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6.明け方の訪問者

机上で居眠りしたままのジンを、まだ明け方前に起こしたのはユウカだった。

「ジン、……ジン、もう、起きてよ、ジン」

「ん、んん…。ユウカか…。えっ、おい、何処から入ってきたんだ」

 眠気がすっ飛んだ。

「ショウにお願いして通してもらったのよ。ねぇ、どうしても相談にのって欲しいの。急ぐのよ」

 相変わらず膝上までの丈の袴のまま突っ立っているので、目の前にむき出しの脚が見えている。ジンは慌てて視線を逸らし、少し慎重に立ち上がった。

「ちょっと待てよ。ったく、男の寝てるとこに断りなしにずかずか入ってくる女がいるか。少しは嗜みを覚えろって。テツにだって申し訳ないと…」

「何よ、今さらでしょ。でも、今はその石頭ぶりが必要なのよ。そういうガチガチに常識的なお説教を、テツにかましてやって」

「ん、テツがどうしたって…」

「辞めるって言うのよ、あの馬鹿」

 ユウカはその場でどしんと一つ足踏みした。

「だから、結婚できないって。それはいいの、あたしだってそんなつもりなかったんだから。でもテツが大事な幼なじみなのは変わんないでしょ。そう言ったのよ。で、どうするつもりなののよ辞めて、って訊いたの。そしたら、分からないって。だから、君との結婚は無理なんだって。それはどうでもいいの。だけど分からないじゃしょうがないじゃない。だからって」

「ちょっと待て」

 ジンは興奮して猛烈な勢いでまくし立てるユウカを遮った。

「何を言ってるのかわからないぞ。テツは何を辞めるんだ」

「修遊館よ」

 ユウカは憤然と吐き捨てた。

 修遊館は芸能専門の修錬舎のようなもので、音曲、書、舞踊、絵画などを教える。これらの芸事で身を立てるものは、ここを修了しなければ、悠国で認められた公式の場で、作品や演技演奏の機会を持つことができない。

「音曲を辞めるっていうのか。どこか怪我でもしたのか」

「呆れるぐらいぴんぴんしてるわよ。音曲も辞めない、辞めるのは修遊館だけだって」

「しかし、それじゃ」

「そうよ。修遊館を辞める、音曲はやめないって。じゃ、どうするのよって訊いたら、分からない、まだ、決めてないって。そんな無茶苦茶な話ないじゃない」

「あぁ」

 確かにそれでは筋が通らないし、どうしたいのかもまるで分からない。

「じゃ、どうして辞めるのよって訊いても、それは今は言いたくないって。今はって、何よ。辞めるときに言わずに、後で言ったって仕方ないじゃない。後で、そんな理由ならこうした方がいいって言ったって、意味ないんだから」

「う、うん」

「それで、許婚としての君に迷惑がかかるかもしれないから、先ず話をしておきたかったって。もう、何を言ってるか全然分かんないし、勝手に決めちゃってるし、人の言うこと聞きそうにないし。だからあたし、せめてジンには話をして、それから決めてって言ったの。そしたら、ジンには話すって。だからジン、あのお馬鹿さんに、がつんとあなたの石頭をぶつけてやってよ。それで世の中の(ことわり)ってものを、もう一回、頭の中にしっかり取り戻してやって」

 肩にしがみついてくる両腕をよけて、

「分かった、分かった。話はする。是非、したいよ。でも」

「でも、何よ」

「相手はテツだぞ。説得なんてできるかどうか」

「最初っから諦めてどうするのよ。テツはあたしたちの幼なじみで、昔っからの仲間よ。仲間が道を踏み外したら、助けてあげるのが義務じゃない」

「いや、道を踏み外したっていうのは…」

「踏み外してないなら、まともな理由が言えるはずでしょ」

「だから、それは聞き出してみるけどね。ユウカもよく知ってるだろ、あいつは、決めてしまうだけなんだ、いつも」

 テツは、ほっそりとした少女のような外見そのままに、物静かで優しく、人と争うことが嫌いで、口喧嘩一つしない男だ。仲間で野山に出て遊んでいても、ふっと気がつくと、一人で佇んで、空を見上げて雲の動きを追っていたり、何かの音をただ聞き続けていたりする。何を見ているのか、何を聞いているのかと尋ねても、「雲」とか「風」とか、時には「何か音」などとポツンと一言、呟くだけ。

「言葉にはできないよ」

 尚もしつこく聞いてみても、彼は微笑うだけだ。

「きれいなんだ。それだけ。きれいな音があるんだ、そこに」

 子供の頃は病気がちでよく熱を出した。走るのも腕力も三人の中では一番劣っていた。が、水に潜っては誰よりも長く息が続き、腹筋の力だけは並外れていた。それは風邪で高熱を出して寝込んでいてさえも、意識のある限り続けていた鍛錬の賜物だった。

「笛を吹くのにいるから」

 代々の流派の跡を継ぐためではなく、笛が好きだから、そうした。そして、

「毎日やるって決めたから…」

 というだけの理由で、ただの一日も鍛錬を欠かさない。決めたことは貫くのが、彼にとっては当たり前らしかった。

 彼が笛と琴の名流、深草の家に生まれ、その笛と琴を愛することができたのは本当に幸せなことだったと、ジンは思っていた。テツはこれからも一生、好きだから、そう決めたから、というだけで、血の滲むような修行にも耐えるだろう。そして、彼の優れた天性の耳は、修行に相応しい成果を生み出すだろう。誰もが届くわけでは決してない高みで、彼は、彼の愛する美しい音を紡ぎ出す。その音を耳にすることが、彼の最高の幸せなのだろう、と。

 修遊館を辞める、ということは、その生き方を辞めると言っているに等しい。そんなことが彼にできるのか。

「とにかくテツに、今晩にでも会おうって言ってくれ」

「分かった。テツもそのつもりだったみたいだから。じゃ、ほんとに頼むわよ」

 ユウカはようやく笑顔をちらりと見せて、

「たいへん、ウチに知られたらとんでもない。帰るわ、また後でね」

 と、慌しく去っていった。


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