百年後の通知
休日の博物館は思ったより人が多かった。巨大な船首模型の前では、何人もの人が腕を伸ばして写真を撮っている。
だが、ノアにはその喧騒が、どこか遠い場所から聞こえる音のように感じられた。
ここには、ただの古い船の残骸が展示されているわけではない。かつて1514色に輝いた人生たちがここに眠っているのだ。
「もうちょっと右! 船が全部入るように!」
「待って、撮り直し!」
そんな声が天井の高い展示室に響いていたが、ノアの視線は、その横にある静かな壁に注がれていた。
船長や船員たちの写真。
スミス船長の厳格なその表情の奥に、なぜかノアは寂しさのようなものを感じた。
そして、あの不沈と呼ばれていた豪華客船を運行していたホワイト・スター・ライン社の社旗。赤地に白い星が、古びた白黒写真の中で風になびいていた。
ノアは母親の後ろを歩きながら、映画で見たあのきらびやかで、そして胸を締め付けるような光景を思い出していた。
映画のラストシーンでヒロインが天へ昇るかのごとく駆け上がっていったあの大階段。
ガラスのドームから降り注ぐ光。精緻な木彫りのレリーフ。
そして、時の女神たちが寄り添う時計。
磨かれた木の手すり。
どこまでも続く白い廊下。
きらきら光るシャンデリア。
それらは、あまりに豪華で、あまりに美しい。
だからこそ、その後の悲劇がより深く刺さる。
ゆっくりと傾いていく巨大な船。
冷たい海水が、そのシャンデリアを飲み込み、ガラスを砕いていく。
映画のシーンと、実際の歴史が、ノアの頭の中で溶け合っていた。
ガラスケースの中には、顧客リストが展示されていた。
ファーストクラスに名を連ねる、世界的な大富豪たちの名前。
彼らがこの船に、どんな夢を抱いて乗船したのか。
彼らの優雅な日常が、壮大な夢が、あの一夜で冷たい大西洋に沈んでしまったのだ。
その事実を前にすると、胸が痛かった。
同じものを見ているはずなのに、母親は全然違うところに感動していた。
「すごい……」
スマホを構えながら母親が呟く。
「1912年でこれって、本当にすごいわ」
パシャ。
「当時の人たちの夢が詰まってたのね」
パシャ。
「乗った人たち、感動したでしょうねえ」
展示ケースのガラスに、スマホの画面が映り込む。
ノアはなんとなく歩き続けていたが、ふと足を止めた。
――部屋の隅に置かれた、古びた機械。他の展示品に比べると地味だった。
豪華な食器でもない。
きらびやかな衣装でもない。
ただの箱みたいな機械だった。
なのに、なぜか目が離せなかった。
母親も気づいたらしい。
「無線機?」
覗き込みながら笑う。
「100年以上前の無線機ってこんなに大きかったのね」
スマホを片手に首を傾げる。
「今ならスマホ一台なのに」
少しして、母親は展示プレートを読み上げた。
「へえ……『マルコーニ社製、当時最先端の火花式無線通信設備』」
母親はスマホの手を止め、興味深そうに目を細めて文字を追う。
「『この無線機は、当時としては異例の、500マイル(約800キロ)以上の通信距離を誇る最先端技術を結集して作られました。それは海の上の孤島だった客船を、初めて陸上とリアルタイムで繋ぐ“魔法の架け橋”だったのです』……だって。すごいわね、まだラジオ放送さえなかった時代なのに」
母親はガラスに顔を近づけた。
「『乗客たちの華やかな挨拶を運ぶだけでなく、航路の安全を守る命綱でもありました。タイタニックの通信士たちは、船が冷たい海に沈みゆくその最後の瞬間まで、この機械から救難信号を送り続けていたのです』――」
ノアはガラス越しに機械を見つめた。
黒い金属。
複雑な配線。
擦れた鍵。
百年以上前、これに誰かが触れていた。
――これを使っていた人たちは、どんな夢を抱いてこの巨大な船に乗っていたのだろう。……そして、最後は一体どうなったのだろう。
ガラス越しの黒い機械を見つめていると、不意に耳の奥で火花の音が弾けた。
**
カチ。
カチ、カチ。
バリバリと鼓膜を震わせる金属音が、狭い室内に弾けた。
電鍵を叩くたびに、火花隙間から青白い光が飛び散る。ツンと鼻を突くオゾンの匂い――火花の匂いが、部屋に満ちていた。
足元からは、遥か下の機関室で巨大な三連連成エンジンが刻む、重低音の振動が絶え間なく伝わってくる。大西洋の冷たい海を引き裂いて進む、不沈船の脈動だ。
私は片耳のヘッドホンをずらし、額の汗を拭った。
初めてこの部屋に入った日から数日。未だに信じられない。ホワイト・スター・ライン社の最新鋭客船、タイタニック号のマルコーニ無線室。これが私の仕事場なのだ。
「次の方、どうぞ」
そう声をかけると、シルクハットをかぶったファーストクラスの紳士が、窮屈そうに無線室へ入ってきた。上質な葉巻の香りが、火花の匂いに混ざる。
绅士は壁を這う複雑な配線や、真鍮の計器を眺めて目を丸くした。
「いや、驚いた。一等客室のサロンも大した贅沢だが、この部屋はまるで未来の実験室だな。本当に、ここからニューヨークへ電報が届くのかね?」
「もちろんです、閣下。本船の無線機は世界最大出力ですから」
私は少し胸を張って、彼からメッセージ用紙を受け取った。
『タイタニックは快適そのものだ。予定通り17日の朝には到着する。ジョン・ジェイコブ・アスター』
アスター氏――この船の一等客室に泊まっている、世界的な大富豪の名前だ。
「頼んだよ、若き通信士。友人にも、この素晴らしい船の旅を自慢してやりたいんでね」
紳士が去ると、入れ違いに次の客が用紙を持ってきた。
『カルパチア号の友人へ。今、君たちのすぐ近くを通過している。こちらは夢のようなお祭り騒ぎだ』
『パリの母へ。一等客室のディナーは最高でした。キャビアとシャンパンを。愛を込めて』
手元のカゴには、富豪や貴族たちが書いた、贅沢な言葉の書かれた紙が山積みになっていた。
ジジ、ジャ、とヘッドホンから雑音が混ざる。
その向こうから、遠くを走る姉妹船『オリンピック号』や、前方をゆく客船『バルティック号』が放つモールス信号の電子音が、かすかに耳に届いた。
海の上は、決して孤独な闇ではない。
目に見えない無数の電波の糸が、この大西洋を飛び交い、そのすべての中心に、この巨大なタイタニック号がいる。
私は再びキーに指をかけた。
カチ、バリバリッ。
世界で一番新しく、一番贅沢な船の「声」を、自分が打っている。
その誇らしさで、胸が熱かった。
紳士たちが去ったあとも、電報の山は減るどころか増える一方だった。
カチ、バリバリッ。
『明日の夜、リッツのレストランを予約してくれ』
カチ、カチ、バリバリ。
『無事に航海中。株価の動きはどうだ?』
大西洋の真ん中だというのに、陸上と変わらない大量の情報がこの部屋に押し寄せている。人々はいつでも、どこでも繋がれるこの最新技術に、心底感動し、酔いしれていた。
私はふと笑った。
――今でこれなら、あと十年後はどうなるだろう。二十年後は。
人はもっとたくさんの言葉を、もっと簡単に、津波のように送り合うようになるのかもしれない。誰もがいつでも、世界中の言葉を受け取れるようになる。それはきっと、素晴らしい未来だ。
ジジ、ジャジャ……。
ヘッドホンの向こう、雑音に混じって鋭いモールス信号が割り込んできた。近くを航行する、他社の貨物船からの通信だ。
『タイタニック号へ。我々の前方に巨大な氷山を発見。注意されたし』
氷山。
私は一瞬だけ手を止めたが、すぐにまた富豪たちの私信の束に目を戻した。
「氷山か……まあ、この不沈船なら船長がうまく避けるさ。それより、アスター氏の電報を早くニューヨークに送らないと、また苦情が来る」
私は警告の紙を机の端に押しやり、再び華やかな私信を打ち始めた。
耳元では、未来を告げるような金属音が、ただ慌ただしく鳴り響いていた。
…………ジジ……ジャジャジャ!
ヘッドホンの向こう、耳を突き刺すような凄まじい大音量のモールス信号が割り込んできた。すぐ近くを航行する客船『カリフォルニアン号』からの、至近距離ゆえの爆音だった。
『タイタニック号へ、こちらカリフォルニアン。我々は氷山に囲まれ、停船している。注意されたし』
耳が痛い。私は顔をしかめ、キーを激しく叩き返した。
『黙れ! 邪魔をするな! 私は今、ケープ・レース(陸上の無線局)と交信中で忙しいんだ!』
相手からの返信は途絶えた。
静かになった部屋で、私は再び富豪たちの優雅な私信の束に向き合う。
世界中が繋がる未来。誰もが言葉を送り合える、夢のような時代。その中心にいる万能感に浸りながら、私は夜遅くまでキーを叩き続けた。
――ガガ、と。
船底のほうで、身震いするような鈍い音が響いたのは、真夜中のことだった。
エンジンの振動が、不自然に止まる。
不沈船と呼ばれた巨体が、嘘のように静まり返った。
数分後、無線室のドアが激しく開き、青ざめた表情の船長が飛び込んできた。
「氷山に衝突した。すぐに救難信号を打て」
嘘だろ。まさか。
私の手はガタガタと震え、机の端に追いやっていた『氷山警報』の紙が床に落ちた。あのとき、遮断してしまった警告。
部屋がゆっくりと、確実に傾き始めている。足元には、大西洋の凍りつくような海水がじわじわと這い上がってきた。
もう、富豪たちの気楽な電報を運ぶ電波の余裕などない。私は狂ったようにキーを叩きつけた。火花が青白く、悲痛に飛び散る。
カチ、バリバリ、カチ。
『CQD、CQD、こちらタイタニック号。沈没しつつあり。至急の救援を乞う。位置は北緯41度46分、西経50度14分――』
届いてくれ。誰でもいい、頼むから聞いてくれ。
冷たい闇の中、世界最新の船は、届くかもわからない悲鳴を大西洋へと放ち続けていた。
**
「……ノア? 行くわよ」
母親の声で、ノアははっと我に返った。
目の前には、ガラスケースに収まったままの、100年前の静かな無線機がある。
いつの間にか、凍りつくような室内の空気も、激しい火花の音も消えていた。天井の高い展示室には、相変わらず観光客たちの軽いシャッター音が響いている。
「ねえ見て、さっきの大階段の写真、もう『いいね』が500件! スマホがずっと鳴りっぱなし!」
母親は歩きながら、スマホの画面を凝視していた。
画面の中では、ハートのマークと数字が目まぐるしく増えていく。母親の指は、それを確認するために何度も画面をスクロールさせていた。
「あら、日本からもいいねが届いてる! あ!フランスからも! まあインドまで! 世界中の人が今、私の写真を見てるのよ。本当に便利な時代ねえ」
うっとりと呟く母親のスマホは、ピコピコと絶え間なく通知音を鳴らし、震え続けている。
だが、母親は少し耳障りそうに眉をひそめた。
「あー、でもちょっとうるさいわね。せっかくの休日だし、サイレントモードにしちゃお」
母親は手慣れた手つきで画面をスワイプし、すべての通知音をシャットアウトした。
その間にも、画面の上部には、小さな通知マークがいくつも表示されては消えていた。メッセージアプリのアイコン。メールのマーク。
「ママ」
ノアは、母親のバッグにしまわれようとするスマホを見つめながら言った。
「いいの? 大事な知らせもあるかもよ」
「え?」
母親はめんどくさそうに笑った。
「ああ、いいのよ。そんなに大事な用事だったら、向こうから電話かけてくるでしょ」
そう言うと、母親はスマホをバッグの奥底へと放り込み、ジッパーを閉めた。
音が遮断された暗いバッグの底で、スマホは誰にも気づかれないまま、ブルブルと虚しく震え続けていた。
ノアは振り返り、もう一度だけ、部屋の隅の無線機を見た。
暗いガラスの向こうで、黒い機械は、何も言わずにただ佇んでいた。
fin.




