第1章 平凡なサラリーマン
ボルマゲドンから3年後、日本はコロナ禍の最中。しかも経済状況は最低。こんな日本での山田は…
■ 平凡なサラリーマン・山田耕作
第1幕
山田がニューヨークを去ってから3年後、山田耕作(29)は日本にいた。折しもコロナウィルスによる世界的パンデミックが巻き起こり、その極小ウィルスに震撼している頃であった。
朝の通勤電車はいつも混雑しているのだが、緊急帯宣言後、混雑を避けるフレックス通勤が主流となり比較的すいている電車内であった。山田は、他の乗客と同じくマスクを掛け、小さな革のカバンを抱え、会社員らしくネクタイを整えた姿で車内に立つ。周囲の顔ぶれは毎日ほとんど変わらない。月曜の朝、窓ガラス越しに見える景色にはどこか疲労感と緊張感が漂っているが、皆、一様に感染には注意しているように見える。
会社のオフィス入り口では、手や指の消毒の他、顔認証による出退勤の打刻と体温測定が行われた。36度3分。平熱だ。
「おはようございます。」
会社に着くと、控えめながらもきちんと挨拶をする。彼の同僚たちも、山田に特に目を留めることはない。日常に溶け込んだ影のような存在だった。株式会社アオイフードサービスの営業部はそれなりに忙しいが、山田は特段目立つこともなく、ただ淡々と与えられた仕事をこなしている。
昼休みには、いつものように社員食堂でチキンカレーを注文する。少しだけピリッとした辛さと控えめな香辛料が彼のお気に入りだ。この昼休みの時だけ、マスクを外せるので解放感はあったが、アクリル板で仕切られた座席では、おしゃべりもままならない。もっとも人付き合いの苦手な山田には、あまり関係はないが。
それでも周囲の社員たちは、趣味の話や子供の成長について楽しそうに話しているが、山田は静かにカレーを口に運ぶだけだ。
「山田さんって、あんまり私生活の話しないですよね。」後輩の佐々木が透明なアクリル板の向こうから、ふと声をかけてきた。
「え?、そうかな。まあ、特に面白いこともないからね。うちに帰ればパソコン三昧だよ。」山田は微笑みながら答えた。
「家でもパソコン?ああ、オンラインゲームっすか。結構、オタクなんですね。」
「はは、オタクじゃないけどね。まあ、似たようなもんか。」
パソコン三昧、まあ嘘ではない。
平凡な仕事、何気ない会話。そして終業のチャイムが鳴ると、山田は同僚たちと軽く挨拶を交わして会社を出る。自宅への道を歩きながら、彼の表情はどこか変わり始める。
それにしても、このパンデミックはいつ終息するのだろう? そんな事を思いながら帰路についた。
第2幕 バディと織り成す闇の計画
会社から自宅マンションの最寄り駅までは、乗り換えの無しで8つ目の駅である。改札を抜けると、微かに金属の匂いがする風が吹きつけてきた。階段を下りると、タクシーが数台、エンジン音を低く響かせながら乗客を待っている。歩道には、スマートフォンを片手に急ぎ足で歩くマスク姿のビジネスマンや、駅ナカのコンビニ袋を提げた学生たちが行き交っていた。。
駅前のロータリーは決して広くはないが、どこか整然としている。横断歩道を渡った先には、ビルの一階に小さなカフェがあり、窓越しにコーヒーを啜る老紳士の姿が見えた。 その向こうには、古びた佇まいの商店が並び、山田の記憶にはないが、昔テレビで見た昭和の名残を感じさせる。商店街を抜け少し行くと5階建てのマンションが見えてくる。ここが山田の住まいである。
山田の部屋は4階のエレベーターを降りた突き当たりから一つ手前の部屋だ。自宅の扉を閉め、扉に二重ロックをかけて部屋に入ると、山田の中で何かが切り替わる。革のカバンを床に置き、スーツのジャケットを脱ぐと洗面所で丁寧に手を洗い、洗顔とうがいをする。タオルは毎日洗濯している新しいタオルだ。その後、リビングの奥にある自室へ向かう。その部屋は、外界とは完全に切り離された秘密の空間だった。
山田がパソコンを立ち上げると、モニターには複数のグラフや市場データが瞬時に表示された。と、同時にデスクトップ下のツールバーにあるアイコンの一つが青くゆっくりとした明滅をはじめると、山田が所有するスーパーコンピュータのAI「バディ」の冷静な機械の合成声が響いた。
「本日の市場分析を完了。主要な変動は指定の条件内。」
その声に山田が答える。
「オーケイ、バディ。レポート確認の前に聞きたいんだが?」
「了。質問をどうぞ。」
男性なのか女性なのかわからない機械による合成音声は無機質に返答する。
山田は顎に右手の人差し指を掛け、視線を斜めに向けて少し考えてからバディに問う。
「バディ。お前の情報収集と予測演算で、今のコロナウィルスのパンデミックは、いつまで続くと予想する?」
バディは即座に演算を終了し答える。
「コロナウィルスの脅威の排除は出来ないものの、公衆衛生上における感染者拡大の減少を確認できるのは2023年2月と予想。予想感染者数7億6千万人。累計死亡者数 7百万人と予想。完全終息に至る要件の検索結果無し。」
「日本国内はどうだ?」
「予想値:日本国内、累計感染者数約3500万人。累計死亡者数約50万人と予想。」
毎日テレビで感染者数の増大報告を聞いている山田もこの世界的パンデミックの行方が気になっていた。
「特効薬みたいなものはないのか?」
「了。現状なし。日本国内ではSONG製薬で『S-892216』抗ウィルス薬開発中の情報」
「お前、作ってくれよ。」
「COVID-19に対する特効薬を開発するには、ウイルスのタンパク質、特にスパイクタンパク質、RNA依存RNAポリメラーゼ、プロテアーゼなどの中からどこをを標的とすることが良いのかを特定する必要があります。ターゲット設定後に特定のタンパク質に結合する可能性のある化合物をシミュレーションすることが必要となり分析だけで相当の時間を有する事になります。現状のウィルスは環境により変異する速度が速いため開発が追いつきません。その結果、治療薬開発よりも感染拡大抑制を優先し『ワクチン』の開発を加速させることなりました。現状では変異株を含め遺伝子レベルの情報が不足しています。したがって、データ不足により解析不可能。」
「はいはい。解説ありがとう。でも、おまえにも無理ってことね。」
「否。情報不足。」
バディは、山田が架空名義で所有する海外の情報処理系会社NexaTech Solutionsが開発・運営するAIアシスタントである。
その本体は、CosmosTech Systems社製の「Cosmos-9 SuperCore」という、複雑なAIアルゴリズムをリアルタイムで処理できるスーパーコンピュータなのだ。
最先端の量子コンピュータとクラウドコンピューティングを組み合わせたAIエンジン「QuantumAI Engine」で稼働する「Cosmos-9 SuperCore」は大規模なデータ解析や、複雑な最適化計算を瞬時に行うことが可能となっている。
しかし、その高性能さ故に、本体であるスーパーコンピューター「Cosmos-9 SuperCore」とそこに接続しクライアントとして利用している山田のパソコンと、大容量データを転送する通信において遅延が発生する問題が発生。その解決のため、山田は新たに同じマンションの5階の角部屋をペーパーカンパニー名義で借り受け、サーバールームとして使用することにし、そこに大型サーバー機3台を並列接続してその遅延部分を補完させることで、ほぼリアルタイムの反応速度を実現していた。どうりで、隣室には人の気配を感じないものの、エアコンの室外機が3台もベランダに並び、年がら年中、エアコンをつけっぱなしのはずである。
また、ネットワークの接続も既存の回線では転送容量がカバーできない為、両方向での暗号化通信の可能なプロトコルを用いたWireGuard接続によるダークネットVPN(ローカルおよびグローバルのサーバー群を用いたVPN)を利用し、さらにIPアドレスを定期的に変動させて事実上、逆探知不可能の環境を実現していたのだ。
そんな完全無欠のバディ・システムだが、山田にも不満がある。それは、バディは第3世代型リアルタイム処理の自立学習型AIとして設計され、学習モデルは強化学習を基本にした深層強化学習(Deep Q-Learning)のサブフィールドを使って常に最適解を追求するよう設計されている。そのため計算を無駄にしないように効率的に行動することが最優先とされていた。
その結果、バディは人間的な感情や共感の能力はほとんど持たず、人間を模倣した他のAIのように表現力豊かな感情表現を疑似的に行うようなことは非効率と認識され、あくまで効率的に求められた問いに対する最適な回答だけを行う設計となっているのだ。一人暮らしの山田が人間らしい温もりを求めても、バディは山田の望む答えを返さない。それにより、しばしば喧嘩(と、言ってもすべて山田がひとりで怒っている)が勃発する。
「まあ完全無欠のお前でもこればっかりはどうしようもないな。引き続き情報収集は継続してくれ。」
”お前にも無理だろ”という皮肉を込めて言ったが、当然、突っ込みもなく返される。
「”了”。」
「それじゃ分析結果の報告してくれ。」
バディは山田の指示と行動予測ルーチンにより世界中の経済動向の監視とアジア経済の動向を監視しながら市場の動きを計算・予測値を出しながら、ある意味、未来の経済状況を予測すしていた。今日もまた、いつも通り監視を続け分析結果を数値及びグラフやチャート図で報告した。
山田は、バディが出力したリアルタイムの市場分析を目で追った。株価の動き、通貨の変動、ニュース速報。それら全てがバディの計算網の中で絡み合い、具体的な戦略へと結びついていく。
山田が聞く。
「次のターゲット銘柄は?」
バディは間髪を入れず答えを返す。
「候補は5つ。優先度は収益性、リスク回避度、影響範囲の順で設定。」
「いいだろう。それで進めてくれ。」
そう言った矢先に唐突にバディが警告を発した。
「警告:ターゲット企業の財務データに異常な変動を検知。関連ニュースをスキャン中……異常原因判明。報道機関が投資機関による買収計画を公開。株価急騰の可能性。」
「買収計画の主導者は?」
「特定完了。主導者は『東和グループ』、資金調達元は匿名口座を通じた外国ファンド2社。追加情報が必要な場合、別途解析プロセスを起動可能。」
「また東和か。バディ、今は不要だ。次の対象に進め。」
バディの作業が進む中、山田は一杯のブラックコーヒーを淹れる。昼間の会社員としての平凡な顔は、ここには微塵も残っていない。代わりに浮かび上がるのは、冷静で計算高いトレーダーの姿だった。
「オンライン・ゲームっすか?…」後輩、佐々木の顔がふいに山田の脳裏に浮かぶ。
「まあ、あながち間違いじゃないな。」
山田が目指すものは何か。バディとの冷徹な会話の中で浮かび上がるのは、未だに敏腕トレーダーの顔の山田と、昼間のどこにでもいる普通の日本的サラリーマンの山田。昼と夜、表と裏。その均衡の上で、彼の計画は今、着実に進んでいたのである。
ー山田耕作ー 表の顔と裏の顔、二つの顔を持つこの男は何者で、いったい何を考えているのか。最先端AI等をどうして保有しているのか。謎は深まる。