契約の村
私は校長先生に、静かに退学届を差し出した。本当は、まだこの場所にいたかった。でも、もう誕生日まで一カ月しかない。その日、私は宇野山家の長女として、村に伝わる儀式で命を奪われる運命にある。
儀式の本当の意味を知ったのは、まだ幼いころだった。宇野山家の娘は、村の繁栄と引き換えに、「淫魔の王」と呼ばれる存在に苗床として捧げられる。淫魔には、「宇野山家の娘を決して殺さず、苗床として扱うこと。村の他の人間には絶対に手を出さないこと」という契約がある。そうして村の平和と宇野山家の繁栄が守られてきた。しかし、もしこの契約が破られると、恐ろしい災いが村を襲う――。
事実、400年前、宇野山家の娘が儀式から逃げ出したとき、激怒した淫魔が村に災いをもたらし、村は半壊した。そして娘も結局、無理やり儀式に差し出され命を落としたと伝えられている。私が逃げて、大切な村や皆がまたあんな目に遭うのは絶対に嫌だった。
「……失礼しました。今まで本当にありがとうございました。」
私は校長先生に頭を下げ、その場を去った。
校長先生は、宇野山家の分家筋にあたる人だった。本家の慣習を絶対に外に漏らさないことを条件に、外の世界で教育に生きる道を選び、この学校にやってきたという。だからこそ、私の事情も黙って受け入れてくれたのだろう。
「本当に……戻るのか? あの村に。」
校長室を出ると、廊下で待っていた佐倉君が声をかけてきた。彼だけには、儀式に関することも、ぼんやりと打ち明けていた。
「うん。今までありがとう。……さよなら。」
そう告げると、佐倉君は何かを言いかけて、結局言葉を飲み込み、ただ拳を硬く握りしめた。きっともう一度逃げ出そうと誘いたかったんだと思う。でも、私は逃げられない。私のせいで村がまた、400年前のような惨劇に見舞われるなんて、絶対に嫌だから。
そう思いながら、校門を抜けて新幹線のホームへと向かった。
退学届を提出したその日から、私は毎日少しずつ「普通」をあきらめていった。
まだ一ヶ月あるのだから、毎日を精一杯生きようと決めた。朝は決まった時刻に起き、妹と弟と一緒に朝食をとる。
枕に伏して目を瞑ると、幼い頃に祖母とお母様から聞かされたことを思い出す。「宇野山の娘を苗床として迎え、村の平和はこれを以て保たれるものとなす」。
私は、この「苗床」の意味を母に聞いたとき、恐怖で泣きじゃくった。でも、父は静かに私の頭を撫でて言った。「美桜は美桜のままでいいんだよ。ただ、村を守るために……少しだけ強くなってほしいんだ」。
その言葉を思い出すたび、私は胸の奥に熱い思い込み上げるのを感じた。
儀式の一週間前、。母も、祖母も、顔をあげられずにいた。
父だけが、私の目をしっかりと見据えて言った。「美桜、あと一週間だ。何かやりたいことがあるなら、叶えておけ」。
私は小さく頷いた。でも、もうやり残したことはなかった。学校に行って、佐倉君や友人たちに別れを告げ、校長先生にも頭を下げた。
ただ一つだけ、やり残していると思ったのは、佐倉君に本当の気持ちを伝えること。でも、それだけはできなかった。
自分の運命を受け入れたというのに、彼にだけはまだ未練がある自分が、情けなくて。
儀式前夜、私は自分の部屋で、叔母様の形見の簪を髪に挿した。明日、白装束に着替えて、村はずれの祠に向かう。
――本当は、怖い。
私は心で叫ぶ。でも、声には出さない。
母も、祖母も、何百年もの間、この道を通ってきた。私だけが特別なわけじゃない。
夜が明け、儀式の当日。
私は巫女たちと村の男数人に導かれ、宇野山家の長女が17歳の誕生日を迎えたことを伝える祭りとして村中歩き回る。
そして、儀式は静かに進行し、私の体に冷たい触手が這いよる。
痛みも、恐怖も、何も感じなかった。
ただ、ふと、佐倉君のことが思い出されて、涙が頬を伝う。
――ごめんね、佐倉君。
――ごめんね、母さん、父さん。
――ごめんね、みんな。
闇が私を包み込む直前、私は思った。もしも、私の命が村の平和と皆の幸せの礎になるのなら──それで、いい。
村はまた静かな朝を迎え、人々は目を覚ます。
誰も私のことを知らず、儀式のことも忘れたように、穏やかな日常が続いていく。
それで、私は満足だった。