最悪の黒-114_御前試合
その後、ティルダが本格的に製図作業を始めてしまったため、打ち合わせはお開きとなった。
ロウとマルグレートはそのまま拠点を発ち港湾区へと戻り、凸凹コンビも各々の作業部屋に涙目で籠ってしまった。予定よりも少し時間は早いがハクロはバーンズとリリィ、ついでにエーリカを伴って傭兵ギルドの共用訓練場へと足を運ぶことにした。
「うっし!!」
バチンと景気よく両頬を叩き、バーンズが気合の声を上げる。
昨夜は早々に酔いが回ってダウンしてしまったが、それが逆に十分な休息となったようで今日は一段と調子が良いらしく、その場で軽く跳ねながら体を温めていた。
一方のハクロも軽く柔軟で体を解きほぐしながらバーンズに視線を向ける。
「おい、槍はどうした」
いつもの組手だけでなく彼が依頼で愛用している片刃槍の魔導具を持ってきていなかった。ハクロと違いバーンズはフェアリーのポーチを所有していないため、どこかに隠し持っているというわけではないはずだ。
「ああ、しばらくはいいんだ」
バーンズが拳を握り開きを繰り返しながら小さく笑う。
「ハクロさんに剣を抜かせるまで、俺も素手でいくって決めたんでね」
「……はっはー。生意気な」
元居た世界には剣道三倍段という言葉があった。曰く、無手の者が武器所有者に勝つには3倍の段位が必要という俗説だ。
この街に着いてからはお互い別依頼が充てられたこともあり、その成長具合を直接目にする機会はなかった。とは言えこれまで素手のハクロ相手に槍を使っても一方的にボコボコにされていたバーンズが、この2週間弱で3倍差があった力量を詰めることができたとは思えない。流石に自己評価が過剰に感じる。
とは言え――油断してやるつもりもない。
「いいぜ。圧し折れない程度に磨き削って撫ででやる」
「よろしく頼むぜ、ハクロさん!!」
バーンズは拳を握り――その瞬間、彼の周囲に渦巻いていた魔力が凝縮された。
「……ほう」
訓練場見学席で鎧の手足を組んでいたルネが感嘆の声を洩らす。
昨夜の魔力が空っぽの状態から復帰したバーンズを今朝方見かけた時は、正直なところ落胆していた。
ハクロはバーンズを指して「仕上がっている」と評していたが、最後にジルヴァレの討伐任務に送り出した時に顔を合わせた時とさほど変化はないように感じていた。
魔力の勢いは変わらず瞠目すべき点ではあるが、むらっけが強く癖や偏りが大きい。
得意な相手にはとことん強く出れるが、苦手な相手、もしくは一度体勢を崩されるととことん弱い――それがバーンズに下していたルネの評価だった。
だがしかし、今朝時点の起き抜けの緩んだ状態と今目の前で瞬時に臨戦態勢を整えた状態では別人と見間違うほど、魔力の流れが洗練されている。以前までは利き腕と利き足の輪郭さえぼやけて見えるほど過剰に魔力が偏り、それ以外は蝋燭の炎のように吹けば消えてしまうのではないかというほどバランスが欠いていた。
「バーンズとはああいう背格好をしていたのだな」
しかしルネは今日初めて、バーンズ・ウォーカーという男の姿をはっきりと視認した。
ルネの目にくっきりとその人物の姿が映るほど全身の魔力の流れを掌握できている傭兵はほとんどいない。師にしてギルド長でもあるAランク第肆位階〝獅吼〟・スヴェトラーノフを始めとした、Aランクの中でも上位階に名を連ねる一握り――それとハクロだけだった。
見ていたい。
バーンズ・ウォーカーがこの短期間で積み重ねた修練の成果を、物語を、一欠片も、一編も見逃すことなく読み解きたい。
ルネは意識の外で口の端が吊り上がるのに気付かず、じっと訓練場を魔眼で感じ取る。
しかし次の瞬間――バーンズの姿が消え失せた。
馬車での旅の合間で欠かさず交わしたハクロとの組手を思い返しつつ、バーンズはハクロの得意とする戦術、というか悪癖についてはかなり以前の段階で気付いていた。
徹底した後手確殺――それがハクロの常套手段であり、最大の脅威だった。
一体どういう術式と魔力操作のセンスをしているのか今のバーンズでは推し量ることもできないが、ハクロは受けるはずだったダメージを防御術式を介してほぼそのまま相手に返している。最初にソレを食らった時、何故自分が地面に転がり揺れる視界の中意識が遠のいていくのか理解すらできなかったほどだ。
だが何度も何度も気が遠くなるほど――実際に都度気は遠のいている――組手を積み重ね、ハクロの防御術式の性質と効果、さらにそれを用いた戦術は把握できた。
さらにハスキー州都で宛がわれた過酷な肉体労働を通して一歩前進させることができた魔力制御を合わせ、今ならばハクロに一撃くらいならば有効打を入れられるのではないかと準備を重ねた。
あえて槍を使わないことにしたのも、挑発というわけではないが、こちらの力量を見誤ってくれた方が都合がいいからという打算的な理由もある。ついでに今朝から今に至るまで意識して以前通りの野放図な魔力制御でいたのも、ハクロの誤認を誘えればという目論見もあった。
「ふっ――」
あえてむらを作っていた魔力制御を呼気と共に凝縮させ、全身の筋や血管の一本一本を意識するように術式を通わせる。何の変哲もない、傭兵ギルドに所属する前衛職ならば見習いのうちに叩き込まれる極ありふれた身体強化術。
だが直前にさらして見せた無様な魔力制御から落差から認識にラグが生じているはず。
一歩、バーンズは踏み込む。
靴底を介して訓練場の石畳がひび割れる感触がしたが、構わず、未だに棒立ちであらぬ方向を見ているハクロに肉薄する。
――まずは不意打ち成功!
元々無手での戦闘経験などほとんどないバーンズである。僧侶ギルドの闘僧と呼ばれる修行僧のような素手での戦闘は門外漢だ。拳の握り方も腕の振るい方も色々と間違っているのだろう。
だが足りない技術は魔力制御による身体強化と速度で補った。
『速さは力なんだよ……?』
ラキ高原での樹木系種の突発魔群侵攻対応に着いて来てしまったティルダの言葉が頭を過る。
確かに言うとおりだった。体当たりも同然の洗練されていないバーンズの拳でも、この速度に乗せればハクロ相手に正面からでも不意を突ける。
そしてバーンズの拳ががら空きのハクロの胴体に吸い込まれ――
「はっはー」
軽薄な笑いと共に、ハクロの長い前髪で隠れていた左目と視線が合った。
「あ……?」
振り抜かれた拳。
指には確かにハクロのシャツに触れている感覚はある。
だというのに異様なほどに軽い。
まるで風になびく柳の枝葉に拳を突き付けているような無情な虚無感。
――この感触は、覚えてる……!
ハクロの防御術式だ。
「物理にも――」
対応しているのか、そんな言葉を続ける余裕はなかった。
どてっ腹で受け止められたバーンズの拳の衝撃が術式に吸収され、ハクロの右の掌に滞留する。
カウンターが来ると理解した瞬間に体が強張る。
それとハクロの掌底がバーンズの顎を貫くように打ち据えたのはほぼ同時だった。
ガチン、とエルフよりも長く鋭い犬歯を噛み砕くように歯をぐっと食いしばる。
ミシッ――そんな軋むような音が微かに響いた。
「……ッ」
ハクロの右手から。
「上手い」
ルネは呟き、組んだ鎧の腕の中でピクリと指先を動かした。
ハクロの戦う姿を実際に目にするのはルネにとっては初めてだったが、その術式に込められた魔力の流れを汲めばカウンター狙いだということはすぐに分かった。
恐らくはバーンズもそれを理解した上で、あえてカウンターを誘ったのだろう。
双方どこまで意図していたかは流石のルネも掴みかねるが、バーンズの拳の勢いを術式で無効化し、その衝撃を魔力に変換して掌に集め、そのまま叩き込む。それを見越していたバーンズは即座に打撃箇所に魔力と身体強化術式を集中させ、防御として流用した。恐らくハクロの右手は岩を殴りつけたような痛みが走っていることだろう。
立ち合いの最初に見せた魔力操作の切り替えも素晴らしかったが、攻勢のために速度に偏らせた術式を一瞬で防御に回すことができるようだ。
静と動の切り替えによる瞬発力――それがバーンズが新たに身に着けた技ということか。
さらに言うならば、流石のハクロも対魔術用術式を咄嗟に物理的な物に書き換えきれず、バーンズの攻撃を完全に受け流しきれなかったのだろう。腹で受け止めたバーンズの拳の威力を自身の右手に流し込んでいる途中、肘の辺りで過負荷として魔力の流れが乱れたのを感知した。
あれでは本来のバーンズの攻撃の六割程度しか返すことはできなかったはず。
それもあってバーンズの防御の身体強化を撃ち抜ききれず、逆に右手にダメージを負うこととなったのだ。
とは言え。
「流石に打ち所が悪かったようだな」
「……ッ、……ッ!!」
ふらりとバーンズの足取りがもつれ、姿勢が崩れる。
身体強化を応用した防御により、顎への強打自体は防ぐことができた。これがなければ下手をすれば顎の骨が砕けていた可能性すらある。
だが掌底からの衝撃全てを打ち消すことが出来なかったようだ。頭部が激しく揺れ、視界が黒く塗りつぶされる。このままではまずいと意識して魔力を巡らせるが、その隙を見逃してくれるほどハクロは甘やかしてはくれるはずもない。
一瞬の後、再び視界が元に戻った時にはハクロの右手が下から抉るように胸座を掴み、さらに反対の手がバーンズのシャツの右腕を搾るように握り込まれる。
「あ”」
間抜けな声が食いしばっていた歯の隙間から零れた。
そしてろくに気持ちの準備をする暇もなく全身を浮遊感が包み込み、どうやら思いっきり投げ飛ばされているらしいと、やけに他人事のような思考が頭を過った。
反転した上下の視界の離れた場所で、満足げに頷いているルネとポカンと口を開けているエーリカが見えた。
そして今にも叫び出しそうな表情のリリィが強烈に脳裏に焼き付き――背中から石畳に叩きつけられ肺の中身が全部口から噴き出るのを感じ、ようやくバーンズの意識は遠のきプツンと途切れた。





