来るんだ」
エルフは生殖本能が薄いという定説は何だったのか。いや、ルネの場合は先祖返りを起こしている可能性が高いため該当しないのかもしれないが。
「ギルド証上でのやり取りを除くと俺とお前が顔合わせたのなんて5日かそこらしかねぇんだぞ」
「時間など大した問題とはなるまい。父上と母上など見合いで互いに一目惚れし、翌月には婚礼の儀を交わしたと聞く」
「血筋じゃねーか」
まあ王の元に総べからく皆平等であると謳われるこの世界では貴族という階級すらないため、王族の婚儀に政治的取引が健全な意味で存在しない。そのためそういうことも起こりえるのだろう。
「言っとくが、俺はいつかこの世界からいなくなるんだぞ」
溜息交じりに、視線を下へと向ける。
ルネの赤交じりの金髪のつむじがすぐそこにあり、ほのかに甘い香りが漂って来た。
「それが何年後か、何十年後か、……流石に何百年もかかるとは思いたくねえが、それでもいつかはあっちに帰るんだ。そん時には後腐れなく可能な限り痕跡を残さないよう消えるつもりだ。だというのに女に、なおさら王女に手なんか出すわけねえだろ」
「で、あろうな。故に余は貴様を引き留めるべくこのような素振りを見せているのだ」
「…………」
面倒になってきたなと思いつつ、ハクロは視線をルネのつむじから空へと向ける。
完全に日が昇りきるまではもう少しかかるようで、水平線は色付いてきたものの南北に視線を向けると境目は未だ曖昧だった。
「余は海の外を目指す。この世界は余には狭すぎる。だが海を渡り、『滅びの聖地』や『龍の墓場』を制した後、それでも余のこの圧迫感が晴れぬとしたら――そう思い悩む夜も幾度となくあった。そこに現れたのが異世界人である貴様だ、ハクロ」
「…………」
水平線が揺らぎ始め、紫色の空に朱が濃くなり始める。
夜明けはすぐそこだ。
「市井や臣官は見向きもせんが、余は古典を嗜む。そこに時折登場する異世界を彷彿とさせる言葉にどれほど心躍らせ、滾り、そして消沈したことか。史書をどれほど紐解いても、異なる世界の証明や行き方など、どこにも残されていないのだ」
「……俺は、王家の始祖やギルドの創始者である賢者たちは異世界人だと憶測しているが」
「それは余もそうではないかと考えた。だが龍王ツルギを除き、他の賢者たちの出生は明らかとなっているのだ。勿論彼ら自身がそのように記録を捏造した可能性は否定できぬがな」
故に、とルネは呟く。
「貴様の存在は、明確に世界の外に異なる世界が在ることを余に指し示してくれた。この世界の人類とほぼ同じ体構造をしているにも関わらず魔力の根源――魂が全く異なる貴様を見た時、余は貴様を決して手放さぬと心に決めたのだ。余はこの世界を制した後、貴様を導とし、そのさらに外へと身を投じたいのだ」
「…………」
光を映さない両の目は魔力だけでなく魂まで見えているらしい。
そして、だからこそ、ハクロが自分たちとは違う存在であると見破った。
「いつか貴様はこの世界を去るだろう。それその物を余は引き留めるつもりはない。だが余の野望が叶うのが先か、貴様の悲願が叶うのが先か、そこまでは分からぬ。仮に貴様の悲願が先に叶い、貴様がさっさとこの世界から旅立ってしまったらと思うと……余は胸の奥がずたずたに斬り裂かれたように痛むのだ」
「……お前ならいつか自力で世界の外にも足を運べるんじゃねえの。わざわざ俺に未練を残させ、引き留めなくてもな」
「買い被りすぎだ。何の先駆けもなく立って歩けるほど、余は器用ではないぞ」
クスリとルネが微笑むような気配がする。
彼女を後ろから抱き留めるような姿勢では、実際にどんな表情をしているのかなど皆目見当もつかない。
「……そんなしょうもない楔のために自分の身を差し出すな」
「貴様は機微に敏いが、どうやら余の本気が伝わっておらぬようだ。では覚悟せよ、ハクロよ。貴様の妹君の復活に余は助力は惜しまぬが、それと同時に余への未練が少しでも残るよう邁進するぞ。なに最悪、貴様の子を孕むのは余でなくとも――いや、やはりそれは癪に障るな。ふむ、やはり今後も余自らぐいぐいと行くとしよう」
「そんなこの世の終わりみたいな口説き文句があるか……」
ようやっと、いつもの皮肉めいた軽薄な笑みを張り付けてルネの頭頂部に向かってわざとらしく溜息を吐いた。ルネはくすぐったそうに身を捩ると、ハクロの視界の端で金色の髪がゆらりと落ちる。
何となくその髪の毛を指先ですくい上げると、ルネはいつもの不遜な口調で頭をハクロの胸元に頭を押し当ててきた。
「貴様はこれくらいひねくれていると見せかけた直球が好みであろう?」
「まあ、そうだな。ただ考えなしに言い寄られるよりかは髪の毛一本分マシかもな」
「なんだ、もうすぐそこではないか」
「自己評価が高すぎる。なんで既に密着してる前提なんだ。もっと遠いわ」
「事実密着しておるだろう」
「お前が寄りかかってきてるからだろ。このまま麓に放り投げるぞ」
「何度でも這い上がってきてやろう!」
「怖すぎる……」
ルネの髪の毛を手放し、心の底から溜息を吐く。
「……まあ、なんだ。俺の目的が先に達成されたとしても『じゃあな』でいなくなるつもりはねえよ。幸いにも俺からしてもこの世界での時間はたっぷりある。お前の我が儘にもある程度は付き合ってから帰るよ」
「ほう。ではまず次代の王の名でも考えるか。いやそれよりも人数か?」
「一足飛びに距離を詰めようとすんな。そっちの話に乗るつもりはサラサラねえんだよ」
「いだだだだ」
親指を立て、ルネの額に突くように押し付ける。後頭部がハクロの胸元に押し当てられているため逃げ場がなく、半分笑い交じりではあるが小さな悲鳴が上がったところで満足して手を放した。
ふと視線を持ち上げる。
「お」
くだらない話をしている間にも朝日は完全に昇りきったらしい。
濃い朱色から白味の強い黄色へと変わった太陽は水平線から完全に浮かび上がっている。
思えば、このフーラオ山の登頂成功者はこれまでルネだけであったが、視力のない彼女はこの日の出を正しい意味で見たことはないのだ。つまりハクロはフータオ山からの初日の出をその目で見た初めての人物ということになる。
そう考えるとこの神秘的な光景に俗物的なありがたみが加算され、思いのほか気分が良い。その感性は元居た世界の育った風土によるものだろうが、存外悪くなかった。
「……ん? は?」
だが目の前に広がる光景の違和感にようやく気付き――ハクロは思わず背筋が伸びた。





