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第8章  雪の日の回想

第8章  雪の日の回想



2025年12月23日 


 東京の冬は例年にない寒波に包まれていた。窓の外では雪が静かに降り積もり、街全体が白く染め上げられている。東京にしてはめずらしくホワイトクリスマスの様子に道行く人はどこか楽しげであった。

 しかし、かつて繁忙を極めたオフィス街も、今では人通りが疎らだ。そんな街並みを眺めながら、西田直人は設立間もない新会社ジェネシス・パワー株式会社 (Genesis Power) の事務所の薄暗い一室に佇んでいた。


 机の上には、研究ノートが広げられている。このノートだけが、彼の手元に残った最後の証だった。それはかつて「ナノ・エコバッテリー」と呼ばれた、彼の夢そのもの。だが今、その夢は崩壊し、日本経済の暗黒時代を引き起こした元凶として彼の胸を締め付けている。


 ちょうど1年前、西田は絶望の中にいた。次世代バッテリーの開発で注目を集めていたグリーンエナジー社は、東和グループの強引な買収により乗っ取られ、技術も特許も奪われてしまった。田島康夫と共に10年以上かけて築き上げてきたものが、わずか数ヶ月で消え去ったのだ。社長の座を奪われ、無力感と怒りに支配される日々。そんな中で彼が見つけたのが、匿名掲示板「掃き溜めネット」だった。


 掲示板に書き込んだ内容は、ただの愚痴だった。「全てが奪われた」「もう何も残っていない」と。だが、その翌日、西田の古いパソコンに突如現れたのは、聞き慣れない無機質な機械音声だった。


「奪われた技術を、奪い返すことができる。」


 そう西田に告げるその声は、自分たちの状況をなぜか正確に把握していた。そして一つの要求をしてきたのだ。


「ナノ・エコバッテリーの技術情報を提供してほしい。」


 西田はその要求に戸惑った。自分たちの技術はすでに東和グループに奪われている。だが、唯一手元に残っていたのが、研究ノートだった。開発の全工程が詳細に記されたこのノートを渡すことは、自分の全てを差し出すことに等しい。だが、その時の彼は絶望の中で何かにすがるしかなかったのだ。


名を訊ねても答えぬAIの声は冷たかったが、一つだけ確かに記憶に残った言葉がある。


「知らないことが、あなたを守る。」


 その言葉の真意を理解する前に、ノートのデータを送信してしまった。それから数ヶ月間は何も起こらなかった。平穏ではないが、特に動きが見られるわけでもなく、西田はやがてクリスマスの夜の出来事を心の奥底に封じ込めていた。



 だが、今年の七夕。すべてが変わった。本当に全てが変わったのだ。



 その朝、東和グループの株価が異常な急騰を見せた。一部の市場関係者はそれを「奇跡の復活」と呼び、経済誌は東和の株価が天井を突き破るような勢いで上がる様子を絶賛した。だが、喜びは長くは続かなかった。翌日になると状況は一転。株価は大暴落し、投資家たちの間にパニックが広がった。異常な取引量とアルゴリズムのエラー。これが「七夕の悪夢」と呼ばれる日本経済の危機、金融危機の幕開けだった。


 東和グループは、急激な株価変動の影響で経営破綻の道を辿り、その余波は関連企業や下請け企業に波及。日本経済は未曾有の円安インフレと大不況に突入した。失業率の急上昇、閉鎖される企業、そして何より市民生活に及ぶ深刻な影響。街には暗雲が立ち込め、未来への希望を見出すことが困難な状況に陥った。これが、本当にあの『七夕の日』を境に現実に起こったのだ。今や日本の信用力も地に落ち、アジア各国が日本の台頭として世界経済に名を馳せようと躍起になっている。


 西田はその一部始終を目の当たりにしながら、胸に湧き上がる後悔を抑えられなかった。自分が提供した情報が、この事態を引き起こしたのではないか。その思いが何度も胸を締め付ける。だが、それと同時に、彼は気づいていた。不思議なことに、自分が渡した情報について誰からも責められることはなかったからだ。ただ、あの日AIが告げた言葉が脳裏を離れない。


「知らないことが、あなたを守る。」


 その言葉が、自分を何から守っているのかは分からない。ただ一つ分かるのは、自分の行動が何らかの形で未来に影響を与えたということだ。薄っすらと街を静かに染め上げていく雪を見ながら西田は思っていた。





雪のクリスマス・イブにて


2025年12月24日  ジェネシス・パワー社

 クリスマス・イブの午後、西田直人はジェネシス・パワー社の 薄暗いオフィスで資料を眺めていた。

 田島と共に新たに設立した新会社ではあったが、その資金繰りは限界に近く、東和グループが事実上、手放した「ナノ・エコバッテリー開発」の新規アプローチも暗礁に乗り上げていた。

 奪われた「ナノ・エコバッテリー技術」は、1年前のクリスマスに突如現れた正体不明のAIが言ったように『東和グループから解放』された。だが、ドイツの医薬品企業との特許侵害問題があるため、基礎理論をそのまま継続した開発は行えない。西田と田島は、別のアプローチから『新ナノ・エコバッテリー』の開発を模索するため、この新会社を立ち上げたのだ。

 だが、やはり技術的な課題として特許侵害問題は大きな壁となって立ちはだかっていた。この問題をクリアし、技術的ブレイクスルーがなければ、明日を迎えられる保証すらない。そんな状況であった。しかも、ただでさえ現状の日本は不況に喘ぎ、財務基盤の弱い西田たちのような中小企業では、貸し倒れのリスクから銀行融資もままならない。

マイナスがマイナスを生む、それこそ負のスパイラルであった。


「やはり、ここまでなのかなあ…」

そんな弱気な言葉がふいに出る西田であった。



 そんな時、海外からの封筒が一通届いた。

 差出人は「Vega Holdings AG」。西田にはまったく見覚えのない名前だった。

 封を切ると、中には一通の手紙とUSBメモリが入っていた。さらに、銀行口座の残高確認をするよう促すメモが添えられていた。


手紙の内容はこうだ。(英語原文と日本語訳)


Subject: Funding and Proposal for Your Advanced Battery Technology


Dear Mr. Nishida,


To support your company’s pioneering efforts in battery technology, we have transferred a donation of $37 million (approximately 6 billion JPY) to your account. Please utilize these funds to further advance your groundbreaking research.


In addition to this donation, we are providing the following:


However, in order to use this donation and the proposals outlined below, you must agree to the conditions we present.


If you do not accept these conditions, the funds will be frozen and will not be accessible. Furthermore, the proposals we have put forward will be patented as our proprietary technology. We trust you will make a wise decision.

Provided Materials:


An innovative battery design proposal to resolve the patent infringement issue.

Technical specifications for the next-generation battery system, Tri-Layer Core, designed to leverage your company’s existing expertise while overcoming previous limitations.

A roadmap for development and global adoption, based on collaboration with international partners.


Conditions:


The core technology must be promptly released as open-source and made freely available.

No patents shall be filed for the core technology itself for commercial purposes.

However, this restriction does not apply to derivative technologies or products developed based on this core technology.

When allowing other companies to use the core technology for free, your company must ensure that they also do not file patents for the core technology or any modified versions for commercial purposes.


Sincerely,

Vega Holdings AG


P.S. It's a bit late, but consider this my Christmas gift to you.



(日本語訳)


西田直人様


 貴社の先進的なバッテリー技術の取り組みを支援するため、3700万ドル(約60億円)の寄付金を御社の口座に送金いたしました。この資金は、貴社の画期的な研究を推進するために活用してください。

また、寄付金に加えて、以下の内容をお送りします。


ただし、この寄付及び下記提案を使用するには、私どもが提示する条件を受け入れる必要があります。


もし、条件を受け入れない場合は、寄付金は凍結され受け取ることができないこと。さらに提案した内容は弊社独自の技術として特許申請することとなります。

何卒、賢明な判断をされることを期待します。


1. 特許侵害問題を解決するための革新的なバッテリーデザイン提案。


2. 新型バッテリーシステム「トライレイヤーコア」の技術仕様。これは貴社の既存の知見を活かしつつ、従来の制約を回避する設計です。


3. 国際的なパートナーとの協力に基づく開発・普及ロードマップ。


条件内容

1.基礎技術はオープンソースとして速やかに無償公開すること。


2.基礎技術自体については営利を目的とした特許を申請しないこと。

  ただし、この技術を基にした派生技術や製品にはこの制約は適用されまん。

※他社が基礎技術を無償利用する際も、御社主体で、基礎技術又はその改変版を営利目

的で特許申請しないことを条件に使用許諾すること。



敬具


ヴェガ ホールディングス AG



PS. 遅くなったが君へのクリスマスプレゼントだ。



技術的提案:特許侵害回避策と新しい技術


USBメモリには、詳細な技術設計書が保存されていた。田島は早速中身を確認し、その革新性に驚嘆した。


1. 特許侵害回避策

 従来のナノ・エコバッテリーは、平面的なカーボンナノ繊維配置を採用しており、これが特許侵害の原因とされていた。

 新提案では、バッテリーの構造を三次元多層構造へと変更。各層が異なる電位を持つ  ことで、エネルギー密度を向上させ、従来の平面設計との差別化を図っている。

 特許侵害問題を回避するため、既存の電極デザインを完全に再構築し、特許保護範囲を超える新規アプローチを採用した。

2. 新技術「トライレイヤーコア」

 三層構造: 高伝導性カーボン繊維層、絶縁層、新素材による自己修復ポリマー層の組み合わせで構成されている。

 エネルギー効率: 各層が独立したエネルギー経路を持ち、従来の設計と比較して30%以上のエネルギー密度向上を実現。

 自己修復機能: ポリマー層が損傷を検知すると、分子間結合を再形成して電極の長寿命化を促進。

3. 製造過程の効率化:設計データを直接インクライティング(DIW: Direct Ink Writing)を行うと共に、一部の構造には光造形(SLA: Stereolithography) + カーボンフィラーを用いて製造工程を効率化する。導電性カーボンナノインクを使った3Dプリント技術にて製作可能。ただしナノ材料は凝集しやすいため、分散技術が重要となり更なる研究を要する。


「西田社長、これはすごい。思いもよらない発想だ。積層構造で立体構造にして、高密度と高集積率を達成している。こりゃあすごい発明だ」


 パソコンのモニターでUSBメモリの中を開いた田島が興奮気味に設計図を説明する。


「だが…」

田島が、翻訳されたメッセージの内容を確認しながら言う。

「営利目的での特許申請をしないって、どういう事です? 利益を求めなかったら我々は何のためにここまで苦しい思いをしてきたのか…」


西田と共に同じ苦しみを味わってきた田島の気持ちも痛いほどわかる西田だった。

「それに、この文面… 脅迫じみてます。こちらの条件を飲まなかったら金も技術も与えないって。これは東和と同じじゃないですか。」


憤りを隠せない田島に対して、西田は少し考えてから話はじめた。

「田島君… 田島君の言う通りだ。これじゃまるで脅迫だね。でも、ちょっと引っかかる点があるんだ。」

「引っかかる点?」

「営利目的での特許申請はするな。って言ってるのに、その技術を使った2次製品は特許も商標登録も許す。しかも、基礎技術使用の許諾は俺たちに管理しろって言ってる。」

西田は軽く目を閉じ少し間を開けてから話しを続ける。

「これって、俺たちに色々な分野にこの技術を広める核になれって言ってるように思うんだ。」

相手の思惑を量り兼ねていた田島も『言われてみれば…』の表情で返す。


「どちらにせよ、我々には資金もないし、特許侵害回避の具体案もなかった訳だ。これ以上、悪くなりようもない現状だ。ありがたく使わせてもらおうじゃないか。」


「しかし…もったいない。これは凄い発明になるのに…」


 まだ諦めきれない様子の田島だが、提案された設計図を食い入るように見つめると、ただただ、「すげえ。これはどういう構造だ?」既に頭の中は、開発への期待でいっぱいのようであった。


 子供のようにはしゃぎ始めた田島の姿を久しぶりに見ながらも西田には、気になる一文があった。

「これは……クリスマスプレゼントだ……か。」


 その言葉に1年前の出来事が鮮明に蘇る。あの日、「掃き溜めネット」に書き込んだ自身の絶望的な思い。そして、AIのような声の主と交わした短い会話。研究ノートを渡してしまったことが、日本経済の混乱や東和グループの崩壊を引き起こしたのではないか。


「俺のせいなのか……?」


 西田の疑念は日に日に膨らんでいた。だが、目の前にある技術提案書と莫大な寄付金は、そんな不安すら凌駕する希望をもたらしていた。


パソコンのモニターで構造設計を追いかけていた田島がふいに言った。

「でも、いったい誰なんでしょう?」


 西田は答えなかった。ただ、「遅くなったがクリスマスプレゼントだ……」という言葉で西田には察しがついていた。





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