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第一章 誇れない手段

 自分にとって、もっとも大切な物はなにか?

 価値観でいくつにも分かれるその答えは、きっと人の持つ欲求によって左右され、そして、多くの場合、一つに絞れず答えられなくなるだろう。

 しかしこの命題に対して、俺は揺るぎなく即答できる人間だった。

 過去形になってしまうのは、今は迷っているからだ。

 大切であっても、手に入らないことだって世の中にはあるから。

 欲しくて、欲しくて堪らないのに、ひたむきに努力しても手が届かないと身を持って痛いほどに知ってしまうと、どれだけ頑なであっても迷いは生まれてしまうから――。

 だから俺は、今ここにいる。

「いらっしゃいませ~いらっしゃいませ~いらっしゃいませ~いらっしゃいませ~。本日は、ご来店、まことに、まことにっ、ありがとうございま~す」

 東京都、八王子市。駅西口より徒歩五分の場所にある大きなビジネスビルの一画で、俺は素なら絶対に出さない陽気に過ぎる声でマイクパフォーマンスしていた。

 目映い照明の店内には次々と入店してくるお客様。老若男女の人波を、ド派手にお出迎えるのは爆音のミュージックに合わせて踊るバニーガール。エロティックな深紅のレオタードに収まりきらないわがままな胸とお尻は「特別なんだからもっと見てよ」と揺れながら主張していて、俺もつい優雅な曲線美を鑑賞してしまう。

 と、素敵な瞳と眼が合った。ノリに合わせてふりふり手を振ってみると、バニーさんは太陽だってデレちゃうような眩しい笑顔で投げキッスを飛ばしてくれた。

 いやん、素敵。こんなウサギさんなら飼ってみたいね。心が癒やされるに違いないよ。

 最近どうも病み気味だからなぁ。

「いや、見過ぎですって……センパイ」

 インカム越しでも不機嫌だと一発でわかる声に振り返れば、同じフロアの離れた場所から小学生みたいに小柄な女性がジト眼でこっちを見ていた。

 日那美春、二十歳、腰まである長いポニーテールが似合うバイト一週間目の後輩である。

「欲求不満なんだよね、最近の俺」

「うわ、その発言、正直ヒキます。ちゃんと仕事してください」

「仕事ならしてるって、バニーさんのテンションをアゲアゲにしてホールを盛り上げて」

「……お客様の呼び出しランプ、ペカリまくってるんだからやるべきことはそっちでしょ」

 言われて見やれば確かにコールランプが三つ四つと明滅している。持ち場の巡回及び接客対応はホールスタッフの第一優先の仕事である。

 そう、俺は絶賛仕事の真っ最中だった。何のと、問われればパチンコ店のである。

 特日の今日は、集客目的のイベントガールを呼んで店全体を盛り上げているのだ。

「了解。ってか、むすっとしないで日那さん。ほら、お客様に失礼だよスマイルすま~いる」

「あのですね、アタシがなんでこうなってると思ってるんですか?」

「はっは~、さてはキミもバニーガールの衣装を着たいんだね? たしかにアレ素敵だもん」

「き、着るわけないでしょ、あんなの」

「似合うと思うよ」

「絶対着ません。私は普通のスタッフ用でいいです」

「え~? もったいない。ただでさえ可愛いキミがもっと可愛くなれるチャンスなのに」

「えっっ、なにを……言って」

「あっちと比べると色々ちっちゃいけど、それがまたいいよね、子ウサギちゃんって感じで」

「……すんごい失礼なの自覚してます?」

「ノンノン、褒めてるんだよ。なんなら店長に頼んであげようか? みはるん」

「ッ――みはるん言うなッ」

 とどめに愛称で呼んだら噛み付くように吠えられた。耳にジャストフィットしているインカムだからさすがにうるさい、というか痛い。

「あの、どうでもいいんで立ち止まらず動いてもらえません? ぼくだけじゃこの呼び出し量は捌けないっすよ」

 泣きそうな声でインカムを入れてきたのは、俺と同時期に入った源くん二十二歳。

 刈上げた頭が汗で濡れる彼の言う通り、いつの間にか呼び出しランプは倍以上にペッカペカ。

「おっとすまん、すぐ捌くよ。ほら、みはるんも動いて動いて。お客様がお待ちしてるよ」

「だから呼び方……ってか、私が悪いみたいに言わないで。コレ、センパイのせいでしょ」

 春の到来を思わせるつくし色の髪を、機嫌悪く跳ねさせ仕事に戻る後輩。

 その背を、俺は見送りながら呟いていた。

「ははは、若いなぁ」

 がむしゃらに真面目なのは大変良いのだが、特日の今日が慌ただしくなるのはそもそも必然で、余裕を無くすと大抵ろくな展開に繋がらないことを、俺は経験から知っていたから。

「あの……センパイ……ちょっと来てもらえま――お客様がなにを言ってるのか不明で――」

 案の定とばかりに僅か数十分後、聞こえてきたのは狼狽しきったみはるんボイス。途切れ途切れのインカムの隙間には、対応中のお客様と見られる相手の怒声が挟み込まれていた。

「どうした日那さん? トラブってんの? どこ?」

 こちらが反応してもそれきり応答が来ないあたり、かなり面倒な案件らしい。

からさん、パチの新台っす。シマ中に立ってるアロハ着た恰幅の良い年配男性っす」

 源くんがすかさずフォローのインカムを入れてくる。

「おい、源くん、そこまで把握してんなら対応変わってあげなよ」

「ぼくじゃ役不足です。たぶんアレ、チーフ案件なんで」

 バイト歴だけなら俺と一緒だけあって状況を読み切っているらしい。丸投げする辺り潔い。

「チーフ案件ね……了解、すぐ行く」

 俺は胸のネームプレートをチラ見する。

【アルバイトチーフ・空龍成】と表記されているそれには溜息しか出てこなかったが、すぐに気を引き締めつつ素早く足を向ける。真剣な、畏まり笑顔を造り込むことも忘れずに、だ。

「謝って済む問題じゃね~んだよこら。どうしてくれんだ姉ちゃん、ああん?」

 トラブルの渦中、当事者達の構図は体格的にも最早ウサギとクマだった。詰め寄る相手はとても高圧的で、日那さんは完全に縮こまっていて、このままでは捕食されそうな勢いである。

 基本、クレーム対応は接客業ならあるあるだ。

 が、パチンコ店の場合、店の持つ射幸性が客側の冷静さを喪失させがちである。そしてこうなった相手に、どうすれば良いのかわからないからといって会話が成立しない状況は非常にまずいのだ、当人の苛立ちをより増長させてしまうから。

「失礼いたしますお客様、日那さん対応変わるから巡回に戻って」

「え、あの……でも」

「いいからいいから」

 できる限り穏やかな物腰で二人の間に割って入る。まずは現状の把握が最優先。

 俺はお客様の怒声を浴びながらクレーム対応に努める。俺と日那さんでは経験値がまるで違う。相手がなにを言ってきても、大概納得させられる知識がすでにあった。

 結局のところ非は向こう側で、一件の発端はいわゆる勘違いでしかなかった。

 とはいえ今更退けなくなったお客様は話をがらりと変えてこちらの接客態度が悪いと難癖こいてくる。これもまたよくあることだけれど「うぜ~んだよテメーその弛みきった腹蹴り飛ばすぞ」などと思うのは内心でだけ、表面上には絶対出さない。一度造り込んだ笑顔は、最後まで崩さないのが鉄則。

 事態を丸く収める、それがこの場において俺がすべきことだった。

 別に、俺はこの店の社員じゃない。この店に深い思い入れがあるわけでもない。

 ただ、生きていくには金がいるから、その最低限の手段として、俺は今日もここにいる。

            ***

 慌ただしく特日の一日が終わっていく。

 十六時から零時の遅番メインでバイトのシフトを入れている俺は、帰宅が毎日深夜になる。

 いつものように店の閉店作業を終え、皆が帰った後の喫煙室で帰宅前の一服をしていると、

「センパイ、おつかれさまです」

 不意に日那さんがやってきた。帰り支度は済ませたようで、髪を解いて下ろしている。

「おう、まだ残ってたのか。あれ? タバコ吸うんだっけ?」

 駄目だよ、ただでさえ幼児体型なのに発育しなくなっちゃうよ。代わりに飴ちゃんあげようか? などと茶化そうかとも思ったが、それは思うだけにして口にはしなかった。

 見るからにしょんぼりして落ち込んだ雰囲気だったから。よっぽど今日の出来事が堪えたのか、バイトに入って日は浅いが、ここまで気落ちした彼女は初めてだった。

「いえ、そうじゃなくて、えっと……今日は……その……ありがとうございました」

 しかも、こうも素直に頭を下げられては、こっちもそれなりに振る舞わざるを得ない。

「いいさ、後輩を助けるのも先輩の仕事だから。これからも肩肘張らずに頼ってくれていい」

「そういう、ものなんですか?」

「ん? ああ」

 どうやら彼女の中では頼るという行為に抵抗があったようだ。少々歪んでいる真面目さはなんだか他人事とは思えなくて、俺はくわえタバコのまま彼女を見つめてしまう。

 と、視線にむず痒さを覚えたようにもじもじした後輩が、こんな風に切り出してくる。

「でしたら、あの、実はちょっとお話があって……この後、お時間いいですか?」

 俺は思わず時計を見やる。通勤に使用している中央線の終電までは、それほど余裕があるわけじゃない。逃せば徒歩か、タクシーになってしまうが、こんな後輩の誘いを断るほど薄情にはなれなかったし、これから一緒に仕事をする仲間を知るにはいいきかっけでもあった。

 俺達は、お互いをほとんど知らないしな。

「ふむ。ここじゃなんだしメシでも行くか? ま、この時間じゃやってるとこ限られるけど」

 最悪、始発で帰ればいい。そう思って提案すると、彼女はほっとしたように微笑んだ。

「ありがとうございます、ご一緒させてください」

 そうして俺達は近くの居酒屋に場所を移した。今時珍しくなった二十四時間営業の飲食店は土日祝日なら満席で賑わうのだが、今日は平日、閑散としており、席も選びたい放題だった。

 あえて死角の多い席を選んだのは、勤務先と近い飲食店ゆえ常連のお客様との鉢合わせを極力防ぐ為。営業時間外にまで接客をする気は、俺はもちろん日那さんにも無いだろうから。

 席に座り、とりあえずメニューをテーブル中央に開く。

 彼女にも見えるよう気遣うと、ぎこちない会釈が返ってくる。

 どうやら少し緊張しているみたいで、そう言えば俺自身も、異性と二人きりで飲みに来るのはずいぶん久しぶりだったことに気付く。

 いや、別に俺の方は緊張していたわけじゃない。本当だ、そんなにウブな年齢じゃない。

「なんにする? 俺は生ビールと枝豆があればそれでいいけど」

「チョイスがオジさんみたいですね」

「いや、れっきとしたオジさんだよ俺は」

「またまた~、全然そんな感じじゃないですよ。お兄さんって感じです」

「ふむ、オジさんとお兄さんの線引きってどの辺にあるんだ?」

「え? そうですね……年齢が三十を超えたら、ですかね? 見た目にもよりますけど」

「ふ~ん。じゃあ、やっぱり俺はオジさんだよ、今年三十八だし」

「…………。えっと、すみません聞き間違いですかね。今年でいくつっていいましたか?」

「三十八、あと二年で四十になる三十八歳って言ったの」

「……ぇ、えぇええええええええええええええええええええええ!!?」

 日那さんは大袈裟なくらい仰け反った。その後ガン見してくるあたりガチで驚いたらしい。

「嘘でしょ?」

「嘘ついてどうすんだよ」

「全然見えないんですけど、てっきり二十後半くらいかと……」

「ま、元が童顔な上に若作りしてるからな、そのせいだろう」

「…………」

 日那さんは色々納得がいかない様子で頬をぷっくりさせていた。

「で、なんにすんの? みはるん」

「その呼び方定着させるのやめてください、子供っぽいですし……恥ずかしいです」

「子供っぽいのが嫌なら現在進行形のやつをやめたほうがいいぞ、そのリスみたいな顔」

「……生ビールと豆腐サラダと唐揚げ大盛りで、カレーライスはあとにします」

 途端に頬を萎ませて睨んでくる。迫力不足で可愛いだけのそれを含め、ころころと変わる表情は見ていてちっとも飽きなかった。もっと、からかいたくさえなってくる。

「欲張りなんだな、みはるん」

「今日は特に動いたからお腹が減っているんです。センパイはそれだけで足りるんですか?」

 愛称呼びへの突っ込みが疲れて諦めたのか、小さく息を零した後輩が尋ねてくる。

「まさか、キムチと冷や奴も頼むさ。シメにはお茶漬けだって食べるしな」

「オジさんも欲張りじゃん」

「まぁな」

 テーブルに注文した品々が届く頃には、緊張はすっかり霧散していたようだ。俺達は冷えたジョッキをゴツリとぶつけ合い、彼女は我先にと喉にビールを流し込む。

 俺はう~むと眼の前の絵面の破壊力を堪能する。

 知らない人が見たら幼女がジョッキを煽ってるようにしか見えないが、彼女は完璧な合法ロリである。よって同伴しているこちらには何の罪もないので半端じゃない背徳感は気のせいでむしろなんだか得した気分でビールを煽ったのだが――別の奇妙な感覚も実はあって。

 その正体はわからないままに「ぷはぁ~」と旨さの感想たる一息が見事にシンクロした。

「真似しないでくださいよ」

「そっちこそ」

 眼が合って、それもなんだか可笑しくて、気付けば笑い合っていたけれど、

「で、話ってなに? 日那さん」

 本題を促す俺を、彼女は一瞬だけ恨めしそうに見る。そんなに急かさないで下さいとでも言いたげだったが、ビールをもう一口飲んだ後こう言った。

「……センパイは、その……なんでウチの店でバイトしてるんですか」

「時給がいいからな、そっちもそれが目当てでここに来たんじゃないのか?」

「そりゃぁ……そうなんですけど……」

「今、大学生? それともフリーター?」

「フリーターですけど……いえ、アタシのことはいいんですっ。センパイ、チーフになるくらいだから歴長いですよね? どうして社員さんにならないんですか?」

 後輩は話の筋を逸らされまいと語気を強めて食い下がってくる。

「店長が言ってました。現場を仕切れる人材が乏しいから、社員並に働けるセンパイみたいな人がいると助かるって。でも、アルバイトチーフって、結局はバイトですよね? それって働く側からしたら損じゃないですか? 給与や待遇は社員の方が絶対に優遇されてるのに」

「えっと、なりたいの社員に?」

「……。どう、ですかね。まだ、わかりません」

「キミの言うとおり、社員になれば優遇される面はある。生活面では安定もするだろう。あ、ひょっとして今日はその辺りが聴きたくて誘ってきたのかな?」 

「……いえ、アタシは、その……センパイのことが知りたくなっただけです」

「へ?」

 意味深にも取れる発言が飛び出したせいで、なんとも間抜けな声が出てしまった。

 途端、あわあわとした日那さんはジョッキを両手でぎゅっと持つと、残りをぐびびっ。

「すみませ~ん、ビールおかわり」

 丁度近くを通った店員さんに素早く注文を済ませ、ちょっと俯いて、しかし再びまっすぐこちらへ眼を向けてくる。

「あの、変な意味じゃないです。ほら、センパイって……勤務中にちゃらんぽらんな態度だったり、かと思ったらトラブル時は凄く頼れるし、スタッフ間はもちろん店長にも一目置かれてるみたいだし、でも社員にならないなんて……どういう人なのかなって」

 アルコールのせいか顔はみるみる紅くなり、瞳は潤んでいく。もしかしたら酒はそんなに強くないのかもしれないけれど、まぁ、飲みたい夜もあるだろう。大変だった今日みたいな日にはなおさら。なら先輩として、これからも一緒に働く仲間として、たとえ上辺だけでも付き合ってあげるのはやぶさかじゃないし、互いを知る為には語らいが必要だ。

 そもそも今晩はその為に来たのだからと、俺はひとつ息を吐いて答えた。

「さっきの続きにもなるけれど、待遇の面では一概には言えないさ。社員は勤務時間も固定されるから、俺はあえてバイトであることを選んでる。それが俺の私生活に合ってるからな」

「…………」

「なに?」

「……生活の安定を考えるなら社員の方が断然良いと思うんですけど」

 たぶん彼女は言いたいことをあえて言わずにいるんだと、言葉を選んだのだと俺は察した。彼女なりの気遣いだと。一般的に俺の年齢ならとっくに就職しているだろうし、結婚だって、人によっては子供さえいるだろうから。

 実のところ俺は、過去に就職は経験している。日本有数の会社でそれなりの立場にも就いていたから収入でなら現状の三倍はあったが、しかし、十年務めた会社を結局、俺は辞めた。

 満たされなかったのだ。俺にとって、もっとも大切なものが。

「そうだな、だが俺は生活を安定させたい訳じゃない。言ったろ、私生活が重要なのさ」

「私生活?」

 小首を傾げる彼女に対して間を取るように、俺は自身のジョッキの縁を撫でつける。

 不思議だった。こうして誰かに上辺以外の大切な想いまでを打ち明けようとしている自分が。

 適当に誤魔化せばいいのに、なぜだか彼女にはしたくなかった。彼女にそれをしてしまったら、自分の中の大切なものを手放すも同義のような気さえして――俺は……。

 安定とは程遠く、大概の人間にはまず理解されない想いを、夢を、明言する。


「俺はさ、小説で受賞を目指してるんだ。ジャンルは様々だけど、本気で取り組んでる」


「センパイ、小説が……好きなんですか?」

 驚きに満ちたその問いには頷かず、言葉を返した。

「三十後半にもなって、なに言ってんだよって思うかい」

「……いえ、凄いです。素直にそう思います」

 アタシはセンパイみたいに理由があってここにいるわけじゃないですからと、日那さんは言う。きっと心の底から出てきた「凄い」だったのだと思う。

 でも、俺にとってその台詞は皮肉にしか聞えなくて苦笑してしまう。

「好きで、夢中になれるモノがあって、実際に行動までできる。センパイみたいな人は羨ましいです。私にはできないから……余計に眩しい」

 続いた台詞はかつての同僚から、中学時代からの友人から、血を分けた兄弟からさえも、もう、嫌というほど聴いてきた内容で、

「あのさ」

 微かな苛立ちを覚えた俺は気を静めるべくビールを飲み干す。

「できないって決めつけるには早いだろ。なんでもチャレンジすりゃいいじゃん若いんだし」

「若いって……アタシ、もう二十歳で――あっ」

 つい出かけた声を留め、おかわりのビールをぐびぐびと飲み出す後輩。こちらの年齢を思い出したのだろう。気まずさを誤魔化すように、手元の料理もばくばくと口に運んでいく。

「すみませ~ん、生ビールおかわり」

「ペース速いな、飲み過ぎても介抱はしてやらないぞ、面倒だし」

 そう言いつつ俺は彼女の頼んだ大盛り唐揚げをひとつ横取りし、頬張る。

 日那さんの視線は「それ、アタシが頼んだんですよ?」と訴えていたが、気にしない。

「好きなモノ無いのかよ、みはるん」

「唐揚げは好きです」

「そうか、なら唐揚げ屋さんにでもなれば」

「そういう好きとは違います」

 ロリの揚げる唐揚げ屋は面白そうだが、ダメ出しされた。どうやら調理職人になるほどのこだわりはないらしい。好きにだって種類があるので無理強いするつもりはないが。

「そうか、じゃあ食べることが好きなのか?」

「まぁ、そうですね」

「じゃあ、ここのメシ代はおごってやるから食いたいだけ食え」

「いいんですか? センパイのお財布、空にしちゃいますよ。空シンパイにしちゃいますよ」

「微妙に上手いこと言うな。つ~か、そんなに食えるのかよ」

 だったらフードファイターとかどうだろう。ロリのフードファイター。

 ちゃっちゃら~ん♪ 食べても食べてもおっきくなれな~い(半ベソ)、とか。

 一部で猛烈な人気が出そうじゃね?

 と、そんなふざけ半分の心の声など知るよしもない彼女は、

「冗談ですよ。アタシ、そこまで食いしん坊じゃありません。けど、食べるのは本当に好きです。インスタでも美味しいモノとかよくアップしてるし、ほら、これなんか人気アニメで取り上げられたお店の料理で《いいね》がたくさんついて――」

 自前のスマホをどうだとばかりに見せてくる。画面にはアンティーク調の洒落たカフェと、そこで食べられる宝石のようなお菓子が写っていて、タイトルは聖地巡礼と記されていた。

「ああ、その作品は有名な受賞作だから俺も知ってる」

 物書きをする身分として世に流通する作品、特に評価されている物のチェックは必須だ。なぜそうなったかを分析し、自分の作品に反映させる技術無くしてはやっていけないから。

 もちろん、分析を含め創作することは、好きじゃなければできるものじゃない。

 好きだからこそ、目的達成の手段として続けられるのだ。

 そう。俺にとって、小説は手段だった。バイトが生きる上での最低限の手段なら、小説は己の満たされない欲求を満たす為の手段なのである。

 彼女が言っているのは小説原作で近年漫画化及びアニメ化された作品である。

 放映後は取り上げられた店の人気がうなぎ登りになっていることもにわかで知っていたが、

「好きなのか? アニメ」


「はい、大好きです」


 次の瞬間にはそんな豆知識など忘却の彼方に消え去っていた。

 だってあまりにも魅力的な笑顔が目の前にあったから。可愛いだけじゃない、綺麗なだけじゃない、ある種の強さを滲ませた笑顔は俺の心を波立たせる代物で――。

 だからこそようやく理解した。彼女にずっと感じていたものを。

 似ているのだ。この道に踏み出す以前の、かつての自分自身に。

 ――俺も好きだよ。大好きだったんだ。

「センパイ?」

「ん……あぁ……すまん、ってかさ」

 俺は見蕩れていた事実を誤魔化すように頭を掻くと、気を取り直してこう言った。

「ちゃんとあるじゃんか、好きなモノ。そいつにどのくらい携わるのかは、キミ次第だけど」

「っ――アタシ、次第……」

「ああ。趣味の範疇に収まるのか、それ以上を目指すのかはね。俺のように文章で創作者を目指すなら小説家や脚本家、絵で表現するならイラストレーターや漫画家、単純にアニメが好きなら制作会社だって沢山あるんだから」

 具体例で示すと、目が丸く見開かれた彼女は息を呑んでいた。

 それらに自分が踏み出すことへ、中々現実感を持てないのかもしれない。

 でも時間は誰しも平等で、踏み出さなければ、なにも始まらない。可能性さえ生まれない。

 行動の果てにこそ求める結果は訪れる。これは、とある有名なアニメで使用されている一節でもあり、世の真理でもあると俺は思う。

「キミはまだ若いんだ、たとえ失敗してもいくらでも取り返せるし、どうせやるなら早いほうが絶対いい。早ければ早いほどにね。挑戦せずにくよくよしている時間は一番もったいない。意味を見出せない惰性の日々に懸念を持ったからこそ、俺にこんな話をしたんだろ?」

 俺は遅いスタートで苦労している身として言っておきながら、少し罪悪感もあった。

 新たなチャレンジは楽しさばかりじゃない。むしろ苦しみだらけかもしれない。

 好きなことであれば耐えられるなんて軽々しく言うつもりもない。時にそれが想像を超える痛みであることも知っているから。

 けれど、せっかく勇気を持って踏み出そうとする姿勢を摘んでしまう愚か者にだけはなりたくなくて、俺は彼女の背を押していた。

「なぁ、みはるん。キミはこれからどうなりたい?」

            ***

 居酒屋を出る頃には空が明るみを帯びていた。

 時刻は六時を回っていて、電車は始発待ちどころか普通に運行している。

「うわ、寒っ……酔いが覚めちゃいますね」

「明日、いや、もう今日か。夕方から仕事があるんだから覚ました方が良いだろ」

 冬の朝特有の冷え込みに駅まで歩く俺達は身震いしていたが、その足取りは軽かった。

 好きなモノの語り合いは、純粋に楽しいひとときだったから。

 まさか、こんなに話し込むとは自分でも驚きだ。

 創作者たる俺には彼女のように通じる話を語りあえる存在はとてもありがたい。創作意欲を保つ為には理解者は必須なのだ。息抜きにもなるし、刺激にも、時にはネタさえ拾えるから。

 そして、それはこれからの彼女にとってもきっとそうだったと思う。

 小さな五叉路を渡り、ロータリーを迂回して、エスカレーターを登り終えると駅内はすでに多くの人が往来していた。仕事に向かうであろうスーツを着たサラリーマンが大多数、中には俺達のように飲んできた若者が気持ち悪そうに壁際でぐったりしていて、これから年末になれば彼みたいな人が増えるのかもしれない。

「あんな風になったらどうしようかと思ったけど、平気そうだな」

「だらしない飲み方をしないように、一応は心がけてます。分別のある大人として」

「大人ね……そうか、やるなぁみはるん」

「完全に定着させましたね、それ。もう、別にいいですけど――じゃ、アタシこっちなんで。今日は本当にありがとうございました。あと、ごちそうさまです」

 中央線の改札前、西八王子方面に乗る日那さんは深々とお辞儀してくる。

「おぅ、仕事遅刻すんなよ」

「センパイこそ」

 微笑むその眼差しには今や尊敬の念すら感じられ、少し胸が痛んだ。

 自分は、それほど誇れる者じゃ無かったから。

「あ、そだセンパイ。ID交換しましょ~よ。これからも相談にのってもらいたいし……」

「ID?」

「はい、LINEの……あ、もしかしてやってませんか?」

「ん――あぁ、LINEね。やってないというか――俺、スマホ持って無いんだよ」

「え、もしかしてガラケーとかですか? エモいですね。だったらメアドでも」

「エモい? いや、そもそもそう言った通信手段が無いんだ」

 ふと流れで出た話題は嫌な案件だった。会社員時代に二十四時間監視されるような扱いを受けた挙げ句評価されなかったことは吐きそうになるほどのトラウマで、ゆえにネット環境に触れないようにしているのはもちろん、アクセスツールは一切個人持ちしていないのである。

「えええ? それでこのご時世に生活できるんですか?」

「今のとこ不便に思ってないかな」

 事実だった。固定電話を使えば連絡は可能だし、執筆にはワープロ専用機を使用しているから。ただ、俺のライフスタイルは世間一般の、特に日那さんのようなスマホ依存の若い世代には中々に信じがたいものらしかった。

「変わってますね、センパイ」

「自覚してる。ま、そんな俺に相談にのってもらいたいキミも相当だけど」

 無いものは無いので、ひとまず固定電話の番号と彼女のスマホの電話番号を交換する。

 小さく手を振り階段を降りていく彼女を見送ってから逆方向の階段を下ると、丁度やって来た電車に乗り込む。通勤ラッシュにはまだ早いせいで空席はまだあったが、俺はあえて座らなかった。自宅アパートのある日野駅までは二駅なので十分足らずで到着する。深酒をしたつもりはないけれど、万が一眠って降り損ねては面倒だ。

 ドア隅でぼんやりと外を眺めつつ、ふと彼女の言葉を思い出す。

『これからも相談にのってもらいたいし……』

「これからもか。こっちこそ……助かるよ」

 それができなくなってしまった連中も、かつて俺にはいたから。

 日野駅に到着。階段を下って改札を出ると、最寄りのコンビニでお茶と弁当を購入。ちなみに自分用ではない。本当なら帰宅後すぐにシャワーを浴びてさっさと寝てしまいたいところだけど、あいにく俺にはまだやるべきことがあった。

 駅から徒歩で三分、古びた外観の三階建てアパートに到着、三階の角部屋が自宅である。

 すっかり慣れ親しんだオンボロ部屋は十畳程度の1DK。一人暮らしなら広々と過ごせる空間だが、俺は一人で暮らしているわけじゃなかった。

 不用心にも鍵のかかっていなかった玄関の扉を開き、中に入る。

 と、暗く静まりかえった部屋の奥、簡素なカーテンで仕切られたその場所からカタカタとキーボードを叩く音がしてくる。ワープロの明かりに照らされた人影はこちらの帰宅に気付いていないようで、俺は静かに近づきカーテンをくぐる。

「ただいま、彩夏」

「…………」

 そう声をかけても無反応の彼女の名は霞彩夏。年齢は今年で二十四歳。

 俺とは少々複雑な関係性のこの同居人はヘッドフォンをしつつ小説の執筆中で、どうも集中状態らしかった。自前で所持しているパソコンでは無く机上に常設した俺のワープロで、画面には鬼気迫る勢いで物語としての文字が綴られ羅列されていく。筆がノっているらしい。

 俺は暫しそれを見つめていたが、不意にタイピングが停まる。

 彼女からヘッドフォンが外され、満足げな溜息も零れ落ちていた。

 どうやら一応区切りらしく凝り固まった身体をほぐすように椅子の上で背伸びをして見せたから、俺は改めて「よぉ、お疲れ」と声をかけた。

 彼女はびくりとして振りかえる。身体のラインを曖昧にするロングスカートと大きめの紺セーター、黒縁めがね、手入れの行き届いていない長い黒髪は胸の前に垂らす緩めの三つ編み、溌剌とした雰囲気の日那さんとはほぼ対極で良く言えば大人しめ、控えめに言っても地味で、相当に驚いたのもあってか臆病な猫みたいな挙動だった。

「ちゃんと施錠しろよ。俺じゃなかったらどうすんだよ」

「ごめん……なさい」

 ハキハキとは程遠い、名に相応しい消え入りそうな小声で謝ってくる彩夏に、俺は続ける。

「まったく、気をつけなきゃダメだぜ? 俺がバイト行ってからメシは食ったのか?」

 部屋の壁時計を見やった彼女は首を横に振る。どうも一晩ぶっ通しで執筆していたらしい。

「んなことだと思ったよ」

「……ごめんなさい」

 買ってきた弁当入りの袋を差し出すと、しゅんとしたままの彼女がまた謝ってくる。

「いいよ謝らなくて、別に怒ってるわけじゃない」

 小言は時を忘れるほど集中持続できる彩夏が、羨ましかっただけだ。

 今の自分には、到底できないから。

「あの……龍成さんの……ぶんは?」

「ああ、俺はもう済ませてきたから大丈夫。構わず食っていいよ」

「…………はい……でも」

「ん?」

「……いえ……」と彼女は他に何か言いたげだったが、ハッキリとものを言う性格でもない。

 俺はさっさとやるべきことを優先する。早々に終わらせないとバイトに響いてしまう。

 彼女をローテーブルへ促し交代で椅子に座るとワープロを操作、決して速筆じゃない彼女からすれば珍しく量は多めで、全部で三十枚になったそれは、小説の新作第一章。

 仮タイトルは《無色の季節》――内容こそ一風変わっているが、いわゆる青春ものである。

 俺はまず原稿を普通の読者のように読んでいく。おおぅなるほど、その手があったかここは抜群に面白い、うわぁコレは駄目だろうと率直な感想を抱くが、まだ終われない。

 読了後、今度は俺達で創ったプロットを取り出し、見比べる。

 そしてキャラの言動とストーリー構成と文章の良いところ悪いところを洗い出し、添削。良いところは青ペンで、悪いところは赤ペンで、俺ならこうすると書き記す。

 これが俺のやるべきこと、レビューバックである。んなことしてる暇があんなら自分で原稿を書けとツッコミが来そうだが、待って欲しい。これはとても重要なのだ。

「……あの……ごめんなさい。どう、ですか」

 黙々と作業していると、とっくに食事を終えた彩夏が焦れたような声を出した。

「ん? 前のに比べて段違いに良いよ。この出会いのシーンの発想なんか神がかってるしね」

 彼女の最大の武器は狂っているくらいに尖った発想力である。使い古されたネタですら新鮮な面白さに変える力は俺には無いもので振り返って告げると、彼女は心底ほっとしたようだった。懸命に作った作品を褒められて嬉しくない作者はこの世にいないのだ。

 褒められてやる気が向上するのもレビューバックの特性である。

 だが、それだけでは真の意味を成さないから、「ただ、地の文がさ」と俺は続ける。

「ッ、だめ……ですか?」

「駄目じゃないけど正直、癖が全体的に強すぎるかな。たぶん、あえて個性的に書いてるんだろうけど、それが読みにくさに繋がってキャラへの感情移入を阻害してる。練った文章装飾による描写はここぞという箇所だけの限定的にして、基本はもっと読み易いひらいた文にしたほうがいいかも。もちろん俺の指摘は絶対じゃないから、キミなりに取捨選択するべきだけど」

「……はい」

「あとキャラクターの行動にもう少し真実味を持たせた方がいい。リアルでは無くリアリティね。なぜそう動いたのか、どうしてその台詞を吐いたのか、現状じゃ説得力が足りないかな」

「…………」

「聴いてる? 一応、例文も書いたから参考にしてみて」

「……ごめんなさい」

「いや、別に怒ってるわけじゃないんだから謝らなくていいって」

 俺は滴る血の如き赤入れの済んだ原稿を、すっかり無表情になってしまった彼女に手渡す。

 個性を否定された作者たる彼女の心は、きっと痛みを伴っているに違いない。

 しかし、痛みは乗り越えなければならないのだ。

 作品の質を上げるには批評に真摯に耳を傾け、糧として落とし込む力が不可欠。

 それはたとえ彼女が人一倍打たれ弱かろうとも、逃れられない事実だから。

「そんなに落ち込む必要はないんだ、彩夏。キミは凄い、本当にね。俺は、俺だけは……キミの凄さを知っている。誰よりも」

「……龍成さん」

 俺が彼女の頭を優しく撫でる。創作において彼女が落ち込みかけた際のルーティンになりつつあるそれのおかげで、彼女は気分を持ち直したのか微かに笑ってくれた。

 良かった、これできっとこの小説をより面白い物語にしてくれるだろう。

 俺には無い、狂った発想で。

「さて、俺はそろそろシャワー浴びて寝るけど……」

「え? もう……寝ちゃうん……ですか?」

「週末ならともかく、明日もバイトだしな。備えないと身体がもたないんでね」

「……」

「彩夏はどうする? 長いこと執筆してたんなら今日はもう休んだら――」

 目元には深いくまがあったからやんわりと休息を促すも、首を横に振られてしまう。

「そっか、無茶はするなよ」

 彼女の細い肩を、優しく叩く。がんばれなんて言葉だけは絶対に言わない。すでに充分がんばっているのだ。執筆はモチベーションとの戦いで、書けない時は何時間ワープロに向かっても書けないことを、俺は嫌というほど知っている。

 せっかくのやる気を削いでしまうのは気が引けた俺は、場を後にするしかなかった。

 浴室前で服を脱ごうとして、ふと洗面台に眼が停まる。棚に置かれているのは女物の化粧品と二本の歯ブラシ。青が俺、ピンクが彩夏。なにも知らない人が見たら同棲カップルのような印象を受けるかもしれないが、俺達は恋人じゃない。そんな安易な関係じゃないのだ。

 熱めのシャワーを浴び終えると、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、キッチンの換気扇前で一服する。一緒に住むうえでの気遣い、彼女は、彩夏は、タバコを吸わないから。

 部屋の奥からはキーボードを叩く音がしている。

 口数の少ない彼女が紡ぐ軽快な音の連鎖は、俺にはもう出せなくなった音色だった。

 もの悲しさを感じ、タバコを一気に吸い込み吐き出すも、後に残った吸い殻を見るとなんだか今の自分自身みたいで余計に辛さを覚え、堪らず言い聞かせるように呟いてしまう。

「仕方ないんだよ、俺には……俺達には…………コレが最善なんだ」

 すでに二十を超える作品で落選しまくってなお、受賞を目指す俺にとっては。

 すっかり書けなくなってしまった空龍成にとっては、こうするより他になかったのだ。

 そもそも俺はスタートが遅かった。三十一の時に一大決心で会社を辞め、やるからには基礎から徹底的に本気でと、とある専門学校に二年通い学びもした。様々な年代の集う同級生の中でも飛びきり異質な年齢だった俺は誰よりも全力で努力していたと自負できる。

 その影響なのか、一時期は年齢差を超え切磋琢磨する仲間も集ったし、幸いにも会社員時代の蓄えで在学中は作品制作に専念できたから、その頃はもっとも充実していた日々だったかもしれない。

 が、努力が報われるかどうかは別問題で、生み出した小説はことごとく落選だった。

 落選すれば金にならない。しかし、生活するには金がいる。

 貯蓄とて有限だ。ゆえに卒業後はバイトで食いつなぎつつ、時間を捻出して書き続ける訳だが、必死に書いても、書いても書いても、書いても書いても書いても落選ばかりではどうしたってモチべーションは下がっていく。書く意味がわからなくなっていく。

 否定、否定、また否定。己の魂が傷付けられ、見えない血が流れ出ていくようだった。

 存在価値を見失う通知を延々繰り返し、今度こそ負けてたまるかと奮い立っても、やってくるのは非承認。いつしか抜け出る血さえ無くなって、干からびていくのを実感するばかり。

 認められたかった。あなたが必要だと、あなたじゃ無きゃダメだからと。

 肌に合わずやり甲斐を見出せなかった会社員時代。得られなかった承認欲求。

 俺はそいつを満たしたかった。欲しくて欲しくて堪らなかった。

 だからこそ安定と言う名の停滞の日々から抜け出し、コレならばと思える新たな世界に飛び込んでみたのに、求められなかった。

 自分には才能が無いのだと諦めようとも思った。何度も、何度も。

 そうして諦められるなら、どれだけよかっただろう。

 皮肉にも俺は諦めがすこぶる悪かった。少なくとも生活が安定していた会社を脱サラしてまでこの道に踏み込んだから余計なのかもしれない。書けないのに諦められない。悪循環な状況は次第に心を病ませていって、捻れていって、同じ志を持っていたはずの仲間とも、ひとり、またひとりと疎遠になっていって――。

 そんな生活に疲れ切っていたある日、夢の為の足掻きが七年目を迎えた夏のことだった。

 在学中の仲間のひとりだった彼女、霞彩夏と再会したのは。

 

『私には……小説しかないんです』


 そう宣言する彼女には発想力という才能がありながら、小説として形作る技術が乏しかった。

 作品を非承認され続けた俺には、才能こそ無くとも経験から培ったそれなりの技術があった。

 作品制作に悩んでいた二人の思惑は、こうして合致する。

 俺達は足りない物を補い合う同盟を結んだのだ。彼女の誘いを、俺が受ける形で。

 それまで紙媒体でしか投稿できなかった俺からすれば、彼女がいることでネット投稿も出来るようになった点も大きい。

 行動の果てにこそ求める結果は生まれるのだ。すべては求める結果、承認されし受賞作を生み出す為に、俺と彩夏はなにもかも作品に捧げる覚悟を持って動き出したのだ。

 彼女、霞彩夏が描いている新作小説は言わば俺との合作。ペンネームは二人の名を一文字ずつ入れた《からっかす》。ネガティブ全開なのはどちらも根がそうだから。

 俺の部屋に彼女が同居しているのは互いの時間を融通させるのにも都合が良かったからだ。

 もちろんこの共同生活もいくつか問題はあったが、手探りつつもなんとか現在に至る訳で。

 一緒に住み始めて、もうすぐ半年。

 

『小説が……好きなんですか?』


 ふと日那さんに言われた言葉が脳裏をよぎる。小説は好きだった。だからこそコレならばと思えたのだ。それなのに俺はあの瞬間、本音をさらせなかった。

 さらせないのは、足掻いた末に取っている捻れた手段を誇れなかったから。

 合作といえば聞こえは良いが、実際の制作負担は七対三、いや、八対二が相応しい。

 こんな苦肉の策をとらざるを得ない自分を、そんな小説を、好きになれるはずがなくて。

「むしろ嫌いだよ、だって、こんなにも格好悪ぃ……」

 嫌悪感を押し殺して部屋に戻ると、ひたすら執筆している彼女の後ろ姿が視界に映る。

 あのワープロも、机と椅子も、元々俺専用のものだったのに。今じゃすっかり彼女の物にして定位置。正面の壁には数多の過去作の評価シートがさながら死人の如く貼り付けられ、時折ふわりと揺れそよいでいる。一次落ちのもの、二次落ちのもの、三次四次まで健闘したもの。そのどれもが、結局は認められなかった俺の夢の残骸。それらと向き合うように座る彩夏は、今どんな気持ちでキーボードを叩いているのだろう。

 物語を紡ぐ音は、まだまだ止む気配は無かった。

「ちくしょう、それでもっ――俺は……」

 気の高ぶりを沈めるべく、冷蔵庫から缶ビールを取り出し喉に流し込む。

 これ以上は深酒になると理解しながらも、とても眠れそうに無かったから。

            ***

 十三時にセットしてあるアラームが鳴って目が覚める。

 寝起きの気分は最悪。完全に二日酔いでよろけながらもソファーから起き上がると、机の上で突っ伏した彩夏に気付いた。

 どうやら執筆途中で力尽き寝落ちしてしまったようである。画面を見れば、投げ出された腕がタイピングしたとおぼしき解読不可能な文字列がメチャクチャに綴られている。

 念の為にデータ保存をしてから彼女を揺すってみたが、すやすやと寝息をするばかりで起きる気配はゼロ。よっぽど疲れたのか熟睡してしまっているようだ。

「やれやれ、無茶すんなって言ってんのに。風邪引いたらどうすんだよ」

 毛布を羽織らせお世辞にもお洒落とは言えない眼鏡を、そっと外してやる。

 と、意外なほど綺麗な素顔が現れ、思わずどきりとしてしまう。

 作品も、自身も、素材は絶対いいのに、自ら損しているのに気付いていない。

 でも、その方がいいのかもしれない。他の誰でもない俺だけが気付いてさえいれば。

 無防備な寝顔。病的なくらい白い肌を眺めていると、なんだか妙な気分にもなってくる。

「ぅ……ん」

 普段ならまず聴けない、どこか切なげな寝言が、俺の男としての琴線を刺激する。なにもかも作品に捧げる覚悟のせいで錆び付きかけていたのに、手を伸ばして触れたい衝動に駆られてしまう。細くメリハリには乏しくとも、女性特有の柔らかさを感じさせる彼女の輪郭を欲望のままにまさぐってみたら、いったいどれほどの快感を得られるのだろう。

 ごくりと生唾を飲む。震えるユビサキ。カノジョマデ、アト数センチ。

 嗚呼、イマ、届ク、

「龍成……さん」

「――――ッ!?」

 寝言の続きで名を呼ばれ、寸前のところで我に返った俺は慌てて洗面台へと向かう。

 この大馬鹿野郎ッ。しっかりしろよ、空龍成。

 俺達の関係はあくまで同盟。そしてそれが出来たのは、少なくとも仲間内でも大きく歳の離れた俺に信用があったから。一時の欲で台無しにするわけには断じていかない。

 一緒に住んでいてたびたび沸き起こる特別な意識と情動は、こうしてその都度理性で押さえ込んでいた。すべてを作品制作に捧げるからには欲求不満に陥るのは必然だったけれど、こちとら堪え性皆無の盛りの付いた若者じゃない。伊達に歳を重ねてはいないのだ。

「……ふぅ」

 俺は冷水で洗顔を終え、そそくさと朝飯の準備をする。共同生活における問題は他にも多々あれど、もっとも大きな問題は彩夏自身の生活力が致命的に欠如していることである。

 同居したての頃、当番制で色々とやらせてみたことがあるのだけれど――。

 彼女が料理すればあら不思議。黒魔術のような現象を起こし食えなくなる。

 彼女が掃除すれば祭りだワッショイ。むしろ散らかり汚れまくる。

 こんな不器用さはラノベだったらドジっ子属性として微笑ましいのかもしれないけれど、現実ではそうはいかない。さらに極度に内気で他者の視線が苦手な性格もあって出来ることが限定的な彼女は週二で務めるバイト(これがマジで不思議でどんな仕事しているのか見当も付かない)でのみ収入を得ており、当然ながらそれでは普通の一人暮らしなど不可能で、だからこそ彼女は負担の少ないこの共同生活に賛同したのだろう。ここにいる限り生活に必要な雑務は俺がほぼやるし、金の面でも家賃や水道光熱費などは考えずに済むから。

 生活力の乏しい彩夏がメインで執筆し、書けない俺はサポート兼生計を支える。まさに適材適所だろう。理想的かどうかは抜きにだが、そういうわけで俺は、決して楽じゃないパチンコ店に週五で勤めていた。拘束時間も長いぶん賃金は高めなのだ。

 遅番での出勤なので、一般的なサラリーマンに比べるとゆとりのある朝ではある。

 今日の朝食はご飯とみそ汁、ハムエッグにサラダのお手軽なメニューだ。

 手際よく作っていると、まだ眠そうな眼差しの彩夏がふらふらと起きてきた。

「お? おぅ、おはよ。もう起きるのか?」

「…………」

 問いかけに黙って頷く彩夏。この時間帯に、こうして顔を合わせるのは珍しかった。

 ついさっき妙な気分になりかけたせいで微妙な気まずさもあったが、それを大事な同盟相手にあらわにするほど俺は間抜けじゃない。

「彩夏のぶんもメシあるけど、どうする? 作り置きにしようか?」

 低血圧な彼女は寝起きに弱い。それでなくとも執筆で不規則な生活だから、一緒に食事をする機会はほとんど無いゆえの提案だったのだけれど、当の本人には首を横に振られてしまう。

 そして、だんまり。はて、どうしたものか。

 ちゃんと意思を言葉にしてくれるといいのだが、彼女にとっては難しいようだ。

「ふむ? じゃあ……一緒に食うか?」

 そう言ってやると、彼女は申し訳なさげに微笑み、身だしなみを整えに洗面台へ向かう。

 どうやら意思のくみ取りには成功したらしい。

 ローテーブルに朝食を並べ終え、俺達は向かい合って座る。半年も一緒に住んでいるのに、馴れない感覚でむず痒さを覚えていると、いきなり彼女に頭を下げられた。

「ごめんなさい」

 クセにも近い彼女の詫び言だが、今回はさすがに意味がわからなかった。

「ん? どうした急に……もしかして執筆、煮詰まったのか?」

 だとしたら、むしろ謝るべきなのは物語を生む労力の八割をすがっているこちら方だが、強く首を横に振って意思表示されて、ほっとしてしまう反面、自己嫌悪にもなった。

 もちろん、彼女を前にしてそれを面に出すような真似はしないが。

「ひょっとして、メシのことか? そんなの気にすんなよ。作る手間は変わんないんだから」

「それも……ありますけど……それだけじゃなくて……そもそも……私――」

 消え入りそうな声でそこまで告げて、強張ったまま押し黙る彩夏。

 こんなにも主張したがる彼女は珍しいから、俺は黙って続くであろう言葉を待ったけれど、待てども待てども続きは聞えてこない。小説ではとても雄弁なのに、自分では言いたいことがあっても上手く言葉にならないのか、そのうち目元にうっすらと涙が滲んできて。

 仕切り直した方がいい気がした俺は、話題を変えるべくみそ汁をすする。

 二日酔いにも効く特製のしじみ汁は会心の出来だった。うむ、マジで旨い。

「焦んなくていいよ。ほら、せっかく出来たてなんだし、まずは温かいうちに食べちゃいな」

 仕方なしといった感じで促しに応じた彼女も、お椀に口を付ける。

 と、ほんの少し、その表情が緩んだ。

「旨いだろ? 今回のヤツ」

「……はい」

「おかわりあるぜ?」

 そう、焦らなくていい。キミにはまだ時間があるのだから。俺と違って。

 俺は彼女に賭けている。彼女こそが俺に足りない物を補う存在だから。

 ひとえに受賞を目指すといっても、いわゆる賞レースは年間でも数多ある。

 規模も条件も様々なのだが、俺は彩夏との合作での参戦先をひとつに絞っていた。

 その投稿先は、年一開催にして常に日本最大級の投稿数を誇る《神筆大賞》。

 物書きであれば知らぬ者はおらず、毎年四千から五千ものプロアマ不問の作品が集まるその突破率は、あの東京大学の合格よりも低いとされる狭き門なわけだが、あえて挑むのには理由があった。いや、むしろ因縁と言い換えてもいいかもしれない。

 それはこの賞レースでの選評シートが、よくある題材を大多数が共感しやすい王道の成長譚に仕立てた俺の過去作をこう評したから。

【設定、キャラクターともにキャッチーで、文章も整っていて最後まで一気に読み終えることができました。全体構成も起承転結が綺麗に付けられており、伏線回収もしっかり行われていて、お手本のような仕上がりの作品でした。あえて難点とするならば、綺麗にまとまりすぎていて、いわゆる普通の仕上がりとなっているので、尖った部分を感じられなかったところかと思います。全体的にレベルが高い著者だと思いますので、なにか尖ったところを入れ込んだ上での創作をすると、この作品ならではな面白さを生めるようになれるのではないかと感じました。面白さは正義です。次回もご応募お待ちしております】

 丸暗記するくらいに読み返したこの内容は、未だ呪いのように俺を蝕んでいる。

 尖った部分、つまり個性が足りていない。実のところ元からそんなのはわかりきっていた。

 努力すればそつなくこなせる自分が、器用貧乏でしかないってことは。

 だからこそ、意図的に自分を変えようとした。

 目新しさにだって挑戦した。面白さとはなんだと、血反吐を吐くような思いをしながら、悪戦苦闘してなお物語として成立させたことだって一度や二度じゃないのだが、

 丁寧に説明する構成にすれば【目新しい題材ですが情報量が多く読み進める意欲が失せます】

 情報を小分けに提示してみれば【説明された設定がキャラの魅力に貢献していません】

 キャラ在りきで展開させれば【そもそもこの題材が活きていません】

 いっそよくある設定の切り口を変えてみれば【どこかで見た話の継ぎ合わせに感じます】

 もうこうなれば文章の面でこだわりを【面白さに貢献してません。読み難いです(笑)】

 ……ざけんなよ、コラ。

 当時、率直にそう思った。

 その年の神筆受賞作のひとつは、それこそよくある物語にしか感じられなかったのに。

 悪いのは俺の感性かと納得できなくて同作品を他の賞レースにも投げたりもしたけれど、哀しいかな、そちらはなおさら評価が低いだけで、無個性を、感性の無さを、才能の無さを思い知るだけで――。

 結局、届くのは運良く才能がある人間だけで、俺では届かないというのなら、上等だった。

 繰り返すが、俺はすこぶる諦めが悪いのだ。

 思い返せば初投稿した賞レースもここだったから、やはり縁もあるのかもしれない。

 それに年一の締め切りだからこそ、決して速筆とは言えない俺達でも作品制作がじっくりできる。仮に、万が一受賞した際には、見返りとして受けられる承認欲求は絶大だ。

 出版、連載、メディアミクス。多くの人に触れられ、認めてもらえる可能性を得ることができる。そんな途方もない夢へのスタートに立つべく、投稿生活七年目の俺は、今年の《神筆大賞》に――彩夏に、望みを賭けていた。

 たとえ物書きとしては邪道で、心から誇れない手段を取っていると自覚していても。

 苦悩を押し殺して、俺は、笑うことができる。ずるい大人だから。

 同盟相手である彩夏も、ぎこちないけれど笑ってくれる。ならば、これでいい。

 だって、面白さは作り手にとって正義なのだ。そうだろう編集様?

            ***

《神筆大賞》の締め切りまで残り三ヶ月の、ある日のバイトにて。

 その日は翌日大型の新台入れ替えがあり、営業が終わっても店が落ち着くことは無かった。

 社員と専門の業者さんはホール内を慌ただしく動き、それでも手が回らないところを俺のようなアルバイトチーフがフォローに回る。

 そこかしこには並べられた新旧の台達、その撤去と設置の作業をシマ内で行っていると、

「センパイ、今日は残業ですかぁ?」

 不意に背中を指先でつんつんされる感覚にこそばゆさを覚える。

 振り返れば案の定、日那さんがいた。

「ん? うん……まぁね、バイト明日休みだからもう一踏ん張りするよ」

 深夜残業は肉体的にキツいが、俺は入れ替え業務に限ってはかえって望ましく思っている。

 なぜなら新台の取り付け時にはお客様よりも早く演出のチェックができるからで、それこそ俺がこのバイトを選んでいるもう一つの理由でもあった。

 パチンコやパチスロには、かなりの割合で有名作品とのタイアップ機種が存在している。

 アニメや漫画・小説が原作となった機種は、誰もが知る名シーンを胸熱くさせる数々の演出に変えて搭載させており、それらを見たくてわざわざ打ち手になるお客様も少なくない。

 登場キャラによって心臓に悪いほどびっくりしたり、ドキドキハラハラしたり、萌え悶えたり、格好良すぎたり、笑い転げたり。時には涙無しには見られなかったりもする刺激たっぷりな演出の数々をいち早く見ることは、俺にとって創作意欲の向上にもなるのだ。

 出来のいい台だと、その作品を知らない人間さえファンにさせてしまう魔力。

 もちろん金の動く勝負事であることが前提なので、人によりけりであり期待外れもあるのだけれど、かく言う俺もパチンコで知り大好きになった作品があるくらいその影響力は計り知れないのである。

 もし、いつか自分の描いた作品が評価されて、タイアップされるようなことがあったら。

 そんな風に考えたのも一度や二度では無かった。

「指示もらえれば手伝いますよ? その方が早く終わると思うし、ちゃちゃっと終わらせてまた飲みに行きましょうよ。アタシ、いいお店を見つけたんです」

「あ~……行きたいのはやまやまだけど配線関連は難しいし、台の持ち運びも重いからなぁ」

「運ぶくらいなら大丈夫です。いつも助けてもらってますから、たまには任せてください」

 胸の前で両腕をぐっと構える日那さん。やる気は十分らしいが、どう考えても無茶だった。

 なぜなら台は軽いやつでも三、四十キロは有するのだ。

 小柄な彼女からすれば、自分自身を抱えるようなものである。

「う~ん、気持ちは有り難いんだけど、やっぱりいいや。飲みはまたの機会ってことで」

「えぇ~、それじゃ困るんですよぉ」

「困る? なんで?」

「実は急ぎで見てもらいたいものが……だから任せてください。あ、コレ運べばいいです?」

「ちょ――待っ」

 俺が慌てて制そうとするも、日那さんは枠より外されかけた撤去台に手をかけてしまう。

「ふっふ~ん、アタシ、こう見えて力持ちだからへっちゃら――きゃッッ!!?」

 途端に倒れ込んで来る台、支えきれず落下する寸前――俺は彼女の後ろから、彼女ごとムギュッと抱えるように支え直す。大怪我に直結する最悪の事態は紙一重で防げたが、どうにも体勢が悪く力が入りづらい。身体のあちこちがやたら伸びて今にもつりそうだった。

「あっ――ぶねぇ……平気か?」

「っ、は……い」

「台を一旦元に戻そう。まだ力は抜かずに、ゆっくり前に行って……そう、その位置だ」

「……はい」

 ぷるぷるしながら背後から、ふらふらもぞもぞと微調整する。密着しているから俺の顔は彼女の耳元で、彼女の髪が不可抗力であちこちに触れてくる。くすぐったいし、いい匂いもしたけれど、そんなこと気にしている場合では断じてなかった。

「あの……センパイ?」

「なに?」

「助けてもらってなんですけど……近すぎません?」

「緊急だったんだから、仕方が無いだ――ろ?」

「ひ? です……よね…………すみ……ませ……ンッ」

 たとえなにかが変な場所に触れてしまっても、それも不可抗力である。

 そもそも安堵するにはまだ早い。まずはこの重たい台を安定させなければ。

 災害回避はもちろんだが、台自体も恐ろしく高価な代物なのだ。新台であればそこそこの車なら買えちゃうくらい。価値の下がった撤去台とて系列店で再利用したりするので、もし壊したら大問題になってしまう。

 ゆえに珍妙な体勢での処置は継続する。気持ちの上では迅速に。しかし、決して焦らずに。

「えっ……と……」

「ど、どうした?」

「アタ……シ……変な汁が……出てません? ぶわぁ~って」

「変なのは、みはるんの言い方だ」

 汁とか言うなよ女子が。頼むから笑わせないほしい。ガチでエラいことになる。

「冷や汗だろたぶん。俺もだから気にすんな」

「……気にしますよぉ」

「それより辛かったり苦しかったりしないか? もしどこか痛むなら」

「く、苦しいです、すごく……胸がぁ」

「え? 胸? まさか台にぶつかって骨折とか」

 だとすれば労災だ。なんてことだ、最悪の事態は防げていなかったのか。

 とりあえず台を安定させたら救急車を呼ばなくては。後は店長に報告して――。

「いえいえいえ、そういうんじゃ……ないです。やっぱり全然、だ、大丈夫なやつですぅ」

「そ、そうか――よしっ……んじゃ、ここをこうして――おっけ~、もう力抜いていいよ」

 ようやく事態が収束し彼女から離れた俺は一息つくが、すぐに異変に気付いた。

 彼女が俯いたまま眼を合わせようとすらしなかったから。心なしか肌が紅潮し呼気も荒い。

「みはるん? 本当に大丈夫か?」

 そう確認するも、黙ってコクコクと首を縦に振るばかり。

「なら、いいんだけどさ」

 俺は腕時計を見やる。もうすぐ定時の時間になりつつあった。

「やっぱりみはるんは先に上がりな。あと、容態がおかしいと思ったらすぐ言いなよ」

 日那さんは黙ったままもう一度頷くと、ポニーテールを揺らして足早に去って行く。

 何事も無ければいいが。本人が大丈夫だという以上いつまでもこうしていても仕方が無い。

 俺は再び仕事に戻る。テキパキと進めなければ朝になってしまうから。

 そんなこんなで、すべての作業が終わったのは深夜を跨いだ午前四時過ぎ。

 始発までは少しばかり時間が空いていたから、のんびり一服して帰宅しようと考えていると、

「なんだこれ?」

 スタッフ共有スペースの自分の引き出しには大きな茶封筒が。

 そういえば彼女、見せたいものがあるとか言ってたような――。

【初めて書きました。恥ずかしいですけど率直な感想が聴きたいです】

 そう記された封筒の中には、かなりの枚数のA4用紙。

「書いたって……まさか?」

 それは俺にとって見慣れた品、タイトルこそ無いけれど確かに小説原稿だった。

「俺が促してからまだひと月くらいだぜ、初めてなのにどんだけ速筆だよ」

 むしろ初めてだから、だろうか。余計な予備知識に左右されず、自由に描けるから。

 それにしても無数にある選択肢で彼女が選んだのが、よりにもよって小説とは。

 驚きが収まらぬままタバコを銜えた俺は、綴られた文章に目を落とし読み込んでいく。

 ページをめくる、めくる、まためくる。内容は少しのファンタジーに食を交えた笑い有りの恋愛物だ。誤字脱字は当然の如く散見されるし、要の設定は噛み合いが悪く、キャラの行動原理も随所で曖昧、全体構成も褒められた物じゃ無い。なのに、作者のコレを書きたいという圧倒的な熱量を含んだ会話劇が読み手たる俺を強引なまでに物語世界に引き込み、没入させる。

 最後のページを読み終えた頃にはおよそ二時間が過ぎていた。

 その間ずっと忘れていてすでに吸引口が湿りだしていたタバコに、俺はようやく火を点ける。燻らせたそれを吸い込み、普段よりやけに苦い煙を吐き出すと、とある感情に支配されている自分に気付いてしまう。

 無意識に力が入り、手に持つ原稿にはシワが寄っていた。

「……マジかよ、みはるん」

 声が震えてしまう。決して整った小説では無い。完成度で言えばハッキリ言ってお粗末だ。

 しかし、そんな小説であるにもかかわらず。俺の心は、ハンマーでぶっ叩かれたみたいに揺さぶられていた。突き抜けて面白かったのだ。どうしようも無いくらいに……。

 日那美春。俺の中で彼女の存在が貴重な理解者どころの話では済まなくなっていた。

 思考がふわついていた。その後どうやって帰宅したのかさえ正直覚えていなかった。

 いつの間にか、俺は見慣れた自室に立ち尽くしていたのだ。

「――――」

 壁際の机にはいつもの椅子に座る彩夏の影がカーテン越しに映っている。

 またヘッドフォンを付けているのだろう。こちらには気付いていないらしく、黙々とキーボードを叩く音だけが響いている。きっと今は夢中になって作品の続きを描いているのだろう。

 面白い、物語を……。

「俺も欲しかったよ、突き抜けた面白さを描ける才能が」

 日那さんにも、彩夏にもあるのに、自分には無い。それが無性に悔しくて、哀しくて、やるせなくて。俺は、彼女達に、猛烈に嫉妬していた。

            ***

 眼を覚ますといつの間にか毛布が掛けられていた。

 どうやら俺はシャワーも浴びずにソファーで眠っていたらしい。残業疲れと落ちまくる気分をどうにかしたくて、彩夏に「ただいま」も言わずにビールを一本煽ったところまでは覚えているのだが――。

 見やれば側にあるテーブルにはビールの空き缶がいくつも置かれ、まだ飲みかけの物まである始末……記憶こそ無いものの醜態を晒していたとすれば、いや、そうでなくても帰宅早々こんな様を彼女に見せたとあれば信用される身からすれば最悪である。

「ッ、すまない彩夏。俺、昨日は……すぐに片付けるから――って……あれ?」

 慌てて見渡すも彼女はおらず、代わりとばかりに定位置たる机にはメモが置いてあった。

【お疲れ様でした。今日は私、バイトなので原稿のレビューは帰ってからおねがいしますね】

「そうか、アイツ……バイトの日だったっけ」

 相変わらずどんな仕事をこなしているのか不明だが、メモを見る限りレビューをできなかったことは怒っていなそうだ。たぶん。

 それでも、やるべきことしないばかりか、だらしないところをみせたのは不甲斐ない。

 今晩すぐに謝らなければと考えつつ、俺はのそのそと動き始める。

【PS 封筒の原稿、もしかして龍成さんの新作ですか? 久しぶりですし、大分いつもとテイストが違いますけど、おもしろいです。勝手に読んでごめんなさい】

「おいおい、俺のだったらもっと完成度が――つ~か、日那さんの原稿読まれてたのか」

 才能溢れる彩夏から見ても、やはり面白いらしい。この原稿のポテンシャルを改めて実感した俺は、いても立ってもいられなくなって固定電話を手に取った。ダイヤルをプッシュ、時刻はまだ朝の八時、遅番ならまだ寝ているかもしれないと思案していたら――

「……もひもし、どうしたんですかこんな朝早く」

 五回目のコールで眠そうな声が聞こえてきた。案の定、寝ていたらしい。

「おはよ、悪いな。みはるんは今日ってバイトのシフト入ってたっけ?」

「いえ、お休みですけど」

「今日、時間作れるか? メシでも食いながら原稿の感想をガッツリ返したいんだけど」

 俺がそう告げると、声の調子があきらかに明るいものに変わった。

「やった、読んでくれたんですね。こっちはいつでも都合付くんでセンパイに合わせます」

「じゃあ、昼からにしよう。十二時に八王子駅の北口前、階段下に集合で」

「らじゃりました」

 いかにも若者らしい返答。必死に作った物の感想をもらえるのは、やはり嬉しいらしい。

 予定が決まったからには、こちらとしてもこうしちゃいられない。ゴミの片付けもそこそこにテーブルへ日那さんの原稿を広げると、すっかり手慣れた添削を赤と青のペンでしていく。

 他人の作品にかまけている場合じゃないのに。この素晴らしい素材を適当に扱う真似は決してできなかった。今の自分が彩夏や日那さんのように輝き宿す原石を磨くことしかできないのなら、その練度を上げることはきっとプラスになるとでも思いたかったのだろうか。

 いや、違う。

 やっていることは作家と言うより編集者みたいだが、迷走してる訳じゃ無い。

 俺は、自分の目的の達成の為に可能性を上げたくなったのだ。ずるい大人として。

            ***

 待ち合わせ時間の二十分前には八王子駅の北口に到着した。

 昼間とはいえ寒い中待たせては悪いという気遣いだが、当の日那さんはといえばすでに先に待っていた。最初はこちらを探すようにキョロキョロしていたが、気が付くと笑顔が弾ける。

「おはようございます、空センパイ」

「早いな、もしかして待たせちゃったか?」

「いえ、アタシも今来たとこですから」

 すぐに嘘だとわかった。彼女は小さな手をこすり合わせて寒そうに息を吹きかけたから。

 しかし、だからといって追求するようでは野暮だろう。それだけ楽しみだということだ、初めて書いた作品の批評をもらうのが。心なしか化粧にも気合いが入っているように見える。ヘアスタイルもいつもと異なる編み込み有りのお団子ヘアだ。

「じゃあまずはどこかお店に入ろうか。ファミレスとかでもいいけど、行きたいとこある?」

「昨日言いませんでしたっけ? いいトコを見つけたんですよ、昼と夜で営業スタイルを変えるお店なんです。本当は昨日行きたかったんですけど、センパイ残業だったから……」

「あ~、残業で思い出した。その後、大丈夫だったか? 胸が痛むって言ってたよな?」

 と、彼女の表情が熟れたトマトみたいに赤くなっていく。

「あの、できればそれ……忘れて下さい、本当に、まったく、これっぽっちも問題ないんで」

 両手をぶんぶん上下に振って主張された。幼い容姿的にも似合いすぎて愛らしい。

「……おぅ、そうか。ならいいんだけど」

 そう言ってやると、彼女の方も我に返ったように咳払いして取り繕う。

「では行きましょうか、こっちですよ」

 先行して案内する彼女は北口とは逆方向の南口へと歩き出す。

「ん? 南口の方にあるなら待ち合わせ場所も変えてくれてよかったのに」

「いえ、アタシにとってはこうして歩くのも重要なんです。似たシチュエーション、読んでもらった原稿にもあったでしょ? 改稿時によりリアリティを出すためにも取材は必要なんです」

「……なるほどね、やるなみはるん」

 すでに改稿を見据えているとは素晴らしい意気込みである。

 たとえフィクションであっても真実味は大事だ。《ならでは》や《だからこそ》がなければ説得力を持たせられないから。それが無ければ膝打つ設定も、ぶっ飛んだキャラクターも、ストーリーと噛み合ってこないのだ。オリジナリティーを出そうとしてせっかく創ったものを生かすも殺すも、最終的にはこの一点にかかってくると俺は思う。

 ……彩夏に一番足りないのは、コレなんだよな。

 ふと同居人の欠点を考えていると、日那さんはこう付け加えてきた。

「まぁ、一緒に歩くのは別の意図もありますけど」

「? どゆことさ」

「いえ、なんでもないです。センパイは気にしないでください」

 上機嫌な日那さんはそれ以上を語らず、そうこうしているうちに目的地に着いてしまう。

 南口から徒歩十分。雑居ビル五階のそのお店には、ピースと記されたワインレッドの看板。 

「ここメイドカフェなんですよ」

 真鍮で重厚な細工の施された扉の前で、彼女はさわやかにそう言った。なんですと?

 メイドカフェと、今、彼女は、そう言ったのか? そいつはお帰りなさいませご主人様から始まりきゃぴきゃぴきゃわわでちょめにゃんにゃんするうぇ~いな異次元空間のはず。

 一切合切恥じらいを捨て、脳内をすっからかんにして楽しむ店のはずなのだ。

 どう考えても頭を使う小説のレビューバックには合わない。合わなすぎる。

「……いやいやいや、ちょっと待てみはるん。ここじゃさすがにダメだ、集中できっこない」

「むっふっふ」

 と、なぜかドヤ顔でちっちっちと人差し指を振られた。

「なにそれ、ひょっとして俺バカにされてるの? オジさんを馬鹿にして楽しんでるのキミ」

 未経験男の照れ隠しとでも思われているのだろうか。無知を嘲笑われているのだろうか。

 だとしたらひどいが、おあいにく様である。

 このような店も若い頃に他で複数回経験済み。伊達に世間の荒波に揉まれた三十八歳ではない。俺はあらゆる意味で経験豊富なのだと豪語しようかと思っていたら、

「違いますよぉ。ご安心下さいなセンパイ。このお店はきゃぴきゃぴきゃわわでちょめにゃんにゃんするうぇ~いなメイドカフェじゃないんです。ちゃんとリサーチしてますから。ささ、行きましょセンパイ」

 こっちの思考を完全再現したような台詞と共に、半ば強引に腕を組まれ引っ張られる。

 ほぼ強制入店させられた俺。扉を開くとドアベルであろうお高い感じの硬質な鈴音が響く。

 もしやここはぼったくりカフェで、日那さんもグルなんじゃね?

 そんなアホな可能性も思考に差し込まれたけれど、次の瞬間――

 

「お帰りなさいませ、ご主人様」


 あまりの衝撃に驚愕し、固まってしまう。目の前の人形のような無表情、恭しい仕草で、お決まりの台詞を落ち着いた声でそう告げお辞儀する綺麗なメイドは、あろうことか顔見知り。

「っ……彩夏……なのか?」

 俺の反応に小首を傾げる彼女にいつもの地味眼鏡は無い。身に纏っているのは無駄にふわきゃぴしていないクラシカルスタイルのメイド服。ロングスカートと長袖はネイビーの色彩で生地も表面がつるりとしている大英国時代を彷彿とさせる代物、エプロンとヘッドドレスは白、全体のデザインも華美さは押さえつつ、しかし所々に品格を漂わせる透け感と刺繍が施されており、首元にはこの店のイメージカラーなのかワインレッドのブローチが付けられている。

 純粋に見蕩れていると、眼を細めじぃっと凝視してくる。その有様は相手を蔑んでいるような眼差しで「なにじろじろ見てるんですか、訴えられたいんですか」的でさえあって接客する者としては零点だったが、

「――ッ、龍成……さん!? なんで?」

 そこまでしてようやく俺を視認したらしい。

「そりゃ俺の台詞だっての」

 いやいや、目が悪いくせに眼鏡外してんならコンタクトくらいしなさい――って、まさか、あえてそうして人の視線を躱してるのか? これが彼女なりの苦手意識の克服方法なのか?

 真相は不明だが、さっきまでの恭しさを霧散させ耳まで真っ赤になる彩夏。

「私は……バイトで……」

「……大丈夫なのか店的に」

 ずっと不思議ではあった仕事先が、まさかメイドカフェだったとは。

「最初の頃は、迷惑ばかり……かけてました。でも、皆さん優しくて、私も、少しずつですけど、お役に立てるように……やってみれば、こんな私でも……成長できるんですね」

 成長。それは伸び代こそ異なれど誰しもに与えられた才能で、彼女とて例外ではなかったようだ。無謀で無茶だと決めつけていた俺からすれば複雑な心境だったけれど。

「あの……龍成さん……そちらの方は?」

 と、すっかりいつもの調子に戻ってしまった彩夏にそんな風に問われたので、俺が状況を説明しようとするも、日那さんにぐぐいっと割って入られてしまう。

「ねぇメイドさん? お客様がご来店してるんだから早く席に案内してくれませんかねぇ」

 心なしかそのド正論も口調が強めだったから、客なのに蚊帳の外みたいな扱いが不満だったのかもしれない。彩夏も少し困った表情を垣間見せたが、仕事の最中であると割り切ったのか深呼吸をし、人形のような無表情と恭しさを取り戻していた。

「…………。失礼いたしました。こちらへどうぞ」

 そう言われてしまえば、まぁ、こっちとしても説明は案内後でもいいだろう。

 ゆったりのBGMが流れる店内は、中世ヨーロッパにでも迷い込んだような独特の雰囲気。

 様式美を意識したインテリアに壁紙、天井に計算されて吊されたシャンデリアは光と影で絶妙な陰陽を作り出し、艶のある石床を美しく照らしている。昼と夜でスタイルを変えるという日那さんの言葉通り夜に活躍するバーカウンターやステージも設置され、ありきたりなメイドカフェとは一線を画す大人の癒やし空間たる仕様だった。

 ならば店名のピースはおそらく安らぎを意味しているのだろうと悟る。最初はイケイケメイドのピースサインかと思っていたのに違ったらしい。

 というか、こんな場所であの彩夏が働いていたなんて。

 普段の彼女からは想像できないので困惑してしまうが、ともあれ導かれてBOX席に着く。

 高級ホテル並みのまふっとする朱革張りのソファー。同じくお客様として日那さんはといえば居酒屋の時みたいに俺と対面に座る――のではなく隣に腰掛けた。外用のコートも脱いで居座る気満々だ。

 なんで? と聞こうとしたらウインク付きの笑顔を返された。かえって理解不能なまま、さらには俺をそっちのけで無表情の彩夏とどこか勝ち誇った無言で見つめ合い出すものだから、すんごくピリピリした空気で、さすがに居たたまれなくなって口を開こうとすると、

「っ、ご用の際はそちらのベルでお呼び下さい、すぐに参りますので」

 先んじて彩夏にそう告げられ、立ち去られてしまった。昼時だし忙しいんだろうか? 

「センパイ、あの綺麗なメイドさんと知り合いなんですかぁ?」

「ん? まぁ……ね」

 繰り返すが俺と彩夏の関係は込み入っている。胸を張って誇れない俺は素直に打ち明けられずつい言い淀んでしまったが、なんだかそれが面白くないとばかりに突っ込まれた。

「もしかしてカノジョさん、とかですか?」

「……違うよ」

 それだけは明確に否定すべく、緩やかに、しかし確固たる意思を持って首を横に振る。

 だってあまりにも失礼だろう? こうまで情けない俺が、若くて才ある彩夏の彼氏なんて。

「そうですか、だったらいいんです。ほっとしちゃいました」

「は? どうしてみはるんがほっとするのさ」

「ふふ、そのうちわかりますよ。今は、まず何か注文しましょ。お昼ですから、やっぱりランチセットですかねぇ。軽食からボリュームたっぷりまでありますけど……どれにします?」

 テーブルにメニューを広げると、日那さんはおもむろに密着すれすれまで詰めてきた。

 おいおい。なにその思わせ振りな態度。どういうつもりだよ。

 子ウサギどころか小悪魔みたいな、いつもとひと味違う懐き具合。加速していく妖しげな温度に、不覚にも胸が高鳴っていた。もし俺が同世代だったらコイツ俺のこと好きだわ絶対ってな感じで希望的観測を鵜呑みにして勘違いしていたかもしれない。

 が、世の酸いも甘いも経験済みの歴戦のオジさんには通じない。きっと。たぶん。

「センパイ?」

「なな、なにかね?」

 日那さんとメニューを見合う。実際、ただそれだけなのに、どうにも落ち着かない。ちょいちょい肩が触れ、その度はにかむ彼女の纏う空気がなんだか一段と甘くて、大人と子供ほどの年齢差があるにもかかわらず女として意識してしまう。気合いの入った化粧の効果か艶のある唇には色気があり、襟ぐりがアシンメトリーの白ニットのせいで鎖骨どころか肩まで開いて覗ける肌はきめ細やかで眩しい。

 と、こちらの舐めるような視線に気付いたのか恥じらい混じりの声が上がった。

「えっと……初めてですから、やっぱりAからがいいですかね? Bでもアタシ、全然だいじょうぶです。大胆かもしれませんけど、センパイなら……いきなりCでも……ありですよ」

 ちょっとぉ? マジなに言っちゃってんの、みはるん!?

 いや、別に彼女はおかしなことは言っていない。あくまでランチについての話をしているのだ。おかしいのは俺だ。本当に落ち着け空龍成。

 きっとこの胸の高鳴りもニコチン切れによる不整脈だ、そうに違いないのだ。

 ふう、だったら暫し我慢するしかないな。最近の飲食店はどこもかしこも店内禁煙だもの。

「決まりましたかぁ?」

 と、小首を傾げ、幼さと大人びた感じが混同する反則級の潤んだ上目遣いが到来する。

 うん、これは無理だ。このままではおかしく、否、すでに大分おかしくなっていたと思う。

「悪い。外でタバコ吸ってくる、俺は日那さんと同じ物でいいから注文しておいて」

「え? あ、センパイ……」

 いい大人としての余裕を取り戻すべく、一旦逃げるように外に出た。

「……ぷはぁ、やれやれだ」

 外に設置された喫煙所でタバコに火を点け、ぼんやり物思う。初心に戻らなければと。

 タバコは百害あって一利無し。昔、どっかのお偉いさんはそう言ったらしいが、俺はそうは思わない。発がん率がどうとか周囲に害悪だとか騒がれて税金ばかり跳ね上げられて近年の世の中の風潮も脱タバコになりつつあるけれど、結局のところ節度の問題だと思うからだ。身体にいい食べ物だろうと食い過ぎれば太るのと一緒、タバコにだってメリットはあるのだから。

 そのひとつが、こうして当人の気分を変えることだと思う。

 いつの時代もはみ出し者に好まれ吸い続けられているのは、そんな自分を格好良いと思い酔いたいからだと俺は考える。依存に近いと言われればそうだが、人間なにかに依存しつつ生きているのだからタバコだけ特別視するのはおかしいだろう?

 ようするに関わり方次第なのだ。

 俺、空龍成にとってそう思える存在がタバコを含めて三つある。

 残りの二つは、酒と、女である。どれも自分を変えられるし、酔わされるが、そのぶん深入りすればろくなことにならないところなんて、実に一緒だと思わないか?

 リスク無くして人生にハリは生まれない。生きる意味を見出せない。

 だからこそ、俺はこの三つを好んで利用する。

 そう、利用だ。言葉こそ悪いが、そいつが一番しっくりくる。

 それ以外の方法が見つからないから。霞彩夏、そして、日那美春を利用する。

 すべては最大目的の達成、承認されし受賞作を生み出す為に――。

 十分ほど経ってから店内に戻ると、すでに注文した料理が運ばれてきていた。ランチのBセット、その主役たるハヤシオムライスが湯気を立てて二人分テーブルに並んでいる。

「遅いですよぉ」

 ほっぺをぱんぱんにしてむくれた日那さん、そんな彼女より気になることが俺にはあった。

 これは彩夏が持ってきてくれたのだろうか。だとしたら仕事ぶりを見逃したことになる。

 なんとなく姿を探さずにはいられなくて、辺りを見渡していると、

「……さっきの人を探してるんですか?」

 あきらかに不満そうに言われてしまう。放置を継続されているのだから無理もないが。

「ああ。これ、彼女が持ってきたの?」

「……いえ、別のメイドさんです。忙しいんじゃないですか?」

 機嫌を損ねたのか、ぷいっと首を振られた。このままではレビューバックにも支障が出そうだったので、俺は優先順位を切り替える。彩夏のことは機会がまだあるはずだから。

「そっか。まぁそうツンツンすんなよ。待たせて悪かったって」

 せっかくの出来たてなんだし熱いうちにいただこうぜと続けたら、じろ~りと睨まれた。あきらかにふてくされている。やれやれ。

「わかった、今日の飯代も俺が持つよ。なんならデザートも奢ってやるから」

「食べ物で機嫌を取ろうなんて浅くないですか、センパイ」

「え、ダメ? 気に入らない?」

「はい、誠意が足りません」

 面倒なことになった。これだから若い女性は扱い難い。ふてくされた女とメシを食う趣味は持たんし、はてどうしたものかと考えた末、俺は店員さん、もといメイドさんを召喚した。

 来たのは彩夏じゃなかったけれど、今は逆にその方が良かっただろう。

「お呼びでしょうか、ご主人様」

「ああ、トッピングのホワイトソースをもらえるかな」

「なにをする気なんですか?」

 いぶかしい表情の日那さんに造り込んだ笑顔を返す俺。まさに普段の接客のたまものだ。

「ご希望でしたら文字などお書きしますが?」

「ありがとう。でも、いいんだ。書くのは俺だから」

 状況が読めないのか、首を傾げるメイドさんと日那さん。

 そんな彼女達の目の前で俺は手際よくソースを振りかけ、こう書き記す。

【I LOVE YOU】

 おまけにウサギさんまで描いてあげると、彼女達の眼がこれでもかと丸くなる。一瞬の沈黙後メイドさんは黄色い歓声を上げ「ごゆっくりどうぞ~」と素早く去っていき、日那さんは一気にぼしゅんと上気したかと思えば「ぁぅ……ぁぅ」と小さく悶えだしてしまった。

「どうした? ヘンテコな声出して」

「……だって……センパイ……これって……」

「ああ、俺の素直な気持ちさ。俺、キミの作品の熱烈なファンになっちゃったよ」

「…………へ?」

「初執筆お疲れ様、みはるん。あの作品はとても面白かった。キミには才能がある、長年この道にいる俺が嫉妬しちゃうくらい、とびきりのヤツがね。凄いよ――しかも、あの作品にはまだ伸び代がある。キミさえ良ければ、俺に、より完成度を高める手助けをさせて欲しい。キミの作品にベタ惚れしてしまった……この俺に――駄目かな?」

 俺の心からの告白に、日那さんは眼が点になり、少し引きつった笑みを返してくる。

「駄目じゃないです。全然、駄目じゃないんですけど……LOVEなのは作品なんですか?」

「ああ、もちろん。よかった。そうと決まればメシを済ませてすぐに取りかかろうぜ」

 一段落付いて安堵した俺はオムライスをぱくりとほおばる。

 日那さんは俺と俺のファンレター付きの方を暫し微妙な顔で眺め「くぅ……頑張れアタシ」と呟きながらそれはもうがつがつと勢いよく食べ始めた。

 ふむ、喜んでもらえてなによりである。さぁ、本題に入るとしよう。

            ***

 彼女への手助けは今後の俺の為になるはず。ゆくゆくは誇れぬ手段、制作割合の不均等な合作として成り立つかもしれない。同盟を結ぼう、組もうと直接的に言わなかったのはまだ保険候補の段階だからである。

 食後にはコーヒータイム。俺はブラック、日那さんはクリームソーダ。

 ただ、注文する時も品物が運ばれてくる際もメイドさんは彩夏じゃなくて。丁寧さを疎かにするつもりは微塵も無いけれど、本日の本題たるレビューバック中も隙を見ては、しきりに辺りを見渡していた。

 でも、彼女の姿は見当たらず。気になった俺は日那さんが化粧室に立った頃合いを見計らって確認する。忙しいなら仕方がないけれど、話せるなら話しておきたい。昨晩の一件もあるし俺がここにいる理由をいつまでもちゃんと説明しないままでは、なんだかサボっていたところを見られたみたいでそわそわしてしまうのだ。

「あの、すみません」

「はい、いかがなさいましたか? ご主人様」

「俺達を席に案内してくれたメイドさんは別の仕事中ですか?」

「ああ、霞さんですか? さっきまでは居たんですけど、なんだか急に身体の具合が優れなくなったみたいで――早退しちゃったんですよ」

「え?」

 瞬間、俺の思考は真っ白になってしまった。

「お待たせしました――って、センパイ? どうしたんですか? 顔、真っ青ですよ」

 そこに席を外れていた日那さんが戻ってくる。

「いや……その……」

 こうなってはレビューバックが半端になってしまう日那さんには悪いけれど、現状優先すべきは彩夏である。状況を把握していない彼女に急な私用が入った旨を伝え、後日の埋め合わせを約束して別れた俺は、店を飛び出し猛ダッシュで帰宅するハメになった。

 彩夏が体調を崩す。その要因には思い当たりがあった。

 超長時間集中の執筆を毎日続けていれば、疲れが溜まらないはずは無いのだ。

 唐突な緊急事態に、色々と考えていたはずのあれこれはすべて吹き飛ばされていた。息も絶え絶えで自宅に辿り着き乱暴にドアノブを捻る。鍵がかかっている。彩夏は鍵を忘れがちだ、どっちだ? まさかまだ帰ってないのか、すれ違いになったのか、だとすればどこに、どこかで倒れていたりしないだろうな――くそっ、居てくれっ。

 祈りながら扉を開け飛び込む。

 締め切られた遮光カーテンのせいで、まだ昼間なのに、薄暗い。

「彩夏」

「……」

 俺にとってのベッド代わりであるソファーで膝を抱え座る彩夏を視認し、少しだけ安堵した。

 ヘッドフォンはしていない。こちらにも気付いているはずだ。なのに、俺を見ようとせず、殻にでも籠るように身を丸く縮めてしまう。それほど辛く、苦しいのか……。

簡単な受け答えさえ億劫なほど容態が悪いのなら、すぐにでも病院に連れていかなくては。

そう逡巡するも、先に彼女から声が漏れた。

「……ごめんなさい」

 それはいつもどおりの、口癖にも等しい台詞。

 今回は心配を掛けてごめんなさい、そんな意味合いで使ったのだろう。

「どうして謝るのさ。謝る必要なんてキミにはなにひとつ無いじゃんか。それより早退するくらい体調が悪かったんだろ? 熱はどうだ? 頭が痛かったり、寒気がしたりしないか?」

 彼女は黙ったまま首を振った。いつもの彼女であるならば、ひとまず緊急度は下がりそうだったが、最近の彼女はオーバーワーク気味だったのもたしかで。

「ひとまず横になるといい。一眠りすればすっきりすることだってあるからさ」

「…………」

 そう言ってやると、彩夏はやっとこちらを向いてくれた。

 ただ、なにかを言いたそうな眼差しを携えて、しかし口にはせず、やがて促しに応じるように彼女用のシングルベッドへと潜り込んでいく。

 彼女が口を噤んでしまう。これもいつものことだ。

 いつものこと。だけど、それも俺が理解できていないだけで、謝るようなことが、噤んでしまう言い分が、もしかしたら彼女にはあるのだろうか?

 肝心な部分はいつだって打ち明けてくれない。

 俺は打ち明けられるのをいつだって待っているのに。

 同じ目的で動く同盟関係であっても、完全に信頼されるにはまだ時間が足りないのだろうか。

 いっそ踏み込んでみるべきなのか、しかし、それは一定のリスクを伴う。適度な距離感を見失えばこれまで築いた関係性にヒビが入るリスクが。安易に選択肢を間違えるわけにはいかない。ただでさえ遠い受賞がもっと遠退いてしまうから。

「俺も今日は部屋に居るから、何かあったら声をかけてくれよな」

「……はい」

 ようやく聴いた彼女の声は非道く悲しそうだった。

 そんな声になってしまう理由を、いつかは聞けるのだろうか。

 彼女の心の深部、そこまで踏み込む覚悟は、今は、到底持てない。

 でも、だったらせめて、同盟者としての最低限の役目だけは果たさなくては。そう思えた俺は、昨日できなかった彩夏の原稿のレビューバックに速攻で取りかかろうとして、部屋が片付いている点に今更気付いた。出かける前は慌ただしくて散らかったままだったはずなのに。

 彩夏がやったのであろうことに驚き、加えてプリントアウトした原稿に、絶句する。

 ――嘘だろ……これ。

 完成度の低い日那さんの原稿の後だからか、余計に彼女の良さが際立っていたのだ。

 滑らかに染み込んでいくような文章には指摘点がほぼ見当たらず、それどころか足りないと思っていた真実味さえ抜群で、ここまで凄まじい物語強度だと違うことを危ぶんでしまう。

 俺はプロットを取り出し、再度原稿を読み直す。これは俺と彩夏の合作だ。登場人物はあくまで二人で生み出したはずのキャラクターだ。

 なのに、こいつらはすでに俺の知らない表情で、俺が知るよりも生き生きと存在していて。

 俺の中で最近の彩夏の言動が、追い打ちの如く高速再生されていく。

 生活力、文章力、彼女に足りなかったはずのそれらはすでに補完されつつあって、

 ――ッ、俺は……もう……いらないんじゃないのか?

 彩夏が謝る理由も、もしかしたら不要を遠回しに示しているのだとしたら。

 その可能性を認めたくなくて、強く被りを振るう。

 同時に、脳裏にはなぜか日那さんとの別れ際の会話が過ってくる。

『今日は本当にありがとうございました』

『実は酷評も覚悟してたんですけど、おもしろいって言ってもらえて嬉しかったです』

『しかも、率直な感想だけじゃなく改稿用にこんなに丁寧な例文指導まで頂けて』

『感激……しちゃいました』

『センパイがいてくれたら、アタシ、これからもっとがんばれそうです♪』

 こっちの都合で忙しなく一方的に切り上げてしまったのに、ひたすら感謝の意思表示だった。

 胸打つものを感じてしまう。必要とされることに喜びを覚えずにはいられない。

 迷いの渦は大きく深くなっていく。果たして、自分は、このままでいいのか?

『これからもよろしくお願いしますね?』

「…………これから、か。ちくしょう……」

 彩夏の技術が俺を用済みとするほど上がったのなら、負担がさらに減って儲けものだとずる賢く割り切れば済む話なのに。それができないのは、腐っても自分が作家でありたいからだ。

 本当は誇りたいのだ、自分自身に。見出したいのだ、自分に価値を。

 すっかり使用の減っていた作業椅子に腰掛けると、壁に貼り付けられた過去作の選評達が今の俺を見下ろしてくる。俺はそいつらを睨み付けながら、内容を読み返していた。

 

《神筆大賞》の締め切りまで残り八十九日のその日。

 俺、空龍成はすでに致命的なミスを犯していたことを、後に知る。

 ターニングポイントとなるXデーへの導火線は、じっくりと燃え進んでいたのだ。

 慎重に選択肢を決めていたつもりでも、上手く転ばないのが人生なのかもしれない。

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