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第四章 オワリトハジマリ

「あ~……落ちつかねぇ」

 バイト先のパチンコ店でホールを巡回していた俺は、ほとんど上の空だった。

 まったくと言っていいほど仕事に集中できずにいると――

「お~いセンパ~イ仕事しろ~ランプ取れ~」

 インカムでそれはもう低~いボイスを飛ばしてきたのは日那さんだった。

 振り返れば案の定、遠くの方からジト眼でこっちを見ていたが、

「あ、すまん」

 後輩に軽口を叩く余裕すら皆無である。

 いや、だって、仕事に集中などできるはずもないのだ。先日、ついに俺達の作品が最終選考に残ったという知らせが、彩夏のスマホに届いたのだから。

 以降、ずっとそわそわしっぱなし。日本最大級の賞レースで、自分の作品が約五千もの応募作から選出され、念願の受賞が今にも届く距離に迫っているという事態になれば、投稿者は誰だってこうなると思う。普段通り過ごせている人間がいるとすれば、たぶん、ソイツは相当に頭がおかしい。

 そんなこんなでその日の夜勤もなんとか乗り切った俺だが、こんな感じをいつまでも続けていれば事情をまだ把握していない日那さんに仕事終わりに捕まるのは必然だった。

「ちょっとセンパイ、どうしたんですか? 最近たるんでません?」

「面目ない……でも、仕方ないって」

「なにがですか? 言い訳があるなら一応聞いてあげますけど、納得できなかったらぐーぱんですよ?」

 みはるんご立腹である。がおーっとちっちゃな怪獣よろしくで吠えてくるが、

「……以前キミに見てもらった作品、アレが今……《神筆大賞》の最終選考に残ってるトコなんだ。ホント迷惑をかけっぱなしで心苦しくはあるんだけどさ、受賞の知らせがいつ来たっておかしくない状況下で、いつも通りには中々振る舞えないんだよ」

 俺がそう言うと目を丸くし、さっきまでの勢いがみるみる途絶えてしまった。

「みはるん? 聴いてる?」

「っ――え? あ、はい……そ、そうでしたか、いやいやいやすごいじゃないですか。そういうことならもっと早く言ってくださいよ~、水くさいなぁ」

「うん、ごめん。でも最終に残ったっていっても、結局は受賞しなきゃ意味ないからさ。合否の結果が出たら教えようかなって思ってたんだ」

「あの作品、めっちゃ面白かったですもんね。アタシ、心が震えましたもん。ペンネームで応募したんですか? タイトルは変えてます?」

 完成作品の応募時詳細を知らない彼女は慌ただしくスマホを取り出す。

 どうやら現状況を検索して確認するつもりらしい。

「ああ、ペンネームで応募してる。タイトルは《無色の季節》から《Season`s》ってやつに変更してるんだけど……」

「変えてる……ッッ――え? シーズン、ズ? それって英表記ですか?」

「うん、そうだけど?」

「…………やば」

 と、スマホを凝視する日那さんの声が、妙に上ずったものに変わった。

 がたがたと、小さな身体が震えを帯びていく。

「みはるん?」

「……してます」 

 なんとか絞り出したような声まで震えていて、その意味を俺はすぐに理解できなくて、

「してるって、なにが?」

「……してるんです、してますよセンパイぃいいいいいいいいいいいいいい」

 とうとう彼女が仰天の叫びを上げ、眼を輝かせてこちらを見やった。

 そして、興奮のあまり我を忘れたのか、俺の苦手なネット画面を突きつけてくる。

「わ、馬鹿よせって――うっ――お? ぁ……ぁぁ!?」

 たちまち全身の細胞が拒絶反応を示し、俺は吐き気から口元を押さえるも……。

 一瞬視界に捉えた一文が、今を、夢のような現実を、俺自身に理解させていく。


 第二十九回《神筆大賞》受賞作――審査員特別賞《Season`s》――――


 ――っ、受賞した? 俺の、俺達の作品が……?


 勝ち取れる自信はあった。絶対にそうなると思ってはいた。

 でも、いざそれがリアルに起こるとさすがにまともな思考が出来なくて、

「これ受賞してますよね? してますよね? してますよねぇえええ? やったじゃないですかすごいですすごすぎますぅぅ――って、センパイ? ちょ、大丈夫ですか?」

 驚きながらはしゃいで喜ぶ後輩の前で、立っていられなくなった俺は膝から崩れ落ちていた。

「あ、そういえばセンパイ……ネット駄目なんでしたよね? ごめんなさいアタシ……つい」

「……いや、大丈夫だから、むしろ……教えてくれてありがとう」

「なら――いいんですけど、てか、お祝いしなきゃいけませんね? アタシこの後空いてますし、どこかいきますか?」

 興奮したままの彼女に差し出された手を借り、俺はふらつきながらなんとか立ち上がるも、すぐに居ても立っても居られなくなった。日那さんの申し出はとても嬉しい。けれど、この喜びを本当に分かち合うべき相手が、誰よりも優先すべき相手が、他に居たから。

「……ごめん。気持ちはありがたいんだけど……俺……まずは彩夏と……」

「あ~……そうですよね、あはは――いえ、当然だと思います。まずは大切な人とお祝いしたいですよね。アタシのことは気にしないでください。こっちは別に……いつでもいいんで……さ、そうと決まればセンパイ、早く帰ってあげた方がいいですよ?」

 彼女に景気付けとばかりにパシっと背中を叩かれ、自由を取り戻した俺のカラダが動き出す。

「ああ、そうする。またな、みはるん」

 自然と駆け足になっていた。鼻歌を歌いたくなる気持ちを抑えられなかった。大声で歌い出さなかっただけ大人だと思って欲しい。

 苦節七年、ようやく掴み取った栄光、今後広がる無限の可能性に心が躍る。

 ああ、やっと……やっと……やっとここまできた。

 それもこれもすべては同盟を結んでくれた彩夏のおかげだ。

 彼女は俺とは異なり、すでに電話でこの吉報を受けているはずだ。一体、どんな顔で知らせを受けていたのだろうか。普段感情を内に秘めがちな彩夏は、最終選考に残ったという知らせでさえ目立った喜びを見せなくて、俺は少し気になってはいたけれど、改めてよく考えれば彼女は処女作でもすでに同様の経験をしていたから、俺以上にシビアに物事を見ていたのかもしれない。受賞しなければ、すべては意味など無いのだと。

 しかし、今回は違う。受賞したのだ。それも日本最大級の賞レースで。

 認められたのだ、自分の価値を。

 ならばいくら彼女とて内に秘めきれるとは思えない。ずっと晒された不遇の反動で嬉しさのあまり泣き崩れたっておかしくないだろう。

 彼女はこれまでも幾度となく悲しげに泣いていた。理由が俺には見えない涙がいくつもあった。でも、涙が承認から来る喜びのものであれば、同盟相手としてこんなに素晴らしいことは無い。そして、泣けるほどの喜びを分かち合える相手が側に居れば、幸せはなお大きいはず。

 ――待ってろ彩夏、すぐに行くから。

 店を出ると外は東京では珍しく雪が降っていた。

 夜の街灯に照らされて色付くそれは宝石のようで、どうやら天まで俺達の快挙を祝福してくれているらしい。こんな風に思える自分はきっと幸福感に満たされていたのだろう。風が吹き付ければ本来凍えそうなはずで、いつもなら文句のひとつも呟いてしまいそうなのに。

 大切な彼女を今すぐ抱き締めたくて、伝えたいことが沢山あって、俺は年の瀬の人混みを縫うように家路を急いだ。

 同じ深夜の時間であっても、八王子駅近辺とは違い日野駅周辺は静けさに包まれていた。

 人通りの無い道路は積雪で真っ白になっていて、なんだか幻想的でさえあって、ここでは無い異世界にでも繋がっていそうな雰囲気があった。誰の足跡も付いていない白道を踏みしめて進み、なんとなく振り返ると俺だけの足跡が付いていて、それはなんだか妙に気持ちを高揚させ、帰宅の歩みをより速めさせた。

 やがて、慣れ親しんだボロアパートが視界に入る。

 転ばないように気を付けつつ、彼女の待つ部屋へ――扉の鍵を開け、ドアノブを捻る。

「ただいま、彩夏」

 彼女は今どんな表情をしているのだろう? まず抱き締めた後、それからなんと声をかけようか? 祝いと感謝と敬意、それらすべてを深くも簡潔に伝えられる便利な言葉があればいいのにと思案しつつ、部屋に入ると彼女の姿は見当たらなかった。作業用の椅子にも、ソファーにも、ベッドで寝ていたわけでもなくて――。

 浴室からはシャワーの音がしていた。どうやら入浴中らしい。

 帰宅したら真っ先に言おうとしていた纏まらない言葉の出先を失い、俺はとても深い溜息を吐いてしまうが、慌てることはない。出てきたら感情のままに行動すればいい。

 そう、思っていたのだけれど、いくら待てども彼女は出てこなかった。

「彩夏? シャワー出しっぱなしだけど大丈夫か?」

 流石に焦れた俺は浴室前の扉に近づいて声をかける。返事は無い。なおも停まらないシャワー音に、不審に思い扉を開く――と、心臓が一際大きく跳ね上がる。

 異様なまでに朱の滲む湯が溢れる浴槽に、彩夏は身を浸けていた。シャワーを頭から浴びているのに生気を感じさせない青白い顔で、瞼を閉じたまま壁にもたれ、ぐったりしていて、

「――っ、彩夏……どうしたん――――ッッッッ!!?」

 慌てて彼女を鉄の香りがする浴槽から出そうとする。

 が、湯船から現れた彼女の両手を見て自分の目を疑った。

 右手に握られていたのは鋭利な剃刀、そして、左手首はおぞましいまでに無数の切り傷。

 それらはこの血染めの湯船を、彼女自身が生みだしていることを示していて――

「なん……でだよ、なんで……こんな……」

 俺の涙声での問いかけに、鮮血を滴らせる彼女は応えてくれなかった。

 最大目標を達成した今日は、俺達にとって記念すべき日になったはずだった。

 それなのに、おかしいだろ……こんなの……どうして…………。

「ぅ……おあ」「……あああ」「ああああああアアアアア亜亜アアアアああアアアアアアアアアアアあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああアア!!」

 惨劇の渦中、彼女を腕に抱くと、我を忘れて絶叫した。

 もう、何も考えられなくて、しかし、微かな声が俺に自我を取り戻させる。

「――りゅ……せ…………さん」

「ッ―――あや、か?」

「……ごめん……なさい」

 不意に珠のような涙が、閉じたままの瞼より零れ落ちた。

 嬉し涙とは程遠いそれを見せた彼女は、それきりなにも言わなくなって。

 けれど、密着させた肌から伝わる小さくも確かな命の鼓動に、俺は今更ながら気付く。

 だったらここで呆けている場合じゃない、このまま死なせる訳には断じていかないっ。

 一心不乱だった。可能な限りの止血処置、固定電話での緊急車両の手配。やがて到着した救急車に、最低限の準備をしてストレッチャーに乗せられた彩夏と共に乗り込み、緊急連絡先として聞いていた彼女の親に車内で連絡した後は、ひたすら彩夏に呼びかけ続けた。

 病院到着後、彩夏がERの手術室に搬送されて諸々の説明を医師より受けてからは白一色の廊下の片隅で無事を祈ることしか出来なくて、そうこうしている内に彼女の両親がやってきて顔を合わせた。どうも俺達が一緒に住んでいる件を知らなかったらしく、初顔合わせがこんな事態になってしまった父親からは有無を言わさず殴られた。母親とたまたま場に居合わせた医師に止められなければ一発では済まなかっただろう。それほどの剣幕で怒鳴られた。彼女の容態を詳しく知りたかったけれど、もう、その場に留まり続けることは許されなくて――。

 俺は、ひとり自宅へと戻るしかなかった。

 一時は祝福だとさえ思えた雪は刺すように吹雪いていた。心まで凍てつきそうだった。

 帰宅するまでの記憶は虚ろで、ようやく辿り着いた自宅に入っても、彩夏が消えた部屋は雪の降りしきる外より冷ややかな気がした。エアコンが効いているはずなのに、ちっとも暖かくならなくて、寒くて、苦しくて、ソファーの上で蹲る。

 静寂の中、どれくらいの時間そうしていたのかわからない。

 無事を祈りながらも、やり場の無い悔しさから拳を握り締めていると、卓上に置かれたままの彩夏のスマホに気付く。彼女はこいつで受賞の連絡を受けたはず、そう思うと手に取らずにはいられなかった。

 画面はパスコードでロックされている。俺はなんとなく彼女の誕生日を入力する。

「―――っ」

 と、拍子抜けするくらいに呆気なく解除されてしまった。

 ドクドクと心音は加速し背徳感がじわじわと広がるも、操作する指先は停まらない。直近の着信を調べていくと、妙なことに今日はおろか、最終選考に残った知らせを含むここ一月ほどの着信履歴が無かった。最終選考に残ったと言う知らせは彩夏本人から聞いているのだから、このスマホに履歴が無いのは不自然である。

「? どういうことだ……わざわざ消したのか、でもそんな必要は――」

 部屋の固定電話を連絡先にしたのだろうか、そう思って調べてみるも案の定それらしい履歴は見当たらず、疑問は膨らむばかりで。

 もしかしたら電話連絡が来ていないのでは……しかし、そんなことが有り得るだろうか。

 仮にだが、投稿時に入力事項をミスしていればそれも有り得るかもしれない。

 俺が不甲斐ないから投稿時はほぼ彼女に任せきりだった。選考の結果だけならネットで調べられるから、最終を含む選考状況を彩夏が把握出来た点にも説明が付く。

 だとすれば受賞の電話連絡を彩夏は受けていないことになる。あくまで可能性の話だが。

「っ、だからなんだってんだよ……どうでもいいよそんなことは」

 重要なのは、せっかく受賞したのに当の本人である彩夏があんな真似をしでかしたことだ。

「……本当に彩夏がやったのか?」

 誰かに襲われた線は無いだろうか。いや、でもあの時、部屋は俺が仕事から帰るまで確実に施錠されていたし、彼女は自らの手に剃刀を握り締めていたし、なにより彼女は俺に向かって詫びているのだ。

 そう、彼女は最後に謝っていた。口癖のような「ごめんなさい」を俺に告げていた。

 つまり、あれはどう考えても彼女自身で行ったこと。

 が、そうする理由がどうしてもわからない。

 いくら思考を巡らせても、人生最良の日が一転して最悪に変わった理由など見つけられず、

「彩夏……どうしてなんだ……俺達は……念願の受賞を……」

 した、よな? したはずだ!! それは俺がこの目で見て――

 …………。

 ふと自分の目が信じられなくなってきた。

 ひょっとしたら今現在、この数時間の出来事はタチの悪い悪夢のような気さえしてきて、

「――――」

 俺はおぼつかない指先で、次第に激しくなる動悸を堪えながら、スマホを操作。敬遠してきたネットに繋ぐ。目眩がする、吐き気が襲ってくる、それでも検索――《神筆大賞》。画面に表示されるホームページ、その中で第二十九回受賞作発表の欄に視線を落とす。大賞、金賞、銀賞と続いた先に審査員特別賞とあり、そこには俺達の作品タイトルである《Season`s》が明記されていた。作品詳細の簡易あらすじも間違いなく俺達の作った物語だった。

「ッ――誰……だよ……コレ……!?」

 しかし、その作者名は、俺と彩夏のペンネーム《からっかす》では無かった。

 代わりに記されていたのは【火華】という謎の名前で――。

 瞬間、脳内で歯車が噛み合う感覚が訪れ、きしきしと耳障りの悪い音が鳴り始める。俺はその気持ち悪さに堪らず立ち上がると、急いで洗面台に走った。

 胃液が逆流し腹の中身をすべて吐きだす。なにもかもぶちまけて、なおも暫く嘔吐いていたが、時を置かずして全身が内側から焼けるように熱くなる。もう冷静な思考など不可能で、ずっと纏わり付いていた混乱と絶望が俺の中でどろどろと形を変えドス黒い感情になっていく。

「盗作、されてたって……ことかよ……」

 導き出したくも無い解が示されると、渦巻く憎悪は今にも破裂しそうだった。

 彩夏はおそらく、とっくにこの事実を知っていたのだ。

 だからこそ最終選考に残っても喜びを見せなかったのだ。物事をシビアに考えていたなんて勘違いでしか無くて、俺にずっと相談しなかったのは、俺が逆上してブチ切れる(こうなる)ことがわかっていて、たぶんそんな俺を見たくなかったから。

 優しすぎたのだ。霞彩夏は。

 自分だって悔しいはずなのに、一人で抱え込んで……我慢して。

 でも、そんなの、我慢しきれるわけがないのだ。事実、彩夏はあんな真似をしでかした。

 なにもおかしくなかった。苦しくて、哀しくて、すべてが嫌になったとしても。

 俺でさえ、こんなにも狂いそうなのだから。キミは……もっとだろう?

 それなのに――。

「コイツは今、笑ってるのか? 美辞麗句で、添えるだけのあとがきでも書いてるのかよッ」

 作家にとって作品の生み出しは、文字通り命懸けのことなのに。

 このまま許しちゃいけない、断じて許せるはずが無い。

 誰だコイツは……いや、誰であろうと、構いやしない。

 俺が、俺と彩夏が味わった屈辱と絶望を、思い知らせてやらなければ気が済まないっ。


「必ずお前を見つけ出し……殺してやる……【火華】」


 幸か不幸か、人付き合いが希薄な彩夏の交友関係はとても狭い。

 そんな彼女からあの原稿を奪える容疑者はかなり限られている。

 俺は、彩夏のスマホを再び操作し、LINEの履歴を調べ始める。

 最近連絡をとっていたのは、奇しくも《同志会》面々――秋雨童夢と真冬角だった。

            ***

 彩夏が緊急搬送された翌日、俺は運良く状況を知ることができた。

 病院に行くと俺が殴られた際に居合わせた医師にたまたま会うことができたのだ。

 彼女はひとまず危機を脱し病室での経過観察に移っているとのことで、俺はすぐにでも会いに行こうとしたのだけれど、彼女の両親も一緒だから今は遠慮すべきだと諭された。昨日の今日でまた揉め事になっても困るのだろう。俺は医師に従い病院を後にした。

 彼女が無事ならそれでいい。俺には他にもやるべきことがある。

 同日の夕方。企業CMや新商品の宣伝が垂れ流される大型モニタ付きの高層ビル群の足下、先日の雪の名残がまだ残る渋谷駅のハチ公前で、都心特有の息苦しさの中、俺は立っていた。

 なんの為かと言えば、ずっと疎遠だった旧友と会う為である。近況報告と意見交換を兼ねて飲まないか? そんな誘いに、驚くくらい簡単に彼等は乗ってきたのだ。

 待ち合わせは十八時。現時刻はすでに十五分ほど過ぎていた。

 彼等は果たして本当に来るのだろうか、俺が腕時計をちらちらと見つつ思案していると、八王子駅の倍はある人通りの中、器用にすり抜けてこちらへ向かってくる懐かしい顔があった。

 心音が速まるも、落ち着いて笑顔の仮面を貼り付ける。

「いや~、すげ~お久しぶりッス。元気にしてましたか?」

「ああ、急な話だったのに悪いな秋雨くん」

 約五年ぶりの彼は、髪型や服装などは当時のままだが体型は若干ふくよかになっていた。

「ほんとそれッスよ。直電マジびっくりしたスけど、誘いは嬉しかったんでおっけ~ッス」

「嬉しかった、のか?」

「そりゃもう、だって必死に努力し合う仲間からのお誘いが嬉しくないはずないっしょ?」

「…………」 

 秋雨くんのやや赤面しながら頭を掻くその反応を、それとなく観察していると、

「……お待たせしました、少々電車が遅延して」

 もうひとりの旧友、真冬角が会釈しながら現れた。彼は秋雨くんと逆で少し痩せていたが、他者を威嚇するような傾いた格好はあの頃のままだった。

「うぉ~真冬さん、ご無沙汰ッス。ボクも今来たトコなんで全然だいじょぶっすよ」

「やぁ秋雨くん、でも遅れたのは事実だから一応ね――空さん、ご無沙汰してました」

「久しぶり、元気そうでなによりだよ」

「今日は誘っていただいてありがとうございます。会えるの楽しみにしてましたよ」

「…………」

 予想以上に和やかな雰囲気だった。今のところぎこちなさは窺えず、どちらも受賞の件については触れてこない。

 対して俺は挨拶代わりの会話を交わしただけで、背中に嫌な汗が流れていた。

 かつて同志だった彼等は今や容疑者、盗作犯の最有力候補である。もし彼等のうちどちらかがクロなのだとしたら、よくも今日はここに来れたものだが、疑いをすでに承知で払拭すべくあえて来た可能性も捨てきれない。

「まぁ、立ち話もなんだし、続きは飲みながら話そうぜ。いい店予約してあるんだよ」

「さすがですね、空さ――って、あれ? 今日は、霞さんは来ないんですか?」

「っ――ん? ああ、都合が悪いらしくてさ。残念だったかな真冬くん?」

「ええ、まぁ……でも三人でもオレは全然」

「ボクもこのメンツで問題ないッスよ、男ばっかの方が話しやすいこともありますからね」

 一瞬顔が引きつりそうになるも、なんとか平常心を貫く。

 俺は彼等を連れてスクランブル交差点を渡ると、道玄坂を上っていく。

 五分ほど歩いた先の雑居ビル、その地下に予約した沖縄料理屋はあった。専門学校時代から彼等は共に酒好きで、特に泡盛には目がなかったのだ。当時《同志会》の集いではまだ未成年だった彩夏は流石に飲ませられなかったけれど、成人済みの俺達は作業しながらよく飲み合っていたから好みは熟知していた。

 そして、これを利用しない手は無い。

 酒は、人の内側を暴くのに非常に有効な手段だから。

 店に着くと秋雨くんのテンションは狙い通りさらに上がる。真冬くんも入り口の棚に並べられた様々な酒瓶を見て口元がニヤついていた。

 店員に席へ案内され、まずはド本命たる泡盛――では無く乾杯用のオリオンビールとおつまみを注文する。焦ってはならない。じっくり旧交を温めて探りを入れるのだ。

 ほどなくしてテーブルに並ぶ料理、海ぶどうのサラダに島野菜の漬物、ゴーヤチャンプルに島らっきょうの天ぷら、どれもすっきりとした飲み口の沖縄ビールとは相性抜群の品である。

「それじゃあ、再会を祝して」

 にこやかに建前を言い、彼等とジョッキをぶつけ合うと、それぞれの近況報告が始まる。ビールと料理を口にしながら、どんな仕事で生計を立てているのか、その職場での良いこと悪いことを、表向きざっくばらんに語り合った。

 真冬くんはパソコンの修理を受け持つ業者でバイト、秋雨くんはドラッグストアの社員、それぞれむかつく同僚がいるだとか、休みが取れないだとか、少し給料が上がっただの、昇格しただの、でもやっぱり割に合わないくらいに忙しいから、本来やらなきゃいけないことがちゃんとできてないだとか、そんな話を俺達はした。

 作家として精進する者にとって、本来やらなきゃいけないこととは作品制作である。

 そして、それは今日集まった本題にも直結する、俺にとって大事な話題だった。

「いや~酒が旨いなぁ、今日はマジで空さんに会えてよかったです。本音を言えばずっと連絡取りたいとは思ってたんですけど、時間が経っているだけにきっかけが無いと難しくて」

「そんなのボクもですよ、だから空さんから連絡してもらえてマジ感謝っすよ」

「はは、そいつは丁度よかった」

 空気を確かめながら追加の料理を頼み、酒を泡盛に切り替えさせる。真冬くんは《残波》のブラック、秋雨くんは《美ら蛍》。両方ビールより遙かにアルコール度数の高い酒で、二人はさらに饒舌になっていく。

 そろそろ頃合いかもしれない。俺は切り込むことにした。

「しっかし集まるのは五年ぶりになるけど、二人はどうだい? 最近の作品制作は」

「あは~、お恥ずかしい限りですがボクは時間を上手く捻出できてなくて……旧作の改稿くらいならやれてるんですけど、新作はめっきり……真冬さんは出来てます?」

「いや、正直、秋雨くんと大差無いよ。新作も書いてはいるんだけど、完成には至らなくて」

「え~、書けてるならまだいいじゃないっすか」

「そうかな、でも書いてても手応えが無いんだよ。これでいいのかなって、常に疑心暗鬼で」

「ああ、それすげ~わかる。ボクも新作プロット組んでもイマイチ踏み切れなくて」

「で、どっちもスランプに陥ってる訳か」

 相槌を打つと、二人とも「……はい」「……そ~なんスよね」と気落ちしてしまう。

 思うように書けない苦しさは理解できる。

 俺とてその状態にあり、だからこそ彩夏と同盟を結んだのだから。

 それは自分に誇れぬ手段ではあった。しかし、過ちでは無いはずだ。盗作とは訳が違う。

 俺は彼等の状況を改めて聴いたことで、同情より疑惑の方が深まっていた。

 どちらも過ちを犯す動機は充分。

 観察の眼を光らせていると、秋雨くんが話題の矛先をこっちに向けてくる。

「でも、空さんは俺等と違うっすよね。聴いてますよ? 霞さんから。昔からやたらと距離が近しい気はしてたッスけど、まさか二人が組んで小説を書いてるとは思ってませんでした」

 真冬くんも同調して尋ねてくる。

「オレも驚いた。どうなんです実際、二人で書くのって、こだわりがブレません?」

 仮にどちらかがクロなのだとしたら、この質問は単にとぼけているだけなのだろうか。

 真意を読み取れず、しかし揺さぶる意味合いでも、俺はこう答えた。

「たしかにその点は否定できないけど、目指すべき大前提に比べたら些細な問題だ。読んだんだろ? 俺と彩夏の作品を……面白かっただろ? それがすべてだよ」

 面白さは正義、だからこそアレは受賞を勝ち取れたのだ。

 そして、それだけ魅力的な作品なら、承認されぬ人間を惑わし、誤らせるのは容易かろう。

 でも、作家としてその過ちだけは許されない。たとえ誰が許したとしても、俺は許さない。

 場が一瞬沈黙するも、反論してきたのは秋雨くんだった。

「たしかにあの作品は凄かったッスけど……なんか変わっちゃいましたね、空さん」

「……まぁ、五年も経ってるんだ、変わらない方が変だろ」

「そりゃそうかもしんないスけど、じゃあ、もうひとりじゃ書かないんスか?」

「っ――」

 間を取るようにグラスを揺らしているとカラリと音が鳴り、浮かぶ氷の一部に亀裂が入る。

 俺は残っていた酒を一気に飲み干すと、彼に向かって尋ね返す。

「どうだろ、なんだってそんなこと聞くんだい?」

「決まってますよ、今の空さんが格好悪いからッス」

 と、秋雨くんは負けじとグラスを空けつつ、ガツンと声量を上げてくる。

 刹那、平常心を貫いていたはずの心が波立ってくる。格好悪い? 馬鹿言え、俺がそうなら盗作犯はどうなんだよ? この場で今すぐぶっ殺されたいか?

 まだ確固たる証拠も無いのについ立ち上がりかけると、慌てたように真冬くんが割って入る。

「おい、秋雨くん。酔ってんのかキミは」

「酔ってませんよ、ボクはまだまだいけます」

「だったらちょっと落ち着けよ、せっかくまた集まれたってのに台無しにする気か?」

 そうだ、俺も落ち着かなくてはならない。台無しにするにはまだ早い。

「はぁ? なに言ってんスか真冬さん。せっかく集まったからこそでしょ? 久しぶり過ぎて忘れてません? 本来《同志会》の集いは言いたいことぶつけ合う場だったでしょ~がっ」

「そうかもしんね~けど、もう少し言葉を選べって言ってんだよオレは。第一、まともに書けなくなった今のオレ等が、偉そうなこと言える立場かよっ」

「それは……そうかもしんないスけど――でも、だからってこのままで良いと思ってんスか真冬さん? 思ってないっすよね? こないだボクに言ってましたもんね? 今の空さんは、霞さんにおんぶに抱っこで、つまらないって」

 秋雨くんに言われ、真冬くんが俺を見る。

 その表情はとても複雑な感情に染まっていたが、やがてはっきりとこう言った。

「すみません、でも、訂正はしません。事実ですから」

「へぇ、俺がつまらない、ねぇ」

「ええ、そしてたぶん、それを空さんは自覚してますよね?」

「なにを根拠にそう思うんだよ?」

「俺達が知る空龍成は、誰よりも足掻く人間だからですよ」

「ッ、ははは、わかってるじゃないか。だから足掻いた結果が彩夏との合作なんだよ」

「足掻き方を間違えてんじゃね~って言ってんスよボク達はッ」

 テーブルを叩いて吠える秋雨くんに、とうとう店員が「お客様」と声をかけてきた。見やれば他の客からの視線もこちらに集中していて、俺達はあきらかに迷惑をかけていたようだ。

「……お騒がせしました」

 流石に状況を把握したのか彼は周囲に頭を下げ「ちょっとお手洗いに」と席を立った。

 真冬くんも彼が気になったのか「オレもちょっと離れます」とついていく。

 静かになった卓上に向けられる多くの視線は消え、店員も元の仕事に戻っていった。

「ごゆっくり」

 ひとり残された俺はそうして独りごちると、訪れた好機にほくそ笑む。

 彼等の手荷物は席に置かれたままだ。そして、その中には当然の如く《同志会》の集いには欠かせないノートパソコンがある。

 二人のこれまでの態度からは明確な証拠は掴めなかった。

 が、パソコンになら、盗んだデータや投稿履歴が残っている可能性は大。

 ならば時間的なゆとりは薄くとも迷いなどあるものか。俺は彼等の持参したそれを開く。

「偉そうにしやがって、俺と彩夏がどんな気持ちでアレを描いたのか知らないくせによぉ」

 文書ファイルを片っ端からチェック、彼等なりに作品を書いているのは本当らしく、幾つかの日付が新しいデータが目に留まるが、俺が求めているブツはそうじゃない。

 ――さぁ、暴いてやるぞ。お前の正体を……出てこいよ【火華】。

 果たして奴は、こんな事態を想定していたのだろうか。真冬くんにしろ秋雨くんにしろ、どちらもスクリーンロックをしていない時点で用心深いとはお世辞にも言えないが。

 しかし、それはこちらにとって好都合。

 どこだ、どこに隠した? 俺と彩夏の作品《Season`s》をッ。

 アレはお前の物なんかじゃない。お前のような外道が持っていていいものじゃないっ。

 盗作データを、その痕跡を、探す、調べる、追い求める。

 が、いくら掘り返しても、それらしいタイトルが見当たらない。もし用心深くタイトルまで変えられているとすれば、文書ファイルをひとつひとつ開いて確認するしかない。怪しいとすれば《神筆大賞》の投稿締め切り日前後のデータ、視線を滑らせる、フラットポイントの指先が強張っていく、さすがにすべての文書ファイルを開いてまでチェックする時間は――

 ちくしょう……無い……無いっ……無いッ。

 違うのか? こいつらはシロだってのか?

 だったら、お前は誰なんだ? 【火華】……。

            ***

 結局、犯人として最有力だった二人は空振りに終わり、その日の《同志会》は解散。

 真冬くんと秋雨くんは最後まで核心に触れる話題は無く、気まずくなったまま別れた。

 俺が彼等のパソコンを覗いていたことはバレてはいないようだったが、二人はずっとなにか物申したそうにしていた。

 どうでもいい。肩透かしを食ったこちらに、彼等を気遣うゆとりなどない。犯人のアテを失った俺は落胆したまま帰宅の電車に乗るも、帰ったところで彩夏は居ない。彼女の居ない部屋は、嫌でもあの夜の絶望を思い出してしまって帰りたくなかった。

 彩夏の様子が気がかりだったけれど、下手に病院に行くのも気が引けた。

 親父さんに鉢合わせして殴られるのが怖かったんじゃない。ただ、彩夏をこんな目に遭わせた【火華】の正体を暴かないままでは、彼女に胸を張れなかったのだ。

 霞彩夏の交友関係は極端に狭い。

 だからこそこうなってしまうと、そんな彼女から作品データを奪える人間の目星が付かない。

 俺の知らぬ間に、どこかで誰かと接点を持っていたのだろうか?

 だとしたらいつ、どこで、どんな奴と。あの内気な性格である。自ら誰かと関わろうとするタイプでもない以上、人間関係の構築は容易ではないはずだが。

 彼女はあまり外出もしなかった。俺と出会った頃から、組んでからさえそうだった。制作の八割を担っていたこともあって大抵部屋にいたし、俺との関係が深まってからはほとんど一緒に居たのだから、それらしいことをしていれば流石に気付けたはずなのだが。

 あとは可能性があるとすればバイト先だろうか。

 だが、彩夏のスマホに怪しい履歴は見当たらなかったし、

「……くそ」

 推理小説における名探偵のようにはいかない。早くも手詰まりである。

 捌け口を失った憎悪で溺れそうで、鬱屈したままではどうにかなりそうで。

 でもどうすればいいかわからなくて、降りるべき日野駅をスルーして無用の西八王子まで足を伸ばす。普段の生活圏内から一駅離れるだけで景色はがらりと変わる。気分転換にはなるだろうか。時刻はすでに二十二時。時間帯も遅いせいか人もまばらだったが、古くさいネオンの明かりに誘われるままに裏通りを徘徊、居酒屋の前で立ち止まるも、

「ひとりじゃ……な」

 なんだか物悲しくて、表通りに戻り、まだ営業中の小さなパチンコ店に入る。

 広さ、設置台数共にバイト先の店の半分以下、あと一時間もしないうちに営業終了になるとなれば、案の定、客もほぼいなかったが、このうるさ過ぎない加減が今の俺には丁度いい。

 遊戯するでもなく店内を適当にぶらつく。

 と、一際目を引く装飾の新台コーナーに知り合いの顔があり、驚き半分で苦笑してしまう。

「っ――ガッデ~ム、あ~ん、金ヒロイン保留は当たりじゃないのこれぇ?」

 どうやら激アツパターンをハズしたらしく、頭を抱え珍妙な声を上げていた。

「……見てて恥ずかしくなる言動をするなよ、みはるん」

「え、うわっセンパイ? どうしてここに」

「それはこっちの台詞だっての」

「アタシは……バイト休みで……家もこの近くだし」

「そうか。俺は、なんとなくかな」

「なんですかそれぇ」

 予期せず後輩に出会った俺は、空席だった隣の席に腰掛けた。

「てか打つんだな、キミ」

「ええ、暇なときに、たまにですけど……センパイは?」

「俺も打つよ。暇なときに、たまにだけどね」

「真似しないでくださいよぉ」

 座ったからにはせっかくなのでプレイしてみることにする。

 隣に気心の知れた後輩が居るならば、少しは気分転換にもなりそうだった。

 新台たるそれは有名なバトルファンタージーラノベのタイアップ機種で、パチンコ・パチスロ共にすでにシリーズ化されている大人気機種。ヒロインのフィギアタイプ約物が盤面でこちらに愛らしく微笑んでいる。

「今、勝ってんの?」

「たはは。結構、負けてます。せっかくバイト休みなのに……くぅ」

「真面目に働いてた方がよかったな」

「作品好きなんですけどね、さっき感動もののシーンがハズレで涙が引っ込んじゃいました」

「愛が足りないんだな、きっと」

「なにおう、愛ならありますよアタシ。この作品は小説全巻持ってます、もち初版」

「へぇ~、俺がこの作品の作家なら喜んでサインしてやりたくなる台詞じゃん――おっ?」

 中身の薄い会話をしていると液晶画面が賑やかさを増していく。

 かと思えば、枠上部に備え付けられたバズーカ砲みたいなエアー口から風が吹き付けた。

「みはるん、悪い……当たったわ」

「え? もう? 嘘でしょ?」

 ラッキーエアー。大当たり確定のスペシャルギミックを作動させた俺の台に、日那さんはがばっと身を乗り出してくる。液晶演出で名コンビである主人公とヒロインが胸熱の展開を繰り広げだすと、感涙したのか目を潤ませた。

「うわっ、原作完全再現じゃん。う、泣けるぅぅ……」

 それは二分された世界で敵殲滅の使命に燃える主人公が、ある時期を境に行方を眩ませていたヒロインと再会するシーン。よりにもよって対立側に立つヒロインに困惑する主人公。なぜ彼女はこの選択をしたのか、その哀しくも切ない胸の内を吐露され、使命と彼女への想いに揺らぐ主人公が闘いを決意するという作品屈指の名シーンなのだが、

「センパイ? せっかく当たったのに、表情がなんか暗いですよ?」

「ん……そう、かな?」

 暫し見入っていた俺はこの主人公に共感できなかった。

 大事な相棒より使命を優先する、それは正しいかもしれないけれど納得できなかったから。たとえ最終的には最良の結果に結び付かなくても、どちらも手にするくらいの気概であった方が格好良いのに。そう思えてしまうのは、俺が傲慢だからだろうか。

 その後、大当たりした俺の台は閉店するまで出玉を吐き出し続け、小一時間でバイト一週間分くらいの稼ぎを叩き出したのだが、あいにく気分は晴れなかった。

「せっかく大勝ちしたのに、ホントどうしちゃったんですか?」

 一緒に店の外に出た俺を、日那さんは覗き込んでくる。

「ちょっと、な」

「むぅ、歯切れが悪いですね」

「……悪い」

「もぅ、調子ずれちゃうなぁ……ていっ」

 と、唐突に彼女はこちらの手を握って来た、かと思えば、

「お、おい、なにを」

「センパイ、アタシと付き合ってください」

「……へ?」

 とんでもないことを言われてしまい、久しぶりに間抜けな声が漏れ出てしまった。

 が、その後続いた台詞で抱きかけたそれが勘違いであると気付かされる。

「パチンコに来るくらいなんだし、どうせヒマなんでしょ? アタシと宴にしましょう」

「……付き合えってそういう意味かよ」

「なんだと思ったんですか?」

「……いや、別に」

 そう言えば先日、受賞のお祝いをしてくれると誘われていたっけ。

 ヒマと言われたことも一瞬言い返そうとも思ったけれど、行き詰まっているのも事実で。

 この場は流されてみよう。そう思い身を任せると、悪戯を成功させた子供みたいに無邪気に振る舞う日那さん。こっちの心情などわからぬまま都合を決めつけ、ぐいぐいと引っ張っていく。重ねられた小さな手。その柔らかな温もりは、今の俺から余分な思考力を奪った。

 そのまま最寄りのコンビニへ、道沿いにはセブンイレブンもあったが、彼女は歩道橋を渡り反対側のローソンに俺を連れて行く。店内に入っても手を繋いだままで、ドリンクコーナーにやってくる。店員の目もあるし、恋人でも無いのにバカップルみたいで気恥ずかしくなってきた俺がさすがに離れようとすると、逃がしませんとでも言わんばかりに力を込められた。

「逃がしませんよ」

 実際に言ってきた。

「別に逃げたりしないって」

 俺の主張をにっこり笑って聞き流す彼女は、俺に買い物かごを手渡してくる。

「飲みたいものあったら言ってください」

「居酒屋でいいんじゃないか? 西八王子駅周辺は詳しくないけど、まだやってるだろ?」

「残念ながらこの辺りのお店は十二時には閉まっちゃうんですよ」

 彼女の言い分は理解できたけれど、じゃあこうして酒を買ったとして、どこで飲むというのだろう。近くに公園でもあるってのか? 夏ならともかく、冬じゃ少々寒すぎる気もするが。

 疑問を抱いている内に日那さんは適当に酒とおつまみをかごに入れていく。

 そうして俺を引きずってレジに向かうと「あとからあげクンのチーズをひとつ」と告げて、支払いの為のスマホを取り出した。どうやらオゴってくれるつもりらしい。

「いいよみはるん。俺が払うって」

「いえ、ホント今日はアタシに出せてください」

「マジでいいって。第一、俺はさっき大勝ちしたんだから」

 俺は慌ててポケットから紙幣を数枚出す。支払いを奪われた日那さんはなんだか不満げだったけれど「ありがとうございます」と後輩としての律儀な会釈は忘れなかった。

 ずっと繋いだままの俺の左手は塞がっていたので、袋詰めされた品は右手に持つ。

「で、どこで飲むんだ?」

「こっちです」

 繋いだ手が少しだけ強張った気がしたけれど、すぐに彼女は再び俺をぐいぐい引っ張っていく。大通りを外れて裏路地を抜け、五分ほど歩くと閑静な住宅街が見えてきて、その中の一角にあった真新しいアパートの前で日那さんは立ち止まった。

「着きました」

「着きましたって……ここは?」

「もちろんアタシの家ですよ。一階の角部屋なんですけど」

「は? いやいや待て待て待て」

「なんですか?」

「これは……いくらなんでも、マズいんじゃないかな」

「なにもマズくありませんよ。アタシ一人暮らしだし、全然気兼ねしなくて良いです。ほら行きましょ? ずっと外に立ってたら寒いですし」

 店に行くのとは訳が違う気がして苦言を呈したのに、あっけらかんとされてしまう。

 それだけ信頼されているということなのだろうか。だとすれば変に意識している方が駄目な気がして、流されるままにお邪魔させてもらうことにする。

「おおぅ……」

 いかにも女性らしいコーデの部屋も想像していたけれど、良い意味で裏切られた。

 間取りは約六畳の1K。壁にはアニメのポスターが所狭しと貼り付けられ、テレビが鎮座する台にはキャラクターフィギアがいくつも並べられている。アルミラックには漫画や小説やDVDが大量に収められ、まさに趣味全開の部屋、ある意味これはこれで日那さんらしいのかもしれない。

「上着、ハンガー掛けちゃいますね」

「ああ、サンキュ――てかさ」

「あ、狭くてソファーとか置いてないんで、適当に腰掛けちゃってください」

「……適当にって……言われても」

 散らかっている訳でもなくむしろ整頓されてはいるのだが、部屋の三分の一を占領するマットレスベッドのおかげで床にゆとりが皆無なので、座る場所に迷ってしまった。

 日那さんは立ち尽くす俺からビニール袋を受け取ると、小ぶりなガラス製ローテーブルにちゃっちゃと酒&おつまみを広げていく。宴の準備を終えるとリモコンでエアコンを操作、当然のようにベッドに腰掛け、となりにどうぞと手招いてくる。

 こうなればもう、従うしかない。

 隣にぎこちなく座ると、彼女は缶ビールを手渡してくる。

「では、宴の乾杯といきますか。いぇ~い」

「……おぅ」

 プルタブをぷしゅっと開け、互いの缶をコツンと当て合う。

 落ち着かない俺はひとまず一気に一缶飲み干してしまった。

「おお~、良い飲みっぷりですね。どんどんいっちゃってくださいな」

 対してテンション高めの日那さんはからあげクンをひとつ頬張る。さすがはからあげ大好きっ子。CMにでも出れそうなくらいに、幸せMAXの表情でもぐもぐしていた。

「やっぱりチーズは最強ですね、う~ん美味――あ、センパイも食べます?」

 独占するのかとも思ったけれど、どうやらくれるらしい。まぁ元は俺が買ったやつである。

「うん、ひとつくれ」

「じゃあ、はい、あ~ん」

 と、日那さんは爪楊枝でぷすっとからあげクンを刺すと、こちらの口元に運んでくる。

 まさかのシチュエーションに、俺は堪らず仰け反って訴えた。

「は? いや、自分で食べるって」

「ふふ、照れてるんですか? そんなセンパイは可愛いですね」

「……からかうなよ」

 この歳になって可愛い呼ばわりされるとは。いつまでもこのままでいる方が恥ずかしいので俺はさっさと目の前の美味しそうなそれを頬張った。なんというか、今日の日那さんは距離感がおかしい。馴れ馴れしいのは元からだけど、これじゃ完全に恋人のそれだ。

「美味しいですか?」

「……まぁ普通かな」

「またまた~、素直じゃないですね~」

 ただ、俺の鬱屈していた気分は、いつの間にか随分と薄れていた。

 思い返せば、いつもそうだった。日那美春と過ごしていると、空龍成は癒やされていく。

 人には相性があるというけれど、俺と彼女はそいつが良好なのかもしれない。

 俺達は、それから他愛のない話を交わし続けた。

 時間が、ゆったりと過ぎていく。

「…………」

 いつの間にか夜が明けていて、物思う俺は缶ビールを飲む日那さんをぼんやり眺めていた。

 細く滑らかな喉元が動き、息が零れ、ほんの少しだけ舌先で唇を舐める一連の様子が、なんだか妙に艶めかしかったけれど、やがて、

「でも、あらためて受賞……おめでとうございますセンパイ」

 とても穏やかな声で、最上級のスマイルを称えた彼女はそう言った。

 苦労の末、勝ち取った結果を祝福する言葉。

 それは本来であれば、心の底からありがたいもののはずだった。

 しかし、地獄に突き落とされたに等しい現状では嬉しさなど微塵も持てるはずがなく、聞いた瞬間に落ち着きかけていた心が疼き、ささくれだち、あの惨劇がフラッシュバックする。

 彩夏の朱い残像が、悲痛な声音が、蘇る。

 気持ちの悪い汗が吹き出し、顎先を伝う。無意識のうちに空になった缶を握り潰していた。

「っ、やめてくれ」

 細々と訴える様子のおかしさに心配になったのか、日那さんが言う。

「センパイ、やっぱり今日は変です。なにかあったんですね?」

「…………」

「アタシでよければ、話聞きますよ?」

 そっと手を握ってくれた。やっぱり温かいその手のひらは、俺から抗いの力を奪っていく。

 否、最初から抗うつもりなんてなかったのかもしれない。流されていた俺は、聴いて欲しかったのだ。空龍成の心からの声を、今や唯一の理解者たる彼女に。

「――っ、俺は……」

 気付けば抱えてしまった憎悪と、それに至るまでの経緯を打ち明けていた。

 あの雪の日、俺が受賞を知った同日、彩夏が自殺未遂を起こしたこと。

 受賞作が俺と彩夏のペンネームではなかったこと。

【火華】という謎の人間に盗作された可能性が高いこと。

 かつての仲間たる《同志会》の連中を調べたものの証拠が掴めなかったこと。

 人間関係の希薄な彩夏に、これ以上の探すアテがないこと。

 感情が先走っていたから理路整然と説明できていたかは正直、微妙だ。

 それでも、日那さんは語りを遮ること無く、最後まで耳を傾けてくれていた。

「あれから……そんなことがあったんですね」

「……ああ」

「大変、でしたよね。すみません、月並みな台詞しか出てこなくて」

「……いや」

 憔悴気味に肩を落とす俺の背を、彼女が優しくさすってくる。傷付いた心が再び癒やされていく感覚を覚えていた。たとえ束の間であっても、この瞬間だけは身を委ねたかったが――

「でも、センパイ。アタシ……思うんですけど」

「…………」

「たしかにセンパイの読み通り、誰かによる盗作の可能性はまだ否定できませんけど」

「…………」

「それ以前の可能性も、当然ながらありますよね?」

「……どういう意味だよ」

「えっとですね、受賞ペンネームがふたりの合同ペンネーム《からっかす》では無かった。これ、別の解釈もできてしまうと思うんです」

「……別の解釈?」

「はい。アタシの考察はセンパイにとってあまり聴きたくない話になるかもしれませんけど」

「…………っ、ちょっと待て」

「はい?」


 ――今、日那さんはなんと言った?


 到底無視できない違和感だった。たった今口走ったそれは応募時の詳細であり、本来絶対に彼女が知り得ない情報のはずだから。

 同時に疑惑さえ浮上し、小首を傾げていた彼女を力任せにベッドへ押し倒す。

「――きゃ……え? ええ!? あの……なにを」

「なぜ知ってる」

「……セン、パイ?」

「なぜキミが知ってる? 俺と彩夏しか知らないそのペンネームをッ」

 この期に及んで逃がしはしない。

 俺が馬鹿だった。もっと早く辿り着くべきだった。もしかしたら、心のどこかでそんなはずはないと意識的に避けていたのかもしれない。唯一の理解者を、失いたくなくて。

 でも、もう駄目だ、そもそも彼女は俺達の作品を読んでいたのだ。

 それはつまり《同志会》の連中と同じく容疑者たり得る事実で、睨み付ける俺と眼を合わせようとしない彼女の腕を、強く押さえつける。

 どろどろとした憎悪が刹那で沸騰、すぐにでも溢れそうな最中、

「お前が【火華】なのか?」

 問いかけた声は憂いで震えていた。解の出るギリギリであっても信じたかったのか、けれど返答次第で俺は容易く黒き一線を踏み越えたと思う。

 彼女は少し身を震わせ、沈黙した。抵抗する素振りは見えない。瞳は潤みを帯びていたが、こちらに縫い付けられたまま瞬きすらしなかった。

 殺意だけに染まりそうな俺に見下ろされた日那美春は、今、なにを考えているのだろう。

 本当に犯人ならば迂闊に口を滑らせたことを後悔しているのだろうか。

 はたまた恐怖に慄き謝罪の弁でも練っているのだろうか。明確な証拠を突きつけているわけでは無いので誤魔化してくる可能性もあるが、たとえ泣かれたとしても曖昧には出来ない。

 静寂の均衡が、一体どれくらい続いただろう。

 瞳をゆっくりと閉じた彼女は、ついに結んでいた口を開いた。

「ふ……ふふ……ふふふ……あはははは――あはははははははははははははははははははははははははあはははあはははははははははは、だめだ、おなかいたい……あははははは――」

 高笑い、というより大爆笑だった。

 この状況でなぜそんな反応ができるのか。緊迫した雰囲気をぶち壊す予想の斜め上の展開に、危うく俺の方が気を抜かれかけるも、かろうじて持ち直し、問い直す。

「っ――なにがおかしいんだよ!!」

「はぁ、はぁ……す、すみません、不謹慎ですよね? でもこれはセンパイが悪いんですよ」

「俺が、悪い?」

「ええ――あ、いえ、センパイだけじゃないです。アタシにも、もちろん非はありますが……まずは冷静になりましょう。ちゃんと説明するので、ひとまず離れてもらっていいですか?」

「逃げる気じゃ、ないだろな」

「逃げませんよ。てか、これ以上OUTな体勢でいるつもりなら……さすがに」

「流石に、なんだよ」

「霞さんに報告しますけど」

「…………」

 俺は渋々だが了承し、彼女から離れ座り直す――ん? 報告します?

 と、むくりと起き上がった日那さん。髪を手櫛でせっせと整えながら切り出してくる。

「アタシは、霞さんと連絡を取り合っていました。だから、ふたりの合同ペンネームが《からっかす》であると把握していたんです。センパイは、それを知らなかったんですよね?」

「初耳だし、だとしたら余計におかしいな」

「なにがですか?」

「彩夏のスマホにキミとの履歴は一切残っていなかった。だからその証言は真実味に欠ける」

「うわぁ……勝手に人のスマホ見たんですか? まじヒキます」

 押し倒されて睨み付けられても爆笑してたくせに、ここぞとばかりにどん引いていた。

 人の価値観は複雑だと思う。

「たまたまだよ、こんな事態に陥らなかったらやってなかったさ」

「まぁそういうことにしといてあげます。正直、履歴云々に関してならわかりません。でも、アタシと彼女が連絡を取り合っていた証明なら簡単です。アタシのスマホにそれが残っているんですから。確認しますか?」

「……ああ」

「はい、どうぞ」

「…………」

 息を呑み、深呼吸してから、日那さんより差し出されたスマホを受け取る。ロック解除された画面を覗き込むとやはりトラウマから目眩がしてくるも、この確認を疎かにはできない。

 そして、その確認の結果としては、日那さんの言うとおり。

 着信とLINEの履歴にはたしかに彩夏とのやりとりが残っていた。

 電話番号やIDは彼女のもので間違いない。

「っ……本当だ……でも、じゃあ……なんで彩夏はわざわざ消すような真似を」

「うしろめたかったんじゃないですか?」

「はぁ? どういうことだよ?」

 台詞の意味が本気で理解できず強めに問うと、なにやら溜息交じりにこう言われた。

「さぁ? アタシは霞さんじゃないのでハッキリとしたことは言えません。アタシに説明できるのは、あくまでアタシが見て、聞いて、感じたことだけ。そして、それらはさっき言いかけた別の解釈にも繋がります。もちろん信じるかどうかはセンパイ次第ですけどね」

「――――っ」

 どこか挑発的にすら聞こえる後輩の言い分だが、そいつはたしかにそのとおりで。

 説明を拒む選択肢など、俺には無かった。

「……いいだろう、聴かせてくれ。キミが知っている彩夏のことを」

「では、順を追って簡潔に話しますね」

            

 以前、ふたりで行ったメイド喫茶を覚えていますか?

 あそこ、実は元々アタシのお気に入りのお店だったんです。

 結構お一人様でも行ったりしてて、センパイを連れてった後も普通に常連でした。

 いえ、普通にって言うのは違うかもしれません。心のどこかでは気になっていたんです。

 センパイと……その……関係を持ったあの人が、霞彩夏さんのことが。

 だから、向こうから声をかけられた日のことは忘れられません。

 意外ですか? でも事実なんです。アタシもびっくりしたんですけどね。

 その日はアタシがひとりで改稿作業をしていて、たまたま旧原稿の一枚が床に落ちたんです。

 あの落選した処女作ですよ。

 投稿前の最後の仕上げをしていたんですが、それを拾ってくれたのが霞さんでした。

 落ちてましたよ、あぁ助かりました、そんなありふれた店員と客のやりとりがあったんですけど――その日の霞さんは、それで終わりませんでした。

 向こうもひょっとしたら、声をかけるタイミングを待っていたのかもしれませんね。

「日那美春さん……ですよね? この後、少しお話よろしいですか?」

「はい。かまいませんよ、霞彩夏さん」

 即答です。

 アタシとしてもこうしなくちゃいけない気がしていました。負けたくなかったから。

 なにに? さぁ、それは自分で考えてください。

 ともかく霞さんの仕事が終わってから、アタシ達は場所を変えて話しました。

 別のお店じゃなくて、近くの公園で。かなりディープな話し合いをしました。

 外を選んだのは正解でしたね。これも意外なことに霞さんは熱いハートの持ち主で、センパイから聞いていたキャラと全然違くて、ちょっとヒートアップして、重めのキャットファイトになりかけましたから。

 嘘を言うな? 彩夏がそんなことするはずがない?

 はぁ、センパイは女心の機微に鈍すぎですね。

 異性としてアタシ達を振り回した自覚も足りてません。もしかしてわざと気付かないふりをしてませんか? さっきも言ったでしょ? そもそもセンパイが悪いんですって。

 もちろん、悪いのはアナタだけじゃありませんけどね。

 隠していた、見せようとしなかったあの人だって、充分悪いんですから。

 あまり人のことは言えませんけど、まぁ、ともあれアタシと霞さんは、お互い本音をぶつけ合って、多少のしこりは残りましたけど、ひとまず打ち解け合ったんです。

 あぁ、子細はヒミツです。その辺はセンパイがもっと考えるべきですから。

 で、話題は作品制作のあれこれに移ったんです。

 ことの始まりと切り離せない話題ですから、必然でしたね。

 え? しこりが残ってまだ話せたのかですって? まぁ、大抵の女性であれば難しいかもですけど、アタシの場合はずっと欲してましたからね。

 同じ目標に向かって、切磋琢磨する仲間を。もっと言うならライバルですかね。

 彼女の凄さはセンパイから聞いてましたからね、むしろ歓迎できたんです。

 霞さんとしてもきっと、同性の話し相手が欲しかったんだと思いますよ。

 アタシの作品を霞さんがすでに読んでいるのを聞いて、直接面白かったって言ってもらえて、余計に嬉しくなりました。だから、アタシにもできることがあるならと相談にのったんです。

 器が大きい? ふふふ、男前と言ってください。バリバリキュートな女ですけど。

 なんてね、まぁ、アタシなりに思うことがあるわけで、決して良い面だけじゃないんですけど、そしたら――。

 こんなことを言って良いのか、と霞さんは躊躇いを前置きしてきました。

 でも、聞いてもらいたい気持ちの方が勝っていたのでしょう。

 霞さんはとても悩んでいるみたいでした。同盟を結んでの作品制作は順調そのものなのに。

 

 このままでいいのかな、と。

 

「本当に彩夏がそう言っていたのか? 彼女は……制作する上で悩んでいたと?」

「はい、その日から何度となく相談はされました。アタシのスマホにはすべての履歴が残ってます。とはいえ、当時はアタシとしては若干のろけにも聞こえていましたし、イラッとしていたのもたしかなんで、あまり良いアドバイスができていたとは言えませんでしたけどね。まさかこんな事態になるなんて……彼女からすればそれだけ深刻だったのかも」

「…………」

「センパイは霞さんの一番側に居たはずですよね? 彼女の異変に気付かなかったんですか?」

「っ……それは」

 返す言葉が無かった。異変は間違いなくあったから。

 何度も見てきた哀しげな表情、意図の見えない涙。

 それらがもし、俺との関係性に不満があってのものだとしたら。いや、しかし、彼女は俺を必要とした。彼女から俺を求めてきたのだ。一時は不要であるとさえ思っていたこの俺を。

 でも、だったら――なぜ?

 混乱から頭を抱える俺に、日那さんは自分の見解を言い淀みなら告げる。

「……詳細は不明ですが……彼女はセンパイとの関係性に悩んでいた、それは紛う事なき事実です。だとするならば、あくまでこの解釈は可能性の話ですが……今回の騒動――」


「犯人は、霞さん本人では?」


「ッ――は? なにをいきなり……そんなの、あり得ないだろ?」

「そうでしょうか?」

 日那さんは俺に向けた視線を切ると、ベッドの縁に座り直して足をぷらりと遊ばせた。

 そして、物思いに耽る為か天井を見上げながら自分なりの解釈を続ける。

「冷静に、よく考えてみてください。センパイが盗作犯説を唱える最大の理由は受賞ペンネームが《からっかす》では無かったからですよね? でも、それって当の本人だって変更できると思いませんか? そして、その方がよっぽど辻褄が合うんですよ。だって、仮にセンパイの言う通り盗作犯が居たとするならば、オリジナルとコピーのふたつがエントリーされていることになるんです。そうなったら審査側だってさすがに疑問視しませんかね? それこそ最悪、二重投稿で失格になっていてもおかしくない案件だと思うんですけど……実際は、そうならず結果が出ている。つまり、選考されているのはオリジナルのみであり――そのペンネームをいじれたのは投稿した人間だけなんです」

「っ…………」

 すぐに言い返せなかった。

 絶望の猛威に晒されていたせいだろうか。こんなにもシンプルな盲点にさえずっと気付けなかったのだ。俺はネットを避ける体質だから、投稿時の必要事項は彩夏に任せきりにしてしまっている。だからやろうと思えば、恐ろしいほど簡単なのだ。名探偵が暴くようなトリックは一切必要無い。

 ただ、彼女の解釈はどこまでも正しく聴こえたけれど、

「ちょっと……待ってくれよ」

 到底、納得できないものもある。それだけのことをしでかす動機は……いや、あったのか?

 詳細は不明でも、霞彩夏は、俺との関係性に悩んでいたのだから。

「彩夏が俺を騙していたって言いたいのか?」

「結論を出すとすればそうなるんじゃないでしょうか、そして、そう考えればその後の行動にも説明が付いてしまうんです。あの人は――霞さんは……自殺未遂を起こしたでしょう?」

「――――ッッッ!?」

 絶句する俺に、日那さんは言い難そうにしつつも畳みかけてくる。

「霞さんはセンパイを利用し、原稿の完成と共に見限った。栄光を独占したくなった。これまで認められなかった人間であれば、あれだけの作品に目が眩んだとしても不思議ではありません。実際《Season`s》は受賞しましたからね。でも、いざそうなって怖くなってしまった。同盟を組んでいたセンパイからの非難は、どうしたって免れませんからね。あとは良心の呵責に耐えきれなくて、と言ったトコロでしょうか……」


『私には……小説しかないんです』


 同盟を結ぶ際に、彩夏はそう言っていた。

 そんな彼女の望む小説の完成には俺が必要で、だからこそ利用していた。

 俺以上に全力で、文字通りカラダをかけて。

 そして、利用価値が無くなったからこそ捨てた。その推論には何の矛盾も見当たらない。

「……ハハ」

 項垂れると、乾いた笑いが零れた。

 互いを利用し合う関係、利害の一致から始まった同盟の結末が、これとは。

 途中からとはいえ大切だと、心より深い結び付きを感じていたのに。そんなのは俺だけであり、むしろそれは一方的な依存に過ぎなかったとは、なんとも滑稽で空しかった。

 俺の中で、様々な彼女が巡っては消えていく。

 あの哀しげな表情も、意図の見えない涙も、すべては俺からの非難を恐れてだったとは。

 無理も無いか。彼女はハッキリとものを言える性格じゃないし、威圧的な俺を彼女は知っていたのだから。そうでなくても性差があり、加えて圧倒的な年の差である。言いたいことなど言えないのは当然だったのだ。

「因果応報かもな」

「え?」

「ずるい奴にはこういう結末がお似合いって話さ」

「納得したってことですか? 霞さんに捨てられ、一方的に決着されたこの結末に」

「…………」

「えいっ」

 不意に俺の首筋に冷たさが押し付けられた。見やれば、はにかむ日那さんがビールを両手に持っていて、片方を手渡してくる。どうやら励まされているらしい。

 この後輩には、とことん非道いところばかり見せている気がした。

 開封したビールをちびりと口に含み喉を潤す。

 それはなんだか無性に苦くて、弱った心に染みて、年甲斐も無く泣きたくなってくるも、

「……アタシじゃだめですか?」

 聞こえてきた声で我に返り、隣に座っていた彼女を見やる。

 日那さんは俺をまっすぐに見つめていて、その瞳は俺より泣き出しそうで――。

 でも、口元には春花が綻ぶような微笑みを携えていて、こう告げてくる。

「アタシ、センパイが好きですよ。異性として、男として好きです」

「――――っ」

 たまらず噴きそうになり、身を捻って咳き込んでしまう。ちびちび飲んでいて助かった。

「あはははは、やだなセンパイ、焦りすぎ~」

「げほっ――う、く――いきなり冗談言い出すから」

「冗談? まさか、アタシは本気で言ってるんです」

「……みはるん?」

「回りくどいのはやめました。ストレートに言わなきゃ伝わらないこともあると思うんです。今、アタシが告白したことでセンパイはアタシを見る目が変わったはずです。違いますか?」

「それは……しかしどうして、俺なんかを」

「今のアタシがあるのはセンパイのおかげでなんですよ? 俺なんか、とか、自分を卑下しないでください。センパイは素敵です。それはアタシがよく知っています。たぶん、誰よりも」

「…………」

 彼女はどこかで聞いたような台詞を言ってくれるけれど、誤解はあると思った。

 俺は、そんなに大層な人間じゃないから。ただの、ずるい大人だから。

 そして彼女は、そんな俺に依存しかけている。

「……センパイと彩夏さんも、一時はこんな風に気持ちを伝え合ったんですかね? だとしたら……妬けちゃいますね」

 なんと耳に痛い言葉だろう。

 ちゃんと話し合うと約束しておいて、それができているつもりでいた。

 でも、結局つもりでしかなかった。

 もし、あの時、あの瞬間に、こうしていれば、なんて……そんな後悔をしたところで過ぎた時間は戻らないし、現実は変わらない。変わらないのに、後悔せずにはいられない。

 目の前の彼女の眩しさが、なおのこと自分を卑屈にしていく。ひたすら情けない、こんなにも格好悪い男が、これ以上振り回しちゃいけないと、俺は声を絞った。

「……キミの気持ちは素直に嬉しいよ。でも、今の俺は――」

「日那美春には、空龍成が必要です」

 凜としたそれは、いつかの俺が、彼女に問うたものの答え。

 曖昧にしない想い。相手に委ねず、掴み取りに行く積極性に、俺の意識は釘付けられる。

「アタシは、ただ、ちゃんと知っておいて欲しくなったんです。大切な人に、この気持ちを」

 視線が絡まる、鼓動が跳ね上がり鋭く速まっていく。

 見つめたまま徐々に迫る彼女は、ずるいくらい綺麗で、身動きさえ封じてくる。

「センパイの一番になりたいアタシを、受け入れてください」

「ッ……」

 嗚呼、今、俺は新たに求められている。だったら、もう、いいんじゃないのか?

 霞彩夏は空龍成を捨てたのだから、嫌なことは全部忘れて、雰囲気に流されてしまったとしても、なにも悪いことじゃない。悪いことのはずがない。

 ふんわりと纏わり付く甘い香り、心を癒やすように満ちた承認欲求。

 面倒な思考を放棄すると心地良さが増していく。ついさっき押し倒した相手に、今度は押し倒されて、見下ろす日那さんの長い髪がこちらの顔に触れてくる。彼女は邪魔にならないように耳にかけるも、その仕草が艶っぽく、また吐息さえ感じられる密着で柔らかな輪郭が押し付けられ、小柄であっても女を感じさせられた。

 彼女の熱っぽい唇が、俺に――重なる……


『嫌です、行かないで下さいっ』


 寸前、脳裏に走ったのは強烈な制止声。

 それは知る限り彩夏がもっとも強く感情を露わにした瞬間で、俺にあの夜を思い出させた。

 彼女を初めて抱いた濃密な時間、関係性の劇的変化に至る前――。

 彩夏は、俺に、なんと言っていた?

『龍成さん……私は……そんなに魅力がありませんか?』

 馬鹿言うなよ、キミは自分の魅力をわかっていないだけだよ。

 女性としても、作家としても。

『私を……私だけを……もっと見て下さい』

 見ていたさ。なのにキミが、勝手に俺を捨てたんだろう?

 一方的に、関係を終わらせたんだろう?

『それが駄目なら、せめて、どうか、私の不安を……今だけでも取り除いて――』


 私の不安? 不安って――なんだ?


 そもそも、あの頃の彼女は俺を必要としないほどの技術をすでに身に付けていた。

 ゆえにきっと、執筆する上での精神的な支えでのみ俺を欲していたのだと思う。不安と言うならコレだろう。

 だからこそ作品の完成した今、俺の必要性は無いし、受賞を独り占めしたくなる心理も、罪悪感から行った自罰行為も、矛盾などありはしないはず――。

 いや、ちょっと待て。

 たしかに《Season`s》は受賞したけれど……その後はどうするつもりだったんだ?

 受賞はあくまでスタートライン。そして、作家としてはあくまでそこからが重要なのは彼女とてわかっていたはず。にもかかわらず、俺を切った理由はなんだ? もう、ひとりで書いていける自信が本当にあったのか? 自罰してしまうようなメンタルで? デビューすれば編集がいるだろう? いやいや、彩夏がそれをアテにしていたと思うか? あの内気な性格だぞ?

 俺の中で、彼女の行動に疑問が沸いていく。

 俺達は単純な関係じゃ無い。少なくとも俺が彩夏に持っていた感情は、ただの男女の枠には収まりきらなかった。才能に羨望したし、嫉妬もした。若さにたじろぎ、年上だからこそ見栄も張った。男だからこそ頼られれば嬉しかったし、結果がそぐわない際は恥ずかしかった。仲間として負けたくないとも思っていた反面、誰より身近にいたからこそ知れた異性としての魅力にも惹かれていた。

 一線を越えた関係の深化にだって葛藤はあったし、そうなってからの喜びと焦りもあった。

 俺でさえそうならば、彩夏にだって一言では表せないなにかがあるのではないか。

 だとすれば、あの時の彩夏は、なにを考え、俺に抱かれたのだろうか。

 そして、今は、なにを想うのか。

「…………」

 一抹の疑問は放棄していた思考をたぐり寄せ、疑問の渦に引きずり込み、迷いがカラダを突き動かす。気付けば俺は、日那さんの唇から逃れるように首を背けていた。

「セン……パイ?」

「すまない、やっぱり俺にはキミを受け入れられない」

「っ!? どうして……ですか? アタシのなにがいけないんですか?」

「キミは悪くない、悪いのは彩夏に執着している俺だよ」

「あの人は……センパイを捨てたんですよ?」

「そうなのかもしれない。けど、そうじゃないのかもしれない」

 息を詰まらせた彼女から抜け出した俺は、ベッドの縁に座り直してこう言った。

「たしかめたいんだ。ちゃんと話さなきゃいけないのに、最初からそうすべきだったのに、できてなかった。俺、ずるいからさ、今やらなきゃ……きっと……二度と動けなくなる」

「そんなの、アタシだってそうですよ」

 と、俺の背中に彼女は身を寄せてくる。震えが伝わる。泣いている。

 一度は身を引いてしまったからこそ、彼女も退けないのかもしれない。

「別にずるくたって……いいじゃないですか、ずるいままで……いいじゃないですかぁッ。アタシは、もう……センパイと離れたくないんですよぉ」

「みは……日那さん」

 またしても泣かせてしまい、凄まじい罪悪感が込み上げてくる。

 あえて手放すことで、突き放すことで、ずるい俺への依存から解き放たれると思っていた。

 でも、彼女からすれば、もう、それすら大事な絆だったのかもしれない。

「行かないでください。ここに、アタシの側に、居てください。アタシは……センパイが好きです……大好きなんです。アタシなら……センパイを癒やしてあげられます。センパイが望むんなら……なんだってしてあげられます。だから――」

「ありがとう。でも、もう誤魔化せないんだ」

「なにがですかっ?」

 涙声が喉の奥で割れた悲鳴になり、背中を拳で叩かれるも、振り返らなかった。

 俺とて退けない、中途半端な真似はしない。流されたままじゃ、いられない。

 俺に出来るのは選ぶことだけだから。

「これ以上、格好悪いままでいたくない」

 心からの想いを口にする。散々非道い様を見せてしまったからこそ、影響を与えてしまったからこそ、この後輩には、日那美春には、ダサいままでは終わりたくなった。

「オジさんは格好付けていたいんだよ。大事な人の前ではさ」

「センパイにとって大事な人って誰ですか? アタシはそれになれないんですか?」

「キミは俺にとって大事だよ。本当に、だけど――」

「…………」

「霞彩夏は一番大事なんだ」

「どうしてそんなにこだわるんですか? 才能ですか、ルックスですか? アタシだって負けません、今は敵わなくても、絶対そのうち勝ってみせますから、だから……だからっ」

 泣きじゃくる日那さんの、背後からすがるような抱擁。

 その小さな手をそっと解くと、眠る前の物語を言い聞かせるみたいに優しく告げる。

 恥ずかしくもいつからか抱いてしまった、心の底からの、理屈抜きの想いを。

 選んだからこそ、言うべきだった。

「日那さんと同じだよ。俺、アイツが……霞彩夏が好きなんだ」

「っ――」

「だから……行くよ」

「アタシをこんなにも夢中にさせといて……センパイは……ひどいオジさんです……」

「ホントだよな。なんなら、こないだみたいに殴ってもいいぜ?」

 一発と言わず気の済むまで。それくらいのことをした自覚はあったから。

「……遠慮しときます、アタシを二度もフッたこと……いつか、絶対後悔させてやるので」

 こんな風に言える彼女を心から尊敬できたし、その強さはやっぱり見習うべきだろう。

 抉るような胸の痛みに微苦笑しつつ立ち上がり、部屋を後にしようとすると、

「ねぇ、センパイ?」

「ん?」

「アタシがもっと早く、センパイに出会えていたら、違ったんですかね?」

「どう、だろうな」

 最後まで振り返らない俺に、日那さんは擦れた声でこう言った。

「霞さんが羨ましいです」

「…………」

 俺から彼女に言える言葉は、もう無かった。

 選ばれなかった彼女には、これ以上はもう、なにを言っても傷付けてしまうだけだから。

 一段と冷え込んだ早朝の空気に触れ、強く被りを振って思考を前向きに切り替える。

 俺はすべての真実を知る為に、駅に向かって駆け出していた。

 

 ――彩夏……キミに聞きたいことがある、キミに言いたいことがある。


            ***

 病院に着く頃には、すでに面会可能な時刻を回っていた。

 俺はエントランスに赴き受付で彩夏の病室を確認する。緊急搬送された際に必要事項は住所を含めてすべて俺が記入しているから、問題無く教えてもらえた。

 あの夜から二日経っているが、両親が一緒であろうことは可能性として想像できた。

 俺は悪い印象を持たれているので門前払いされるかもしれないが、だからといって歩みを止めるつもりは毛頭ない。少しでも良い印象を持ってもらう為、先に一時帰宅し身なりは整えてきた。昨晩深酒をしたつもりは無いが、万が一酒臭くてもよろしくないのでブレスケアを一瓶飲んである。あとは、覚悟の問題だ。

 彩夏に会い、すべてを知るまでは帰れない。

 外来病棟から入院病棟に移動。エレベーターに揺られ、深呼吸。目的地たる三階に到着。

 クリーム色の長い廊下。緊張しながら彼女が居るであろう301号室を目指す。

 ――305、303、302……ここか。

 外のネームプレートにはたしかに霞彩夏と記されている。偶然にも俺達が住んでいたアパートと同じ部屋号に微苦笑してしまうも、気を引き締め直し、扉をノックする。

「……どうぞ」

 ドア越しに聞こえてきたのは、とてもか細いが耳馴染みのある声――彩夏の声だ。

 同時に、一際大きく心臓が跳ねた気がした。鼓動が一気に加速する。

 俺は意を決し、扉をスライドさせた。

「――――」

 無機質な白を基調とした個室の部屋、真ん中に置かれたベッドの上に、藍色のカーディガンを羽織ったパジャマ姿の彼女は居た。

 ただ、こちらでは無く窓の外に生気の抜けた視線を投げていて、横顔もどこか虚ろ、左腕には入院の根幹たる傷を処置した痛々しい包帯が巻かれている。

 病室に彼女の両親の姿が無かったのはかえって幸いだったかもしれない。これで彼女だけに集中できると必要以上に畏まっていた肩の力が抜けた俺は、一歩近付き声をかけた。

「彩夏」

「ッ!?」

 びくりとして振り返った彼女。僅かな間だけ眼が合うも、たちまち落ち着き無く視線を彷徨わせ、俯いてしまう。まるで怒られるのを覚悟した子供のように、実際、その身体は怯えるみたいに震えていた。俺が来たせいだろうか、精神的に安定しているようには見えなかった。

 あまり刺激しない方が良いかもしれない。すぐさま駆け寄り問いただしたい気持ちをなんとか抑え静かに扉を閉めると、無駄な音を立てないよう近付いて来客用の椅子に腰掛けた。

「無事でよかった。気分はどうだ? 起きていても平気か?」

「…………」

「メシは食べたか? まぁ、病院じゃ旨いものなんて大して期待できないだろうけど」

「…………」

 俺の問いかけに彼女は反応を示さなかった。ずっと黙っているつもりだろうか。

 俺まで黙ってしまっては逆によろしくない気がして、適当な話題を振ってみる。

「そういやご両親は今日居ないのか? てっきり来てると思ったんだけど……」

「今は外しています。龍成さんが……呼んだんですか?」

 チラっと申し訳程度の視線が向けられる。思いがけず反応が返ってきたので驚いたけど、いいきっかけになればと無駄におどけてみせる。

「ん? うん、だってそりゃこんな風になったらさ……さすがになぁ……。親父さん、超怖いな。俺、ガチでぶん殴られたよ、鼻血ぶ~だったぜ、ははは」

 当時を大袈裟なジャスチャーで再現してみせると、彩夏はまたしても俯いてしまう。

「大事にされてる証拠だよな」

「……ごめんなさい」

「でもさ、俺だってキミのことは大事に思ってたんだぜ?」

「っ――ごめんなさい」

「頼むからさ、謝らないでくれよ」

「……ごめん……なさい」

 繰り返される謝罪の言葉。口癖だったそれは、現状もっとも聞たくない言葉でもあった。

 俺が聞きたいのはそんなんじゃないんだと、つい彼女の手を取るも、当の彩夏が身を引く姿勢を見せるから、俺は自分が拒絶されているのだと今更ながら実感してしまう。

 覚悟が、揺らぐ。あれほど近くに感じた相手が、今は途轍もなく遠く感じた。

「ごめん」

 手を離して、そう言ってしまった。聞きたくない言葉を、自ら。

 やはり、駄目なのだろうか。すべては日那さんの推測通りで、彩夏の中では、すでに決着が着いているのだろうか。霞彩夏にとって、空龍成は不要なのだろうか。

 だったらせめて、一言でいいから言わせて欲しい。こんな事態になる前に、まず最初に言いたかった言葉を、たとえ、もう要らない人間からのものだとしても、聞いて欲しい。

「なぁ、彩夏……」

「……はい」

「受賞おめでとう」

「――っ!?」

 できる限り穏やかな声で告げると、ようやくまともに彩夏は俺を見てくれた。

 それだけで俺の心は幾分軽くなっていて、自然と笑みさえ零れていた。

「彩夏が居なければあの素晴らしい作品は完成しなかった。この快挙も到底なし得なかった」

 口元を戦慄かせて首を横に振る彼女に、俺は続けた。

「やっぱりキミは凄い。霞彩夏は、すごいよな」

「違い……ます、そんなの……」

「違わないさ。俺は心からそう思うんだぜ?」

「どうして?」

「ん?」

「どうして責めないんですか? 私は、アナタを裏切ったんですよ?」

 彩夏はぼろぼろと大粒の涙を流し、悲痛な声を絞った。

 自罰に失敗してなお、あくまで責められようとするその姿勢は、どこか無理をしているようにも見えた。

 彩夏の瞳は涙で濡れている。意図の見えない涙、ひたすらに哀しそうな涙。

 それを見ていると、彼女の本心は別にあるような。なんだか、そう信じたくなっていた。

 根拠なんかまるでない。実に馬鹿げているのかもしれない。本来ならめちゃくちゃに責め立てることこそが必要であり、それが当然だという人もいると思う。

 だが、好きな女を信じちゃいけないなんて誰が決めた?

 俺は勇気を振り絞って、彼女の手を再び取る。今度は拒絶されなかった。それは彼女の中でまだすべては決着しきっていないことを、内に秘めた想いがあることを、俺に教えてくれた気がした。

 ならば、もう、進むしかない。

「本当にそうなら責めるさ。でも、俺にはあまりに疑問が多すぎるんだ……」

「…………」

「なぁ、彩夏。【火華】はやっぱりキミなのか?」

「っ…………」

「ちゃんと話してくれないか。なぜこんなことになったのかをさ。自己完結はやめにしよう。本音を胸に秘めて物事はこうだと決めつけるのは、簡単ではあっても結局苦しくなるだろ? 俺も話すから。もちろん話し合ったところで完全には理解し合えないかも知れないけれど、たぶん、俺達にはそれが必要なんだよ」

 俺は彼女を見つめながらそう言った。彩夏も俺を見つめていたが、黙ったままだった。

 そうして、沈黙が訪れる。彼女らしいとても長い沈黙。

 でもこれは互いにとって、必要な時間。段階を進める為の下準備。俺も、彩夏も、もう、目を逸らそうとはしなかった。これ以上逸らし続けては、いけなかったのだ。

 やがて、準備が整ったのか、彩夏が切り出した。

「……長くなると思います。しゃべるのだって……そんなに上手じゃないし……」

「構わないさ」

「きっと……呆れると思います。重くて、嫌いに……なると思います」

「そいつは聞いてみないとわからない」

「…………」

 俺の言い分に、彼女は瞳を閉じて思案していた。

「彩夏?」

「……ひとつ、約束してくれませんか?」

「約束?」

「はい、全部を知ったら……お願いをひとつ聴いて欲しいんです」

「内容は?」

「それはまだ言えません、でも、とても簡単なお願いです、駄目ですか?」

「…………」

「約束してくれたら、全部話します」

 俺にとって霞彩夏は特別な存在だ。どこか甘美で中毒性ある毒にも等しい、こだわりの女。

 ずっと関わり続けて、ここまで来たらなら、最早、毒を食らわば皿までである。

「……わかった」

 危うい香りのする問いに、息を吐いて頷く。

 と、彩夏は少しだけはにかみ、ゆっくりと語り出した。

 俺の知らない、彼女自身の物語を。


 龍成さんもご存じのように、私は人と関わるのが苦手です。

 昔から意見を相手に伝える課程で失敗するのが多くて、その度に奇異の目で見られるのがこわくて、これはあまり言いたくはないんですけど、小学生の頃には酷いイジメに発展した経験もあって、だからこそ距離を取りがちでした。

 進んで人の輪から外れていると楽でした。少なくとも失敗して傷付くより被害は小さいから。

 中学生の頃には、私は空気と同じでした。

 どこにでもあるけど、居ても居なくても気付かれない存在。物語で言えばモブですら無い。そんな自分は嫌いでしたし、さみしかったですけれど、平気でした。

 私には本が、小説があったから。

 物語を読んでいる時は、主人公と同調して嫌な現実を忘れられたから。

 時間があれば本を読む、好きな本の世界に没入して、逃避する。

 それが私の日常でした。それでいいと思っていました。

 ただ、思春期を迎えると、少し刺激を欲するようになっていました。

 別に劇的なことを求めていたわけじゃありません。微々たる変化でよかったんです。

 そしてそれは、とある小説の、こんなあとがきに答えがありました。

【友達がいなくて、本ばかり読んで、妄想ばかりしているうちになんとなくなにかを書くようになり、気付けば物語が生まれていました】 

 ありふれた話ですよね? けど、私もやってみようかなと思わせるには充分で。

 あとは強いて言うなら、私の母が児童作家である影響もあったのかもしれません。

 当時は物語と呼べるような大層な代物ではありませんけど、いつしか落書きを覚えたばかりの子供みたいに、筆をとるようになりました。

 妄想を文字に起こす、文章化して見えるようにする。誰にも見せるつもりの無いそれはとてもいけない行為をしている気分で、恥ずかしくもあって、でも、夢中になってしまいました。

 現実の自分では不可能なことも、創作の世界でなら、なんでもできたから。

 いろんな選択で、様々な私になれたから。私は空気じゃ無いと、そう思えたんです。そう思いたくなっていたんです。

 微々たる変化は、しかし、着実な進化でした。

 高校生になると、私の妄想癖はさらにすごいものになって、とてもじゃありませんけど、龍成さんには見せられないくらいにはなっていました。

 そのぶん人間関係はより皆無でした。普通なら友人を作って、部活に励んだり、遊んだりするのでしょうけど、私は違いました。

 いつも、ひとりでした。

 私だって、できるなら普通に振る舞いたくもあったのです。

 そうして誰かに必要とされたい、側に居て欲しい、心ではそう叫んでいました。

 でも、こわくて、どうしても踏み出せなくて、時間だけが過ぎていって。

 私がそんなだから、進路を見据える時期になると両親は心配したんだと思います。

 父は特に私に普通を求めているようでした。大学に進学して、それなりの企業に就職して欲しかったんだと思います。

 けれど、私には無理でした。

 勉強もあまりできる方ではありませんでしたし、一応は言われるがまま高望みしない程度の大学受験はしたのですが、失敗して、現実の厳しさに打ちのめされただけでした。

 キミは社会の不適合者ですと言われた気がして、暫く自室に籠りがちになりました。

 普通の人には理解されないかもしれません。甘ったれだと言われるかもしれません。

 でも、私は、私には、どうすればいいのかわからなかったんです。

 暫くはひたすら本を読んで、妄想を殴り書いて、逃避していたんです。

 そんな私にある時、母が言ってくれました。

 本を、小説を書いてみたら、と。ひとつの物語を書き上げてみたら、と。

 それなら私にもできるだろうか。好きなことなら、もしかしたら。

 自信なんかまるでありませんでしたけど、そうして促されてあの専門学校に入ったんです。

 これまでの自己満足の見える文章ではなく、誰かに読んでもらう為の技術を学ぶ為に。

 飛び込んだ新しい環境は私にとって、戸惑いの連続でした。

 自主性を主体にした勉強の仕組みそのものもそうですが、同級生であっても大きく世代差があるのは、私にとってこれ以上無いくらいの未知との遭遇でした。

 中にはやる気と情熱がびっくりするくらい桁外れの眩しい人もいて、私は同級生を名乗るのもおこがましいくらいで、そんな右も左も不透明な場所で、根っからの引っ込み思案な私が積極的になんかなれるはずがなくて、案の定ひとりで浮いてしまって。

 やっぱり、私なんかが来るべきじゃなかったと、早々に諦めかけていたのに。

『キミが凄いからさ。俺よりも断然ね』

『俺、霞さんともっと話したいよ。駄目か?』

 龍成さん、誰よりも眩しかったあなたは、私を照らして見つけてくれて。

 それどころか、認めてくれるなんて夢のようでした。得意の妄想かと勘ぐったくらいです。

 あの時、あの瞬間、私がどれくらい嬉しかったか。

 私の暗く閉じきった世界が、どれほど明るく広がり、そして救われたか。

 照らし出された私の心情の表層を、もしかしたら龍成さんは悟っていたのかも知れないけれど。そんな眩しいあなただからこそ、ひたむきに、貪欲なまでにがんばるあなただったからこそ、絶対に、奥底には気付けなかったはずです。

 私、霞彩夏が、空龍成にどうしようもないほど憧れていたことだけは。

 覚えていますか? 初めて私が拙いプロットを見せた際のこと。

 あなたは自分の作品を、私に見せてくれましたよね? あなたは落選済みの作品だからと謙遜していましたけど、アレは私にとって最高の作品でした。読み手たる私にがむしゃらに訴える物語は惹き付けられるなんて表現じゃ足りなくて、本当に心を鷲づかみにされたんです。

 万人に評価される作風じゃなくても、少なくとも私には、爪先が深く刺さったんです。

 あなたは私を凄いと言ってくれたけど、本当に凄かったのはあなたの方なんです。

 私の処女作が最終選考に残ったのだって、あなたのおかげ。物語を物語として書けるようになったのは、心動かす小説を生めるようになったのは、龍成さんが居たからなんです。

 空龍成のように私もなりたい。霞彩夏はそう思っていたんです。

 信じられませんか? でも、全部事実なんですよ?

 そして、だからでしょうかね?

 私にとってそれだけ特別なあなたが、いつまでも認められないこの現実は嫌でした。

 そんな現実に傷付き、どんどん書けなくなっていく龍成さんを見ているだけなのが嫌でした。

 仲間や私と距離を取り出し、遠退くあなたが、嫌で、嫌で……堪らなくて……。

 どうにかしたくて、なんとか立ち直って欲しくて、そうこうしているうちに学校も卒業を迎えてしまって、私は、自分にできることを改めて考えたんです。

 霞彩夏にできること、それは、あなたのおかげで出来るようになったこと。

《小説》しかありませんでした。

 龍成さんが書けないなら、書けるようにしたい。

 あなたに、私が憧れた空龍成を取り戻してもらいたい。

 そう思って、その大切な願いを叶えるべく、今度は私からあなたを誘ったんです。

 同盟は、合作は、その為の手段だったんです。

 一緒に住むことを了承したのは、私なりの覚悟でした。

 戸惑いはもちろんありました。こんな私でも、龍成さんからすれば一応、異性ですしね。

 だけど、あなたの為になるのならばと、一大決心できたんです。

 両親には一人暮らしをすると嘘を吐いてしまいましたけど。

 でも、そうまでして始まった新生活は、私自身の駄目さを浮き彫りにしました。

 基本口下手な私ではまともな会話すらままならなくて、作品についてはかろうじて話せていたのはまだ救いでしたけど、想像以上に深い龍成さんの傷は触れることさえ躊躇われました。

 ふとした瞬間、過去作の評価シートを眺める眼差しは、とても苦しそうで。辛そうで。

 あなたは凄いんです、どうか自信を持ってください。

 そう思っていても、思うだけで伝えられなくて。

 気弱で不器用な私は、執筆面でも生活面でもかえって迷惑ばかりかけてしまって。

 なんとか行動で示そうとしても、中途半端な私では状況を変えられなくて。せめて重荷にはならないようにしていたら、むしろ龍成さんの落ち込みが目立つようになっていって。

 うじうじと悩む日々が続いてしまいました。私が居る意味がわからなくなっていました。

 予想外の変化をもたらせたのは、私では無く、別の人――日那美春さん。

 彼女と接するようになってから、龍成さんはどこか生き生きとしていましたよね?

 側に居るのは私でも、またしても私から、進んで離れていくみたいで、私じゃ駄目なのだと思い始めていました。

 そして、それでもいいのかもしれないとも。

 美春さんは素晴らしい才能の持ち主ですし、人間的にも私とは大違いの魅力溢れる方ですから。あなたが再び書けるようになるのなら、それでもいい。

 重要なのは私の憧れたあなたを取り戻すこと。空龍成が空龍成として帰ってくること。

 その為なら私は身を退ける、そもそも側に居たところで見ているしかできないのだから。

 だったら見届けようと、一時は納得したはずだったんです。

 なのに、私はどこまでも不誠実な人間でした。

 あなたが私から離れていくのを、見ていることすらできなかった。

 いつの間にか、私は掲げていた目的を見失っていました。

 龍成さんの為にではなく、自分の為にあなたの側に居たんです。

 一緒に居てもらうことに依存して、離れられるのがこわくて、あなたの為になにひとつ出来ていなかった私は、ただ奪われたくなくて、振り向いてもらいたい一心で動いてしまった。

 軽蔑してください龍成さん。私は自分の為に変化を望んだんです。

 そしてそれは、どうしようも無い不安を私にもたらしました。

 私だけを見て欲しくて、あの日、大切な願いを放棄した無責任な私は、あなたに抱かれた。

 初めて女として見てもらえた喜びに、胸がいっぱいになりました。

 でも、反面、自己嫌悪にも陥りました。なにをしているんだろうと本気で思いました。

 あなたに求められ、あなたを感じるその度に。

 泣きたくなって、切なくなって、とても堪えきれませんでした。

 自己嫌悪も日に日に酷くなりました。

 だって私の望んだ変化は、どこまでいっても私だけのものでしかなかったから。

 そんなことは無い? 龍成さんは優しいですね。

 でも、どうか、もう、優しくしないでください。

 龍成さんだって本当はわかってるはずなんです。気付かないふりをしてるだけなんです。

 だって、そうでしょう? 龍成さんは、私と一緒に居るようになってから、一度だって自分の手で作品を作れていないんですから。

 私との合作に、あの《Season`s》に賭けていたのはたしかなのかも知れません。

 このままふたりで《からっかす》として続けていくのも、アリなのかも知れません。

 でも、それは本心じゃ無い。心からの願いじゃ無い。

 別にあったはずです。決して誤魔化せない想いがあったはずです。

 誰の手も借りていない、自分で描いた作品で評価されたいと思っていたでしょう?

 認められたいと思っていたでしょう?

 このままでいいのかと、そう思っていたでしょう?

 あなたが踏み出せないのは、私のせい。私は、あなたの側に居ちゃいけなかったんです。

 知っているでしょう? 人の意見を取り入れることは作品の劣化を招く危険性があると。

 それは言い換えれば、当人独自の作家性が失われるってことでもあるんです。

 もちろん交わりはケースバイケース、良くも悪くもなり得ます。

 つまり私には良くても、龍成さん、あなたにはそうではなかった。

 ねぇ、龍成さん。よく思い返してみてください。

 私に関わる前のあなたは、自分の作品を作れていたでしょう?

 

 空龍成を狂わせていたのは霞彩夏なんです。


「私はとっくにわかってました。だって……ずっとあなたを見てきたから。そして、知っています。あなたが、どれだけ凄いのかを。だから、だから……私は、罪を犯したんです。私に捕らわれたあなたを解き放つ為に。あなたの中から、私を消す為に」

 とんでもなく酷い女ですよね? 重くて、呆れたでしょう?

「…………」

 彩夏に泣きながら微笑まれ、言葉が出てこなかった。

 俺は受賞を目指していた。

 その為に彩夏との同盟は最善だと思っていたし、最高の結果も出た。

 だが、しかし、その過程における本音はまさしく彼女に言われたとおりだったのだ。

 このままでいいのか、と。

 それは彼女も同じで、だからこそ彼女は実行してしまった。今回の、一連の事件を。

「あなたの言うとおり【火華】は私です。私はあなたを裏切ったんですよ」

「裏切ったって……でも、それじゃ」

「事実でしょう? そこにはなんの異論も挟む余地はありません」

 彼女は首を振ったかと思えば、不意に俺を突き飛ばし、近くにあったサイドボードの引き出しを乱暴に開ける。取り出したのは刃渡りの短い果物ナイフ、それをあろうことか自らの喉元に突きつける。

 危機管理意識の低い彼女の両親を、この時ばかりは本気で恨んだ。

「――――ッ!? よせ、なにやってんだ」

「来ないでください」

 慌てて起き上がり止めようとするも、震える声で制止されてしまう。

「あのペンネームの由来はですね、戒めなんです。龍成さんのおかげで浅ましくも燃え咲き誇れた私は、名のように消えるべきなんですよ……所詮、元は空気ですから」

「彩夏……」

「こんな私でも良い夢を見れました。見せてくれたのはあなたでした。龍成さんと過ごせた時間は、全部、私にとってかけがえのない宝物です」

「待てよ……待ってくれよ……自己完結はやめろって言ったじゃないか」

「約束しましたよね? お願いをひとつ聴いてくれるって」

 彼女は目を細めると、とても凄絶な笑顔を作った。まるで咲き誇り消えゆく火華のように。

「どうか、私を忘れてください」


 瞬間、白い病室に真っ赤な色が迸り――


「――――ッッッ、痛ぅ……」

「そん……な……」

 激痛に呻く俺を、血飛沫で汚れた彩夏が困惑した様子で見ていた。

 まさに紙一重、彼女が必要以上に振りかぶったおかげもあって、俺は彩夏の首元と刃先の間に自分の手のひらを差し込むことに成功していた。彩夏が非力で助かった、貫通していたら悔やんでも悔やみきれない事態になっていただろうから。

 雪の夜のような絶望は、二度と御免だったから。

 俺は刺さったナイフをそのまま手放させる。彼女は慌ててナースコールをしようとする。

「よせ、俺なら大丈夫だ」

「っ、でも……」

「今は、誰にも邪魔をされたくない」

 たたらを踏んだようによろけながら隣に座り込むと、彼女は言う。

「……約束したのに……こんなの望んでないのに……なんでこんなことするんですか?」

「悪いな、ずるくて。だけどそっちこそ一方的すぎだっての……。言っただろ? ちゃんと話し合おうって……」

「だから……私は全部話して――」

「まだ、こっちはなにも話しちゃいない。言いたいこと……なんも言えてね~ぞ?」

 そう告げると、彩夏は大きく目を見開いた。

 そうだ、俺はキミに言いたいことがあるんだ。そして、そいつはまだ伝えられてないんだ。

 だけど、なにより、まず真っ先に心の底から伝えたいことを口にする。

「キミの言い分はわかった。次は俺の番だ。心して聞くように」

「…………」

「ざけんな、ばか」

「――――っ、ふぇ!?」

 俺は彩夏のほっぺたを、ぎゅ~っとつねってやった。

 シリアスモードをぶち壊す、くだけたやりくちは、あの後輩に教わったものである。

 そして、これは今の病んでいる彼女にこそ効果的に思えた。

「ひ、ひはい……はにふんでふは」

「おしおきだ、されて当然だろ? つ~かホントざけんなよ、このばか」

「ご……おめんあはい」

「ごめんで済むかよ、ばか。勝手な真似しやがって、勘違いしてんじゃね~ぞ?」

「ばかばか言い過ぎです。それに勘違いなんて、してませんよ」

「してるっつ~の、俺はキミが思うような上等な人間じゃね~んだ」

 離してやると頬をさすって不満げにするから、俺はもっとハッキリと言ってやった。

 本当に伝えたかったことを交えながら。

「捕らわれた俺を解き放つだぁ? 私を忘れてくださいだぁ? ホント、まじ、ざけんなよ。大事な女にこんな後味悪く死なれちまったら迷わず後を追うに決まってんだろ~が。四十路前のおっさんの愛を舐めんなっ」

「っ、愛って……その……好きだってさえまだ一度も……ぇぇ?」

「なんだよ、重いってのか? あいにく、この期に及んで誤魔化すつもりは一切ね~ぞ俺は」

 珍しく彩夏が引いていた。いやいや、重さじゃそっちも人のこと言えないからな?

 曖昧にはしない。ちゃんと言葉にしなくちゃ伝わらないと思うから。

 この気持ちは、好きだなんて言葉で足りて堪るかよ。

「ステップを飛ばすのは……どうかと思ったりも……するんです」

「今更だろそんなの。言葉より過激なことを、爛れた行為を、とうに済ましてるだろ俺達は」

「それは、そうかも……しれませんけど……」

 人はそれぞれの価値観があって、彩夏にとっては優先順位が違うのだろうか。

 でも、だったら、俺にだって俺の価値観がある。

「空龍成は霞彩夏を愛してる」

「……う……ぁ……」

 これでもかと赤面した彩夏に、俺は畳みかけた。

「キミが欲しいんだ、俺の全部が霞彩夏を求めてんだ」

「……でも、私は、こんなにも厄介な私なんかじゃ……龍成さんに相応しくない」

「なんかとか言うなよ、相応しくないとかキミが決めるなよ、彩夏は魅力的だ、俺にとっちゃとんでもなくイイ女なんだ。そりゃ最初は才能だけに惹かれていたのかもしれねぇ、俺には無い圧倒的な才能に。でも、そんなのはきっかけだ。異性としてはたしかに面倒なところもあるけれど、その厄介さもひっくるめて、俺は彩夏を愛しちまったんだよ、知れば知るほど、可愛くて、可愛すぎて……たまらねぇんだよっ」

「そんなの、無茶苦茶です」

「そうさ、愛ってのは無茶苦茶なんだよ。幾つになったって、いや、歳を重ねればこそ……一線を踏み越えたら……こじれるんだよっ。だから四の五の言わずに俺の側にいてくれッ」

「……きゃ――――ンッ!!?」

 俺は血まみれのまま、彼女を無理やり抱き寄せると、その唇にキスをした。優しくするなと言われたから、荒々しく、貪るように、ただ求めるだけの口付けを。

 彩夏はじたばたと抵抗を見せた。

 猫みたいに引っかかれたし、あちこち殴られたが、俺は離れてなんかやらなかった。

「ッ――ッ――――っ……」

 ついには観念したのだろうか。こちらに身を任せて、次第に求め返すようになる。

 彼女だって本心では俺と離れたくないのだ。消えたくなんかないのだ。

 身体が火照り、吐息が熱くなるその様子がいじらしくて、俺としてはもう昂ぶりすぎて、一気にベッドに押し倒して行き着くところまで行きたくなったが、

「ッ――ぐぅ……痛てててて……」

 あいにく手にはナイフが突き刺さったままだから、その痛みで我に返った。

「だ、大丈夫ですか」

「あぁ、平気へ~き、彩夏が可愛いから……調子に乗った」

「……ばか……ですね、龍成さんは」

「お互い様だろ? つ~かさ」

「?」

「消えたり、すんなよな。頼むから」

「……でも……でも……私は」

 言い淀む彼女は、雰囲気に流されてしまったことを後悔しているようだったが――。

「わかってるよ、言っただろ? 誤魔化すつもりは一切無いってさ」

 彼女の期待と俺の真の願いを叶える為には、新たな決意が必須だった。

「彩夏の言い分は理解できたよ。キミが今回取ったやり方は絶対に間違っているけど、俺をそんなにも評価してくれる気持ちは素直に嬉しい……それには応えたいとも思う。だから――」

「だから?」

 腕の中で彩夏が息を呑んで固い面持ちで俺を見つめてくる。

 落選を重ねた俺は、書けなくなったことで現実と向き合うのを逃げていた。

 いつしかやってみようとすらしなくなっていた。

 心どこかで、どうせもう無理だと、これが限界だと決めつけて。

 でも、逃げるのはもう止めだ。やってやるのだ。心の筆は、まだ折れていない。

 不安など押し殺せ、逆境に立ち向かえ、じゃなきゃ俺は彼女に胸を張れないっ。

 惚れた女が過ちを犯してまで信じてくれている。

 ならば男たるもの、ここでやらなきゃ、いつやるのだ。

 俺は一番大事な人の前で格好付けるべく、霞彩夏に宣言する。

「同盟は解消しよう。俺は……もう一度ひとりで再チャレンジしてみるよ」

「っ――ほんと、ですか?」

「ああ、これならいいだろ?」

「はい……」

 俺の決意の言葉に、彩夏は安堵と歓喜が混じる柔らかい表情になった。

 とても嬉しそうで、やっぱり泣いてしまって、俺は本当に彼女を泣かせてばかりだなとも思ったけれど、今回の涙はそれだけでやる気が漲ってくる気がしていた。

 こんな涙なら、悪くない。

 俺は優しく彼女を抱き締め、彼女も抱き締め返してくれた。

 紆余曲折、間違い続けて、不器用な俺達はやっと始められる気がしていた。理想の関係を。

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