最悪の黒-003_種族学
「ふむ……これは魔力酔いだね」
「魔力酔い?」
師匠――リリアーヌの下した診断に、リリィは首を傾げた。
そんな病気、聞いたことがない。
「まったく、不勉強な弟子だね。魔力酔いも知らないのかい」
「むぅ」
目を細めてくすくすと笑うリリアーヌにリリィは頬を膨らませる。これでも必死に症例集や薬学の教本を読んでいるのだが、自分の二十倍は生きている師の知識量には遠く及ばない。しかしそれはそれとして、小ばかにされて悔しいものは悔しいのだ。
「まあ理論上存在しうるだけの症例だからね。私も本当に発症した奴は初めて見たよ」
「じゃあ私が知るわけないですよね!?」
ぎゃんと吠えるとリリアーヌはまたくすくすと笑った。
「簡単に言えば、極端に魔力の薄い場所に住んでいた者が普通の場所に出てくると、魔力の過剰摂取で中毒症状を起こすことだよ。人の体構造上そうなり得るってだけで、実際に魔力酔いを起こすほど魔力が薄い場所は存在しないからね」
では何でこの男は魔力酔いなんかにかかったんだろうね、と首を捻るリリアーヌ。対して、また玩具にされたらしいと気付いたリリィは気分を落ち着かせるためにも思考を深めようと、視線を下に向ける。
「…………」
診療室の患者用のベッドに横たわっているのは、リリアーヌの処置により、今は落ち着いた寝息を立てている黒髪の男――傭兵崩れの半グレたちからリリィを助けてくれた、謎の剣士だ。
あの後、気を失った男を、身体強化魔術を何重にもかけて何とか背負い、村まで戻ってそのまま修行先である薬師店まで運び込んだのだった。件の半グレ共は門番に通報しておいたので今頃全員お縄になってるはずだ。
「ん……?」
ふと、違和感を覚える。男の髪が長めだったので今まで気付かなかったが、この男、耳が短い。
気になって耳の辺りの髪の毛に手を伸ばすと、リリアーヌも「気付いたみたいだね」と笑いながら教本に手を伸ばした。
うげ、と潰されたカエルのような声が喉の奥から這い出るのを必死で堪える。
「この世界に存在する七つの種族とその概要を答えてごらん」
「うー……」
覚悟を決めて、脳内に散らばっている知識を必死にかき集めて言葉にしていく。
「えっと、まず人口が一番多いのが、師匠のようなエルフ族です。世界の人口の六割がエルフ族と言われていて、端的に『人』と言う時はエルフ族を指すことが多いです。あと他種族と比べて寿命が長く、平均で400から500年とされています」
「うん、そうだね。では次に人口が多いのは?」
「私たち、獣人族です。世界の人口の約二割を占めます。ただし獣人と一口に言っても部族ごとに特徴が異なります。共通して言えるのは、エルフをベースに動物の体の一部が置き換わったような外見をしています」
「では逆に最も人口が少ないのは?」
「フェアリー族です。総人口で一万人ほどと言われています。エルフの手のひらに載るほど小柄で、背中には虫のような美しい羽が生えています。しかし彼らの大半が世界最大の湖、ラッセル湖を中心としたラッセル自治州に特別な魔法をかけて引き籠って他種族との交流をほとんど断っています。そのため未だに謎の多い種族ですが、ごく一部、他種族と交流しているフェアリー族を見る限り、かなりの自由奔放な気質が窺えます」
「そのフェアリー族と交流が深い種族は?」
「ホビット族です。ただし彼らの場合、フェアリー族と交流が深いというよりも、他種族全てと対等に交流しているだけとも言えます。背丈はエルフの腰ほどで子供のような姿をしているのと、足の裏がウサギのように毛が生えているのが特徴です。基本的に定住地を持たず、また家族間以外に『群れ』を作らないという独特の生活様式をとっています」
「そうだね。ではフェアリー族、ホビット族に次いで小柄な種族と言えば?」
「ドワーフ族です。背丈はホビット族よりも少し高い程度ですが、がっしりと筋肉質な体形をしている他、女性でも豊かな髭が生えるのが特徴です。また山岳地帯に集落を作り、手先が器用で鍛冶や細工を好む傾向にあり、世界最高峰にして最大の鉱山であるハスキー連峰を有するハスキー州には多くのドワーフ族が住んでいます」
「同じく山岳地帯を主な住居とする種族と言えば?」
「オーガ族です。背丈はエルフ族の二倍ほどにまで大きくなる、大変大柄な種族で、大きな牙や角が特徴的です。基本的には争いを好まず、山岳地帯で遊牧を行って暮らしています。また家族や友人関係をとても大切にし、自分たちを害す存在にはその力をいかんなく発揮して徹底的に叩き潰すという、外見通りの恐ろしい面もあります」
「そうだね。では残る一種族は?」
「……ドラゴン族、です。高い知能を有し、不死とも呼べるエルフ以上に長い寿命を持ち、古の魔法を使えるとされていますが、それ故に高慢で、他種族を見下し、フェアリー族以上に種族間交流を断絶しています。現在このカニス大陸には存在せず、海の向こうの『滅びの聖地』と『龍の墓場』と呼ばれる未開大陸に暮らしていると言われています。知能があるので種族として数えられてはいますが、単純に『人』と広義的に呼ぶ場合は除外されることが多いです」
「正解。ちゃんと勉強しているようだね」
「ふう……」
なんとか噛まずに答えることができた。
リリィは深い溜息を吐きながらじんわりと額に浮かび上がった汗を拭う。種族学は薬師として修業を始めて最初に学んだ基本中の基本だ。この世界の大半がエルフ族と獣人族とは言え、種族によって症例や治療法が異なるということは真っ先に頭に叩き込まれた。
別に言い淀んだからといってペナルティがあるわけではないのだが、はらわたが煮えくり返るほど煽り倒されるので気が抜けない。
「ではその七種族のうち、耳が短いのは?」
と、リリアーヌが続けて問うてくる。
そうだったと、リリィは気を引き締め直す。そもそもはこの男の妙な形の耳が気になったからだった。
「ドワーフ族とホビット族です。ドラゴン族はどうか知りませんけど、他四種族は耳の先が尖っているのが特徴です」
獣人族については、部族によっては耳が獣の形をしていたりするが、概ね尖っていると言える。少なくともリリィは耳が短い部族を聞いたことがない。
「ではこの男はドワーフ族かホビット族かな?」
「……背が大きすぎるので、違うかと」
先ほどリリィが自分で述べたように、ドワーフ族もホビット族も小柄なのが特徴だ。目の前で眠っているこの男はどう見ても身長は180センチを超えている。
「ではエルフ族とドワーフ族のハーフかな? 足の裏に毛が無いからホビット族とのハーフではないとして」
「それも……違う、と思います」
「その根拠は?」
「えっと、その……ドワーフ族が他種族と混血する場合は……ドワーフ族の身体的特徴が優先的に発現するからで……」
「染色体は全種族共通で男性でX-Y、女性でX-Xとされているが、種族の決定遺伝子はX染色体上に存在する。ドワーフの背が低くがっちりとした身体的特徴の決定に関する遺伝子を仮にDとdとしよう。Dは優先遺伝子で、男性のパターンとしてはXDD-Y、XDd-Y、Xdd-Yだ。このうちドワーフ族となるのは前二つだね。次にドワーフ族の特徴である丸い耳だけど、これはDを有していれば発現してしまうという特徴がある。つまりこの男は『背が高い』という特徴を有している以上、Xdd-Yであることは確定で、同時にドワーフ族の特徴である丸い耳は決して発現しない。にもかかわらず、彼は耳が丸い。はてさてどういうことかな」
「…………」
リリィは頭に血が昇り、耳の先まで熱くなるのを感じた。口でペラペラと言われてもすっと飲み込めない。
「えっと……じゃあアレです! 遺伝子異常! 耳が短くなったエルフ族か、背が高すぎるドワーフ族!」
「……ふむ。まあ、その辺りが無難だろうね。解答としては『逃げ』である気もするが。かと言って他に説明のしようがないからな」
どこか不満げに呟くリリアーヌに、今度こそリリィはほっと一息吐く。遺伝子異常についての追加の質問が来られたら今度こそ完全に白旗を振るしかなかったが、リリアーヌもそこが落としどころとひとまずは置いておくことにしたようだ。
と、その時。
「リリィちゃーん、いるかーい?」
チリンチリンと店の扉のベルが鳴り、覚えのあるよく通る声が診療室まで聞こえてきた。
「あ、カーターさんだ」
「行っておいで、リリィ。今日は私が店番をしておくから」
「すみません、お願いします師匠」
カーター――フロア村衛兵中隊の隊長からお呼びがかかったということは、件の半グレたちについての事情聴取の準備ができたということだろう。
リリィは手早く出かける準備を済ませ、診療室を後にする。
「……あれ?」
ふと、気付く。
黒髪の男を運び込む時に、彼の得物らしき片刃の剣も一緒に持って来て枕元に置いておいたのだが、いつの間にかなくなっていた。リリアーヌが片付けたのだろうか。





