第7章 沈む陽
第7章 沈む陽
吉川隆一、最後の日
2025年11月28日 午後16時25分
東京・日本橋にそびえ立つ東和グループ本社ビル。その最上階の役員フロアには、一際大きな執務室がある。窓からは東京湾の彼方に沈みかけた夕陽が見え、空を茜色に染めていた。広大な部屋の中央、重厚なデスクに一人腰掛けている男、吉川隆一。彼にとって、今日が「社長」として過ごす最後の日だった。
机の上には、役員会で配られた分厚い資料が散乱している。そこに記された数字は非常に冷酷なものだった。
七夕の悪夢による株価暴落から続く自社の資産評価の低下、子会社の連鎖倒産、そして何よりも市場からの信用喪失。あらゆる指標が、東和グループの「衰退」を容赦なく示していた。
「……これが、私の作り上げた帝国の末路か」
吉川はそう呟き、皮肉な笑みを浮かべた。
崩壊の序章 七夕の悪夢
吉川の脳裏に、『七夕の夜』のことが甦る。その日、東京証券取引所のフロアは未曽有の混乱に包まれた。突如として発生した市場の急激な変動は、東和グループの株式を直撃し、時価総額の半分以上をわずか数時間で蒸発させた。その影響は日本経済全体に波及し、他の大企業や金融機関にも連鎖的な損失を与えた。
「想定外だった?……いや、そうではない。私が見誤ったのだ」
『七夕の悪夢』の原因は今なお特定されていない。SESC(証券取引等監視委員会)の捜査も、SNS上の噂や無数の投資家の動向を追っただけで終わった。
確実に言えるのは、東和グループの長年の強引な経営戦略が、皮肉にも自らを滅ぼすきっかけを作ったということだ。
吉川はかつて、未来を見据えた事業として『ナノ・エコバッテリー』の技術に大規模な投資を行って来た。ひっ迫する化石燃料社会を劇的に変える技術であると確信を持っていた吉川は、他社同様にいち早く、その開発に着手させたのだ。
だが、多くの競合他社と同様に、開発は技術的な暗礁に乗り上げ遅々として進まない状況に陥っていたのだ。そんな時、後発である「グリーンエナジー社」が、画期的アイデアで高効率・高蓄電容量の基本設計を打ち出したのだ。自社での開発に限界を感じていた吉川は、すぐに方針を転換。「グリーンエナジー社」ごと、ナノ・エコバッテリー技術を吸収することにした。多少、強引な手段であったかも知れない。…しかし、グリーンエナジー社は技術的問題より資金難が問題であったのも事実。東和グループに所属して、東和グループの庇護の中で開発する方が、より早く実現出来るはずだった。
確かに開発自体は順調に進み、次世代のエネルギー市場を担う革新と喧伝され、東和グループ全体の資産価値を上昇させる起爆剤にもなった。たが、実態は特許侵害の疑惑で揺れ、最終的にはドイツ企業から訴訟を起こされ、事業自体が完全に頓挫する結果となってしまった。
「勝つためにはリスクを取らねばならない……だが、今回は違った」
自分を納得させるように呟くが、内心では痛烈な後悔が渦巻いている。
支配者の失墜
かつて東和グループは「日本経済の背骨」と呼ばれた存在だった。その事業は多岐にわたり、50社を超える子会社、100社を超える関連企業が世界中に展開されていた。物流、エネルギー、医療、IT、環境――あらゆる分野において、東和の影響力は絶大だった。しかし、『七夕の悪夢』以降、その牙城は脆くも崩れ去ってしまった。
ナノ・エコバッテリー事業の失敗は、吉川の社長としての経歴に致命的な汚点を残した。新技術を基盤とした未来志向の経営戦略が、むしろグループ全体を蝕む結果となったのである。
それに追い打ちをかけたのが、SNSや個人投資家たちの無数の投稿による市場操作への関与疑惑だった。彼らが自らの意思で良かれと思って行った行動が、結果として巨大な経済的波紋を生み、東和グループの株価を弄ぶこととなったのだ。彼ら自身は、自らの善意で情報を拡散したにすぎない行為だが、一つが二つになり、二つが四つになり、それこそ波紋のように広がりつつ進んでいったのだ。例えその波紋がひとつの国家の経済を危機的状況に追い込んだとしても、彼らは罪に問われることはない。
貧乏くじを引いたのは東和グループと投資家である。
「市場の潮流を見誤った……私たちが信じてきた仕組みが、変わってしまったのだ」
吉川の声に自嘲の響きが滲む。彼が信じたのは、大資本がすべてを支配し、絶対的な力を持つという旧来型の資本主義の姿だった。しかし今や、SNSやネットワークによる個人の影響力が大きな潮流を生み出し、巨大企業の立場を揺るがす時代となった。
最後の夕陽
吉川は執務室を出て、屋上に向かった。彼が30年近く社長を務めたこのビルからは、東京全体が一望できる。沈みゆく夕陽が都市を赤く染め、その光が吉川の疲れた顔を照らしていた。
「これが終わりではない。東和は、何度でも立ち上がれる」
そう言い聞かせたが、もはや自らがその再興に関わることはないと悟っていた。吉川は、自分が築き上げた「帝国」が、未来を生きる者たちによって再構築されることを、ただ祈るしかなかった。
その視線の先、東京のどこかで新たな時代を築こうとしている者たち――彼らの存在を直接知ることはなくとも、吉川は「自分たちの時代が終わった」という確信を持つ。
「全ては移り変わる。これもまた、栄枯盛衰というものか」
沈む陽が完全に地平線に消えたとき、吉川は静かにその場を後にした。