3.予兆
もう日は半ば暮れかかっていた。烏が、燃え上がる我が家に急ぐように、西の空に向かって飛んでいく。夜風が冷たい。急ぎ足で門を出ると、長い黒い影が佇んでいた。
「やぁ、おつかれさま」
リュウトがニヤリと笑った。夕暮れ時には見分けがつかない、と陰口をたたかれるほど陽に灼けた顔に、ジン同様の大きな垂れ目が細められている。
「なんだ、待っててくれたのか。寒いのに悪いな」
「いや、ちょっとカイ先生に用事があったんで、そのついで。模擬刀で演舞の稽古をつけてもらえないかと思ってね。どうかなとは思ったけど、快く引き受けてくださったよ」
「ほんとに熱心だなぁ」
ジンは呆れた。模擬刀で念剣演舞をやっても、修錬舎の単位取得にはつながらないはずだ。リュウトは、演舞の稽古も見学の扱いで、正規の受講ではないのに、半分以上は出てきている。おまけに特別に稽古をつけてもらうなど、酔狂としか言いようがない。ジンと同じく修錬舎入舎一年目のリュウトは、エイキの一年目に迫るかというほどの好成績で知られている。正規の単位取得のための勉強にもかなりの時間を費やしているはずだ。
「いや、今日のジンの演舞を見てると、俺もどうしてもやってみたくなってね。あれだけ格好いいと、ちょっとうらやましい。あの動きを辿るだけでも、何か得られるんじゃないかと思えてな。まぁ、俺は念剣は出せないから真似事にすぎないんだけど」
念剣は誰にでも使えるものではない。
念筒とも空柄とも呼ばれる短い筒から発光する剣体を出す力は、修行によるものではなく生まれつきに近いもので、遅くとも十歳までにはその力が発現する。悠国では四人に一人ぐらいと言われているが、それでも他国に比べれば圧倒的に多い。ほとんどの国では念剣が使える者はごく稀、修錬舎のような公の場で念剣を学べる国などないし、重視もされていない。むしろ手妻や大道芸的な軽い扱いをされている場合も多いらしい。悠国では念剣の使い手が多いためか、国技として奨励され、演舞は行事や祝い事に披露される大切な儀式として定着している。武術としての闘技も盛んだ。修錬舎でも特別な単位として認められている。
「それに演舞をやると、闘技の腕も上がるしな。闘技の方は単位になるんだから」
「そうかな。そりゃ演舞はそこそこ自信あるけど、闘技じゃリュウトの方がちょっと上だっただろ」
「それはジンが闘技に真剣じゃないだけの話さ」
エイキだけでなくリュウトにもそう見えるらしい。
「で、エイキ様のお話は何だったんだ」
歩きながらリュウトが訊いた。並んで立つと、背丈も横幅もほぼ同じ。同い年の上に、顔の白黒以外はわりとよく似た風貌のせいか、修錬舎では一番気の合う仲間だ。優等生を鼻にかけることもないし身分も大差ない。たしか下級官吏の養子だったはずだ。
「大した話じゃない、いつもの気紛れさ。念剣の闘技に力を入れろだの、様付けで呼ぶなだの、毎度わざわざ居残らして言う話でもない」
ジンはさりげなくごまかした。いくらリュウトにでも、至誠塾に誘われた、などという物騒な話ができるわけはない。
「ごくろうさん。お偉いさんの気紛れはしかたないさ。朱家の跡取り様なんだから。しかし、考えようによっちゃ、恐ろしく幸運だろ。エイキ様のお気に入りとなりゃ、内政局での出世は、約束されたも同然」
そう見えることが苦労のタネなのだ、とジンは嘆息する。
「正直に言うとね、出世にはほとんど興味がないんだよ。そりゃ、修錬舎に入ったのは、内政局に入るためもある。できれば栄局か交局にね。でも役人として出世するためなんかじゃない。店を継ぐ前にしっかり内政局のやり方を覚えておいたり、方々に顔を出しておきたいってことなんだ。商売の現場だけじゃ分からないことを役所の中で働きながら学んでおきたい。なんと言っても役所がらみの仕事は多いし、話題が広ければ商談にも持ち込みやすい。それに修錬舎出身となるとお偉いさんとの商売でも箔がつくっていうか、入り込みやすいだろ。ウチはとりあえずよろず交易で、これって決まった商品じゃなくて、お客さんの注文に合わせた品を売るっていうやりかただから、こういう人脈はけっこう大事で、なまじな丁稚修行より、そういう関係が役に立つこともあるのさ」
「うーん、それはまた堅実と言うか、小ずるいというか」
「悪かったね、小ずるくて」
ジンは少し腹を立てて言い返した。正直、痛いところは突かれた自覚はある。
「いや、すまん。冗談さ。俺だって、そんな大それた野望があるわけじゃないしな」
リュウトは慌てて手を横に振りながら謝った。
「せいぜいおやじとおふくろが喜べる程度のそこそこの出世。俺は養子だからな、恩返しの為にはそれしかない。無理な出世だの世直し気取りのために、危険な賭けになんぞ、簡単に手出しできない。だからこそ、真っ当に単位取得に励んでるわけだ」
「なんだ、その世直し気取りって」
「ん、あぁ、最近、なんだか騒いでる連中がいるらしいぜ。世直しだのご維新だのと言ってな。何でも今の内政局のやり方やら大政局との関係に不満を持ってる連中が、陰で徒党を組んでごそごそしてるんだそうで。そうそう、一説ではあのエイキ様が、旗頭に担がれてるって話も」
「そりゃ、ありえないな」
ジンは即座に否定した。
「へぇ、どうして。あの人らしいじゃないか、改革派の頭なんて」
「あの人が黙って担がれるような性格に見えるかい。御輿が先頭切って大暴れするんじゃ担ぎ手はもたないよ。それにあの人はやると決めたら、絶対に陰で徒党なんか組まないね。一人で策を練って、先陣切って、正面突破。引き連れて暴れるとしても、人数はせいぜい二人か三人ぐらいじゃないかな」
「あぁ、確かにあの人ならそうかもしれないな」
「だろ」
エイキといた時は、そのきな臭い話の中身に怯えたジンだったが、リュウトと喋っていると、それだけは確信が持って否定できる。エイキは、口にはしていないけれども、勝手気儘なようでかなり厳しい行動規範を自分に課している。それは規律や道徳というより、むしろ美学に近いものかもしれない。そしてジンにもその感覚は、朧気にではあるが感じ取ることができる。陰で徒党は、彼の美学に合わない。
「それはそれとして、おまえはどう感じるよ。そういいう世直し組なんかが出回ってるって聞いて」
少し鋭い目で、横を歩くジンの目を捉えながら、リュウトが訊ねる。
「どうって、何が…」
「その連中が何をどうしたいかまでは、俺も詳しく知らない。でも、そういう気分があちこちにあっても不思議はないんじゃないか。世の中どっかで少し変わりかけてるんじゃないか。そんな予兆なんじゃないのか、この動きは」
今日はどういう一日だ、とジンは頭を抱えたくなった。エイキに続いてリュウトまでが、やっかいな話を始めようというのだろうか。
「…よく、わかんないよ、そういう話は苦手なんだ」
「そうだな。俺もだよ」
リュウトはあっさり頷いた。
「まだ、分からない。さっき言ったように馬鹿げた賭けをやる気はない。だから今は修錬舎でせいぜい頭と目を鍛えるしかない。だけどな、その先が予定通り、役人に進んだり、家業を継いだりってことになるかどうか、そいつは分かんないかもだぜ」
「そう、…なのかな」
ジンもこの先、何もかもが思い通り順調になると信じ切っているわけではない。が、かと言って、店を継いで大きくするための努力をする、それ以外の道を具体的に考えてみたことはなかった。リュウトは立ち止まって、ジンの正面に立った。
「ジン、俺は結構ジンを信じてるんだ。おまえは、とろいように振舞ってるけど、妙なところで勘がいいし、いざとなると肝が据わってる。今日の念剣演舞でエイキ様が乱入してきた時だって、周りは冷や汗をかいてたのに、当の本人は見事に捌いてみせた」
ジンは首を横に振った。
「それは買いかぶりもいいところだよ。あれは体が辛うじて反応してくれてただけ」
「それができるってだけでも、十分凄いのさ。冗談抜きでエイキ様が贔屓するわけがよく分かる。だからおまえに言っておきたい、いや、頼みたいんだ。これはいよいよ世の中が本当に変わりそうだって、そんな動きや気配をおまえが感じたら、俺にもぜひ教えて欲しい。俺たちは、もしかしたらそういう時代に生きてるのかもしれないんだ。世の中ががらりと変わっちまうような、俺たち自身もその中で変わらなきゃいけない、何かしなきゃいけないような時代にな」
リュウトの目は残照だけの薄暗がりでも強い光を放っているかのように真剣だった。
「分かった。もし、そんなことに気がつけたらだけど。言うよ、約束する」
ジンも引きづられるように真剣に言ってから苦笑した。
「でも、リュウトに教わる可能性の方が、ずっと高いと思うけどね。現に今の今まで、そんな時代が来ているかもなんて、ほとんど考えなかったし」
「フフ。俺のは希望的観測ってやつもあるんだと思う」
リュウトの声には自嘲するような苦さがあった。
「世の中がひっくりかえるようなことでもなきゃ、俺はずっと優等生を勤め続けて、それでも四宮八聖十六貴の下で、そこそこの能吏になるぐらいしか途がないからな」
ジンも小さく頷いた。家業を継ぐ未来に不満はない。それなりの責任と夢もある。それでも修錬舎の俊才や身分の高い者たちといると、もっと別の、今の自分に想像もできない何かに飛び込んでみたいという気持も、心のどこかに育っている。
「じゃ、ここで。明日の礼法、遅れるなよ」
リュウトはいつもの明るい声にもどって笑い、去っていった。