二 事の発端(一)
「私が所属している同じ相続法のゼミに、高校時代から仲良くしている杏子っていう子がいてね。その子のおじいちゃんは、大学で経済学を教えていた冴島吾郎っていう学者先生なんだけど、つい先日御病気で亡くなられたの。その奥様は、同じ大学の文学者だったんだけれど、もう先立たれていたから、晩年、先生はお一人で暮らされていて、それなりに資産もお持ちだったようで、孫の杏子に、常々、その資産の分配について記された遺言書について話していたみたいで…」
というところで、マスターがコーヒーと紅茶を差し出した。
「はいどうぞ、コーヒーと紅茶ね」
さっそく、黒木が一口含んだところで、マスターが「盗み聞きのようで申し訳ないが」と、ひょんとした顔で疑問を投げかけた。
「その、いごんしょ(遺言書)って言ったね。それは、ゆいごんしょ(遺言書)のことなのかね。私は、ずっとゆいごん(遺言)と読んでいたから、物心がついたときからずっと読み間違いをしていたのではないかと気になってね」
なにげなく聞いてはいたが、たしかに、僕もゆいごん(遺言)と読んでいた。
「いや、たしかに僕もゆいごん(遺言)って読んでいましたよ」
そう言うと、彼女が「それはね」と再び話を始めた。
「どちらの読み方も正しいの。けれど、私はコテンコテンの法律屋さんだから、いごん(遺言)と読むだけ。法律屋さんの癖のようなものよ。話、続けていいかしら」
「どうぞ、続けて」
黒木が、手のひらを返し、彼女の方に向けた。
「じゃあ、続けるわね。その遺言書は、仏間の金庫にしまっていることは、孫の杏子だとか、杏子のお母様とお父様も含め御親族の方も承知していたんだけれど、その金庫の鍵は、なぜか孫の杏子に託されていたの…」
と、話の途中で黒木が、言葉をかぶせながら、
「その鍵がどっかにいったから、探してほしいと。そういうことですかね」と勢いよく言い放った。
僕もまた、平凡な探し物案件かと、ため息をはいたのだが、彼女の勝ち誇った顔をうかがうと、どうやら、そう単純な話ではないということを、暗に理解した。
「そう単純じゃないの。鍵はあるのよ、あるんだけれど…あわないらしいの。どれだけ、鍵を入れようとしても…」
「ほう」
黒木は深くソファにもたれかかった。
「託されていたのはその鍵だけ?何かほかには?」
と、そのとき、喫茶店に一人の女性が入ってきた。
「ごめん、藍ちゃん待たせちゃって」
彼女とは違って、華奢で、小柄な女性だった。一メートル六十五センチの僕より、十センチほど低いくらいだろうか。なんともかわいらしい。彼女は僕よりも逆に十センチほど高いようだから、なおさら、かわいらしく感じる。そんなお惚気、いや、恋人ではないのでお惚気という表現は語弊があるが、そんな恥ずかしい感情はさておき、僕と黒木は、さりげなく、ここで宇佐美女史たる彼女の下の名前を初めて知ったのだった。
「いいの、いいの。まあ、とりあえずここに座って」と、彼女は杏子を自分の隣に座らせた。
そして間髪入れずに、
「こっちの気難しそうなスタイルだけいいのが、会計学科の黒木君、そしてそのお隣のこじんまりした文筆少年が同じ会計学科の銀杏君。考えるのが得意なのが、こっちで、見たものを脚色して言語化するのが得意なのが、こちら」と、紹介された。もちろん脚色して云々という方が僕である。
「はじめまして、藍ちゃんの友人の杏子です」
僕は軽く会釈をするやいなや、黒木は、
「先ほどから、御友人の宇佐美さんから、お話は伺っています。ひとまず、杏子さんが託されていた鍵が金庫にあわなかった、というところまで」
杏子は彼女と顔を見合わせた。
「あっ、藍ちゃんありがとう。お二人も祖父のくだらない遊びに巻き込んでしまって…」
「と、言いますと?」
僕がワンクッションを入れると、杏子は話を続けた。