27.夜明け前
「おい、ジン、大丈夫か」
エイキが駆け寄る。ジンは目を開けて首を縦に振って見せた。
「だ、大丈夫です。ちょっと眩暈がしただけ。ユウカ、ユウカを…」
「あぁ、心配するな。もう、安心だ。おまえが助けたんだ」
リュウトが転がった途端に、どこからともなく立ち現れた男たちが、リュウトを素早く拘束し、ユウカを介護している。事前から配備されていた朱家の使用人たちらしい。
「それよりさっきのは何だ。おまえ、何をした」
「わかり…ません」
ジンは身体から力が抜けきって、口をきくのも億劫だった。代わりにカイ老師が答えた。
「おそらく碧の念剣、風剣と呼ばれるもの。わしも初めて見た…」
「それはどういうものなのでしょう」
シンタの問いにカイは首を振った。
「誰にも説明などできはせんでしょう。そもそも念剣自体が理の外にあるもの。わしが教えたり解釈したりできるのは、辛うじて自らが体験したもののみ。風剣の境地に達したことのない身には、とてもとても語れるものではない」
朱家の男たちがリュウトを連れてきた。手首の傷は強く縛られて止血が施されている。両足も縛られて自由を奪われていた。本人は立ち上がってはいるものの。出血のショックと衝撃のためか、自失状態で呆然としている。
「エイキ様、あの男の処置はいかがいたしましょうか」
「とりあえず身動きできぬように厳重に縛り上げて、奥に閉じ込めて見張れ。それから医者に見せろ。しばらくは生きていてもらう。じっくり話を聞かせてもらわなければならんからな。今まで大政局のイヌとして、何をやって、何を吹き込んできたのかを逐一」
「リュウトは…、リュウトは死んではいないんですね」
ジンが訊いた。
「あぁ。右手は元には戻らんだろうがな。筋を断ち切られている。止血はしてあるから、当面は命には関わらんだろう」
「良かった…」
ジンは安堵のため息を漏らした。
自分が何をしたのかは分からない。それでも自分の体から念が、カイ老師の言う風剣が飛び出して、リュウトを撃ったのは確かだった。それは新たな念剣の境地などとは程遠い。自分の意思とも技量とも無縁に、ただ感情の爆発に合わせて飛び出していったものだ。ひとつ間違えばリュウトの命を奪ったかもしれず、それどころかユウカの命を奪ったかもしれない。なにしろジンは狙ってさえいないのだ。誰も命を落とさずに済んだことが、ジンには救いだった。
「ふん、本人にとっては、命が助かったことが幸いだかどうか。事がここまで露見したんじゃ、イヌとしてはもはや失格。こいつが拷問されようが何を吐こうが、大政局は知らぬ存ぜぬ。救いは無い。そして朱家は次の当主である俺を狙った男に甘い顔などしない。こいつの望みも未来もきれいに絶たれて、後はどのように始末されるかだけの短い人生だ」
「お待ちなさい。彼は私の教え子です。リュウト君は私が預かりましょう」
シセイ先生が言った。
「学問なら右手が多少不自由でも続けられます。リュウト君には知識も思考力も並外れたものがある。学問の世界でならば、この先大成する機会も十分にあります」
「先生、こいつは先生を大政局に売ろうとしてたんですよ」
呆れたようにエイキが言う。
「彼の選んだ道、そして立場からすれば、当然の行動です。今は、その道を選び直す必然性と機会が訪れたのだということに、彼が気づけばいいのです」
「ジンといい、シセイ先生といい、どうしようもない底抜けのお人好しばかりそろって。それに染まってこっちまで甘くなると、今日みたいな失敗をやらかすんだ」
エイキはため息をつき、シセイ先生の真剣な顔を見て、それから諦めたように、
「わかりましたよ。が、まぁ、ここは至誠塾、郷に入っては郷に従えと。先生が仰るなら、朱家でこいつを始末するようなことだけは、させないことにしましょうか」
と言ってから、
「もっとも、大政局の義職筆頭の権限で大政局に返還するとなれば、後の扱いはこっちではままならないし、となれば、お返しするまでにあいつが脱走して、とりおさえようとしたはずみに落命ってセンもありますが」
と不穏な言葉をシンタに向ける。
「今の私は、陽都で酒を共にしたことのある旧友のシセイ君を訪ねた私人だ。義職の権限を行使するつもりはない。だいたい、配下もなしにそんなことをしてたら、こっちが消されてしまうだろう」
呆れ顔のシンタに、
「いや、そうでなくても消されても不思議はないでしょう。不用心にもほどがあります」
とエイキが返す。
「エイキさん」
ジンは身体に少しづつ力が戻ってきているのを感じながら起き上がって呼びかけ、
「エイキさんは、下手人がリュウトだと、何時から気づいていたんですか」
気になっていたことを尋ねた。エイキがさすがにばつの悪そうな苦い表情を見せた。
「至誠塾に顔を出し始めた時から、どうも妙な奴だと目をつけてはいたのさ。確信を持ったのは、鏡を使って念剣の光を当てた、というからくりを聞いた時だ。奴の念剣演舞の見学ってのは不自然だったからな。だが、こいつが至誠塾で何をしようしているのかも、しっかり押さえておきたかったんで、泳がしてたのが裏目に出た」
「どうして、それを言ってくれなかったんです」
「悪い。おまえには、知らないふりの芝居なんぞ無理だと思ったんでな」
ジンは何か言いかけたが、戸板に寝かせていたユウカの動く気配を感じて駆け寄った。
「あ…、ジン。…ジン、助かったのね、あたし」
ユウカが首にしがみつく。ジンは思わずよろけて、あわてて踏ん張りながら抱きとめた。
「ジンが助けてくれたんでしょ」
「ん、まぁ、何だかよく分からなかったんだけどね」
「ありがとう、ジン」
ますます強く抱きしめられて、ジンは狼狽する。テツがにこにこと笑いながら、
「それにしても、ユウカの勇気と行動力はすごいねぇ。婚約者としては連れていけないけど、ユウカを用心棒として連れて行きたくなったよ」
と言うと、ユウカはジンにしがみついたまま即座に、
「残念でした、あたしはジンのお嫁さんになるの。一緒には行ってあげられないわ」
「ええっ」
と仰け反るジンにユウカは平然と
「ずっと前から言ってるじゃない。何よ、そこまで怯えなくてもいいでしょ、失礼ね。それに今日、明日にも押し掛けようっていうんじゃないのよ。何しろ、誰かさんのお陰で、婚約者に捨てられたばかりの身の上なんですからね、あたしは」
「それにはお詫びの言葉もないよ」
とテツが応じて二人は吹き出すが、ジンは笑いごとではないだろうと呆れる。
「じゃあ、ユウカはテツと一緒には行かないんだな」
「行かないわよ、当たり前でしょ」
ユウカは胸を張って言い切った。
「あたしは、まだここで、修遊館やあたしの師匠から学ばなきゃいけないことが山ほどあるの、あたしの舞いを創り上げるために。それに出て行く人ばっかりじゃ困るでしょ、帰ってくる場所を守る人がいないと。テツは婚約者でも恋人でもないけど、大事な大事な友達よ。だったらテツがいつでも帰れるようにしてなくちゃ駄目じゃない。ここがどんなに変わっても、あたしは変わらない友達としてテツを迎える。どんなに危ないことが起きてても、安心して休める場所を用意する。だからあたしは、今はここを動かないわ。でも、ジンはどうするの」
ユウカはまっすぐにジンの目を見て尋ねた。
「どうするって、そりゃ陽都に行くわけにもいかないし、重盛屋もあるし」
「本当にそうなの。重盛屋を継ぐのに、あんな凄い念剣が必要なの。どうして至誠塾にかかわる必要があるの。先生には失礼ですけど」
とユウカはシセイに頭を下げてから続ける。
「至誠塾の評判はあたしみたいな子でも知ってる。重盛屋を継ぐだけなら、関わる場所じゃないわ」
エイキがユウカの言葉にうなずいた。
「確かに至誠塾に行くように仕向けたのは俺だ。俺は俺にしか描けない絵を悠国に、いや太皇国に描く。その右腕におまえが欲しい。だがおまえにその気が無ければ、俺が何と言おうと断れた。いや、その前に俺がおまえに見切りをつけている。そろそろ気付け。おまえは本当に重盛屋の跡継ぎで終われるのか」
ジンは言葉に詰まって、助けを求めるように周りを見回した。テツが穏やかに微笑んでいる。ソウマが頷くように小さく頭を上下させる。シセイ先生が静かな眼差しで見つめ、その後ろにはカイ老師が無言で見守っている。そしてユウカがもう一度語りかけてくる。
「ジンが何処かに行くって決めても、やっぱりあたしはここに残る。だけど、知っておきたいの。ジンが何をしたいのか。ジンのためにあたしができることは何なのか」
そうだったのか、とジンは思った。
子どものままだと思っていたユウカもテツも、自分の意志で自分の道を歩み始めていた。コータもそうだ。リュウトも選んだ道はともかく、自分の意志で歩いていた。ジンだけが周囲に流されるまま、自分では何も選び取らずに生きてきた。
ジンは父と母の過去から逃げ続けていた。何かとんでもなく大きなものが隠されているようで怖かったのだ。過去を直視しないから、未来のありたい自分も見えない。ひたすら自分の今の立場にしがみついて、自分を守っているだけだったかもしれない。
けれども、もうジンにもそれは許されないのだろう。
(「カンのせがれじゃな。ハクは良い跡取りを持った。今後も精進しなさい」)
(「元は悠国四宮の白家の血と、太皇室に縁のある女の血をひいて」)
悠国皇主に親しく名を呼ばれる父は、白家の本家筋であったのだろう。その彼が商家に降りているのは、太皇室に縁のある母と結ばれたから。そして皇主はカンを罪人とは考えず、ジンが白家の跡取りであってもよい、とまで示唆した。それは悠国と大政局の間に溝があることも意味しないか。最早、この問題と向き合わずに済ませることはできない。
それにジンはあの碧の念剣、風剣の使い手となってしまった。
離れた場所から人を切り裂く風剣は、怖ろしい技だ。その使い手は強い意志で風剣を正しく使いこなすか、あるいは封印するかしなければならない。しかし、既に風剣はジンの手に宿っている。とすれば、ジンは風剣に見合う成長を遂げなければならないのだ。
そしてそれが、これからもユウカやテツの友として立つ資格、エイキの傍らに立つ資格でもあるのだろう。彼らは既に揺るぎなく、自分の意志を持って歩いているのだから。
「分かった。これが答えになるかどうか分からないけど」
ジンは息を一つついてから、視線をカイ老師に向けた。
「カイ先生、念剣のご指導をお願いします。風剣を使いこなすには、今までの修練舎の修業では足りない。先生の下で念剣を練り上げ、風剣を己のものにしなければなりません」
「わしで良ければ、できる限り」
とカイ老師が穏やかにうなずいた。
「それからシセイ先生、僕を至誠塾の一員に加えて頂けませんか」
シセイ先生は微笑んだ。
「あなたなら、いつでも。こちらからお願いしたいほどですよ。ともに学びましょう」
「ありがとうございます。ユウカ、これが、今、僕が決められる精一杯なんだ。今、選んだ道がどこに続いて行くのか、まだ分からないんだけど、これでいいかな」
「いいわ。とてもジンらしい。いきなりなテツよりも、そうやって歩いてくれてれば、あたしもついていけるもの」
ジンはうなずいて、その視線を高貴で乱暴な先輩に向けた。
「じゃ、そういうことでよろしくお願いします、エイキ君」
エイキは思わず噴き出した。
「ジン、おまえとうとう、一皮剥けたな」
ジンは照れたような笑顔になった。
「まぁ、ようやく薄皮一枚ってところですけどね。そんなことより、戻ってもう少し飲みませんか。折角の美味しいお酒がもったいない」
「あぁ、いいな。ずいぶんと時間を食ったが、まだ暗い。夜明けまでは少し時間があるんだろう。朝まで一皮剥けたジン君を肴に飲むとしよう」
ジンは東の空を眺めた。まだ朝日は闇に飲まれて光も無い。それでもジンの目には、微かな光が射し始めていた。
「いえ、もうすぐですよ、夜明けは」
とジンは答えた。
シセイもまだ闇の中にある東の空に視線を投げかけながら、淡々と語る。
「この国も新たな夜明けを待っている。今は光の一筋さえ見えなくても、それを知る人は夜明けの訪れを感じている。けれども届くべき陽の光を遮ろうとする厚い雲も動いている。訪れているはずの夜明けを隠そうとする暗雲。それを吹き払い、陽の光をあまねくこの国の人々に届けること。それが夜明けを知る者全ての責務だと、私は思います」
ジンが、エイキが、ソウマが、テツが、ユウカが、無言で東の方角を見詰め、はっきりと頷いた。
分厚い雲の姿が浮かび上がってくる。重い湿った淀みのような雲が、長々と横たわっている。
ジンは素手のまま右手を掲げ、振り下ろした。
ジンの思いに応えるように、一陣の風が、地平近くの雲を僅かに散らした。
切れ間から眩い光が一筋、放射する。
「朝日だ」
ー了ー




