最悪の黒-111_おやすみの
イルザの闇を通さなければ行き来できない特別な地下空間で諸々の処理を終わらせて地上に戻ると、ルネの執務室の前に出た。
強烈な睡眠薬を盛られてケロりとしていた怪物のような女傑ではあるが、一応アレでも王女で傭兵大隊の首魁である。ルネの影であるイルザは問題ないと言っていたが、念のために様子を確認しようとドアを僅かばかり押し開けて中を覗く。
薄手のワンピースを着たルネがソファベッドではなく床に転がっていた。
「…………」
一瞬息が止まりそうになったが、よく見ればぐちゃぐちゃになった毛布が転がっている。両手両足がないくせにどうやら寝返りを打って床に落ちたらしい。それでもルネならば自力でベッドに戻ることなど造作もないことのはずなのだが。
「……やっぱり薬効いてんじゃねえか」
イルザ曰く、ルネは闇の中の様子に耳を傾けているとのことだったが、単に気合で意識だけ保っていただけらしい。事が済んで気を張る必要もなくなったため睡魔に身を任せたということのようだ。
「…………」
軽く舌打ちし、足を戸を立てないようにそっと近づく。
自称付きまとうだけの影は、刺客の対応以外は本当に付きまとうだけらしい。ベッドに戻して毛布ぐらいかけてやれよと内心悪態を吐きながらしゃがんだ。
いつもは目元に巻かれている赤いリボンもなく、銅貨の裏の彫像画そのままの美貌に思わず視線を外す。そして腕のない細い肩に右腕を、脚のない腰に左腕を差し込んでゆっくりと持ち上げた。
「…………」
両手両足がないと人とはここまで軽いのかと、床から抱き起してソファベッドに戻す。そして散らばっていた毛布を軽くしわを伸ばしながらかけてやり――
「なんだ、キスの一つでもしてくれるものと思っていたのだがな」
「……っ!?」
突如、多少肉付きは薄いが色艶のある口元が動き、いつもよりは不遜さは抑えられた声が漏れた。
「起きてたのか……」
「意識だけはな。だがどうにも体が……というか魔力操作が上手くいかない。背中が痒くて身を捩ろうとしたらベッドから落ちてしまった。余や貴様でなければ体機能と共に魔力循環がが停滞し、そのまま死に至っただろうな」
「…………」
そう言えばハクロも一滴ではあるがルネと同じ薬……というか毒を舐めてしまったのだった。この世界ではほとんど意識されていない人体魔力の掌握により、多少眠いだけで済んだようだがだいぶ危険な代物だったらしい。
「本当に問題ないんだろうな」
「ああ、朝食後のティルダとの打ち合わせは問題ない」
「そっちじゃねえよ。……いや、お前に何かがあったらティルダもヤバいという意味では問題だが。魔導具という魔導具を抱えて犯人を世界の果てまで追い詰めそうだ」
「……はは、そうだな」
冗談のつもりではなかったのだが、ルネは小さく笑うに留まった。
「体の方は本当に大事ない。今はほとんど動かぬが意識を保ち魔力を巡らせ、代謝を維持すれば数時間で無毒化できよう」
「そうかい」
「代謝を維持するために貴様の手を借りてもいいのだがな?」
「あ?」
その時ふいと、伏されていたルネの瞼が持ち上がった。
視力はなく、光を感じられず、魔力の動きのみで周囲の状況を感じ取っているルネにとっては形だけの目が露わになる。白目にほんのりと光属性由来らしい金色がグラデーションのように差し込まれ、瞳は燃える炎のように赤い。
だが眼球そのものはピクリとも動かず、何処というわけでもない空間に向けられている。
「代謝の維持……つまりは運動だ」
「具体的には」
「余の体を玩ぶ権利をくれてやろう。貴様のソレで余の――」
「ちょっとでも心配していたのが間違いだったな」
深い溜息と共に毛布をさらに持ち上げ、顎下まで覆うようにかける。
「なんだ貴様。両手両足のない盲目の女が体の自由が利かぬ状態で夜伽に誘っているというのに断るのか。丘に乗り上げられた魚よりも身動きのとれぬ顔だけはいい女を好き勝手出来るのだぞ」
「そんな特殊性癖はねえんだわ。俺に女として見られたいなら乳周りを4サイズ上げて身長を170以上にしてから出直せ」
「その心は?」
「こう言うと地元じゃ大体軽蔑されて言い寄ってくる鬱陶しい女が減る」
「貴様も大概であるぞ」
「……そうだな」
もちろんお互い本心ではない軽口であることは理解している。
ただハクロの周囲でハクロの正体を知っているのはリリィとルネだけだ。今日もう1人いたことが発覚したが、そちらは無視したとして、リリィは傍に傭兵大隊の誰かがいることが多く、旅の最初の頃のようにハクロが完全に気を許して言葉を交わせる機会はだいぶ減ってしまった。だから久々の遠慮しなくていい会話にお互いつい油断してしまい、くだらない話題に移ってしまっただけだ。
「さて、大丈夫そうなら俺も戻るぞ。日の出までは時間もある。少しでも寝させてもらう」
「なんだ、本当にキスの一つもしてくれぬのだな」
「その話題まだ続けんのか」
ベッドの傍で折っていた膝を伸ばしながらハクロは呆れ半分に溜息を吐く。一方ルネはと言うと、ろくに動けないくせに口調だけは気持ちいつもの不遜さを取り戻しながら偉そうに笑った。
「年頃の子女向けの恋愛小説ではこのようなシーンではキスが必須であろう」
「お前そんなん読むのか」
あと読んでいるジャンルの偏りを感じる。必須ではないはずだ。
「キスがなければ余は寝ぬぞ!」
「どうせ解毒のために寝れないだろ」
「ええい、ああ言えばこう言う!」
「……はあ」
ついには駄々をこね始めた。まあ元々王女としてさほど期待はされていなかった我が儘な幼少期を考えるとこっちが本質なのかもしれない。現在前面に押し出し広く知られている王女としての顔と言動は、海の向こうをその身で体感し証明するために後から必要であったために身に着けた物でしかないのだ。
恋に恋する乙女と言えば聞こえはいいが、相手はハクロと同い年の成人女性である。
「分かった分かった」
止むを得ず、一度は立ち上がりかけたハクロは再び腰を低く下ろし――赤毛交じりの金色の前髪を挟んだ額にそっと口づけをした。
「これでいいか」
「…………」
「おい、黙るな」
「……何やら手馴れておるのが不快である」
「歳の離れた妹が2人もいるもんでな」
「貴様、余と同い年であろう! 誰が妹か!!」
「その自覚があるならキスをねだるな。今度こそ戻るぞ」
これ以上ズルズルと雑談に付き合わされると本当に寝る時間が無くなる。身体強化で寝ずに動けるとは言っても、寝れるなら寝た方が良い体調を保てるのだ。
「じゃあな、大人しくしてろよ。おやすみ」
「……ああ。おやすみ」
年下の幼子に言い聞かせるように挨拶を口にし会話を打ち切り、ハクロはさっさとルネの執務室兼私室から立ち去る。扉をゆっくり閉めると足音で寝ている隊員たちを起こさないよう慎重な足運びで自分の部屋へと戻っていった。
「…………」
残されたルネは光の見えない眼球をピクリと動かし、きゅっと瞼を閉じた。
思いがけず速まった鼓動を感じながら、解毒は想定よりも早く終わりそうだなと言い訳じみた思考で顔の火照りを誤魔化したのだった。





