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9.父の勘

「ジンお坊ちゃん、どうなさったんです、そのお顔は」

 タイが大声を上げた。

「大丈夫。大したことないって。それにこれでも、ずいぶんよくなったんだよ」

 頬の辺りに手をやりながらジンは応える。

「それに何かとても、その奇妙な臭いが」

「うん、その臭いのお蔭で、まぁ、痛みも随分なくなったんだけど。でも、そんなに臭うのか」

「そりゃ、もう。しばらくお店の方へは出ないで下さいまし」

「じゃ、飯の用意に移る前によく拭いとこう。臭いが移るといけないからね。」

 ジンが衣服を脱ぐと、更に無残なみみず腫れが幾筋も走っている。

「これは酷い。いったいどうしてこんな」

「ん、稽古、稽古、念剣の稽古さ。ほら、もうすぐ御前試演があるから、みんな張り切ってて」

 濡れた布で、身体から丁寧に拭い取るように薬を拭き取る。腫れている場所に触れるのはさすがに痛い。顔をしかめながら、それでもコータの薬の効き目には驚いていた。普段の稽古でできた打ち傷の後でも、こんな風に触るともっと飛び上がりたくなるような痛みなのだ。

「おやじはどうしてる」

「二階で読書をなさっています。今日はお客様の予定は聞いておりません」

「良かった。あんまり人前に出したい顔じゃないし、味のほうも鼻がやられてたんじゃ、ちょっと落ちるからね。夕餉は干魚と蕪の漬物とお汁でさっぱり済まそう」

「ぼっちゃん。今日はお休み下さい。私どもで用意いたしますから」

「魚の焼き加減を馬鹿にしちゃいけないよ。タイ兄に焼かせて黒こげだの生焼けだの食べさせられちゃかなわない。うん、これぐらいなら、食べ物に移るほど臭わないだろう」

 ジンは気合を入れて立ち上がり、腕をぐるりと回して見せた。途端にビリっと痛みが走ったが、笑顔にくるんでタイには覚らせなかった。

 料理を済ませ、アイに配膳を任せて席に就くとカンが部屋に入ってきた。息子の顔をちらりと一瞥するが、何も言わずに上座に座る。ジンも何事もない、という顔で座っている。

「では、皆の今日の働きと天地の恵みに感謝し、陽太皇の御世を祝して、いただきます」

 今日はカンが発する。そのさらりとした言い方がジンは好きだ。軽々しくなく、おざなりでなく、けれどもさり気ない。ジンが代わると、どうしても変に力の入った挨拶のようになる。

「時に、ん、えらく痛そうな顔だな」

 カンは何気なく思いついたように言う。

「そうですか」

「あぁ。そいつは痛い。俺も覚えがある」

「見た目ほどではないんですよ」

「そうか」

 二人はまた黙って箸を動かす。

「カイ先生は、そういう稽古はしないな」

 カンがまたさらりと口にする。

「えぇ、舎生だけで稽古をしていたんです」

 ジンもできるだけさらりと返す。

「我慢しすぎるなよ」

「いえ、本当にもう、それほどは痛まないんです」

「痛みのことじゃないさ」

 カイは笑顔を見せた。

「おまえは昔から呆れるほど我慢強いがな。我慢で何でも済ませようという了見はよくない。逃げるにしろ、戦うにしろ、まぁ、いろんな手がある。大事なのは我慢できることではなくて、まず潰れないことだ。その次は自分でどうするのかを決められる、ということかな」

 カンには細かい事情は分からなくても、ジンの心情のどこかが覗き見できるらしい。

「ええ、でも、まだ大丈夫です」

 ジンは小声で言った。

「信じよう」

 カンは軽く顎をしゃくるように頷いた。そして、

「というわけだから、ゴンもタイも他の者も、ジンを信じてそっとしておいてやれ。周りが心配して口を出すのも、時には邪魔になるからな」

 ジンは店の者一同が頷くのを見ながら、自分は本当に大切に思われている、という幸福な実感に胸が熱くなった。父からこれだけの言葉を貰えただけで、今日一日の胸のわだかまりが、すっと軽くなった気がする。心遣いをしてくれている店のみんなの気持ちも温かい。が、そんな感謝の言葉を素直に表せるほど、ジンは子供でも大人でもない。その代わりにこんな話をしてみせる。

「ところで、父上。打ち身の痛み止めに、おそろしく効く薬をみつけたのです。腫れも抑えてくれます。これは、売り物になるのではないかと思うのですが」

「薬屋にはない品なのか」

「えぇ。薬屋にも薬問屋にも渡来物問屋にもありません。修錬舎の友人が調合したんです。それを塗ってもらったお蔭で、こうして普通に座って食事もできるわけで」

「で、店で扱ってみては、ということか。転んでもただでは起きんぞと」

「はい。これでも重盛屋の跡取りですから」

「ほぉ、言うようになったな」

 カンがにやりと笑った。

「どう思う、ゴン」

「それは、ジンお坊ちゃまのご推薦とあれば。ま、薬草類の品揃えはそこそこですが、これぞというものは入っておりませんし、特効薬と謳えるものがあれば面白いでしょうな。もちろん、効き目次第ではございますが」

「あとは、臭いだな」

 とカンは鼻をつまんでみせた。

「まだ、臭いますか」

「タイからもちらっと聞いた。拭き取った後で、まだそれだけ臭うのはちょっと厄介だ。そこを工夫するように言ってみろ。いや、俺から言おう。それを調合したおまえの友人とやらを、一度重盛屋に連れておいで。多少は助言してやれるだろう」

「はい。ありがとうございます」

「まぁ、今夜はゆっくり休め、と言いたいところだが、留守中にユウカ殿が来てな。テツ殿からの伝文を預かった。夜に会いたいそうだ」

「父上、読んだのですか」

 思わず聞くと、カンは大袈裟に目をむいて、手と頭を横に振ってみせた。

「俺がそんなことをするものか。もう少し、父親を信用してもらいたいものだ。ユウカ殿が喋っていったんだよ。あの娘も実にいい娘に育ってきたな。素直で明けっぴろげな所は昔のまんまだが、仕草とか体つきとかは、ちゃんと女らしくなってきている。なかなか良い。艶と品が暗さや硬さを帯びずに育つのは、そう滅多にあることじゃないぞ。もっとも、奥のほうに隠し持った火薬みたいな気質も並みではなさそうだが」

「父上。ユウカはテツの許婚です。艶だの女らしいだの、あまり人前では」

「それは気にし過ぎだ。おまえがユウカ殿の成長ぶりに過敏になっているから、そういう言葉がひっかかるのだよ」

「そんなことは、ありません」

 ジンは強く打ち消した。気にしていることは事実だが、気にし過ぎているというのは間違いだ。「三人の幼馴染」という関係から、「友人とその妻」という関係に移行しなければならない時期が近づいている。誰かがそれをちゃんと意識しなければならない。テツとユウカにその自覚が薄い以上、ジンがその役目を果たさなければ仕方ないだろう。

「けじめが必要な時期だと思っているだけです。いつまでも子供というわけにはいかないですし。特にあの二人はそれが分かっていないのですから」

「ユウカ殿は、自分がもう子供ではないことぐらいよく承知していると思うがね。ふむ、けじめ、か。確かに時には必要な言葉だがな。『真情を偽らず見極めることにより、あるべき形に自ずから近づく』ことが大事だと、礼学で習わなかったか」

「父上から礼学を講義されるとは思いませんでした」

「無礼講が口癖のくせに、な」

 カンは自分で言って吹き出した。

「まぁ、いい。そろそろ出るんだろう」

「はい。では、失礼して」

 ジンは

 ジンは席を立つと、自室に戻って手早く支度を整え、家を出た。

 勘の鋭い父親というのも考え物だな、などと思いながら、夜道を走る。

 真情を偽らず見極めて、か。

 ユウカに感じる違和感、戸惑い、何か割り切れずもどかしいような思い。見えかかっているそれに蓋をして、初めから無いもののようにしようとしていることを、きれいに見抜かれている。

 しかし、見極めて、例えばそれが抜き差しならないような強い思いに育ってしまったら、どうすればいい。どうにもならないだろう。あるべき形は既に定まっている。その形に自分も頷いている。となれば、気持ちの方をあるべき形に沿うように、うまく持って行くしかないのではないか。ジンはそう考える。

 が、カンがそうは考えない人だということも、ジンはよく知っていた。


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