第4章 七夕の悪夢(後編)
七夕の悪夢(後編)
2025年7月8日
午前6:30 - 山田耕作の部屋
朝のまぶしい光がカーテンの隙間から一筋の線となって部屋に入ってきている。山田耕作は、カーテンを開け『今日も暑くなりそうだ』と窓の外を見てから、コーヒーを淹れる。コーヒーの香ばしい香りが殺風景な部屋に漂っている。
山田はデスクに座り、スクリーンに映し出されたバディのまとめた情報を見つめていた。
「バディ、拡散は予定通りか?」
『了。日本時間午前6時@DeepFinanceReports及び@MarketMaverickを通じ、東和グループの特許侵害疑惑を投稿。日本時間午前7時には欧州の金融ニュースサイト掲載を確認』
「バイオマテックAGの特許に関する記事は?」
『ドイツ経済新聞に情報リーク済。特許侵害の可能性を指摘する記事を配信。日本時間午前9時、市場開始時にはSNSでさらに拡散される確率は87.4% 』
バイオマテックAG社の件とは、バディがナノ•エコバッテリーの技術に関して世界中から情報収集を行っている際、米国特許商標庁(USPTO)のメインサーバーを検索した時に見つけた情報だ。
ドイツの医薬品企業バイオマテックAG社が2022年に欧州特許庁に申請した、ナノスケールのドラッグデリバリーシステム(DDS)に関する特許である。この技術はカーボンナノネットワークを網状に形成し、各交差点に非電荷コア(導電性を持たない特殊ポリマー)を配置することで、薬剤を効率的に体内へ運ぶためのナノスケール構造を構築するというものだった。東和グループ(旧グリーンエナジー社)のナノ・エコバッテリーでも平面による効率化と高蓄電化を目的とした網目構造の基本設計となっていたため、医薬品分野とエネルギー産業分野と用途は違うものの、基本構造的に酷似している点を分析したバディが指摘したことで浮き彫りになったものである。
山田はゆっくりとコーヒーをすすり、画面を見つめながら、さらにバディに指示を出す。
「あとは、全株売り抜けだ。空売りを仕込んでいるとはいえ、何が起きるか分からないからな。売り抜けのタイミングを逃すなよ。」
「了」
そう返答を返しバディはネットの海へ潜っていった。
2025年7月8日 午前9:00
東京証券取引所
昨日の余韻が残る東京証券取引所は、今朝も異様なほどの熱気が夏の暑さを上回るほど、フロアに溢れていた。そして開場の鐘が鳴り響くと同時に、東和グループ株は早くも1株10,500円で取引を開始した。誰もが前日の余波を今日も引き継ぐと予想していた。
「買いだ!このまま12,000円まで行くぞ!」
「まだ売るな!最高値更新は確実だ!」
フロアトレーダーたちの叫びが交錯する。朝一の買い注文が殺到し、すぐに株価は10,700円に到達。東京証券取引所の電子ボードには真っ赤な数字が並び、取引量は異常な水準だった。
2025年7月8日 午前9:30
都内の証券会社のディーリングルームでも興奮が渦巻いていた。テレビの経済ニュース番組では「このまま12,000円へ向かうのでは」との楽観論が飛び交い、昨日に続きお祭り状態であった。
だが、その時、誰も予想だにしない不穏なニュースがSNS上で広がり始める。
『東和グループのナノ・エコバッテリーが欧州の特許を侵害している可能性』
それと、ほぼ同時に海外機関投資家から、まとまった売り注文が入り始める。
当然、これらは、山田とバディによる仕掛けなのだが、誰もその事には気が付かない。
2025年7月8日 午前9:45
証券取引等監視委員会調査部
「特許侵害の件、確認したか?」
SESC調査官の井上拓也がモニターに映る情報を見ながら尋ねた。
「ええ、バイオマテックAGの特許と東和グループの技術構造が極めて類似しています。カーボンナノネットワークと非電荷コアを組み合わせたナノラティス構造……薬剤デリバリーからエネルギー技術へ転用されただけですが、特許範囲に抵触する可能性が高いですね」
井上はモニターに映されたSNSの情報を読みながら尋ねる。
「東和グループは何か発表したか?」
「まだ沈黙しています。ただ、特許侵害の情報はSNSを中心に急速に広がっています」
井上は腕を組み、ため息をついた。「こりゃ市場への影響は避けられないな。」
2025年7月8日 午前10:00
東京証券取引所
SNSの情報が拡散し始めると、一部の機関投資家が静かに利益確定売りを開始しはじめた。株価は10,700円の天井を打ち、じわじわと10,500円へと押し戻される。
「特許問題?デマだろ?気にするな!」
「いや、海外の報道機関が動いてるって噂も……」
マーケットに微妙な不安が広がる。同時にまたも大量の売り注文が入る。
「どこがこんな大量の売りを出してるんだ?」
「複数の海外機関投資家だ。でも何でこのタイミングで出してくるんだ?」
2025年7月8日 午前11:00
東京都内 SBY証券トレーディングルーム
「……おい、これヤバくないか?」
東京都内の証券会社の端末にも速報が入る。
「金融庁が東和グループに対し情報開示を求めている」
「やはり特許侵害の情報は本当なのか?」
「やべーぞ。これは、恐怖売りくんじゃねえ?」
「逃げの準備だ。急げ、間に合わなくなる!」
そして、これが引き金となり、投資家の心理が一気にネガティブへ傾く。
「逃げろ!利益確定売りだ!」
「まだ下がるのか?どこまで?」
フロアの空気が一変し、買い一色だった市場が、今度は売り一色へと変貌した。
2025年7月8日 午後12:30
東京証券取引所
「まずい。パニック売りが始まった……」
少しでも損失を防ぎたい大口投資家が一気に売りを出し、株価は8,500円まで急落。日経平均も連れ安となり、市場全体が動揺していた。
ニュースでは「東和グループの特許侵害疑惑、海外メディアが報道」との速報が流れる。
「……このままじゃ済まないぞ」
「大口が投げてきた!一気に崩れるぞ!」
フロアでは悲鳴が上がっていた。ある大手ファンドが東和グループ株を手放したとの情報が流れると、売りが殺到。
「ストップ安になるのか!?」
「やばい。7,000円切ってきた。今、6,950円」
午後2:00の段階で1株5,250円まで値を下げた東和グループ株。市場では、ストップ安の懸念も出始め、午後3時の取り引き終了まで持つのかとの不安も広がり始める。
SNS上では「市場操作の疑い」「不正取引では?」との憶測が飛び交い、東京証券取引所も対応に追われていた。
「この下げ、尋常じゃない……」
一部の投資家は茫然とし、動けずにいた。為す術なく決壊したダムのようにいっきに値を下げた東和グループ株。昨日まではバラ色の未来を想像していた者は、只々、悲嘆に暮れるしかない状況であった。
そして迎えた午後3時。取り引き終了の終値は1株2,980円。なんと前日比でマイナス71.6%もの前代未聞の下げ幅を記録した。
「……終わった……」
東和グループの崩壊が、ここから始まることを誰もが悟っていた。さらにこの後に来るであろう日本経済への影響等、不安を掻き立てる結末であったことも。
『日本経済、未曾有の危機!どうなる日本の未来!』『東和グループ神話の崩壊』『為替相場1ドル180円時代に突入か?』昨日の報道とは真逆の恐怖に怯える報道各社。誰もが夢でも見ているのか?と信じられない、現実を受け止められない、そんな雰囲気だった。
山田はその報道を見ながら、静かにバディに話しかけた。
「バディ、次のフェーズに移るぞ。準備しろ。スイスの口座は開いているな。」
『了。ロンダリング準備を開始します。』
山田は静かにその結末を見届け、冷静に次の行動へと移行していった。この2日間で山田の得た利益は100億円を超えていた。
2025年7月8日 午後3時05分
東京兜町、東京証券取引所フロア全体が静まり返っていた。昨日の喧騒が嘘のように全く違う場所にでも迷い込んでしまったかのように、誰も何も言えないでいた。
東和グループ株 終値、1株2,980円。ありえない。あってはいけないことだ。
「……終わった、のか?」
佐藤翔太は、最後の約定音が鳴り終えたディスプレイを、ただ呆然と見つめていた。
つい12時間前には1万円を超えていたはずの東和グループ株が、いまや3割にも満たない水準まで叩き落とされている。
「これは……歴史に残る暴落よ……。」
高橋真紀は、震える指でマウスを握りしめたまま呟いた。
「おい、証券取引等監視委員会(SESC)の動きは? まさか放置するわけじゃないよな?」
「さっき速報が流れた。金融庁と日銀が、緊急会議を開くってさ。」
2025年7月8日 午後3時30分
大手メディア各社は、この出来事をトップニュースとして一斉速報を出した。
「東和グループ株、1日で72%暴落! 仕手筋の関与か?」(日本経済新聞)
「東京市場に衝撃! 未曾有のクラッシュ発生!」(NHKニュース速報)
「東和グループ株急騰からの暴落、その裏に潜む巨大な資本は?」(ブルームバーグ東京支局)
東京証券取引所の激動を伝えるニュースが全国を駆け巡った。
SNSでは「#東和グループ株ショック」「#株式市場崩壊」がトレンド入りし、日経先物市場は急落。市場全体がパニックに陥っていた。
本当に1日にして、日本経済は奈落の底に落ちてしまっていた。
そして、永田町でも緊急会議が開かれる。
2025年7月8日 午後4時00分
首相官邸 緊急経済対策会議
会議室には、内閣府、財務省、金融庁、日銀の幹部が集結していた。
「市場が完全にパニック状態に陥った。7日で株価を3倍に釣り上げ、8日で3分の1に叩き落とすなど、相場操縦の疑いが極めて濃厚だ。」
金融庁監督局長の長岡信也が厳しい口調で言い放つ。
「問題はこれが金融市場全体に与える影響です。すでに機関投資家の損失は数千億円規模、個人投資家も信用取引の追証(追加保証金)の発生で大混乱に陥っています。」
財務省の川村事務次官が続ける。
「東証だけの問題ではない。香港、上海、韓国市場も軒並み売りが先行。円相場も不安定化し、投資家のリスク回避姿勢が強まっている。このままでは、日本経済全体の信用問題に発展しかねない。」
「では、どうする?」
石上武夫首相は深く腕を組んだ。
白上日銀副総裁が冷静な声で答える。
「明日から、日銀が緊急の流動性供給措置を実施します。 これにより、市場の資金不足によるさらなる暴落を防ぐ。」
「それだけで足りるのか?」
「……いいえ、本来なら東和グループ株の売買停止措置を発動すべきでした。 しかし、政府が市場に過度に介入すれば『相場をコントロールした』と批判される可能性があります。」
石上首相は険しい表情を浮かべた。
「ならば金融庁と証券取引等監視委員会(SESC)に命じて、この異常な値動きの背後を徹底的に調査しろ。もし市場操作が行われていたと判明すれば、即座に摘発する。」
「了解しました。」
「さらに、金融庁は経済産業省とも連携し、東和グループの財務状況を精査するように。 企業の経営破綻が起きれば、それこそ日本経済全体の危機になりかねない。」
「……問題は、この異常な売買を仕掛けた主体がどこなのか、です。」
会議室に沈黙が落ちる。
この暴落の背後には、誰がいるのか? それは全く知る由もなかった。
2025年7月8日 午後6時30分
日本銀行 記者会見
日銀本館の会見室には、100人以上の記者が詰めかけていた。
白上副総裁が壇上に立つと、フラッシュが一斉に光る。
「本日、東和グループの株式が異常な値動きを記録しました。 日本銀行は市場の安定を確保するため、流動性資金供給を実施し、金融市場の混乱を抑える措置を取ります。」
「市場操作の可能性については?」
記者が矢継ぎ早に質問する。
「金融庁と証券取引等監視委員会が調査を進めています。日本銀行としては、金融システム全体への影響を最小限に抑えることを優先します。」
「東和グループ株の暴騰・暴落はヘッジファンドによる仕掛けでは?」
「現時点で特定の主体を指摘することはできません。しかし、過去の市場クラッシュと比較しても、異常なボラティリティ(価格変動)を伴っている点は重く受け止めています。」
政府、日銀、金融庁が動き出し、市場の混乱は次なる局面へと進んでいく。
この二日間で、いったい山田とバディはどのようにして株価を誘導していたのか。もちろん、この二日間だけでなく、長い時間をかけて仕込んでいたのだが。
まず山田は、ポジティブ情報を利用して株価急騰を誘導した。@GlobalTraderXや@MarketMaverick などのSNSアカウントを使い、「東和グループの革新的技術」に関する情報を拡散。さらに「大手メーカーと提携交渉」などの情報を匿名リーク。それにより機関投資家の買いを誘導し、個人投資家も巻き込む形で株価を急騰させていった。
さらに自身も、ペーパーカンパニーを使い分散して東和グループ株を買い集めることで、市場での東和株人気を演出し、投資家の購入意欲を刺激していたのである。ある程度、市場が動き出すとあとは山田の手を離れ、市場の中で勝手に株価が上がっていくことになる仕掛けだ。
そして、ある程度、株価の上限が見え始めたタイミングで取得済株式を全株を売りに転じる。ただし、一気に大口売りをかけると市場の監視システムに見つかる可能性が高いため、これもペーパーカンパニーを使い分散し、タイミングをズラして売り注文を出したのだ。この手口は俗に言う「パンプ&ダンプ(Pump & Dump)」という方法である。
その後、自分が売りに出した株式がある程度、売り抜けたタイミングで、ネガティブ情報(特許侵害疑惑の情報)をリークし、市場の不安心理を煽り、売りが売りを呼ぶ状況を作り出して、パニック相場を作り出して株価崩壊を加速させたのだ。
結果的に東和グループ株は前日比 -70%の暴落を記録し、後に「七夕の悪夢」として語り継がれる事件の誰も知らない真実であった。
2025年7月9日 午前9時00分
東京証券取引所
開場と同時に、東和グループ株はさらに下落し、一時2,700円を割る場面もあった。
だが、日銀の流動性供給の発表を受け、徐々に売りは収まり始める。
「くそ……。一体何が起きたっていうんだ……。」
佐藤翔太は未だに市場の混乱が信じられなかった。
昨日と違い、喧騒が消え普段のフロアに戻ったフロア内を見回しながらポツリと中村修一が呟く。
「誰かがこの相場を操った……。それだけは確かだ。」
そして中村は確信が持てない自分を鼓舞するように続けた。
「やはり…ステルス・パイロットだ。」
市場はまだ、真実を知らない。
後にこの事件は「七夕の悪夢」と呼ばれ、日本経済に未曾有の被害と不況を引き起こした原因として、
歴史に刻まれたのである。
こうして怒涛の2日間は過ぎて行った。まさにジェットコースター並みのスピードと緩急で、市場を翻弄した山田。その手にした利益は100億円。
日本経済を不況のどん底まで落としてでも手にした100億円。この後どうなる。
次話もご期待ください。