「婚約破棄? だったら私と結婚しよう」と強引に婚約したら「あなたを愛することなんてできない」と言われてしまった(なのに彼は動揺している)
「言っておきますが、こんな風に婚約することになって……。あなたを愛することなんて、きっとできませんから」
帝国の第二皇女アナスタシア・カレンは、婚約者になったばかりのリアム・ローウェルから告げられた。
広い帝国学院の外れにある池のほとりに設置されたパーゴラの下。アナスタシアの隣でベンチに座ったリアムは、わずかに眉を寄せている。
彼にとってアナスタシアとの婚約は、本意ではない。それはアナスタシアにとっても、わかっていたことだった。
◇ ◇ ◇
十日程前のことである。帝国主催の舞踏会の夜。大ホールの熱から少し離れようと、バルコニーに出たアナスタシアは、小さな事件を目撃していた。
アナスタシアの視線の先には、ストロベリーブロンドの男性。後ろ姿ではあるが、背が高く均整のとれた体つきから、公爵家の二男であるリアム・ローウェルだとわかった。
彼のことは、良く知っていた。互いに十八歳で、帝国学院の同級生ということもあるが、何より彼は、アナスタシアの婚約者候補の一人だったからだ。
自分から進んで前に出るタイプではなかったが、剣技と雷魔法の扱いが抜群に秀でていると、アナスタシアは彼を高く評価していた。実際、学院の魔法騎士選抜試験で彼は、歴代で最高の成績を収めている。
アナスタシアは帝国の皇女として、将来的には帝都を離れて、西方を治めることになっていた。西はこちらより、治安が悪い。伴侶は、強い方が良い。
だからアナスタシアとしては、リアムが良いと思っていた。だが、残念なことに、既に彼には婚約者がいた。それで早い段階で、候補者から外れてしまっていた。
そのリアムが今、婚約者の浮気現場に居合わせてしまったらしい。どうやら婚約者である令嬢は、あろうことかリアムの知人と抱きあい、口づけをしていたようだ。
「……リアム、あの」
「…………」
「……リアム、お前には悪いが、俺はずっと彼女を――」
「やめろ」
怒気を含んだリアムの声が、夜風の中に低く響いた。
「婚約は、破棄する」
アナスタシアがそのチャンスを、逃がすはずがなかった。
急ぎこの場を立ち去ろうとするリアムの進路をふさぐように、アナスタシアはわざと姿を現す。
「おっと」
ぶつかる直前で、アナスタシアが声を出せば、リアムはハッとして足を止めた。
彼の淡い空色の瞳が、揺れているように見えた。切れ長の目をしたリアムは日頃涼やかな印象なのだが、今は何だか様子が違う。
「皇女殿下」
「……リアム、泣いているのか?」
アナスタシアが無遠慮に言うと、敬意を表して頭を下げていたリアムが顔を上げた。リアムは目をつり上げて、怒ったように答える。
「いいえ。まさか」
「ふうん。……今しがた、婚約を破棄したのだろう?」
「……見ていたのですか?」
「見ていた。リアム、本気か?」
アナスタシアの追求に、リアムは困惑しているようだった。それはそうだろう。これまでアナスタシアとリアムは、それほど親しい間柄というわけではなかった。自分がアナスタシアの婚約者候補となっていたことも、リアムは知らないだろう。
「……本気ですが、最終的には、父の許可が要るでしょう」
「では、公爵には私が話をする。リアムの心が決まっているのなら、それでいい」
「……皇女殿下が?」
いよいよ混乱した様子のリアムに、アナスタシアはにっこりと笑顔を見せた。
「リアム・ローウェル、私と結婚しよう」
「……は?」
ということで、アナスタシアはリアムを婚約者とした。
◇ ◇ ◇
このリアムという人は、高位貴族としては珍しいくらいのロマンチストで、「結婚は、愛し合う二人がするもの」だと、アナスタシアとの婚約に抵抗した。
おそらくはとても大事にしていた元婚約者に浮気されてなお、そのように言うのだから、アナスタシアは驚いてしまう。と同時に、リアムにとても好意的な感情を抱いた。結局、純粋に人が良いのだ、彼は。
皇女アナスタシアから父である皇帝へ、そしてリアムの父である公爵へと話は進んでいき、リアムに拒否権は与えられなかった。
リアムはリアムで、浮気をした元婚約者との婚約破棄を、公爵に許可してもらっていた。公爵がそれをあっさりと許したのは、すでに皇帝からアナスタシアとの縁組について、内々に打診があったからだ。
皇帝からアナスタシアとの婚約についての親書が届けられた際、リアムは「愛のない政略結婚など嫌だ」と言ったようだが、公爵と夫人、そして兄から一笑に付されたようだ。
なのでアナスタシアへの「あなたを愛することなんてできない」というリアムの宣言は、アナスタシアにとっては仕方がないものなのだろう。彼の立場で想像すれば、十分理解できるものだった。アナスタシアの強引さに、リアムが反発するのも無理はない。
素直に反省するべきだと思った。だからアナスタシアは、眉尻を下げた。
「……それは悲しいな。できるなら、温かい家庭を築きたかったのに」
がっかりして、さてどうすれば挽回できるのだろうかとアナスタシアは考えはじめたのだが、リアムの方がアナスタシアの表情を見て、わかりやすく動揺した。
「……いえ、あの。……すみません。今のは、言葉が過ぎました。……取り消します。きっとできないと、断言するには早すぎる、と思いますし……。皇女殿下とは、その、あまり話したこともなかったわけで……」
リアムは一生懸命言葉を選んでいた。強引に進められた婚約が面白くなくて言ってはみたものの、アナスタシアが想像以上に落胆したので、焦ったのだろう。
きみがあやまることはないのに、と思いながらアナスタシアはリアムを安心させるためににこりと笑った。
「では、これからたくさん話そう」
アナスタシアの表情を見て、リアムもほっとしたようだった。
そのわかりやすさが、好ましいとアナスタシアは思った。彼はやはり、人が良いのだ。少々、心配になるほどに。だからアナスタシアは、心に決めた。
「これから私は、きみに幸せになってもらえるように努力するよ。誓うよ。浮気はしない。一生、リアムだけだ」
アナスタシアの告白に、リアムは一瞬面食らった表情をして、慌てて顔を逸らした。
「それは、ありがとうございます……」
横を向いて隠そうとはしていたが、リアムの頬から耳にかけて、赤くなっているのがわかった。
その横顔に、アナスタシアの胸が何故だかキュッと締め付けられるようになった。
思わずアナスタシアはリアムとの距離を詰め、その頬に手を伸ばすと、リアムの顔を自分の方に向ける。
「……!?」
「……きみは綺麗な顔をしているな」
アナスタシアは親指を動かし、リアムの唇にそっと触れた。
「元婚約者とは、どこまでした?」
驚いた様子のリアムは、言葉に詰まったように何も答えなかった。それが良くわからないが、何となくアナスタシアを刺激した。
だからアナスタシアはあえて優雅にほほえんで、リアムの頬に唇を押し付けた。上書きしてやる。あとから振り返れば、そういう気持ちだった。
アナスタシアは一瞬で離れたが、リアムは今度こそ硬直して、動かなくなった。
アナスタシアはリアムの表情を確かめずに、彼の側から離れる。
「もう行かなくては。午後の授業が始まる」
そう言いおいて、彼の元を去ったアナスタシアに、すぐに従者である女騎士が近づいてきた。子供の頃からの、長い付き合いである彼女は、無表情のまま遠慮なく言葉を投げつけてくる。
「アナスタシア様、お顔が赤いですよ。意外ですね、そんな年相応の反応をするなんて」
「イネス、うるさい」
「ローウェル様の純朴さが、アナスタシア様の心の琴線にふれたのですね。意外にも」
「…………」
「大切になさってください。誇張と虚構で、あなた様に取り入ろうとする人間が圧倒的に多い中、貴重なお方です」
「……わかってる。私はもう誓ったのだから。一生、リアムだけだと」
◇ ◇ ◇
ところであの元婚約者は、何故浮気などしたのだろうか。
贔屓目でなくリアムは、家柄も良く、人柄も良く、容姿は整っていて、剣と魔法の扱いにも長けている。成績だって悪くなかった。一体、何が不満だったのか。
数日後、帝国では狩猟大会が開かれ、アナスタシアはリアムと一緒に参加した。
リアムは弓の扱いも上手く、馬上から獲物を次々にしとめていた。アナスタシアは少し離れた場所で、感心しながら彼の姿を見ていた。
彼の何が不満で、元婚約者は浮気をしたのだろう。ふとそう思ってアナスタシアは、自分の隣に控えていたイネスに聞いてみた。既に調査済みだったのだろう、イネスは淡々と答える。
「ローウェル様が手を出さないから、本当に自分のことを好きなのかと不安になり、また物足りなさも感じたようです。そこに別の方からアプローチがあったと」
「……馬鹿だな」
「馬鹿ですね」
「まあでも、私にとっては幸運だった」
笑ってアナスタシアは、イネスが用意していた自分の馬に跨った。リアムの近くまで馬を動かし、アナスタシアも獲物を狩る。
そうやってしばらく狩場を進むと、参加者の一人が怪我をしてその場から動けなくなっているのを発見した。乗ってきた馬は、側を離れてしまったようだ。
アナスタシアは馬から降りると、イネスに指示した。
「イネス、私の馬で彼を連れて行くように」
「かしこまりました。しかし、アナスタシア様は?」
同じように、馬から降りて彼の様子を確かめていたリアムに、アナスタシアは声をかけた。
「リアム、乗せてくれないかな」
驚いた様子でこちらを振り返ったリアムは、しかし素直にうなずいた。
先に行ったイネスに続いて、アナスタシアは手綱を持つリアムの腕の中となった。そこは意外にも居心地が悪かった。何だか鼓動が早くなって、落ち着かない。
そんな気持ちはおもてに出さずにいたアナスタシアに、真上から声が降ってきた。
「皇女殿下」
「アナスタシアでいい」
「……アナスタシア様」
「うん?」
「狩り、お上手ですね」
「ありがとう。……でも、もしかしてリアムにとっては、好ましくなかったかな」
「……いえ? 何故ですか」
「私はドレスや宝石で着飾ってパーティに出席するより、こうして狩りをする方が好きなんだ。でも、皇女らしくないと、時々言われていることも知ってる。リアムもそう思うなら、少し控えようかな」
「いいえ、俺は別に。アナスタシア様らしくしているのが、一番では?」
リアムは何ともない様子でさらりと言ったが、その言葉はアナスタシアの胸に響いた。
アナスタシアは体をひねってリアムの顔を振り仰ぐ。近い距離で目が合って、リアムは焦って馬を止めた。
「ちょ、危ないですから前向いてください」
「リアム、きみに好きになってもらうには、どうしたらいい?」
「……は?」
「私を愛することなんてできないと、きみは言った」
「……言葉が過ぎたと、すぐに取り消しました。許していただいてなかったんですか……」
「そうじゃないけれど。でも、やっぱり私も、リアムに好きになってもらいたい。今は前よりもっと、そう思ってる」
それを聞いたリアムは驚いた表情をした後にすぐ目を閉じて、顔を逸らして深く息をついた。
アナスタシアは顔を曇らせた。また、強引すぎたのかもしれない。
「……リアム、私が嫌か?」
珍しく不安を感じたアナスタシアに、目を開けてリアムは、困ったように言った。さっきは気がつかなかったが、顔がほんのり赤くなっている。
「そうじゃなくて、ですね。今のは、ちょっと自分を落ち着けるための深呼吸です。……それより、アナスタシア様の方こそ、嫌じゃないんですか?」
「私が、リアムを? 何故?」
「ついこの間まで、別の人間を好きだった男が、好きだと言ったとして、信じてもらえるんですか?」
「……好き? 私を?」
「いや、例えばの話で」
「リアム」
「……あーもう!」
リアムは観念したように、しかし何故かヤケになった様子で白状した。
「すでに! 好きです! チョロすぎる自分が嫌ですけど! あなたは美人で、性格もまっすぐで! 一生俺だけだって言われて、惚れるなって言うのが無理な話でしょう!」
「リアム……」
「はあ」
と、言い終えて盛大にリアムは肩を落とした。告白(?)されておいて何だが、アナスタシアはつい聞いてしまう。
「もしかして元婚約者も、彼女からきみに、想いを告げた?」
「……そう、ですね」
「つまり、流されやすい」
「……だからそういうのが、嫌じゃないんですかって、聞いたじゃないですか」
拗ねたようなリアムの表情に、アナスタシアは可笑しくなって笑う。
「嫌じゃない。嬉しい。だってこれからは私が、一生私だけを見てもらえるように努力すればいい」
リアムはまた言葉に詰まって、少し顔を逸らした。もうわかる。彼は照れているのだ。ほら、耳まで赤い。
「……そろそろ前、向いてください。馬だけが戻って、アナスタシア様が戻らないと、皆が心配します」
「わかった」
前を向けば、リアムが手綱を操って、馬を歩かせる。
少ししてリアムが、どこか心細そうな、小さな声で言った。
「……本当は、アナスタシア様を好きになるのは、少し怖いんです」
何故、とアナスタシアが振り返る前に、リアムは続けた。
「たぶん、俺の方がずっと、あなたを愛してしまうから」
「……どうして?」
「なんとなく、です」
アナスタシアは、ぽすんと背中をリアムに預けた。呼吸を、鼓動を感じる。さっきは落ち着かないと思った胸の高鳴りが、リアムのそれと重なれば、苦しいのに、心地よい。
「そんなことない。それを私は一生をかけて、証明してみせるよ」
少しの沈黙。それからリアムは、アナスタシアの耳元にそっと顔を寄せた。頬に唇が触れそうなくらいの距離で、囁かれたリアムの言葉が、アナスタシアを優しく包んだ。
「では俺も、一生をかけて、あなたを支え、守ります」
(THE END)