第二章 パートナー
「どう……ですか」
「うん、完璧だ。この調子でクライマックスまで一気にいこう」
「…………」
四幕構成の原稿。その第三章まで書き上がった彩夏に感想を述べると、やけに重い沈黙が返ってくる。改稿や最終の見直しを考えれば予定より時間こそかかったけど、それでも全然巻き返しの効く範疇、ペースダウン以上に修正点が無いのだから、てっきりもっと喜ぶと思っていたのに。
なにか言いたげに、じっっと見つめてくるその無言の圧力に耐えかねた俺が、
「どうした? 進行できてるのに、なにか気になるのか?」
「っ……いえ」
そう言っても決まり切った淡泊な相槌が返って来るのみ。視線を外しても意識を完全に外してくれないから、絶対に彼女なりの主張があるはずなのだが。
彼女にとって、想いを言葉にするのが難しいのは理解している。
それでも、言いたいことがあるならハッキリ言って欲しくもあり、怖くもあった。
後者は同盟の解消。コンビ《からっかす》の解散に直結するから。
才ある彩夏にとって空龍成が利用価値無しと突きつけられた時、俺は果たしてどうなってしまうのだろう。どっちつかずの心は不確定で、身勝手に苛々さえしてきて――。
俺は居心地の悪さしかなかった。
このままだと気持ちの余裕が途切れそうで、頭を掻きむしり突き放すように告げていた。
「さて、それじゃちょっと出かけてくるよ」
「え? だって今日はバイトお休みじゃ……」
「ああ、言ってなかったっけ? 同僚に会う約束があるって」
彼女は首を振り、再び感情の見え難い瞳を向けてくる。きっと不満だったに違いない。本来ならこちらのバイトが休みの時は作品についてじっくり話し合うのが通例だったから。
前以て話せば良かったのに、あえて省いた言い分は後出しじゃんけんのようなもので、
「悪いな、帰りも遅くなるから。彩夏も、もし出かけるなら戸締まりだけは頼むぜ」
「…………」
絡みつく瞳から、逃げるみたいに場を後にする。こんな己のずるさ加減が心底嫌になる。
――ダセぇな俺は……いい歳してマジでなにやってんだよ……。
まったくクソみたいな人間性だ。少なくとも、専門学生時代はこうじゃ無かったのに。
じくじくと膿むように病んでいく気分を一刻も早く晴らしたかった。
とにかく癒やしが欲しい。今の自分はさぞ非道い顔をしているだろうから。
鬱屈さを振り切るべく早足で駅まで歩く。すっかり優先順位の逆転しつつある約束相手の顔が頭に浮かぶと、年甲斐も無く無性に逢いたさが募って、気持ちが幾分楽になっていく。
『センパイ。十八時に改札前、時間厳守。遅れたら駄目ですよ』
――わかってるって。
おかげで待ち合わせまでにはどうにか頼れる先輩として取り繕えそうである。
八王子駅に到着。電車のドアが開くと自然と駆け出していた。腕時計を見る。約束の時間まではまだ二十五分ある。今日は俺の方が早そうだと思って改札を抜けると、
「アタシの勝ちです」
不意打ちとばかりに後ろからぺちっと背中を叩かれた。
「うぉ!? 早いなみはるん」
「ふふ、センパイを待たせる訳にはいきませんから」
心をくすぐる台詞と愛らしい笑みには、癒やしを感じずにはいられなかったけれど、
「今日はどこにいきます? アタシはセンパイとだったらどこでもいいですけど」
「おい、女性でその言い方は危ういぞ。俺が悪い男だったらどうする気だよ」
あまりに無警戒な物言いにはさすがに釘を刺しておく。
「センパイは悪い男なんですか?」
小首を傾げられたが、実際のところ、俺は悪い男というよりずるい男なのだ。
この微妙なニュアンスの差は、俺の中では大きい。
「……いい人じゃないのはたしかだ」
「なるほど、ならよかったです」
「なにがよかったんだ?」
「アタシも、決していい人じゃありませんから。似たもの同士ですね」
似てなどいない。少なくとも現状の俺と彼女はまるで違う。
そう強く言いたくもあったけれど、向けられる無邪気な笑顔には抗えなかった。
面倒なことは考えたくなかった。今はただ、この癒やしに流されたくて。
「で、そんなアタシをどこに連れてってくれるんですか? 空センパイ」
「ふむ。じゃあ、いつもよりリラックスできるとこに行こうか」
***
「センパイの……固いです……とっても」
「だろ? まだまだ固くできるぞ、ほら」
「わ……こんなに固くなるなんて……それに……熱い」
「キミも上手だよ、みはるん。次はコイツをここに入れてみようか」
「え? そこは……」
「怖いか?」
「へいきです……センパイを信じてますから」
そして俺は、彼女にとって繊細で敏感なところへ手を加えていく。
固さを馴染ませるのには焦りは禁物。ゆっくり、じっくり、機を整えていく。
「すご……い、アタシのが……こんな風になっちゃうなんて……」
未知の発見に声が上ずっていた。あきらかに興奮している。
あまり焦らすのも大人気ない。頃合いを見定めた俺は彼女の大切な部分へ侵入していく。
「センパイの……固すぎかと思ってたのに……こんなに馴染むなんて」
「やり方はひとつじゃないのさ。こうするともっと気持ち良くなれるんだよ」
すっかり俺色に染められた彼女は身を乗り出して、ついには大きな声を上げた。
「なるほど、そうシーン構成することで読者のカタルシスを大きくできるんですね」
「ああ。文章技法次第で伝わり方を誘導できるし、読み手に与える熱量も格段に変わるのさ」
「勉強になります」
自前の作品をより面白くする手法に喜ぶ日那さん。俺は彼女の原稿に例文を書き終えると、小休止すべく内線電話で店員さんを呼んだ。ここは駅前にオープンしたばかりの完全個室居酒屋である。おそらく元はカラオケBOXなのだろうが人目を気にせず思う存分言いたいことを語り合えるこのような場所は、本気のレビューバックにはうってつけなのだ。熱が入るあまり比較的高確率で第三者からはアブナイ会話になりがちだから。
「すいませーん、生ビールもらえます?」
「あ、アタシも生くださ~い」
そうしてキンキンに冷えたジョッキを、俺達はゴツリとぶつけ合い、一気に煽る。
案の定、旨さの感想を伝える「「くふぅぁ~」」といった声がシンクロした。
「にしてもセンパイ、人に教え馴れてますよね」
「ん、まぁな」
「教師でもやってたんですか?」
「いや、単に多かったんだよ。人の作品に触れる機会が。言わなかったっけ、俺はこの手の専門学校に通ってたんだよ」
「初耳です。完全に独学だったわけじゃないんですね」
「ああ」
「う~ん、アタシも行った方がいいのかなぁ学校」
「すでに俺が教えちゃってるからなぁ、今更感はあるかもね」
「でも、そういうとこじゃないと中々出会えないですよね。ライバル? みたいな」
「はは、欲しいのか? ライバル」
「だって居たら刺激しあえるじゃないですか、お前には負けないぞ~って」
「そうかもな、同じ時間の努力であっても技術の伸び方が違うのも事実だ」
「楽しかったですか? 専門学校」
「……楽しかったよ、あの頃が一番……同じ目標に向き合えた奴らがいたから」
ふと訪れた話題でつい情感たっぷりに言ってしまったのは、それが彩夏との出会いを含めた俺の作家性の原点であり、まだ誇れたからだ。
今の、あらゆる意味合いで、情けなすぎる俺よりも。
「良ければ聴かせてくれませんか? センパイの専門学校時代、アタシ、知りたいです」
と、興味を持ったのか日那さんは掘り下げようとしてくる。
俺は本気で夢と向き合い始めている彼女になら、打ち明けてもいいかもしれないと思った。
恥ずかしいくらいに全力でがむしゃらだった当時の俺と、仲間達との話を。
「ちょっと長くなるぞ?」
前置きにそう告げると、彼女は嬉しそうに頷いた。
***
小説の専門学校は一般的に文章を学ぶ場だと思われがちだが、そうとは限らない。
もちろん最低限の作法は学ぶのだが、一定以上の文章力はひたすら書くことでしか上達しないし、綺麗な文章を書けたからといって内容が読み手に魅力的で無ければ意味を成さない。
それは芸術要素の強い純文学であれ、娯楽性の高いライトノベルであれ同じこと。
原則として小説は読まれ、消費されるものだからだ。
そして、消費とは読者の心を動かすことであると俺は思う。どのような形でもいいのだ。
だから、その為に必要な要素を、俺はかつてあの学校であいつらと学んだのだ。
東京都、渋谷区恵比寿。駅側に構えるその専門学校は滞在講師が現役プロ作家と編集者であり、各々が独特過ぎるある種変態的な感性で講義していて、受け手側たる生徒は柔軟な理解力が必要だった。
一日の講義は午前九時半より一律二時間。その後、閉館になる十八時まで時間をどう使うのかはすべて自分次第。一学年は四十人、世代を問わず集まる特殊なその場所で、講義が終わると大抵の連中は遊んでいた。それが悪いとは言わない。快楽に重きをおいて日々瞬間を生きるのも若さの特権だし、その経験は後の糧にもなるだろうから。
が、学年最年長だった俺はいたずらに時間を浪費するつもりはさらさら皆無だった。
初期から異常なほど貪欲に講師に食い付いて若い連中からは速攻で別種認定され、入学して一週間で〈殿上人〉と揶揄され浮いていたが、どうでもよかった。
時間は有限。
リソースには限りがあり、創作のみに集中できるのは在学期間中だけだったから。
学生のうちに受賞するつもりでさえいた、そんなある日。
講義後の教室でいつものように黙々と作業していると、珍しくも声をかけてくる奴がいた。
『空さん、やる気ぱねぇッスね?』
秋雨童夢、当時二十四才。俺と同じく脱サラ組。
明るい茶髪はショートの無造作ヘア、細フレームの眼鏡の奥には柔和な瞳、全体的に爽やかな雰囲気の細身の青年はコンバチタイプのパソコンを抱えており、さらりと笑っていた。
『誰かと思えば秋雨くんか。なんのようだい?』
当時の俺に自発的に話しかける奴は本当にレアで、邪険にせず対応してやると嬉しそうに隣に座ってきた。
『ボクの名前覚えてくれてるんですね、いやぁほっとしました』
『クラスで積極性のある人間は把握してるよ、キミはこの前の課題の設定も良かったし』
これは事実だった。どうでもいい連中は記憶するだけ無駄なのだ。
自分にとってプラスになるか否か、この頃の俺は取捨選択の意識が無茶苦茶強かった。
『あざーすっ。設定厨でして、中でもファンタジーな設定は大好物なんですよ。今組んでるプロットも激アツガチンコバトル在りきのファンタジーでして――』
『へぇ、ちゃんと書いてるんだね』
『はいー。ところで空さん、今お時間あります?』
『……あるにはあるけど』
『で、し、た、ら、プロット見てもらえません? ちょっと第三者の意見が欲しいんッスよ』
『意見が欲しいなら、あっちに暇そうな有象無象が沢山いるだろ?』
『いえ、ある程度できる人の意見が欲しいんス。少なくとも新人賞の投稿経験がある人の……あいつら長編書き上げたことすらないのばっかりなんで、参考にならないんッスよ』
〈殿上人〉と揶揄されるだけあって俺はできる人扱いらしかった。悪い気はしない。
『へぇ、その言い方だと秋雨くんは投稿経験があるの?』
『はいー、ついこの前、勢い全開の処女作を投稿して一次で爆死したばっかッスけど』
『書き上げただけでも大したものだよ』
実際、長編を書き切るというのは並大抵のことでは無い。
下手くそであっても、面白くなくても、膨大な時間と情熱が絶対に必要だから。
『でも、だったら評価シートもらったんじゃ』
『いや、それがボク送ったとこ一次通過しないともらえなくって……空さんは絶対投稿歴ありますよね? 世紀末救世主ばりにオーラがバリバリ出てますもん。だから、是非、意見が欲しいんスよ。悩めるボクを救って下さいぃ~』
バトルものを書いてるだけあってか、馴れ馴れしくも某有名キャラ(古)扱いされてしまった。秘孔突いてひでぶらせてやろうかとも思ったけれど、仮にも年長者なので我慢する。
『救えるかどうかは知らんけど……まぁいいよ』
『あざーす』
そうして、彼のプロットを拝見する。
内容はロボットバトルファンタジー、設定厨を名乗るだけあって世界観が濃い代物だった。
『ふむ、なるほど』
『どうッスかね?』
一言で言えば、熱い。このTHE・ライトノベルな作風は個人的に好ましかった。やりたいことも勧善懲悪を通しての成長譚でわかりやすいが、わかりやすいからこそ欠点は明確で、
『秋雨くんにとってこの作品の押しってどこなのかな?』
『もちバトルっすよ。譲れない矜持を持ったキャラ同士、手に汗握る闘いを繰り広げる。それこそボクの描きたいもので読者に読んでもらいたいとこッス』
『ハハ、それは伝わるよ。でもね、このままじゃ世に腐るほど流通する作品の類似品なんだ』
一瞬にして、彼の表情から笑みが消える。狙ったつもりはないけれど、ほぼ秘孔を突かれ破裂寸前のひゃっは~なアレみたいだった。
きっと必死に作ったプロットだったのだろう。否定されれば悔しいに決まっていた。
ただ、否定するだけなら阿呆でもできる。作品へのプラスアルファを提示できるか否かが本当に作家として必須な技量なのだと俺はその頃すでに知っていた。
つまりオリジナリティーである。
ありふれた武装での闘いとて、やり方はいくらでもある。
『必要なのは押しで他の作品に負けないこだわりだと思う。バトルならそれをどう魅せるか。あり得ない、狂ってるよってくらいの発想があれば、類似品とも異なる唯一無二になるはず』
足し算に引き算、掛け合わせる配分、主とすべき視点等々。
俺はさらさらと簡単な設定を幾つか例文として並べ、調理方法の基礎を提示する。
後に授業でも教わることではあったけれど、入学当初の彼からすれば目から鱗のようで、腐りかけた瞳に輝きが戻ったのが見えた。
『これらはあくまで最低限のやり方、実用化するにはもっと深く練り込む必要があるけどね』
『……ぱねぇッスね空さん。なんでそんなにあっさり答えが提示できんッスか?』
『答えじゃないよ、せいぜいヒントの種だね。秋雨くんも何枚か評価シートをもらえば、これぐらいにはすぐなれるさ』
こんなのは自慢話じゃない。失敗から得た経験の末の、分析の一端でしかないのだから。
評価シートの数は、そのまま非承認された回数なのだ。
真にオリジナリティーを面白さに繋げるには技術がいると思う。新しさを練り込めば練り込むほど説明が必要になり、かえって作品への没入感を阻害する要因にもなるから。
もちろんセンスのある人間ならそんな苦労などしないのだろうが、本当に面白い作品として成立させる才能があるのなら学校になど通わないし、さっさと受賞している。
『やべぇ、俺も負けてらんないッスわ。さっさとコレも書き上げなきゃ……意見あざっした』
『いいよー。がんばりな』
この頃の俺は安易にこの言葉を使っていた気がする。
それがどれだけ残酷なことなのか、深く考えもせずに。
『あ、そうだ。空さん今週末のゼミに参加します?』
『一応ね、グループ分けは講師が勝手に振り分けるんだろ?』
『みたいっすね、もし一緒になったらよろしくです』
用事が済んで立ち上がった秋雨くんが、去り際にそう言った。
彼のように自主性と協調性が備わりつつ、かつ向上心のある人間は限られている。討論も意義ある時間になるので是非一緒になりたかったが、結果その日は一緒ではなかった。
代わりに一緒になったのが当時二十五才の真冬角である。
振り分けは講師が授業態度と成績で判断し、ゼミとして成立するように行う。
重要なのが場を取り仕切りまとめる力で、社会経験の豊富な人間ほどコレに優れている傾向があるのだが、俺や秋雨くん同様に脱サラ組のはずの彼は極めて特殊だった。
簡潔に言えば傾き者だった。格好が。
バリアートの金坊主頭、色付きレンズの眼鏡、くわえパイポ、顎髭、上下スウェット、足下はスリッパでどう見てもヤンキー感丸出し。無駄に周囲を威圧するようにパイポを小刻みに揺らすばかりで無言を貫いていて、俺とは違った意味でセルフフィールドを構築していた。
五人程度で討論するゼミだが、俺以外は萎縮したのか下を向いてしまう始末。
それに苛ついたように彼は舌打ちするから、空気は悪くなる一方だった。彼とこれまではあえて関わろうと思っていなかったが、ゼミでコレではわざわざこの場に来ている意味が無い。
その日のテーマは小説におけるコンセプト造り。あらかじめ用意された簡潔例語を幾つか組み合わせて一文として成立させるというものだった。
○○が○○で○○な話、てな具合にである。
個人でもできるが、趣味嗜好の異なる多数で行うことで「その手があったか」に気付ける。発想力を鍛えるのにも役立つので、どんどん思いついた組み合わせを発言していくべきなのだけれど、発言がゼロではどうにもならない。
溜息をつきつつ時間を無駄にしたくない俺は、仕方なく進行役となるべくきっかけとなる話題を振る。いきなり主題にいかないのがミソだ。ここの生徒である以上、小説が好きという感情は誰しもにある。それぞれに好きな作品を尋ね、なぜそれが好きなのかを掘り下げさせ、同調し寄り添う発言をする。
「あ、それ俺も好きなんだよ」とか「あのキャラがやばい」とか「あのシーンのあの台詞はぐっとくる」とか。これは俺自身が相当数の作品を消費済みだからこそできる手で、加えてクラス内で〈殿上人〉扱いされている俺の方からの寄り添いは大抵の奴が嬉しいらしかった。
それは強面たる彼、真冬角も同様のようで、場が整えば主題を進めるだけである。
結論から言えばこのグループでの討議そのものには収穫はなかったが、時間と労力を費やした甲斐はあった。終えた後、彼の方から話しかけてきたから。
『今日はありがとうございます空さん。オレ……クラスの連中とこんなに話せたの初めてで、むちゃくちゃ助かりました』
『ん? ああ、そいつはよかったね。真冬くんはこういうの苦手?』
『空さんみたいにはちょっと』
『ふ~ん。まぁ人には得手不得手があるもんな』
完全に口下手な訳でもないようだ。きっかけ作りが苦手といったところなのだろう。
『本当はもっと自分からいきたいですけど、若い奴も多いし、舐められるのも嫌なんで、サジ加減を図りかねてたとこだったんです』
『そう……なんだ、だからそういう感じで』
改めて彼の風貌を眺め中々に面倒な性格をしていると思った。人のことは言えないけれど。
『ところで空さんはすでに長編小説を書き上げて投稿した経験がありますか?』
『え、もちろんあるけど』
『さすがです。ちなみに結果はどれくらいでしたか?』
『……処女作は……二次落ちだった』
『処女作は、と言うことは他にも?』
『そのあと二作品書いてどっちも一次通らず……だから基礎から学ぼうと思ってここに』
ずいぶん踏み込むなとも感じたけれど、別段隠そうとも思わない。正直に答える。
『なるほど、すでに三作品ですか。オレはまだ一作品なんでまだまだですね』
『へ~、それでも書き上げてはいるんだね。ちなみにだけど投稿結果を聞いてもいいかい?』
『三次落ちでした』
彼はニヤリと笑ってそう言った。くわえたパイポも上機嫌に上を向く。
『……へぇ、やるじゃん』
見下されたようで年甲斐もなくイラッとした。実際、比べ合うこと自体おかしな話だ。投稿先も違うだろうし、どちらの結果も結局は落選でしかないのだから。
でも、負けてられないという思いは、作品作りにこの上ない刺激になる。
予想外にできる人間の発見は、俺にとっていい誤算だった。
俺達は落選した作品を読み合うことにした。評価シートはもらっていても、読み手が変われば意見も変わる。互いに足りない物をより見つけられると思ったのだ。
そうして意見交換を後日に約束した俺達は、廊下に張り出された他グループの結果を見て回る。自分達の討議がめぼしい結果がでなかったので、正直期待はしていなかったのだが。
『っ、誰だよ……コレを生んだの』
あるグループの結果のひとつを目にした瞬間、稲妻にでも打たれたような衝撃を受けた。
小説に限らず、優秀なコンセプトはそれだけで人を惹き付ける。世に流通する商品で例を挙げればリンスのいらないメ○ット、吸引力の変わらないただひとつのダ○ソン等々。そんなシンプルかつ超絶メジャーな商品コンセプトに少なくとも俺は退け劣らないと感じてしまったのだ。圧倒的な発想力。凄さを滲ませた一文を生んだ人間が、クラスに存在している。
その事実に戦慄した俺は動かずにはいられなかった。真冬くんを置いてけぼりにしたまま教室に戻ると、該当グループにいる面々に片っ端から声をかけていく。そのどいつもが首を横に振る。誰が作ったかも覚えていないらしい。お前等正気か? 偶然の産物であっても凄いと思わないのか? 狙って生んだなら才能の塊だろうが? 刺激されなかったのか? もっと創作意欲を広げろよ、意識してアンテナ張れよ、なんの為にここに来てんだ……。
喧噪の渦中、俺の耳が消え入りそうな声を拾い上げた。
『……あの、それ、私です』
遠慮がちにおずおずとそう言ったのは、人の輪から外されて座るとても地味な女性だった。
俺や真冬くんのように距離を置かれるのとは違う、興味を持たれていない空気染みた存在。
彼女は、当時十七歳。俺、空龍成が霞彩夏と接触したのはこれが初めてだった。
『え……っと、霞……彩夏さん? 良ければこの後少し話せない?』
歩み寄ると視線を逸らすように俯かれてしまう。生真面目に胸に付けた生徒証のおかげで知れた名前を織り交ぜ訊ねるも、彼女の、彩夏の答えはこうだった。
『……ごめんなさい』
『あ、都合が悪かった?』
『……ごめん……なさい』
繰り返しそう言うと、そそくさと立ち上がり逃げようとする。彩夏には彩夏なりの言い分があっての態度だったのかもしれないけれど、こちらからすればあからさまに避けられたみたいなものだ。そして、こうなれば並の奴なら会話終了だっただろうが――
『――待って』
あいにく俺は貪欲で、彩夏の手を掴んでいた。
途端、周囲もざわめき、彼女はびくりとして振り返り、曖昧だった視線がようやく混じり合う。ほとんど初対面の異性に、これは正直出過ぎた真似かもしれないとも思ったけれど、なにもしないままよりは断然いい。
行動の果てにこそ結果は生まれるのだ。
俺に無い発想力を持つ彼女と関わらないなど、あり得ない。
『……離して……ください』
ある程度拒絶されるのは覚悟の上での行動だったが、返ってきたのは悲鳴とか殴られるなどとは遠い、想像以上に弱々しい反応だった。嫌がっているようで、そうじゃないような。
でも、どうしていいかわからないといった感じ。
『すまない。強引だよな。でも、俺、霞さんともっと話したいよ。嫌かな?』
『ッ――どうして』
『ん?』
『どうして……私なんかと』
『どうしてって……そりゃ、キミが凄いからさ。俺よりも断然ね』
『…………』
俺の言葉に、彩夏の瞳がきらきらとした驚きに満ちていく。たとえにわかには信じられなくても、嬉しくないはずがないのだ。人は誰しも承認欲求を満たしたいから。
そして、それは作家を目指す人間であればなおさらだ。クラスでの立ち位置と現状の振る舞いから、彼女がこれまでどんな風に他者より接されてきたのかが読み取れてしまう。誰にも認められない、必要とされない、それが当たり前の環境。なんと不遇でもったいないことか。
『俺、霞さんともっと話したいよ』
もう一度、同じ台詞を投げかけると、彼女は俯いてしまった。
頬にほんのりと朱が色付いた沈黙は、とても、とても長い代物で、けれど、やがて、
『私……その……男の人と話すのは……苦手で――』
『うん、じゃあ、やっぱり駄目なのかな』
『…………』
『霞さん?』
『でも……駄目じゃないです』
俺にとって明るい答えが返ってきたので、思わず小さくガッツポーズしてしまった。
と、そこにやたらテンションの高い人間が割り込んでくる。誰かと思えば秋雨くんだった。
『いやいやなんスか空さんこの超展開は、え、告白ッスか? 愛の告白が成功したんスか?』
『告白? まぁ告白っちゃ告白かな。愛もあるし』
すべては受賞作を生み出す為の創作愛である。
が、俺がそう言った瞬間、未だ手を握ったままの彼女は狼狽えだし、その場が本日最大の騒然となってしまう。最早誰がなにを言っているのかわからないほどで、ぶっちゃけうっとうしかった。
『ちょっと場所変えようぜ』
『ぇ? ぇぇ? ……あの』
目の前で真っ赤になって困惑している霞彩夏の耳元で囁くと、強引重ねの連れ出しを実行。秋雨くんや真冬くんを含め若者ばかりの端から見れば青春の一ページにも見えたかも知れないが、当の俺は酸いも甘いも経験済みの三十過ぎたおっさんである。今更青春もクソもないのだが妙に気恥ずかしさはあって、移動の間、俺は終始無言だった。
手を引いて先導する形は一緒に歩くというより連行に近かったかもしれない。彼女に振り払われなかったのは内気に過ぎる性格ゆえだろうが、この場合はありがたかった。
学校の外にあるファミレスに場所を移した俺達は、向かい合って腰掛ける。
『いきなりで本当にごめんな。ここはごちそうするから、なんでも好きなの頼んでいいよ』
案内してくれた店員さんにまずドリンクバーを二人分注文すると、謝罪しつつそう促す。
と、彼女はもじもじとしながらこう答えた。
『私……こういうトコ…………来るの初めてで……仕組みが』
『え? そうなの?』
持ち前の内気さに加えて彼女も中々に特殊らしい。育った家庭環境なのだろうか。
とはいえ、その辺りを深く追求するのは少々野暮だろう。
そもそも作家になろうとする人間は独特なのだ。俺を含めて。
『変……ですよね、だって普通は……ごめんなさい』
普通。誰もが簡単に口にし、強制されがちなその言葉。なにをもって普通なのかが理解不能だし、示されたとしてそれが正しいとはきっと思えない俺は苦笑してしまう。
『いや、別にいいんじゃない。知らないならこれから覚えればいいだけだし』
『…………』
『とりあえず、ドリンクバーを覚えようか』
彼女は黙って頷いた。俺はともかく彼女の方はあきらかに緊張していたから、まずはそれをほぐさねばスムーズな会話にならない。間を取る意味合いでも飲み物が必須だろう。
それにしても長い社会人生活を経験してきた手前、誰かになにかを教えることは多々あったが、よりにもよってドリンクバーを教えることになろうとは思いもよらなかった。
俺が選んだのはブラックのアイスコーヒー。サーバーにコップをセットし、ドリンクボタンを押せば、目当ての品が満ちていく。その様子をしげしげと見つめる彼女がなんだか微笑ましくて、続けて違うコップを準備する。今度は炭酸水を選択し、半分だけ注いだそれにレモンジュースを投入。いわゆるオリジナルジュースの作成だが、それも彼女からすれば初体験のことらしく、うんうんとしきりに頷き感心していた。
飲み物をゲットした俺達は席へと戻る。彩夏は俺の真似をしてオリジナルブレンドのドリンクを作っていた。俺と違うのはとにかく甘そうなヤツ、味わいはまずまずなのか緊張の表情が薄れていた。
どうやら雰囲気作りには成功したらしい。これで少しはまともに会話ができそうだった。
まずは雑談から。内気な性格の彩夏だが、元々中高一貫の女子校出身らしく、異性に対してもとことん免疫が不足しているようだったから、会話はあくまで俺の主導、好きな小説はなにかとか、どんな作品に影響を受けたのかとか、自分はどんな作品を作りたくて学校に入ったのかなど、その流れで俺は自分の経験値を打ち明け、かつ彼女の力量を探っていく。
小説好きなのは当然ながら、意外にも彼女はまだ自分で小説を最後まで書き上げた経験が無かった。学校に来たのは書き上げる技術を欲したかららしい。
先のゼミで生み出したコンセプトは自作予定の小説のコンセプトとのことで。現在プロットを組んでいる最中らしく、しかし思い通りに進まず悩んでいたようで――。
ならばこそと、俺は彼女に提案をする。
『ねぇ霞さん、良ければプロット見せてもらえないかな』
『え? ……でも、私の……人に見せられる状態に整理されて無くて、今まで……誰にも見せたこともなくて』
『だから、恥ずかしい?』
『……はい、それに……こわいです』
『安易な否定をするほど俺は未熟じゃないよ』
クラスの有象無象とは違うと言いたかったが、口調がキツくなって萎縮させてもまずい。
彼女自身が踏み出す妨げにはなるまいと、俺は言葉を選んでいた。
彼女は、素晴らしい原石だから。
『……でも』
『いずれ誰かに見せなきゃいけない日はやってくる、必ずね。だってキミは作家を目指しているんだろう?』
『…………』
『大丈夫。キミに確認しながら内容を把握していくから。ひょっとしたら、キミにとってプラスになる意見を提示できるかもしれない』
俺が柔らかくそう告げると、彩夏は暫し思い悩むように沈黙してしまうが、
『そうだ、なんなら俺の作品も読んでみるかい? いくつかあるんだけど、物は試しに』
そう付け加えると、まっすぐに俺を見つめ直し、これまでにない真剣な表情になる。
『……おねがいします』
そうして俺は彼女からプロットを受け取る。
ジャンルはいわゆる青春小説。彼女の言うとおりお世辞にも読みやすいプロットではなかったけれど、やはりコンセプトが優れているだけあり非常に興味深い内容だった。子細は彼女の意思を尊重して省くが、まったくよく閃いたものだと、その発想力を羨ましく思わされた。
これをどう生かすかが鍵であり、読み手に伝える技術の習得は最優先だと感じていると――
『あの……どう……ですか』
『一言で言えばヤバいね、もっと言わせてもらえるなら……狂ってるよ』
『ッ――そんな……』
『ああ、いい意味でだよ。本当さ、面白そうなんて表現じゃとても足りなくさ。俺の主観かもしれないけれど、作家にとって一番必要な才能をキミは持ってると思う』
一瞬泣きそうな顔になった彼女に、心から絶賛の感想を伝える。
彼女は「よかった」と胸を撫で下ろしていた。心底心配だったらしい。
『俺のはどうだい? その作品は二次落ちしちゃったやつなんだけど』
『まだ、全部読んでないですけど……凄いです……本当に凄いです』
『そう、かな?』
『はい、特にラストの……想いの通じ合えた相手と手を繋ぎ歩くトコは……すごくいいなと』
『はは、お世辞でも嬉しいな。ありがとう』
『ッ……お世辞なんかじゃ……でも』
『うん?』
『いえ……こんなに良くできてても……駄目なんですね』
哀しげに言う彼女の声が、なんだかとても印象深くて胸を締め付けたけど、目指すべき目標のある俺はすぐに思考を切り替える。
その後、聞き取りを実施、作者と読み手の認識のすり合わせをし、現プロットの全容を把握していく。彩夏は自分の想いを口にすることが難しいらしく、根気のいる作業だったが、苦には感じなかった。昼から始めた話し合いだったのに日が暮れていたけれど、霞彩夏の発想はひたすら刺激的で、俺の創作にとってプラスでしかなかったから。
俺にはそれが足りていないから。
ただ、この時の俺は自分の力不足も痛感していた。たしかにいくつかの見解を提示できたのだが、もっと良くできるはずで、しかし、具体案を示せない。それがどうにも悔しく、彼女には申し訳なさを正直に伝えるしかなかった。
なのに彼女は終始嬉しそうで、帰り際にはご丁寧に深々と何度も頭を下げられてしまった。
謙虚だった。年齢は違えど、俺達は同級生なのに。
――同級生……そうか、俺じゃ厳しくても……もしかしたら……。
もう何度目かわからないお礼のお辞儀をしかけた彼女の両肩を、俺はしかと掴んでいた。
『あのさ、霞さん』
『は……はぃ』
いきなりのことに目を白黒させる彼女だったが、
『今度は俺以外の複数人にプロット見せてみない?』
『空さん以外に……ですか』
途端、表情が陰りを見せた。性格上他人に作品を見せるのに抵抗があったのだろう。
『ああ、実はクラスでも結構まともそうな連中を見つけててさ、変な奴に見せるのはあれかもしれないけど、そいつらなら……今後避けて通れない道だし、一緒にがんばってみないか?』
『一緒に……ですか』
『そ、一緒にだ。嫌かな?』
『…………』
彼女は黙ってしまった。そして、それはその日で一番の、長い、長い沈黙だった。
少し急ぎすぎたかもしれないと、俺は肩から手を離し、慌ててフォローを入れたのだが、
『無理ならいいんだ。キミにはキミのペースがあるだろうし――』
『やります』
こっちがびっくりするくらい、これまでに無いハッキリとした声量で意思表示された。
落差に恥ずかしくなったのか彼女は耳まで赤くなっていたが、良い方向に転がったのなら呆気にとられている場合ではない。リードしてやるのが年長者の役目だろう。
『ふむ……ならセッティングは俺の方で進めるから連絡先交換しとこうか』
『っ――は……はぃ』
こうして俺は、後に仲間と呼べるようになる三人と接点を持ったのだ。
秋雨童夢、真冬角、そして――霞彩夏。
実際に影響を与え合い、切磋琢磨したのである。
ある時期までは……。
***
「ねぇ、センパイ。アタシには霞さんって人だけ他の二人よりやけに思い入れが偏った語りに聞こえたんですけど……気のせいですかね?」
「……気のせいだ」
「それになんか既視感があるんですよね。これも気のせいですかね?」
「……まぁ、彼女は仲間内で唯一の女性だったしな。だからって飛び抜けた才能を持つ人間と関わらないなんてもったいないだろ?」
「それは、そうかもしれませんけど」
俺がそう言うと彼女はぶすっと不満げに――。
「で、今は三人と連絡取り合って無いんですか? せっかく仲間になったんですよね?」
「うち二人とはもう一年以上会えずにいる。色々あってな」
「……二人」
「なんだ?」
「いえ、別に……色々、ですか。それ訊かない方がいいですか?」
「いや、むしろ訊いて、そして知って欲しいかな」
「知る? なにをですか?」
「人の意見を取り入れるリスクを、さ」
俺は彩夏に代わり新たな同盟相手になるかもしれない彼女に、そう言った。
言っておくべきだと思った。まだ取り返しがつくうちに。
「??? どういうことですか?」
「みはるんはまだ投稿経験が無いだろ? 仮にだけどキミが自分だけの力で書き上げた状態で投稿したとする。それで結果が駄目だったなら、悔しいだろうが自分の力不足として納得するしかないだろ?」
「……まぁ、そうですね」
「ところがだ、投稿前に俺のような相手からアドバイスを受け改稿し、それが結果に結びつかなかったらどうだ? なんとなく責任が俺の方にあるような気がしてこないか?」
「え? それは自分がその方がいいと思って手を加えるんですから、自己責任じゃ……」
「そう、自己責任だ。けど、成果に繋がらない落選を繰り返すと陥るんだよ、疑心暗鬼に。実際、俺も陥ったからな。いや、俺だけじゃない……仲間全員が……そいつを経験したんだ」
俺は持参したかつての評価シート二枚をテーブルに広げる。
現目標たる《神筆大賞》とは別の年四回開催される賞レースのそれらは、ひとつは一期開催で自分だけの力で執筆したモノ。
もうひとつは、三期開催で他者の意見を取り入れ改稿したモノ。
前者は三次選考まで通過、後者は一次落ちだった。
「…………」
それを見て押し黙る彼女に、俺は再び語り始める。
学生時代の、俺達の失敗談を。
***
俺を含めた三人は本気で受賞を目指していた。だからこそ同じ志を持つ者として高め合う為に、各々意見をぶつけ合う定期的な集いを開催するようになったのだ。
《同志会》と称したその集いでは、二つのルールを設けていた。
一つは、次回の開催までに自分なりの締め切りを作り、それに向けて努力すること。例えば新作のプロットを形にしてくるとか、原稿を十ページ書いてくるとかである。
もう一つは、守れなかった場合、なぜできなかったのかを皆に報告すること。こうすることで失敗した自己を分析させ、次に生かすようにさせるためである。
和気藹々としながらも、個の力を伸ばす努力を怠らないようにする関係性。作品をレビューし合い、良い悪いを指摘し合いながら得意な分野を伸ばし、不得意を減らし、創作のクオリティーを上げていく。
これにいち早く順応し、開花したのが秋雨くんだった。
元々社交性に富み、向上心とやる気が人一倍強かったらしく、また経験と結果の両面で俺や真冬くんに劣っていた事実が、彼の創作意欲に火を点けたようだった。
一切の遠慮を排しメキメキと実力を付けていく彼に対し、俺や真冬くんは負けてられないと対抗心をむき出しにし合ったのだが、逆に順応し切れなかったのが彩夏だった。
唯一の女性であることに加え、やはり性格面で気後れし、男性陣に比べ伸び悩んでいた。
発想力があっても形にできない、つまり文章化できない。
彼女はいつまでも処女作すら書き上げられず、《同志会》としてのルールもほぼ守れず。
一番の年長者として、そして誘い入れた手前、俺は彩夏のフォローを誰よりも多くした。
自身の作品制作はその分遅れが出るようになったが、当時の俺はそれでもコンスタントに作品を完成させて投稿できていたから、さほど問題視していなかったのだが――。
今ならばわかる。すべては俺が浅はかだったのだと。
失敗は、俺自身が招いたものだと。
きっかけとなる一件はある日の授業開始前の朝だった。
『やりましたよ、空さん。今回投稿した新作込みの三作品、全部二次突破ッス』
まだ閑散とした教室で意気揚々と話しかけてきたのは秋雨くんだった。彼はネットへのアクセスツールを持たない俺に代わって、投稿作品の現審査状況を逐一報告するのが好きだった。
俺としては最終くらいに残らなければあまり意味は無いと思っていたけれど。
『おめでとう、初の二次突破だね』
『あざーっす。これでようやくお二人に並べましたよ』
彼の言うとおり、三次選考の突破がその頃の俺や真冬くんでも為し得ない壁になっていた。
『三作品だからね、もしかしたらその内の一つはそのまま受賞ってことも充分有り得るよ』
『あは~、そうなったらヤバいっすね、いや~、結果が待ち遠しいッすわ』
『……真冬くんは残念だったよな、一作品に絞ってただけに』
同じ期の同じ賞レースに投稿した真冬くんは、二次落ちだった。
二人の作風はどちらも似ていたが、大きく異なっていたのは改稿の仕方だった。
秋雨くんは三作あったこともあり、改稿に時間をかけずほぼ初稿の勢いのまま投稿。
真冬くんは皆の意見を丁寧に作品に落とし込み、改稿に時間を割いていた。
投稿する前日には真剣勝負だと互いに豪語していたのだが……。
『勝負はボクの勝ちでしたね。ついにボクの時代到来かなぁ、あはは~』
『…………秋雨くん、嬉しい気持ちはわかるがちょっと声のトーン落とそうか』
『おっとっと、失礼しやした。朝っぱらからうるさかったですよね?』
『あのさ……俺はいいけど、他の二人にはもう少し気を遣って発言してやってくれないかな。みんながみんな、キミのように順調に成長できるわけじゃないんだから』
『えぇ~? なんすかそれ心外っすよぉ。ボク気遣いできてないっすかぁ?』
『場合と人によりけりだよ。同じ言い回しでも、捉えられ方は同じとは限らないからさ。難しいこと言ってんのは重々承知なんだけど』
『う~ん、空さんの言いたいことはなんとなくわかるんすけど――』
秋雨くんは腕組みして小声で続けた。
『それって同志としてどうなんすか? 俺達は受賞って高みを目指してんッスよね? 切磋琢磨しなきゃならない関係性ッスよね?』
『競い合うだけじゃないだろう? 戒め合い、励まし合うことだって含まれるんだ』
俺は溜息を漏らしつつスマホの辞書アプリで意味合いを見せてやる。
『おおぅ。でもですよ空さん。だったら空さんの方こそ、それ実行できてないですよね?』
『そうかな?』
『ですよ、だって戒めてないじゃないっすか。霞さんに対して。ボクからすればすげ~甘やかしすぎだと思いますよ彼女。なのに当の彼女は進歩が見えなくて、それにかかりきりの空さんだってあきらかに執筆遅れてますよね。こんなの本末転倒じゃないっすか?』
またしても声の大きくなりだした彼の反論は、的を射たモノではあった。
本来であれば今回彼と真冬くんが投稿した賞レースには、俺も参加するはずだったのだ。
叶わなかった要因が霞彩夏だと言われてしまえば、完全な否定はできず、でも人のせいにするのはそれも違う気がして、
『あの賞レースは年四回ある。俺は、より精度を上げた状態で投稿するつもりで今回見送ったんだよ。単純な誤字脱字で読み手の印象を悪くするよりもいいだろう?』
『それは理解できますけど……ボクは勝負したかったんすよ!!』
口調がさらに強まるのと同時に、授業前の予鈴が鳴り響く。いつの間にか教室には生徒が揃いつつあって、好奇の視線が否応にもこっちに集まっていて――。
最悪なのは真冬くんと彩夏がすでに自分の席に居たことである。
会話が聞こえていたのか、どちらもこっちを見ようともしていなかった。
『……秋雨くん、続きは授業後の《同志会》の集いで話そうか』
そう言ってひとまずもちこしたものの、午後に行った集いは案の定、荒れに荒れた。
その日は元々各々の次回作について話し合うつもりだった。
が、落選したばかりの真冬くんはどうしても次に進むことに踏ん切りが付かず、ならばと再投稿にむけての話し合いに切り替えたのだが、重ねて改稿するにあたり特にキャラの心理描写についてどうすれば良かったのかを検討し合うと――
『だからここは長ったらしい地の文を省くべきなんすよ。意見を取り入れたのはいいんすけどかえって勢いが阻害されちゃってますもん』
『繊細な心理描写は重要だろが、キャラの行動に読み手が共感しなくなったらどうすんだよ』
『実際の行動と台詞回しで魅せりゃいいじゃないっすか、ボクのキャラみたいに』
『このキャラはそう単純な思考をしてね~よ。好感度狙いの秋雨くんの作品と違うんだ』
『はぁ? なんすかそれ、ボクのキャラが馬鹿だって言いたいんすか?』
『誰もんなこと言ってね~だろが、人の話ちゃんと聴けや』
『そりゃこっちの台詞ッス。真冬さん落選したんでしょ、同じままで良いと思ってんすか?』
秋雨くんと真冬くん。両者の言い分はどちらも間違っていなくて、だからこそ譲れないのだろうが、必要以上にヒートアップするのは秋雨くんの言い方にいちいちトゲがあるからだ。
場合と人によりけり。
俺は自分を過大評価するつもりは無いけれど、俺と彼とではやはり違うのだ。ただでさえ厄介な気性の真冬くんは、貧乏揺すりしながらくわえパイポを噛み切らんばかりに歯軋りしていたから。ぎりぎりブチ切れずにいるのは今のやり方で結果が実際に伴っていないからだろう。
睨み合う二人。無茶苦茶険悪な空気を変えるべく俺が動こうとすると、
『……あの……いいでしょうか』
予想外にも先に動いたのは彩夏だった。恐る恐る、震える手を上げていた。
彼女が率先して意見を言おうとしている。それ事態が激レアなことだ。
成長の乏しい彼女とて、前に進んでいる。進もうとしている。それが伝わってきたから、俺は驚き以上に嬉しさがあって、だからこそあえて自分からの発言にブレーキをかけた。
まずは彼女の言い分を聞こう、そう思えた次の瞬間――
『『処女作も書き上げてね~やつは黙ってろ!!』』
冷徹な事実が、無情にも二人によって浴びせかけられてしまった。
霞彩夏の才能は素晴らしい。それは彼等も理解していたはずで、普段であればこんなことにはならなかったと思う。今回はタイミングが悪かったとしか言えないけれど……。
だからと言って俺はそれを許容できなかった。
『よし……どっちも一旦落ち着こうか』と大人の対応をしようとして、
『黙るのはてめぇ等だ、頭冷やせやボケがっ!!』
うっかり間違えてしまった……というのは嘘である。
俺も大人気なく頭に血がのぼっていたのだ。だって彼女が、彩夏が泣いていたから。
彼等の言っているように、彼女は未だ処女作すら書き上げていない。
でも、決して遊んでいたわけじゃない。必死にやってきていたのだ。なのに、こうもぞんざいな扱いを受けて、悔しくないはずがない……悲しくないはずがない。彼女という原石を見つけた俺からすれば自身を全否定されたような気さえして、到底我慢できなかった。
作品を書きあげる、それは作家として絶対必要なことだ。
でも、書き上げることで書こうとしているのに書けない人間をないがしろにしていい理由には断じてならない。口に出し、傷付けるなどもってのほかだ。
こちらの剣幕に呆然とした彼等をそのままに、俺は肩を震わせ泣きじゃくる彼女の手を取って連れ出した――このままで終わらせてなるものかと、
『霞さん、泣かないでくれ……』
『っ、空さん……私は……私は』
『キミは凄いよ。本当さ、それは俺がよく知っている、誰よりもね』
『ッ――ぐす……空さぁん……』
『見返してやるんだ、あいつらを――キミの力で』
『でも……でも……私なんか…………全然書けない私なんか……』
『大丈夫、俺が側に居るから』
俺は彼女の髪をそっと撫でながらそう言った。何度も言い聞かせるようにそう言った。
その日からは付きっきりで彼女の作品制作に取り組んだのだ。
彼女も俺に鼓舞されてか全力で、否、それすら超える想いすら感じさせ、応えてくれた。
いい意味で、狂っていた。鬼気迫るアウトプットだった。
繰り返すが霞彩夏の才能は本物だ。
少なくとも俺はコンセプトの段階で心が動き、激しく揺さぶられたのだから。
彼女に足りないのは小説として構成する技術力、それだけである。
だから、当時の俺はそれを最低限補い、完成させたのだ。
そして、およそ半年後。とある新人賞に投稿した彼女の作品は、処女作で有りながら最終選考にまで食い込んだ。後にも先にも、これが《同志会》全員の中で最大の成果だった。勢いそのままに受賞するかと思ったが、惜しくも届かず。
その選評の末文には、いわゆる問題作であり――カテゴリーエラーとあった。
それはある意味、作家にとって最高の賛辞にも聞こえる評価だった。
この結果により秋雨くんと真冬くんの態度ががらりと変わった。ちなみに秋雨くんはあの後すぐ落選し、天狗になりつつあった鼻はたやすくへし折られたのだが、ともあれようやく《同志会》の面々は真の意味で切磋琢磨できる関係になりつつあった。
目指すは受賞だった。
が、やはりそれは簡単なことではなく、俺達は幾度となく落選という挫折を、納得いかない評価を味わった。
決して読み手の心を動かせない創作物を繰り返していたわけじゃない。
それは少なからず出来て当然で、問題は程度。より大きく、より深く、さらには大勢のそれを揺さぶるモノ。たぶん、そんな作品こそが受賞を勝ち取るのだと俺達は改めて学習した。
授業でも多数のプロ講師が言っていた。それはとてつもなく難しいことだと。
人にはどうしたって好き嫌いがある。評価する人間にも好みがあるのだ。
かといって評価される側からすればその相手は選べない。
そして、万人受けを狙えば言われる内容は決まりきっている。
オリジナリティーが足りない。尖りが不足している。
主観は個性、客観は万人、解を求めて書いては落選、書いては落選。
落選、落選、落選、落選、落選……。
カテゴリーエラーとの境目、許容範囲の見定めが繰り返されるも、シートの指摘事項を皆で考え改稿しても結果は良いように振るわず、唯一最終選考まで進んだ彩夏の処女作を再投稿時にはこちらの期待は最大級のものだったのだけれど、むしろ劣化しているという指摘をされた日には再び険悪なムードにもなった。
心が死んでいく、比喩ではなくそう感じていた。
誰もが疑心暗鬼になりながらも次こそはと奮い立てたのは、皆本気で受賞したいと願っていたからだが、すり減った自尊心には限界があった。
引き際を考えさせるには条件が満ちていて、ある時、誰かがこう言った。
『もう、諦めた方がいいかな』と。
そして、それだけは、俺は認めたくなかった。
諦めたくなくて、でも無慈悲なほど結果が付いてこなくて、焦燥は俺の口を滑らせる。
『この審査員、何にも理解できてね~な』『十代読者が心から楽しめるか疑問です、だってよ』『それはお前の感性だろが、お前が十代の頃と今現在の十代を同じに考えるんじゃね~よ。世の中が変わってね~とでも思ってんのか、調べてんのかよ、胸に抱くものを。楽しむの定義を間違ってんじゃね~よ、共感の意味をはき違えてんじゃね~よ。もし調べてこれなら、むしろ創作に携わる人間として終わってる。現に前回の受賞作品は古い作品の陳腐なオマージュだ』『売れるとでも思ってんのかあんなのがよ』『はっ、案の定売れなかったし、感性が腐ってんじゃね~のか』『笑わせんなよ、この受賞作より断然俺のが出来いいっつ~の』『脳みそが緩んでんじゃね~のか?』『簡単に悟ってんじゃねぇよ』『偉そうな講釈しやがって』
滑るどころか壊れていたかもしれない。実際はこんなものじゃないから。
何十、何百、何千と、真摯さとは程遠い罵詈雑言を吐き出していたから。
ただ、評価者に対し向けたはずの剥き出しの罵倒は、俺達自身にも当てはまるところがあったとは思う。最年長者としてまとめ役だった俺がそんな風に格好悪く病み始めたから、雰囲気は悪くなる一方で。
そうして皆、書くペースが落ちていき、やがて、たとえ書き上げても見せ合わなくなっていった。なにが正解なのかわからなくなって、好きでやっているはずだったのに執筆がどんどん嫌いになってきて、地獄だった。
そして、俺達は卒業した。
暫くはそれでも定期的に集っていたが、生活の為には収入が必要で、両立させるのは簡単ではなくて、成果の出ない創作のモチベーションを保ち続けられず。
ひとり、またひとりと、いつしか疎遠になっていった。
あいつらは、作家を諦めたのだろうか。今の俺には、知るよしも無いけれど……。
***
「とまぁ……話は若干逸れたけど、作品の劣化及び人間関係のトラブルのリスクがついて回るってことは理解できたかな」
ひとしきり語り終わったとして俺は、日那さんに向かってそう訊ねた。
が、当の彼女はこれでもかというくらいふくれっ面で、
「リスク云々は正直ど~でもいいです」
「いや、どうでもよくないだろ」
「どうでもいいんです。それよりアタシにとってはもっと重要なことがあります」
「……なに?」
「二人の仲間と疎遠になってると言いましたよね?」
「……言ったよ」
「じゃあ、ひとりはまだ繋がりを持ってますよね」
「…………」
「霞彩夏」
口を噤んだ俺を日那さんはぎろりんちょと睨んで、その名を告げた。こわい。
「《同志会》唯一の女性……センパイにとって、その人はただの仲間じゃないですよね」
「っ、なんでそう思うんだ?」
「なんでもなにも、あの語りを聴かせられて特別じゃないなって思える女は鈍感を通り越して阿呆ですよ。普通はいませんッ」
なんなんですか? と日那さんはテーブルをばしんと叩いて、それから詰め寄ってくる。
至近距離で見つめ合う。首を背けようとしたら、小さな両手がしゅしゅっと伸びてきた。
むりやりがっしりほーるどである。こらこら、俺センパイですよ?
「ちゃんと答えて下さい、センパイ。誤魔化せると思ってるなら甘いですよ?」
「……ひゃんとほたえるはらはにゃえてふえ」
潰れ顔のままそう言ってやると、通じたのかひとまず解放してくれた。
ただ、縫い付けるみたいな睨みは絶賛継続中で、どうやら逃げられそうになかった。
答えを明確にするべき頃合いなのかもしれない。
「――――――――」
俺は深呼吸をしてから、ひた隠しにしてきた事実を明かした。
俺が小説をまともに書けなくなったこと。そんな俺でも彩夏が頼ってくれたこと。
お互い受賞を諦めきれなかったこと。作家として認められたかったこと。
そうして結んだ、俺が結ばせた同盟関係のことを。
「前にメイドカフェであった女性を覚えてるか、アイツが霞彩夏だよ」
「……そう、だったんですか」
一通り話し終えると、日那さんはなにかを考え込むみたいに俯いて。
ひょっとしたら俺の格好悪い現状に落胆させてしまったのかもしれないと思案するも、
「思ってたのと違いました、だったら問題ないです、かね?」
納得したのか、してないのか、あきらかな愛想笑いを浮かべてそう言った。
がっかりさせなかったのは純粋に良かったけれど。
こっちからすれば実際には問題しか無いのだから、溜息しか出てこなかった。
「問題なら大有りだよ、みはるん」
「なにがですか? 同盟でとりあえず作品を創れてるんでしょ?」
「本当に一緒に創れているんだったらな」
「創れて、ないと……」
「ああ、元々偏った創作比率で素直に胸を張れなかったが、最近じゃ俺の必要性すら失われてきてる。彼女には……霞彩夏には……空龍成は不要になりつつあるんだ」
「……それ、本人に言われたんですか?」
「いや、まだだけど……あの圧倒的な完成度の原稿を見れば、嫌でも感じてしまうんだよ」
「そんなに、凄いんですか?」
「アイツは……天才だよ。俺とは……俺なんかとは違ったんだ」
「…………」
なにも言えずにいる後輩の前で、いつしか頼れるセンパイとしての見栄は剥げ落ち、素の自分になっていた。求められたい、その欲求だけが、だらしなく漏れ出ていく。
「作家としての霞彩夏に、空龍成はいらない」
「…………」
「キミはどうだ?」
「え?」
「日那美春には、俺は――空龍成が必要か?」
「……ずるいですね、センパイ。ずるすぎですよ」
力無く微笑みかけると、彼女はなんだか泣き出しそうな声になって。
それでも、そっと俺を抱き締めてくれた。
日那さんの言うとおりである。俺は、ずるい大人だった。
癒やしを感じていた。柔らかな温もりにすべてを委ねていた。
これでいいのだ。俺はそう思っていたが、彼女は、日那美春は――
刹那後、これでもかと俺の左頬をひっ叩いた。
「痛っ――ぇ……ぇええ!?」
「なんで叩かれたかわかりますか? 曖昧にするからです。アタシ言いましたよね? ちゃんと答えて下さいって。誤魔化すなって」
「別に誤魔化してなんか――」
「してます。どうして答えを相手に委ねようとするんですか?」
言い返せなかった。まったくもってその通りだったから。
目の前の日那さんにしても、アイツにしても。
「センパイは逃げてるだけです。臆病になっているだけです。たしかにセンパイは数多くの苦悩と挫折を味わったのかもしれません。それは、創作者として駆け出しの、書けなくなる恐怖を経験していないアタシなんかには到底理解できない痛みだったのかもしれません。でも、センパイはそれでも、まだ受賞を諦めたくなかったんでしょ? 受賞を狙う上で相棒となる誰かが必要だったんでしょ? だったら自分から掴みにいかなきゃ駄目じゃないですか!! 相手に……答えを委ねちゃ……駄目じゃないですかぁ……」
日那さんは瞳に溢れんばかりの涙を溜めてそう言った。零すまいと必死に堪えながら、でも堪えきれず頬に伝う涙は、俺の心を容赦なく抉ってくる。
彼女の言う通りである。そして、なにを選ぶのかは俺次第だった。
「センパイはずるいです。でも、アタシは……アタシは……」
「……みはるん」
ぼろぼろと泣き崩れる彼女の涙を拭ってやろうとして、首を強く振られた。
今欲しいのは、そんな上っ面の優しさじゃないと、態度で示されてしまう。
否、欲してさえいなかったのか。
「センパイは……空龍成は……どうしたいんですか?」
それはいつか俺が彼女の背を押した台詞だった。
一回り以上も年下の女性にここまで言われて、まだ逃げ続けるのか?
誇れる自分になりたいんだろ?
「俺は――」
そして彼女に、この瞬間に抱く想いを告げる。
俺、空龍成は、この日の選択を一生忘れないだろう。
たぶん、人生最大の過ちだったから。
***
同盟を結んで以降、俺は彩夏と二人で出かけたことが無い。
専門学生の頃は《同志会》の集いの一部として執筆道具を持ち寄りながらの食事会などもあったけれど、話し合う都合を付けやすくする為に一緒に住んでしまってからはそれも不要になっていたのだ。
なのに、今、俺は彼女を避けているのだから本末転倒とはこのことだ。
最近まともに会話しただろうか。アイツはしゃべりたくないわけじゃない。ただ、話すのが苦手なだけで、思っていることだって、伝えたいことだってしっかりとあるのだ。
そんなのは学生時代に知っていたはずなのに。いい大人のくせにちゃんとすべきだった。
逃げている場合じゃない。なんの為にこうしているのかを考えろ。
なによりもまず、俺は、彩夏と話すべきだった。だから――。
「ただいま」
部屋に帰宅し、中を見渡したのだが、もうひとりの住人たる彩夏の姿は見当たらなかった。アイツがバイト以外で部屋を空けるのは珍しい。定位置たる椅子は空席で、ワープロも起動していなかった。
「出かけたのか……一体どこに」
固定電話でコールしてみると、室内から着信音が聞こえてくる。
音を頼りに探してみれば、彼女のスマホはソファーの上に放置されたままだった。
コンビニにでも行ったのだろうか。置きっぱなしにするくらいならそう遠くには……。
と、不意に彼女のスマホが震えた。LINEのメッセージ通知らしく、詳細を見るつもりはなかったのだが、ついロックされた画面を注視してしまった。
驚きさえあった。差出人が旧知の人間だったから。
「ッ――真冬……角? なんで?」
すっかり疎遠になっている《同志会》のひとりの名を、俺は呟かされていた。
いや、少し考えれば別になにもおかしくはない。元々俺達四人は連絡を取り合っていた仲なのだ。現状集うことがなくなっていても、連絡はしようと思えばできる。俺が連絡を取り合っていなかっただけで、もしかしたら彩夏はこまめにしていたのかもしれないのだから。
真冬くんの方だって未だ執筆を継続していて、意見交換を求めてきたとしてもなんら不思議なことではない。むしろそうだとしたら、喜ばしい話じゃないか。
「…………っ」
なのに、胸の奥がざわついてしまうのはなぜだろう。
その場に留まっていられなかった。大人しくしていられなかった。
俺は訳がわからぬままに部屋を飛び出していた。
ただ、無性に彩夏に逢いたかった。彩夏に会って話したかった。
――ったく、俺はどんだけ身勝手なんだよ……。
近所のコンビニを見て回るも、彼女の姿は無かった。だとすればどこに。他に行きそうなトコロなんて。日野駅周辺を目星すら付かないままに走り回っていた。行き交う人目など気にしている余裕など無く、俺は今更ながら、彼女のことをなにも知らないのだと気付かされた。
半年も一緒に住んでいながら、好きな食べ物も、息抜きの趣味も把握していない。創作に直接関わること以外、ちゃんと知ろうとしていなかったのだ。まったく、怠慢にもほどがある。
アイツは、霞彩夏は、俺にとって大事なパートナーなのに。
――本当に、それだけか?
「彩夏ァアアアアアアアアアアアアアアアアアア――」
ほとんど無意識に叫んでいた。何度も何度も、叫んでいた。
端から見れば超絶アブナイ奴だったろうが、知ったことではなくて、すぐ近くに交番があったけれど、気にしてなどいられなくて、こうせずにはいられなかった。
我ながらなにやってんだとは思ったけれど、どれだけ格好悪くても関係無い。
喉が枯れるくらいにその名を呼び続けていると、不意に腕を引かれる感覚を覚えた。
「……なにして……るんですか」
消え入りそうな声がして振り向けば、見慣れない女性が立っていた。
こちらを直視せず、ちらちらと窺うようにする仕草はどことなく見覚えがあって、
「あ、すみません。俺、人を――探して、て……」
それが見覚えどころの話ではないことに、ようやく気付く。
「彩夏?」
探し人としてすぐに認識できなかったのは、彼女の容姿が劇的に変化していたから。
眼鏡無しだけならここまでラグらなかったと思う。あんなに長かった髪がバッサリ切られており俗に言うミディアムボブ、毛先を少し遊ばせたスタイルで垢抜けた雰囲気を纏っていて。
世辞抜きに美人だった。素材が良いのはわかっていたけれど、まさかここまでとは。
暫し見蕩れていると、視界の端で騒ぎを聞きつけたお巡りさんが駆けてくるのが見えた。
このままではまず間違いなく職務質問されるのは見えていて、面倒事は御免な俺はろくに説明も無しに彩夏の手を握ると、強引に走り出す。
「行こう」
「え? えぇ?」
駅の改札を抜け、階段を駆ける。四十前の若作りしたおっさんが、本当に若くてお世辞抜きに綺麗な女性を連れ回す図は、なにも知らない第三者からすればコメディ的だったのか犯罪的だったのか若干気にはなったけれど、すぐにどうでもよくなっていた。
彩夏が俺を見ていたから。息を切らす彼女の瞳は困惑し通しだったが、口元には微かな笑みを浮かべていた気がする。いきなり始まった逃亡劇にして連行劇は彼女にとっては楽しげなようで、丁度ホームには下り電車が停止していた。
発車寸前の駆け込み乗車。ドアが閉まる。発車する電車。追ってきていたお巡りさんの声が遠くなる。息切れしたまま見つめ合う俺達。それがなんだか古いドラマのワンシーンみたいで可笑しくて、俺と彩夏は腹を抱えて一緒に笑っていた。
こんなにも彩夏が笑ってくれたのは、初めてだったかもしれない。
「座ろっか」
「はい」
そして、並んで腰掛ける。こんな風に二人で電車に乗るのも初めてだった。
「お酒の匂い……今日も飲んできたんですか?」
「ん? ああ、少しだけね。俺酒臭い?」
「いえ、大丈夫です。そうじゃなくて……ちょっと……気になっただけで……」
と、彩夏の表情がなにやら陰り、俯いてしまった。
イメチェンこそしたものの、ハッキリと言わない物言いはいつものままらしい。
でも、だからといって、こっちはいつも通りでいるわけにはいかなかった。
俺は彩夏と、ちゃんと話し合わなければいけないのだから。
「髪、切ったんだな。最初誰かわかんなかったよ」
「あ……はい……変、ですか?」
「変じゃないさ。すごく似合ってるし、可愛いと思う」
「っ――――」
彩夏は俯いたままだったけど、照れているのはすぐわかった。首元まで真っ赤だったから。
「でも、ずいぶん思い切ったじゃないか? 何か心境の変化でもあったのか?」
俺がそう言うと、暫し沈黙が訪れる。彼女らしい長めの沈黙だったが、
「……変わりたかったんです、私。このままじゃいけないと思ったから」
やがて彼女はそう言って、俺をまっすぐ見つめてきた。
その胸の内は相変わらず読み取れなかったけれど、変わりたいのは俺も一緒で――。
変わるべきは、今だった。
「「あの――」」
と、俺達の声が重なり合い、同時に大きく車内が揺れる。
彩夏がバランスを崩しもたれかかってきて、俺がそれを腕の中で受け止める形になった。
早鐘のような心臓の鼓動を感じる。彩夏のものだ。彼女の身体はすごく華奢で、強く抱き締めたら壊れてしまいそうで、それでも壊れるくらいに抱き締めたい衝動に駆られてしまう。
「ご、ごめんなさい」
「え? いや、別に」
彼女に離れられて、我に返った俺は頭を掻いていた。目的を忘れてどうするのだと、改めて切り出そうとするも、今度はくぅ~っと珍妙な音が場に響いた。空腹を知らせる腹の音。ちなみに俺のじゃなくて、彩夏がお腹を押さえて再び俯いてしまう。
「ごめんなさい」
恥ずかしいのか眼を合わせようともしなくて、その様子が微笑ましかったけど。
いい機会でもあった。彼女を知ることが、俺には必要だったから。
「ははは。じゃあこのままどこか食事ついでに、でかけようか。デートしようぜ」
ちょっとチャラついた台詞になってしまったけれど、あまり堅苦しいのも性に合わない。
彩夏はYESともNOとも応答せず、只々目を丸くしてこちらを見ていた。
***
八王子駅で降りた俺は、彩夏をエスコートする。
連れて入ったのは、駅ビル地下のチョットこ洒落た洋食店。これは彩夏の好物がエビフライであることを訊いたからのチョイスである。丁度客入りのピークなのか中々に混み合っていたが、タイミング良く空きが出来たので待たずに席に着くことが出来た。
案の定、馴れていないのか彩夏は借りてきた猫のような状態で固まっていたけれど、お目当ての品がテーブルに運ばれてくると子供のように目を輝かせていた。
非常に大振りで迫力満点のエビを贅沢に使用したエビフライに対抗し、俺が選んだのはビーフシチュー。じっくり煮込んだ塊肉がごろごろ入った肉好きには堪らない一品である。
食後にはデザートかと思いきや、彼女の方から意外な一言が飛び出した。
「今日は、私と飲んでくれますか?」
「へ? いいけど」
注文したのは赤のボトルワイン。これも彩夏のリクエスト。普段はまったく飲まない彼女だが、今日はチャレンジしたいらしく俺も彼女に合わせる。いつもはビールしか飲まないのだけれど、食後だし、たまには悪くない。
八十年代の洋楽が心地良いサウンドを刻む空間で、俺は彩夏とワイングラスを傾ける。
俺が他愛の無い話題を振り、彩夏が頷き、たまに微笑む。
それは俺が彼女と過ごしてきたこれまでを含め、初めて創作を抜きにしていた時間だった。
ただ、お互い空気を読んでいたんだと思う。核心に触れない会話をし続けていたから。
でも、いつまでもそればかりではいられない。
「龍成……さんは」
「ん?」
「どうしてさっき、あんな真似を?」
少し酔っているのか、とろんとした眼差しの彩夏が切り出してきた。
「あんな真似って――ああ、日野駅前でのこと?」
彼女の疑問はもっともだった。しかし、なんと答えればいいのだろう。なにかうまい言い回しは無いものかと頭を回しかけて、考えるのをやめた。
今日はちゃんと話す、その為にこうしてここにいるのだからと、嘘偽りなく答える。
「キミに会いたくて仕方がなかったんだよ」
馬鹿正直に、どストレートに告げたのだが、直後に猛烈な恥ずかしさが込み上げてくる。シチュエーションのせいだろうか、それとも普段飲まないワインのせいだろうか。どちらにしても一度告げてしまった言葉は、しっかりと彼女の耳に届いてしまったようだ。
彼女の肌という肌が、もう火が出るんじゃないかってくらいに赤く染まると、
「ちょっと……失礼します」
自分で空グラスにワインを注ぎ入れ、一気に飲み空けてしまう。
「お、おい――そんなにぐいぐい飲んで平気かよ」
「全然いけます」
珍しくもハッキリとした口調でそう言われてしまった。酒、強いんだろうか? 倒れたりしないだろうなと、一瞬心配になったけれど――その心配は一瞬の後、現実のものになった。
彼女が電池の切れた玩具みたいに、へにゃりとうつ伏せになってしまったのだ。
慌てて近寄ると、酔い潰れたらしき彼女が幸せそうな表情でこう口にする。
「嬉しいです、なんだか……夢みたい」
「はぁ、まったくしょうがないな」
どうやら、ちゃんと話せるのは明日以降になりそうだった。
決意が空回りしてしまった感が拭えないけれど、会計を済ませた俺は、彼女を背負うと帰路につく。時折彼女はなにやら寝言を口にしていたが、その多くは俺達の作品について関係のある単語ばかりだった。キャラの台詞、設定の使い方、描写手法、全体の文章構成など夢の中まで毒されているのだから、すっかり重度の作家病に侵されていると思う。
それが、はたして良いのか、悪いのか。今の俺にはわからないけれど。
ただ、わかっていることは――。
「俺にとって霞彩夏は大切なパートナーであるってことかな」
帰宅した俺はそんな風に独りごちつつ、彼女を抱きかかえるようにしてベッドへと運ぶ。起こしちゃ可哀想なのでそっと寝かせようとすると、
「それだけ……なんですか?」
不意に首元に腕が絡みついてきた。バランスを崩した俺はベッドに倒れ込んでしまう。
押し倒してしまったような体勢で硬直していると、閉じていた彩夏の目がゆっくりと開いた。
「彩夏? 起こしちゃったか? 悪い、すぐ退くから」
「嫌です、行かないで下さいっ」
慌てて身を起こし離れようとするも、彼女の絡んだ腕は放してくれなかった。
逃げることを、許されなかった。
「龍成さん……私は……そんなに魅力がありませんか?」
「魅力って、なに言って――いきなり、そんなこと」
「私を……私だけを……もっと見て下さい」
潤んだ瞳から、涙が一筋零れ落ちる。
俺はなにも言えなくなっていて、思考が追いつかなくて、
「それが駄目なら、せめて、どうか、私の不安を……今だけでも取り除いて――」
「――――ッッッ!?」
彼女に、強引に、唇を重ねられていた。お世辞にも上手とは言えない不器用なキス。だけど純粋で、離れたくないという想いを感じさせるには充分すぎた。
なんで、どうしてこうなった? あの内気な彩夏が、こんな真似をするなんて。
柔らかくて熱っぽい感触、想像すらしていなかった現実が、俺から理性を奪い取っていく。
いつしか俺は彼女の拙い主導を奪い取っていた。
唇に吸い付き、舌をなぞり、彼女を味わった。彩夏の吐息が触れてくるたび途方もない興奮に襲われる。彼女をもっと感じたくて、俺の手は彩夏の女に触れ返す。
「龍成……さん、やっと……私に……」
声が甘さを帯びる。彼女は待ち望んでいたのだろうか? こんなこと絶対にしちゃいけないと思っていたのに。異性として意識しては駄目だと思っていたのに、彼女の緊張と、羞恥と、快感が混ざり合ったそれは、俺の男としての琴線をこれ以上なく刺激する。
服越しの撫で付けじゃ足りない。服を捲り、まさぐる。病的なくらいに白い肌が火照っている。最後の砦たる下着は純白で、清楚な彼女によく似合っていた。
嗚呼、もう、我慢なんかできるものか。
いつ以来だろう、すっかり錆び付きかけていたはずなのに、俺の手は密着状態であっても彼女から巧みに服を剥ぎ取り、肢体を貪り始めた。
ぞくぞくした。完全に押し倒した彼女から漏れる声が、さらに甘く切ないそれになる。彩夏が身を仰け反らせる。強弱を付け、舌を滑らせ転がすたび、彼女の声も艶のある色になる。
どこか泣いているようにも聴こえるそれは、俺を堪らなくさせた。
暗がりの中、彩夏は眼を閉じていた。今、この瞬間に身を任せきっているようだった。
嬉しいのだろうか? 気持ちいいのだろうか?
本当にこれが、彼女が求めていたことなのだろうか?
彼女は不安を取り除いて欲しいと言っていた。今だけでもと。
そんなのは勘違いだ、キミが望むなら、いつだって俺は………。
俺にとって、霞彩夏は特別だった。だからこそ彼女との距離感には常に迷いがあった。
不安だったのに、不要なんじゃとも思っていたのに、しかしその彼女に求められている。
認識で興奮が加速する。彩夏の身体がびくりと強張ったのが伝わった。
「龍成……さん」
彼女がそう言った。ほとんど涙声になっていて、恥ずかしいのか両手で顔を隠していた。
「大丈夫だよ」
俺は彼女を抱き寄せ、耳元でそう答えた。
自分で言っておきながら、なぜだかとても空虚な言葉だった。
大丈夫? 一体なにが大丈夫だというのか。
答えの出ない思考に心の中で舌打ちしつつ、一際大きく捩れしがみついてくる彩夏には、より大きく強い快感を与えたくもなって、ついに悲鳴に近い声が上がった。
俺の腕の中で、びくん、びくんと跳ねる彼女を、俺は暫く眺めていた。
そして、思ってしまう。もっと、乱れさせたいと。
「彩夏……ごめんな」
欲望の謝罪が耳に届いていたのかはわからなかった。
軋むベッドの上で、思考を焼き切りそうな快楽の狭間で、表情を華の一生のように色鮮やかに移ろわせる彩夏。俺の動きに合わせて、彼女が信じられないくらい乱れていく。
眼前にある艶めかしい光景、それを創っているのは俺だ。彼女のすべてを、自分がコントロールしている。あの霞彩夏を、俺より遙かに才ある女を――俺が、空龍成が支配している。
そんな錯覚にいつしか陥っていた。愉悦に浸っていた。
もっと、もっとだ。もっと俺に見せてくれ、もっと俺に聴かせてくれ。
「りゅう……せい……さんっ」
「ッ、あや……か」
カラダが燃えるように熱くなり、半端じゃない達成感で満たされていく。
そうして彼女が一際強く俺の名を叫んだ瞬間、ついに、俺は――。
***
昨晩は完全に理性が飛び、とてもじゃないがここでは言い表せないほど濃密なひとときを過ごした。仮に、小説としての分量でなら42×34の設定で約十ページぶんくらいは出版コード的にアウトなシーンを繰り広げていたと思う。
が、その甲斐あってかここまで清々しい朝は、寝起きの気分が最高なのは随分と久しぶりな気がして身体を起こすと、隣で寝ていたはずの彩夏の姿が無かった。
シャワーの音がする。どうやら先に起きて一足先に浴びているらしい。どうせなら寝起きの彼女を眺める朝を迎えたかったが、そこまで贅沢を言うつもりはない。
昨夜は彼女と話し合うはずだったのに、とんだことになったものだと改めて思う。
しかし結果的に、話し合いより濃密な時間を過ごせたことは、俺に自信を与えてくれた。
空龍成は、霞彩夏に求められている。彼女には、俺があらゆる意味で必要なのだ。
同盟解消の不安を払拭されニヤけながら周囲を見渡すと、脱ぎっぱなしだったはずの衣類が丁寧に畳まれていた。彩夏がしてくれたのであろうそれを着直すと、ひとまず一服に向かう。
考えてみれば昨日はまともにタバコを吸えていなかったから。
キッチンの換気扇前で火を点け、煙を肺へと送り込み、吐き出す。ああ旨い。こんなに旨いタバコもずいぶん久しぶりだった。心にゆとりが生まれると、こうまで違うものなのか。
と、聴こえていたシャワーの音が停まり、暫くしてドライヤーの音に変わった。
どうやらもうすぐ出てくるらしい。
俺はタバコを吸い終えると二人分のマグカップを準備し、コーヒーを淹れる。
俺はブラック、アイツは甘党だから砂糖とミルクを入れたもの。そうして部屋の作ったコーヒーを部屋に運ぶと、丁度彩夏が戻ってきた。
おずおずと、俯きがちな感じはいつも通りだが、今日の彼女は一際色っぽかった。
湯上がりの彼女を見るのはこれが初めてじゃないはずなのに、イメチェンの効果だろうか、それとも昨夜の体験のせいだろうか、ともあれ、見ているこっちとしては、堪らなくて、
「おはよう、彩夏」
俺はすぐさま抱き締めていた。彼女の髪から香るシャンプーの匂いは普段使っているもののはずなのに、なんでこんなにも俺を昂ぶらせるのだろう。
「おはよう……ございます」
腕の中で、彩夏が戸惑ったように言う。
「コーヒー淹れたけど、飲むだろ?」
「……はい、いただき……ます」
俺は彼女を解放すると、彼女は案の定真っ赤な顔をしていた。
それがどうしようもなく愛おしくて、俺は彼女の唇を強引に奪う。
「――――ッ!?」
目を白黒させる彩夏だったが、それでも、嫌じゃないのかされるがままだった。
二度、三度、まだ足りなくて、もう一度、しかし、かえって気持ちが膨らんでいく。
まったく、本当に、いい歳してなにやってんだと思った。
「……コーヒー……冷めちゃい……ますよ?」
キスの合間に困ったような声で彩夏が言う。
その通りだったけれど、俺は自分を抑えきれなかった。
「コーヒーより彩夏が欲しくなった」
我ながらとんでもないことを口走る。これじゃ盛りの付いた若者と大差ない。
彼女はなにも言わなかった。ただ、その瞳は潤んでいて、俺は彼女をソファーに押し倒す。
せっかくシャワーを浴びたばかりなのに、俺は再び彼女を汚していった。
彩夏を抱きたい、それしか考えられず、すぐさま理性は飛んでいた。
訪れる快楽の波、情動に身を任せて、どれくらい経っただろうか。
喉の渇きを感じ我に返ると、俺はソファーでぐったりしていて、いつのまにか彩夏は着崩した身なりを整えていた。気のせいだろうか? 表情はとても暗いものに見えて、
「……龍成さん」
不意に彼女が俺を見る。
「ん?」
「コーヒー……ブラックをもらってもいいですか?」
普段は飲まないそれを飲みたがる彩夏が不思議ではあったけれど、拒むほどではない。
「いいけど、飲めるの?」
彼女は応えず、俺が飲むはずだったものに口を付ける。
「――っ」
案の定、苦かったのだろう、表情が渋いものになった。
「甘いヤツと変えても良いぞ、ブラックは俺が」
そう告げるも、彼女は首を振ってゆっくりと飲み続けた。そして――。
「やっぱり……冷めちゃいましたね。ちょっと……残念です」
彩夏は苦笑する。ただ、影のあるそれはとても寂しげで、なのに普段より大人びて見えた。
「チャレンジしたいなら、また淹れてやるさ。今度は温かいのを飲むといい」
俺は残った砂糖とミルク入りに口を付ける。
やっぱり冷め切っていた無駄に甘いコーヒーは、乾いていた身体に染み込んでいった。
「ひとつ……聴いてもいいですか?」
と、マグカップを持ったまま、ソファーにもたれた彩夏が改まったように尋ねてくる。その視線はこちらではなく、なにも置かれないテーブルの上にぼんやりと投げ出されていた。
「以前、ここに……封筒に入っていた小説があったと思うんですけど」
「ああ、アレは――」
彩夏が言っているのは日那さんの作品だとすぐに気付いた。あの日から昨夜まで彩夏と話すのが気まずかったから、色々説明を省いていたとも思い出す。関係が良好となった今、いい機会だと思った俺は答えることにした。
新たな同盟、保険にしようと考えていた点までは流石に言えなかったが。
「職場に作家を目指してる後輩が居てさ、ソイツのなんだ。そういや俺が書いたんだと思ってたんだっけ? 違う違う――だって全体的に拙かっただろ?」
「ッ……そうですね、そうだったかもしれません」
一瞬だけ落胆に近い表情を垣間見せた気がした。気のせいだろうか。
「最近、ソイツの原稿をちょくちょくチェックしてるんだ。面白い作品なだけにあのままじゃもったいなかったし、向こうも完成度を上げたがっていたから、ほら、昔俺達がやってた《同志会》みたいな感じでさ……」
やはりぼんやりとしたままの彼女にそこまで告げて、新たに思い出したことがあった。
「そういえば、彩夏、最近連中と連絡取り合ってる?」
と、彩夏が俺の方に振り返り、首を傾げた。
「連中って?」
「ほら、《同志会》の奴らだよ。秋雨くんと真冬くん」
「ああ……ええ、たまに……原稿のレビュー……してもらったり……いけませんでしたか?」
「そういうわけじゃないんだけど、ただ、見せるなら俺にも一声欲しかったかな」
「…………」
「彩夏?」
首を傾げたままの彩夏が、暫く俺を見つめて沈黙した。
なぜか妙に重苦しい雰囲気だったが、
「龍成さん、最近ずっと私を避けてたから……機会が無かったんです。ごめんなさい」
どうやら俺のせいだった、らしい。
「そうだったのか。いや、だったら謝るのは俺の方だ。全面的に俺が悪い」
「…………」
「ごめんな、本当にごめん。これからはもっと、ちゃんと話し合おう。約束だ」
「……はい」
そう返事をした彼女が今度は悲しげな眼差しになる。なんだろう。ようやく通じ合えて理想的な関係になったと思っていたのに、どうしてそんな顔をするのだろう。
俺が胸の内が読み取れずにいると、彼女は不自然に勢いよく立ち上がる。さらにマグカップに残るブラックコーヒーを飲み干し、渋い顔つきで、
「原稿……仕上げちゃいましょうか。あと少し……ですから」
それでも口元だけは微笑んでそう言った。
誰だって嘘を吐く。本心を曝け出したところで受け入れてもらえるとは限らないから。
それがわかっていながら、なお相手のすべてを理解したいと思うのは傲慢だろうか?
もし、あの時、それが叶っていたのなら、あんな結果にはならなかったはずなのに。