上
大水槽の上に、白いモノが浮かんでいる。
神崎良平は、水槽上のキャットウォークから手を伸ばし、タモでそれを掬いあげた。
手繰り寄せてみれば、良平の予想通り、死んで真っ白に変色したイカだった。
体のあちこちはズタズタで、食い散らかさているのが分かる。
(またか……)
良平の視線の先、水槽の下方では、数多くのイカ達が活発に動き回っている。
一見活発そうに見えるが、閉所に押し込められたストレスがイカ達を苛んでいるらしく、自傷や他傷に走る個体が後を絶たない。
タモの中で死んだイカも、そうした個体だろう。
なんだか寒々とした心持ちになり、良平は目を背ける。
良平は、海洋大学を卒業後、とある水産会社に就職した。この会社では、卵の孵化から繁殖までを全て人工で行うイカの完全養殖を目指した試験場を保有しており、大学時代に頭足類の生態研究をしていた良平にとっては、理想の職場だった。
希望を胸に、東北のリアスの谷間に張り付いたような漁村にある試験場へやってきて、はや3年。
だが、研究の成果は芳しくなく、胸の希望の火は消えている。
今この水槽内にいるイカは、良平が手塩にかけて育てたイカだったが、生存率が高くない。さらには環境管理の光熱水量に餌代……商業化するには高コストでもあった。
このままだと、成算が見込めないとして早晩研究は打ち切りになるだろう。
実際、この試験場にいた他の研究員たちは次々と別部署へと移っていき、今は良平がただー人で研究を継続している状況だ。
(自傷や共食いは、元来の攻撃性の高さもあるが、閉鎖環境下でのストレスが大きい)
大水槽といっても、直径3m・高さ3mほどの円筒だ。養殖には、小さい。
(もっと大きな水槽で、ストレス負荷を軽減できれば……)
毎年、新規大型水槽の取得は要望しているが、社内稟議が通る気配もない。良平は内心ため息をつきつつ、定時の水温の計測記録をつける。
その時、誰かが室内に入ってきた。
「やあ、神崎さん……」
振り返って見れば、近くに住む漁師の羽嶋浩二だった
浩二は、去年この試験場のある村にやってきた男だ。
東京での会社勤めが嫌になって、漁師になりにきたらしい。人懐っこい性格で、他の漁師たちにもあっさり馴染んだ。良平とは同い年ということもあって、ちょくちょく交流がある。
「羽嶋さん、一応ここは立ち入り禁止だよ」
本来、この試験場は部外者立ち入り禁止である。
が、こんな小さな村では、会社の内規など、通用しない。皆、親戚の家を訪ねる様に、勝手に入ってくる。良平もこの3年で痛いほどそのことを理解しているので、言葉は軽い。
浩二は、手にした小型の水槽を掲げながら、こう言った。
「ちょっと変わったイカが上がったんだ……見てくれないかな?」
「へえ……?」
良平は、浩二が手にした水槽をのぞき込む。
水槽の中には、細い体をしたイカが一匹揺れている。
「?」
良平の目には、何の変哲もない、スルメイカのように見えた。
すると、浩二は脇に挟んでいた黒い布を広げ、水槽にすっぽりと被せた。
そして浩二は、その黒い布を頭に被るようにして、遮光された水槽をのぞき込む。
「見てみなよ」
言われるまま、良平もその動きに倣う。
「……なんだ、これ?」
遮光された暗闇の中、そのイカは発光していた。
円筒形の体全体に、幾重にもラインが走り、赤紫色に明滅する。
光のラインは点滅を繰り返し、闇の中でロールシャッハテストの図形のような模様が浮かんでは、消える。
光が明滅するたび、目の奥がちりちりと焼かれるような、そんな感覚を覚え、良平は一瞬目を閉じた。それでも、目蓋の裏で、奇怪な図形が残像として浮かび上がる。
「すげえだろ、でっけえホタルイカなんて」
浩二の言葉に、良平は否定する。
「ホタルイカじゃない……場所も色も違う」
発光イカとしては、ホタルイカが有名だ。胴体や腕足器官に蓄えた発光器官に蓄えた発光素と酵素の力で光を放つ。
しかし、このイカは、特定の部位だけが光っているではない。円筒形の体表のほぼ全域がランダムに発光している。こんな風に体表を発させる機能を有したイカなど、前代未聞だ。
それに、ホタルイカなどの深海生物の発する光は青系だ。だがこのイカの放つ光はピンクと紫の中間くらい。赤みを帯びた光は、深い海で暮らす生物たちの視力では、捉えられないはず。なんの必要があって、こんな機能を……
再び目を開いた良平は、明減する光にめまいを起こしそうになって、慌てて布から顔を出した。
蛍光灯の下に浮かび上がる周囲の光景が、なんだか現実のものでないように感じる。
手近のパイプ椅子に腰を下ろしながら、良平は聞いた。
「どうしたんだ、こいつ?」
浩二は、黒い布に顔を突っ込んだまま答える。
「今朝、刺し網に一匹だけかかってたんだよ。新種かな?」
「さあ……」
言い澱みながら、良平は思案する。
(形状だけなら、ただのスルメイカのようだが……色素胞内で発光物質を、あるいは発生物と共生しているとか……)
正直、現状の良平では判断がつかない。
「どうする、テレビ局でも呼ぶか?」
一昨年、海岸にリュウグウノツカイの死骸が流れついた時のことを思い出しながら良平は口を開いた。こういう物珍しい海洋生物を捕まえたとき、よくやる手だ。その後の野次馬への対応など色々と面倒だが、村にとっては宣伝になる
「ああ……そうだな、みんなに見てもらいたいな」
「それなら、俺より漁協の雨宮さんに話通した方がいい」
浩二はまだ黒い布に顔を突っ込み、水槽の中をじっと見つめていた。
そんな浩二の様子に、良平は何か違和感を覚えてしまう。
(……普段なら、メディアが入るなんて話、もっと騒いでも良さそうなのに)
そう思ったが、口には出さなかった。
と、浩二は意外なことを言い出した。
「……なあ、神崎さん。こいつを一晩預かってくれないか?」
「え?」
「うちじゃあ正直置く場所もないし、子供らが悪戯するかもしれない。それに、ここなら仲間が一杯いるから、こいつも安心だろ?」
(こいつらに同族意識は薄いと思うが……)
とはいえ、水槽一つ、一晩預かる程度なら大した手間ではない。
「ああ、いいよ」
返事しつつ、良平はもう一度イカを確認しようと黒い布をめくる。
その瞬間、発光イカが腕足を大きく広げて水槽の壁面に張り付いてきた。
「わ!?」
かちかちと蠢くカラストンビに、思わず、声が漏れる。
その動きは、まるで良平を捕食しようとするかに見えた。




