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東京喫茶店 ~あなたにとっての30円の価値とは~

作者: 超プリン体

なろうにも 現代小説があって いいじゃない(字余り)。

 軽く化粧をし、髪を整えてマスクをする。


 コロナ禍は迷惑だけれど、マスクのおかげで化粧の手間が省けるのはありがたい。さらにリモートワークにもしてくれればいいのだけれど、お役所の受付けというものは重要なお仕事だし、たぶん最近流行りのAIにも難しい仕事だ。私がやるしかない。


 ベージュ色のバッグを肩にかけ、姿見すがたみを見る。よし、今日も清潔で地味で話しやすそうなお姉さんだ。これなら今日もうまく職場に溶け込めるだろう。


 エレベーターを降りてマンションの玄関から通りへ出ると、初夏というのに肌寒い空気と、青空と街路樹の緑が心地よく身体を刺激した。職場に近いこのマンションの一室を安く買えたのは、議員である父のおかげだ。ありがたい。ただ、少し離れるとまるで都会のブラックホールのような貧民街があり、ボロボロになって放置された一軒家や、アルバイトで食うや食わずの生活を営む若者たちのためのウサギ小屋のようなアパートも存在する。日本の格差社会を象徴するようなのがこの区画だ。閑静かんせいな雰囲気はあるけれども安心は禁物だ。犯罪は突如として訪れ、周囲を緊張と恐怖に包み込むのだから。


 バッグのポケットからスマホを取り出し時間を確認する。7時45分。計画通りだ。角を左に曲がり、脇にある地下への階段を降り、行きつけの喫茶店へと向かう。ドアを開けると狭い店内にはいつものようにお客がそこかしこに座っている。奥にいるウェイターに指を一本立てると、マスクをした彼女は左の壁を手で示した。おひとり様専用のカウンター席、私のいつもの場所だ。笑顔でおじぎをして席に座る。


 私は朝、早番でない日はいつもこの店で朝食を摂る。狭くて暗い店内だけど、居心地はとてもいい。前面の壁に取り付けられたタブレットで注文が出来るのも、ポイントが高い。私は少し考えた末に、今日はハムエッグセットを注文した。


 その時、左隣で声がした。若い男の声のようだ。


「なんだよ。値上げしたのかよ。聞いてねえよ……」


 ん? 値上げ? 私はさっき注文したハムエッグセットの値段を、タブレットで確認した。なるほど、確かに30円値上げされていた。


 じゃらじゃら、という小銭の音が、左隣から聞こえた。マナー違反かなとは思いつつ、白い半透明のコロナ防止パーテーション越しに、その人を見る。シルエットしか見えないけれど、若くて私より小柄な、男性のようだ。


 少し身体を後ろに倒して、その男性を後ろから見てみる。センスは悪くないが安物っぽいグレーのジャケットとベージュのパンツを身に着けている。髪はパーマをかけているようだ。肩が小刻みに揺れているのは、恐らく机の上で、小銭を数えているのだろう。その動きが止まり、男は「チッ」と舌打ちをした。足りなかったのだ、小銭が、と私は思った。


 金額にすると恐らく30円か、40円だろう。そのような小銭の余裕さえない、人なのだろうか? それともたまたまだろうか? だって、30円の余裕がない人が、このような洒落たお店で、ちょっとリッチな朝食を食べるはずはない。そのような無理をしなくても、もっとふさわしい朝食が、そのような人にはあるはずだからだ。なぜだ、どのような事情が……、と私は無性にその人に興味を覚えた。


 静かな店内で、がたっと割と大きな音を立ててその男性は、立ち上がった。その顔を盗み見ると、ちょっと日焼けしていて目が大きく口元にヒゲを蓄えていて、ほっそりしていて、海外の男性のように見えた。留学生だろうか? 外国人労働者だろうか?


 狭い店内は、立ち上がるのにも少し苦労する。男性は窮屈そうに、身体をずらして席を去ろうとしている。私は思わず、彼に声をかけてしまった。


「あの」


 大きかった彼の目が、さらに大きくなった。驚きの表情だった。


「は、はい?」


「もし間違えてたらすみません、お金、足りないんですか?」


 大きく目を開いたまま、凍り付いたようだった彼が、ぼそりと答えた。


「はい」


「おいくらですか?」


 再び彼は凍り付いた。


 この瞬間私は、自分がとても失礼なことをしてしまったのではないかということに気づいた。実はこの人は、このお店の支払いのことで困っていたのではないのかもしれない。事情もわからず私は、勘違いの同情からこの人を呼び止めてしまったのかもしれない。それに私は、この人を呼び止めてどうするつもりだったのか。万が一この人が、30円足りなくてお店を後にしようとしているのだとしたら、この人に30円ほどこすつもりだったのか。それはなぜだ。この人が安物の服を来た、外国人っぽいからか? その人に親切にすることで、私は自己満足を味わいたかったのだろうか?


 色々考えてしまい、過呼吸になりそうで、ひゅう、とゆっくり息をすった私に、彼がようやく答えた。


「30円、です。このお店の、雰囲気が好きで、ずっと好きで、がんばってお金をためて、いつも来ていました。でも、今日は30円足りない」


 そうか、無理をしてでもこのお店を訪れる理由。それはこお店の雰囲気が好きだからだったのだ。謎が解けた私は、答えを教えてくれたこの男性に、感謝でいっぱいだった。私は机の脇に置いたバッグから小銭入れを取り出し、すばやく30円を取り出して立ち上がり、彼がいた席の机の上に、ぱちりと置いた。


「30円あります。使ってください。せっかく来たんだから、この時間を楽しんでください」


 ぽかんと口を開けていた男性が、表情を崩して言った。


「いいんですか? とてもありがたいです」


「いいんです。私もこのお店大好きですから」


 ありがとうございます、ともう一度言って、男性は席に座りなおし、何かを注文したようだった。


 ちょうどその時、私の注文したハムエッグセットが届いた。


「おまたせしました。ハムエッグセットになります」


「ありがとうございます」


 コーヒーに、砂糖とフレッシュを入れてかき混ぜ、一口飲む。おいしい。


 と、そこで隣の男性が、パーテーション越しに私に小声で話しかけた。


「ホントにありがとうございます。あなた、前にもこのお店で見たことがあります。お借りした30円は、今度お会いした時に絶対にお返ししますね」


 30円くらいいいですよ、と言おうとしてやめた。たかが30円、でもこの人にとってはとても貴重な30円なのかも知れないのだ。


「ええ。いつでもいいので、今度見かけたら声をかけてください」


「はい!」


 私は食事に集中した。カリカリのトーストとハムと卵とコーヒーを、私は手早く堪能した。タブレットの「お会計」ボタンを押して立ち上がる。そこで私は、再び男性のことが気になり、声をかけた。


「あの……、失礼ですけどお名前をうかがっていいですか?」


「はい、私の名前は……」


 二人で名前を交換し、お会計を済ませた私はお店を出た。私にとっては朝食と、朝のスマホでの情報収集を目的としていたこのお店での時間。でも、彼と話をしてわかったことがある。私もこのお店が好きで、このお店の時間に、お金を払っていたんだ。


 階段を上り、明るい陽射しに目を細める。


 彼もあのお店が好きだと言ってたけれど、30円値上げされても、またあのお店に行くのだろうか? あのお店での時間の価値は、彼にとってどの程度だろうか。いや、きっと彼はまた来る。だって私に30円借りてるんだもの。きっと彼は約束を守るはずだ。


 時刻を確認すると、電車に間に合うギリギリの時間。私は駅に向かって速足で歩いた。今日はスマホでの情報収集はできなかったけれど、いつもよりも元気をもらった気分だ。今日もがんばろう、と私は思った。


(おわり)

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― 新着の感想 ―
[一言] なろうにも現代小説、あっていいと思います! 喫茶店の情景が見えるようで、私も行ってみたいなと思いながら読ませて頂きました。 小さな親切、でもそれはおせっかいか失礼だったのかも……そんな風に逡…
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