一 改正民法の施行
「一万円札のカンマ」の一件で宇佐美女子のいわば、“テスト”に合格してしまい、黒木と僕は、半ば強引に引き連れられて、商大前の喫茶店に行った。黒木と彼女が向かい合って座ったので、僕はとりあえず黒木の隣に座った。
しかしそれにしても、なんという美人であろうか。年上好きというわけではないけれども、圧倒的スタイルに目がいってしまう。そしてまた、喫茶店のモダンなソファとテーブルの高さと配置は、彼女の長い脚には、少々窮屈そうに見えた。
「あの、椅子席もありますけど大丈夫ですか?いやなんかあの、座りにくければと思いまして…」
下心があるようで恥ずかしかったが、彼女は堂々と
「大丈夫、ありがとう。銀杏君、やさしいのね」と答えた。
黒木の僕に対する視線が、若干不愉快だったが、もしかすると、僕は少し彼女に気があるのかもしれないとも自認していた。久しぶりの恋かと、頭の中で堂々巡りしていたところ、いつもどおり、喫茶店のマスターが陽気に話しかけてきた。
「そちらの女性は、どちらの方の彼女かね」
マスターがニヤリと僕と黒木の目を見たので、僕はすかさず、
「どちらの彼女でもありません。違う学科の先輩です。彼女は、企業法学科3年生の宇佐美さんです」と紹介した。
「そうか、そうか、彼女さんではないのか。喫茶店で男女向かい合うっていうのは、やはりそういう関係に見えてしまってね。失礼、失礼。で、そちらのお嬢さん、えっーと、宇佐美さんは、何を勉強されているの?」
マスターと、男三人で彼女の方に顔を向けた。たしかに会ってから、今の今まで何のゼミに入っているのかも聞いていなかった。
「民法を専攻しています」
「民法?」
マスターは、黒木の方を見た。
「六法全書って聞いたことありますよね」
マスターは頷いた。
「あぁなんか、よくドラマで弁護士事務所のキャビネットの中にあるあの分厚い…」
「そうです、その六法全書の『六法』は、我が国の主要な六つの法律を、意味しているんですが、そのうちの一つが、そちらの宇佐美さんが専攻されている民法です。端的に言えば、日常の人対人のトラブルを解決するための法律でしょうかね」
それに続けて、彼女が補足した。
「そう。その民法は、大きく財産に関する法と家族に関する法に分かれていて、私はとくに家族法の中の相続を専攻しているの。だからマスターも、御親族の遺産相続問題に巻き込まれたら、私に相談してくださいね。アドバイスしますから」
「ほう、相続かい。いや、最近ニュースで民法改正について、よくやっているからね。この私でもなんとなくはわかるよ」
マスターの言うように、昨年の昭和五十五年に民法の改正が行われたばかりで、その施行年である今年は、何かと相続に関するトピックが取り上げられていた。とりわけ、改正のポイントは、配偶者の取り分の増加であったことから、お茶の間の奥様方もまた強い関心を抱いていたのである。
夫婦ないし家族における妻の生涯を通じた圧倒的貢献に対する保障が、法律上、相続における取り分の増加として反映されたことは、我が国の家族社会には、非常に大きい出来事であった。
「で、注文を聞いていなかったね。そこの男子二人は、コーヒーと紅茶で、お嬢さんは?」
彼女はメニューを見ながら、黒木の方をちらりと見て言った。
「私も、コーヒーで」
「お嬢さんもコーヒーね。じゃ、ごゆっくり」
マスターがテーブルを後にすると、
「さっそく、本題に入っていいかしら」と、彼女が話を始めた。